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第七章 新月と紙飛行機

第七章


 新月の星空の下、白亜の高みに祐樹が立っていた。

 吹きすさぶ冷たい風に身をさらしているが、別の感情に支配されていた祐樹は、寒さに首をすくめることもなく、ただ足下に広がる世界を見ていた。

 それは祐樹にとって見慣れていたはずの光景だったが、今や、すべてを飲み込もうとする異質な世界への扉のように見えた。

 あと一歩――たったそれだけで、祐樹は終わりにすることができる。恐怖にたじろいだ祐樹は、後ろへと退いたが、すぐに思い直したように進み出た。そして、目を閉じて己の過去に思いを馳せた。

 祐樹の顔に浮かんだのは、自身の過去に対する満足でも、悔恨でもなかった。ずっと平坦に続いてきて、しかし突如として波乱に満ちた世界に放り込まれた自分に対する苦笑と、これからの未来に対する決意だった。

 祐樹はほっと白い息を吐き、薄く笑顔を浮かべた。

 次の瞬間、その身体は宙を舞った。

 重力に従って落ちていく祐樹の視界に映ったのは、見知らぬ星座がまばゆいばかりに輝く、新月の夜空だった。

 それは、祐樹にとって無限にも感じられる時間だったが、実のところほんの一秒程度の出来事に過ぎなかった。

 腹の底に響くような音が鳴り、夜空に強く白い光が輝いた。街から聞こえていた怒号が、一瞬で静かになる。さらにその一発を皮切りに、立て続けに夜のランス王国を明るく照らす光が放たれる。

 その光とほとんど同時に、祐樹の身体がふわりと浮いた。

 グライダーだ。

 造りかけの羽は軋み、たわみはしていたが、確実に風を捕らえて祐樹を空へ誘った。

 その間にも、夜空では次々と強い光が放たれる。その光の正体は、祐樹が考案した閃光弾だ。

「死ぬなよ、ユウキ!」

 下の方からロイの声が聞こえる。火薬職人のエルンストも一緒にいる。二人は祐樹に手を振りながら、次々と閃光弾を打ち上げていた。塔の下で銃声を聞いたとき、事態が緊急であることを悟った祐樹が、ロイにエルンストを呼んで閃光弾を上げるように頼んだのだ。

 だが二人の振る手に応じる余裕は祐樹にはない。未完成ということもあってグライダーの操作は困難を極め、ともすれば墜落して地面に叩きつけられかねなかった。

「もう少しもってくれよ」

 多少ふらつきながらも、祐樹のグライダーはかろうじてまっすぐ空を滑り、初めは点のようにしか見えなかった目標が、徐々に迫ってきた。

 王の間だ。城の頂点に位置しており、その姿は閃光弾の光ではっきりと照らし出されている。

 そこにエドワードがいるはずだった。そして、恐らくはエドガーとアルマもいるだろう。その証拠に、窓ガラスが銃弾に貫かれて割れている。この国で銃などという代物は、エドワードの腰にぶら下がっている物しかない。

 あと少しで窓に届く――そう思ったとき、祐樹の背中側でボキリという何かが折れる不吉な音がした。そして、祐樹の視界がぐるりと回転し、重力が失われる。

 羽が折れた。

 祐樹はその事実をすぐに悟った。この場所から落ちれば、地面か城の屋根に叩きつけられる。いずれにしろ即死は免れないだろうが、何もない中空ではなす術がない。

 しかし、それは祐樹が完全に諦めて目を閉じた瞬間のことだった。

 ゴウという音とともに、すさまじい突風が吹き上げてグライダーと祐樹の身体を持ち上げる。祐樹はきりもみ状態になり、王の間の窓ガラスにぶつかった。




 そして次の瞬間――轟音が――響きわたった。

 祐樹はその音とともに王の間に文字通り飛び込んだ。何かにぶつかって止まり、祐樹は起きあがりながら周囲を見回した。

 王の間には全部で四人いた。アルマ、エドワード、エドガー、兵士――皆が信じられないものを見るように祐樹を見つめているが、無理もなかった。地上からかなり離れているこの場所に、窓から人が飛び込んでくるなど誰が想像できよう。

「う……」

 祐樹は自分の下でうめき声がするのを聞いた。兵士が一人、祐樹の下敷きにされて気を失っている。五人目だ。

「ユウキ、どうして……」

 アルマが我に返って、祐樹に訊いた。

「無事で何よりです、アルマ様」

 祐樹が言うと、アルマは理解できないという様子で口を開いた。

「どうして来たんですか!」

 そんなに怒るアルマを見るのは初めてで、祐樹は少し驚いた。

「あなたを助けに」

 祐樹がさも当然のように言うと、アルマはますます怒りが募ったようで、祐樹に詰め寄った。

「早く、元の世界に戻らないと! こんなところにいる場合じゃありません! 今夜しか、戻れないんですよ!」

 その場にいる全員が、怒り焦るアルマを見て唖然としていた。誰もそんなアルマを見たことがなかったのだ。エドワードですら、銃を構えるのを忘れてアルマの様子に見入っている。

 さすが王女だなと祐樹は思った。何をしても人を魅了することができる。

「占星術師の記録の意味、気づいていたんですね。でも、自分の生徒が危ないのに、それを放って逃げ出したら、オレは絶対に後悔する」

「どう、して……」

 微笑もうとしたのだろう。しかし、アルマは顔をくしゃくしゃにして涙を流すことしかできなかった。独りのときでも涙をこぼさなかったアルマが。

 アルマは祐樹にすがりつくと、涙を見せまいと祐樹の服に顔を押しつけた。そして、小さな声で願った。

「助けて、ください」

「もちろんです」

 祐樹は優しい表情で頷き、アルマの頭を撫でた。

「こんなことがうまくいくと思っているのか」

 祐樹はエドワードに向かって啖呵をきった。

「なんだと…?」

 エドワードは祐樹の言葉に気分を害した様子で、その感情があからさまに表情に表れた。

「国王を殺し、王女を殺し、力で国民を支配するおまえに、誰も着いてくるはずがないと言ったんだ。バカ王子」

 祐樹はなおも挑発を続けた。エドワードは怒りのあまり言葉も出ず、身を震わせている。

「……許さんぞ」

 やっとエドワードの口から出た言葉には、怒りと憎しみがこれ以上ないくらい込められている。エドワードは銃口を祐樹に向けた。

 しかし、その引き金が引かれる直前に、祐樹は小石くらいの大きさの金属片を床に叩きつけた。

 すると、それを中心に強い光が発せられ、部屋中を白い光が支配した。中にいた者はまともに目を開けることもままならない。

 祐樹が投げたのは大部分を閃光弾の材料として使われたファイア・スターターの残骸だった。

「こっちです」

 祐樹はアルマの手を引いて王の間を飛び出した。

「待ってください、中にはお父様が!」

「大丈夫です。エドワードは必ずオレとアルマ様を追ってきます。エドガー様はしばらく捕らわれの身になるでしょうが、危害を加えられることはないでしょう」

 祐樹がエドワードをわざと怒らせたのは、自分たちに意識を向けさせるためだった。

「どこだ!」

 王の間を飛び出たところで、銃弾が半開きの扉を叩く。それは祐樹の頭のすぐ近くで火花を散らした。

「言ったとおりでしょう? さあ、急いで」

 エドワードに冷静さが残っていれば、エドガーを殺すことを優先したかもしれない。しかし頭に血の上った状態でアルマをさらわれたがために、それを追うことに執着しているのだ。それは祐樹の思惑通りだった。

 祐樹はアルマの手を引いて城の中を走り始めた。

「待て!」

 エドワードの怒号と銃弾が、断続的に祐樹とアルマを襲う。銃弾は何度も二人をかすめたが、不幸中の幸いというべきだろう、直撃したものは一つもなかった。

 逃亡は十分以上に渡って続き、幾度も角を曲がり、いくつもの階段を昇降し、ついには自分たちがどこにいるのか分からなくなるほどだった。

 全力で走っていた二人の体力が尽きるのと、エドワードの追跡が止んだのはほとんど同時だった。

「なん、とか、逃げきったか……」

 祐樹は呟いて、どっかと座り込む。そこは城の通路だったが、隣ではアルマが息を切らして、同じように地面に座り込んでいる。アルマが床に座るなど、女中が見たら悲鳴を上げかねない光景だ。

「これから、どうするんですか?」

 アルマは呼吸を整えながら訊いた。

「逃げ回ります」

 怪訝そうな表情をするアルマに、祐樹は大丈夫だと頷いた。祐樹には考えがあった。この国の暴動を止め、暴走したエドワードを止める方法――だが、それには時間を稼ぐ必要がある。

「でも、それでは夜が明けてしまいます」

 祐樹はアルマの言葉を聞いて、そういえばそうだなと思った。夜が明けるまで数時間もないだろうから、元の世界に戻れるかどうかはかなり際どい。

「心配してくれてありがとうございます。でも、今は逃げきることを考えましょう」

 逃げきることができなければ、祐樹はエドワードに殺されるだろう。そうなれば元の世界に戻るどころの話ではなくなる。

 それから、二人は暗い廊下で息を潜めて時が過ぎるのを待った。

 しかし、楽しいときには矢のように過ぎ去る時間も、こういうときに限っては一分一秒が経つのでさえ永遠のように感じられる。

 それでもじりじりと時は過ぎ、気づくと祐樹はうとうとと眠りに落ちそうになっていた。隣ではアルマが眠りに落ちている。

 憔悴してはいたがアルマの寝顔は美しく、触れてはならない神聖さのようなものすら感じられた。しばし祐樹はその寝顔に魅入っていた。

「いたぞ!」

 束の間の安らぎは、兵士の声でいとも簡単に破られた。

「こっちです」

 目を覚ましたアルマの手を引いて、祐樹は再び走り始めた。だが、少し走っていくと今度は別の兵士が行く手に現れた。

 祐樹とアルマは慌てて角を曲がる。背後からは兵士の足音が迫ってくる。

 また行く手に兵士が現れ、祐樹たちは近くの階段を降りた。

「まずいな……」

 エドワードは自分の手ではなく、兵士を使って組織的に祐樹たちを追い詰めようとしている。それはエドワードが先ほどまでに比べて幾分、冷静になったことを示していた。そして祐樹たちは今、ほとんど誘導されるようにして逃げ回っている。まるで、罠に追い込まれる獲物のように。しかし、だからといって諦めて捕まるわけにもいかない。

「ユウキ、この先は、行き止まり、です」

 ずっと走ってきたせいでアルマは途切れ途切れに言った。その言葉は事実だけではなく、その裏にあるアルマの絶望感をもよく表していた。

 祐樹たちが次の角を曲がると、そこはアルマの言うとおり行き止まりだった。

「よく来たな」

 その行き止まりで待っていたのはエドワードだった。凄惨な笑顔を浮かべて、銃口を祐樹とアルマに向ける。エドワードは容赦なく引き金を引いた。

 祐樹はとっさにアルマの身体を抱いて横に飛んだ。銃声とガラスの割れる音がしたのは同時だった




 目を開けると、満天の星空が視界いっぱいに広がった。

 綺麗だ――いつもより美しく見えるのは月の明かりが完全になくなっているからだろうと祐樹は思った。

 起き上がろうとして、肩がずきりと痛んだ。

「じっとしていてください、ユウキ」

 アルマがそういって地面に座る。

 祐樹たちがいるのは城の外の茂みの中だった。

「アルマ様が、ここまで?」

 祐樹はなんとか上半身だけ起こした。少し離れた場所には、先ほど祐樹が突き破って飛び降りた窓が見える。意識を失った人間を一人で運ぶのは労力を要する。追っ手に追われて時間も限られているような状態ではなおさらだ。

「はい。ゆっくりお休みのようでしたから」

 アルマは冗談めかして言った。祐樹が思っていたより余裕があるようだった。あるいは、もう諦めているのかもしれない。

「オレは、撃たれたんですね」

 祐樹の肩には、アルマのドレスの端とおぼしき布が巻かれており、しかもそれは血に染まっている。

「ええ、私を守って。ごめんなさい、ユウキ。こんなことに巻き込んでしまって」

 アルマは目を潤ませて言った。決して人前では涙を見せなかったアルマだったが、先ほど王の間で涙を見せてから心のたががはずれてしまったのかもしれない。それほどこれまでに多くのことを我慢してきたということだろう。

「教師ですから」

 アルマはきょとんとした表情を見せた後、くすくすと笑った。

「生徒を守って、銃で撃たれるのが教師の仕事だったんですか」

 祐樹はしばらく何も言わずにアルマの笑顔を眺めていた。そのことに気づいたアルマは笑うのをやめて、そっと祐樹の隣に寄り添った。

「寒いですね」

 アルマの言葉に祐樹は頷いた。冬の夜の空気は刺すように冷たく、容赦なく体温を奪う。だが、二人でいればそれも少しは和らいだ。

 それから二人はじっと時を過ぎるのを待っていたが、あるとき星が流れるのを見て祐樹は呟いた。

「オレは……この世界に来て変わりました」

 アルマが祐樹の顔を見る。息づかいが肌で感じられるほど二人の距離は近い。

「自分がなすべきことを知り、それを本気で成し遂げたいと思うようになりました」

「それは、どうしてですか?」

 祐樹は少し考えてからアルマの顔を見た。

「アルマ様、あなたがいたからです」

 アルマは祐樹の顔をまじまじと見つめて、それから微笑んだ。

「私もです」

 その微笑みは何ものにも代え難く、ずっと見ていたいと祐樹は思った。

 だが、それは叶わぬ願いだ。

「いたぞ!」

 粗野な兵士の声が響きわたり、祐樹たちはあっと言う間に取り囲まれる。祐樹にはファイア・スターターもなく、もはや打つ手はなかった。

「探したぞ」

 兵士の輪からエドワードが進み出てくる。笑ってはいたが、底知れない怒りが伝わってきた。

「おまえらを追いかけているときに考えたんだ。どうしておまえがこんなに俺を怒らせたのかということを」

 ドン、と腹の底まで響く音がする。

 祐樹は腹に激痛を感じて、くぐもった声を漏らした。

「ユウキ!」

 アルマが祐樹の腹に手を当てて止血を試みた。しかし、祐樹の白いシャツはみるみるうちに血に染まっていく。

 エドワードは銃口を祐樹に向けたまま、愉快そうに二人の様子を眺めていた。

「答えは簡単だ。俺を怒らせて、追いかけさせるためだろう。そうすれば王は殺されないし、アルマも逃げているうちは無事ですむ」

 祐樹が思った以上にエドワードは冷静だ。だが、エドワードは重要なことに気づいていない――祐樹は薄れゆく意識の中でそう思った。

「どうして、国を奪おうなどとするんですか」

 アルマが祐樹の前に立ち、エドワードと相対した。

「どうして? 初めから完璧な道に立っていたおまえには分からないだろうな。王女としてかしずかれ、皆の愛情を一身に浴びてきたおまえには」

「エドワード兄様は、違うというんですか? 王家の人間として権力もあったし、国の重要な位置にも就いていた」

 エドワードはアルマの言葉に苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべた。

「違う!」

 ドンという銃声が響きわたる。

 祐樹はアルマが撃たれたのではないかと焦ったが、どうやら無事だった。

「断じて違う。俺は誰にも期待されていなかった。王になる権利もなかった。ただ言われるがままに、そこそこの地位について、当たり障りない仕事をこなせばそれでよかった。しかし、俺はそんな生活に嫌気が差したんだ。ばかげた理由だと思うか? それはさっき言ったように、おまえが完璧な道の上に立っていたからそう思うんだ」

 アルマは首を横に振った。そして、訴えかけるように両手を胸の前に組んで口を開いた。

「分かります。私の知っている方にも、あなたと同じように考えている人がいます」

 銃口を向けられているにもかかわらず、アルマの口調は静かで、祐樹からは表情までは見えなかったが、きっと穏やかな表情なのだろう。

「その方は、周りの雰囲気に流されて生きているのが嫌になったと言っていました。そして、死を選んだそうです」

 エドワードが鼻で笑う。

「心の弱いやつだな。俺なら、状況を改善するために……」

「国を奪いますか? その方は死にませんでした。世界が、死ぬことを許さなかったんです。そして、その方は今、自分のなすべきことを立派にこなしています。誰かを傷つけて何かを奪うのではなく、できるだけ多くの人を助けようとしています。国を奪うのではなく、変えようとしています」

「ばかげている。そんな弱い人間に、国が変えられるわけがない。それはどの国の何という奴だ」

 エドワードはアルマの話を信じていないようだった。この場にいる他の人間も同じだろう。ただアルマと祐樹だけがその話が真実であると知っていた。

「あなたがさっき、撃ったじゃないですか。あなたが殺そうとしている人は、そういう人です。あなたと同じ悩みを抱えて、それでもそれを乗り越えてここにいる人です」

「…そうか。そういうことか」

 エドワードは驚いたように祐樹を見た。

「だから、エドワード兄様も……」

「無理だ」

 その言葉はアルマに対するものというよりは、もう後戻りできないのだと自分に言い聞かせるもののように祐樹には聞こえた。

 エドワードはゆっくりと銃口を動かし、ぴたりとアルマの額に照準を合わせた。

「エドワード!」

 まさに引き金が引かれようとしたそのとき、誰かの怒号と、大勢の足音が響きわたった。

 エドワードの兵士たちが一挙に蹴散らされ、新たに大勢の兵士が祐樹やアルマたちを取り囲む。

「な……」

「やってくれたな、エドワード」

 間に合った――祐樹はその声の主の登場に安堵した。

「アクセル……どうして」

 アクセルは軍の指揮のため、城を不在にしているはずだった。それがどうしてこの場にいるのか――それがエドワードの疑問だった。

「頭に血が上って気づかなかったか? 夜空にあれだけの閃光弾が打ち上がれば、嫌でも気づく」

 エドワードは自分の失敗に気づき、ぎりぎりと歯を噛みしめた。もしエドワードが本当に冷静であれば、閃光弾が何のために上げられたのかを考え、その理由に思い至っただろう。しかし、エドワードはアルマとエドガーを殺すことに意識を向けていたうえ、祐樹の侮辱にあって冷静さを失った。一時は冷静さを取り戻したが、それでも祐樹たちを捕まえることだけに意識を集中していた。

「観念しろ。これまでだ」

 エドワードはだらりと両腕を垂らし、アクセルの通告を呆然と聞いていた。その姿を見た者は、誰しもが諦めたのだと思っただろう。祐樹もそう思った。

 しかし、エドワードは突然、銃をアルマに向けると引き金に指をかけた。

「しまっ……」

 アクセルが慌てて兵士に合図をするが、エドワードの方が早い。

 だめだ――祐樹は白濁した意識のもと、ふらつきながらアルマの前に立った。足下はおぼつかなく、視界も定まっていない。立っていられるのが自分でも不思議なくらいだった。

「ユウキ!」

「先に死にたいか。では、望み通り」

 虚空に銃声が吸い込まれる。

 ドサリと人が地面に倒れ込む。

 だが、倒れたのは祐樹ではない。

 そして、アルマでもない。

 祐樹もアルマもアクセルも、ただ呆然とその倒れた人物を見ていた。

「エルザ……」

 エドワードは地面に横たわったエルザに近寄って、抱き起こした。

 エルザは片手で肩を押さえていたが、祐樹ほどの出血はない。撃たれた衝撃で倒れ込んだだけだ。

 エルザはもう片方の手でエドワードの頬を包むように触れた。

「エドワード様、もうやめてください。こんなやりかたはでは、誰も幸せになれません」

「誰も? そんなことはない。少なくとも、俺やおまえは……」

 エドワードはエルザの肩の止血をしながら言葉を続けようとしたが、エルザが人差し指でその言葉を止めた。

「エドワード様やわたしも、です。力で国を奪っても、その先に待ってるのは、今度は自分が奪われるのではないかという恐れです。だから、もう一度、やり直してみませんか。別の方法で、エドワード様の思いを叶えてみませんか」

 エドワードは何も言えずにうなだれた。

 その様子を見て、祐樹はロイが塔の下で言ったことを理解した。エルザはエドワードを守ることを選んだのだ。

 しかし、エルザは同時に祐樹も守った。祐樹が牢獄から出した手紙は、エルザのもとに届いていただろう。それにもかかわらず祐樹が無事、牢獄を脱出できたのはエルザが手紙のことをエドワードに伝えなかったからだ。

 エルザは、優しい友人のままだった。

 祐樹は安心して倒れそうになったが、アルマがそれを支えた。

「捕まえろ」

 アクセルの命令でエドワードは両脇から二人の兵士に捕らえられて、連れて行かれた。

「アクセル様、どうかエドワード様を……」

 エルザが懇願するようにアクセルを見上げる。

「分かっている。美しい女の頼みは断らない主義だ。まあ、それなりの罰は下るだろうが、幸い、死人は出ていないようだし……。ああ、死にかけが一人いるな」

 アクセルは祐樹を見て、思い出したように言った。

「ひどいですね。もとはといえば……」

「俺がおまえをここへ連れてきたことが始まり、か。恨んでいるのか?」

 祐樹は少し考えて、口を開いた。

「いえ、感謝してます」

 アクセルは満足そうに頷いた。

「誰か、こいつを医者のところへ連れていけ。絶対に死なすなよ。それからこちらのご婦人もだ。丁重に扱え」

 祐樹は苦笑した。アクセルはいい王になるかもしれない。

「じゃあ、俺は戻る。暴動がまだ収まりきっていないからな」

 エドワードが扇動した民衆の暴動だが、まだ収まっていないということは、民の不満は相当に溜まっていたということだろう。

「待ってください、兄様」

「どうした、アルマ」

「私も行きます」

 荒れる民衆のもとにアルマが行くのは少しばかり心配だったが、祐樹はアルマの様子を見て安心した。アルマは決意したように凛としていた。

 兵士の持ってきた担架に乗せられながら、ふと空を見ると東の空から陽の光が差し始めている。

 新月の夜の終わりだった。




 城壁の門がゆっくりと開け放たれる。

 騒いでいた大勢の民衆が、異様な光景に水を打ったように静まりかえった。こんな状況で城壁が開放されるなど有り得ないことだった。

「アクセル様だ」

「アルマ様もいるぞ……」

 王家の人間がいることに気づき、ざわつき始める。こんなに危険な場所に王家の人間――特にアルマが現れたことに戸惑っているのだ。

「アルマ様を出したからって、ごまかされるな!」

 誰かが叫んだ。それに呼応するように、そうだそうだと煽る言葉があちらこちらから聞こえてくる。

 アルマはそんな言葉を意に介していないかのように進み出た。

「アルマ様、これ以上は……」

 民衆を押さえ込んでいた兵士がアルマを止めた。けれど、アルマはそれすらも意に介することなくさらに進み出た。

 もはやアルマと民を遮るものは何一つなかった。

「私は皆さんをごまかすつもりも、騙すつもりもありません」

 たったそれだけの言葉だった。夜を通して逃げ回ったせいでドレスは汚れ、その薄い金色の髪は乱れていた。しかし、その凛とした声と強い意志に満ちた空色の瞳が、その場にいたすべての者を引きつけた。

「私は皆さんと、この国のこれからを話すために来ました」

「今さら何だ! もうこの国は傾いてるじゃないか!」

 アルマは声のした方を見つめた。民衆は再びざわつき落ち着きをなくしている。

「確かに、この国は衰えています」

 ざわつきが大きくなる。王家の人間がそんなことを認めるとは誰も思っていなかったのだ。アルマに非難をぶつけた人物は、呆気にとられているようだった。

「私たち王家の人間はそれでいいと考えていません。この国は変わらなくてはいけないと、そう思っているのです。

 しかし、国は巨大です。今やその全身は傷つき、疲れ果てています。城の中で小賢しい策を練ったところで、それはその場しのぎにしかならず、やがては倒れ、朽ち、他国に支配される日が来るでしょう」

 いつの間にかざわつきは消えて、皆――民衆だけでなく兵士すらもアルマが次に発する言葉を待っていた。

「だから、この国が持ち直すには、国を作り上げている皆さん一人一人が努力しなくてはいけません。今よりももっと耕し、造り、商い、国を富ませてください」

 先ほどからアルマに非難を浴びせている人物が口を開こうとしたが、アルマはそれを目で牽制した。その人物は口を開いたまま何も言えずに固まった。

 アルマの言葉は、聞きようによっては横暴に聞こえただろう。もちろん、アルマもそのことは重々承知していた。

「皆さんの苦しみも分かっています。これ以上、努力するのはもう限界なのでしょう。冬の厳しいこの地では満足に田畑を使える時は短く、道具は他国の安く良質な品に押され、市場はやり手の商人たちに支配されています。その結果、街には失業者と浮浪者が年々増えています。

 このような状況に対して、全くの無策では何も解決できません。かといって、先ほども申し上げたとおり、王家の者が策を練ったところで、できることはごく限られています。だから、私から皆さんにたった一つ、お願いしたいことがあるのです。どうか」

 アルマはそこで言葉を切って、自分に注目する民衆の顔を見た。彼らの表情には反感と興味が入り交じっている。

「学んでください」

 ひときわ強くはっきりとアルマはそう言った。

「国を支え、繁栄させるのは皆さんです。そのことを意識して、どうすればよいのかを考えてください。そのために、今必要なのは学ぶことです。

 私たちは、この街にいくつも学校を作ろうとしています。そこでは、すべての教育が王家の財をもって無料で提供されます。ですから、裕福な者も貧しい者も、皆等しく学ぶことができます。加えて、子どもたちは必ず一定の期間、学校で学ばなくてはならないよう法律を制定します。たとえ商人や職人の徒弟であってもです。乱暴に聞こえるかもしれません。ですが、この国の未来を作る子どもたちにこそ、教育を与えるべきなのです」

 単に金をつぎ込むだけの経済政策ではなく、他国に支援を求める外交政策でもない。そのことが民衆の意表をつき、ざわめかせた。皆、自分の隣の者や何人かでその是非を話し合っている。賛成という意見も聞こえれば、そんなものは効果がないという反対の意見もあった。どちらかといえば懐疑的な考えの方が多いようだった。

 けれど、それで構わないとアルマは思った。疑問を持ち、考えることが始まりなのだ。

「うまくいく保証はあるのか! もしうまくいかなかったらどうする!」

 ここぞとばかりに、非難の声が響きわたる。それを聞いた民衆は、静まってアルマに注目した。

 望むところだ――アルマは強い意志のこもった瞳で皆を見つめた。

「保証は、ありません。この政策は私が全ての責任を負います。私は、必ずこの国を再び繁栄に導くと約束しましょう。だから、どうか、私を信じてください」

 皆が息を呑んで王女アルマを見た。

 通常、政策に責任を負うのは大臣たちだ。王女が責任を負って政策にあたるなど前代未聞だった。

 だが、だからこそ得られるものがある。

「おれは信じるぜ!」

 誰かが大声で叫ぶ。そして、それに続いてあちこちから声が上がる。

「おれもだ!」

「わたしも!」

「ぼくも!」

 その声は次第に増えていき、地を揺らすほどの歓声となった。もはや、アルマを非難して扇動しようとしていた人物にはその流れを変えることはできない。

 アルマは満面の笑みでその歓声に応えた。




 数ヶ月が経ち、春が訪れた。

 日は長くなり、凍てついた大地は融けだし、植物が芽吹く。

「寝ないでください、アルマ様」

 祐樹は紙に向かいながらうつらうつらと舟をこぐアルマに言った。アルマははっと目を覚まして、苦笑した。

「眠ってしまいましたか。すみません。ですが、この積分は少し難しくて」

「積分が難しいから眠ってしまったわけではないでしょう。どうせまた、夜遅くまで教師の割り振りか、学校の建築計画でも見直していたんじゃないですか」

「それは……そうですが。やることはたくさんあるのに、時間が足りないんです」

 アルマは少しばかりしょげたように言う。実際、街の学校はこの春から開校予定で、計画は一つの山場を迎えていた。祐樹自身もあまり満足に寝られないくらい忙殺されている。

「だめですよ。ちゃんと休まないと、身体を壊します。それに、失敗も多くなる」

 祐樹はそう言って、アルマの計算用紙の一点を指さした。

「あ」

 祐樹の指した部分を見て、アルマは声を漏らした。

「簡単な計算間違いです。いつものアルマ様なら、絶対にしませんね。今日は、もう終わりにしましょう」

 アルマは不満そうに祐樹を見つめたが、祐樹が重ねて首を横に振ると諦めたように机に突っ伏した。

「仕方ないですね。今日のところはユウキの言うとおりにします」

 そんな様子を見ていると、アルマが十六の少女なのだと思い知らされる。だから、少しだけ心配になった。

「大丈夫ですか?」

「なにが、ですか?」

 アルマは顔だけ祐樹の方に向けると、不思議そうに訊き返した。

「もっと自由に遊んだりしたいんじゃないですか? 仕事をやることが、負担になっていませんか?」

 アルマはしばらく考えた後、ゆっくりと身体を起こした。

「いいえ。私は今、生まれて初めて自分で考え、自分の足で歩いています。それが、どうして楽しくないでしょう」

 そう言ってアルマは微笑んだ。

 その微笑みは優しく、祐樹はアルマの透き通った空色の瞳に吸い込まれそうな気分になって、思わず目をそらした。

「そらさないでください」

 アルマにそう言われて祐樹は視線を戻した。いつの間にかアルマの表情から微笑みは消えて、真剣なものになっていた。

「感謝、しています」

 アルマはそう言って祐樹を見つめ、自分はそらすなと言ったにもかかわらず、祐樹から目をそらした。心なしか頬が上気していた。

 祐樹はそんなアルマの様子に心臓が高鳴り、自分でも無意識のうちにその両肩に手をかけていた。

「ユウキ……」

 アルマは戸惑ったような表情を見せたが、次の瞬間には目を閉じた。

「アルマ様――」

 ドアの開く音が響き、二人はぱっと離れた。

 ただでさえ高鳴っていた祐樹の心臓は、飛びださんばかりに跳ね上がった。アルマも同じだったようで、落ち着くために大きく深呼吸していた。

「アルマ、ユウキを借りるぞ」

「ノックくらいしてください、お兄様」

 部屋に入ってきたのはアクセルだった。その隣にはロイが立っている。少しばかりにやけているのは、祐樹の気のせいではないだろう。

「まあ、そういうな。急ぎの用なんだ。ちょっと来てくれるか」

「なんでしょう?」

 祐樹が問うと、アクセルは答えずにロイが進み出た。

「建設中の学校なんだけど、予算の相談をさせてくれないか」

「ああ、そういうことか」

 ロイは現在、教育計画の予算関係を取りまとめている。徒弟として働いていた商店には、国から金一封を出してロイをもらい受けたのだ。

「行くよ。あの辺、最近、ごたごたしてるしな」

 何事も問題を解決しなくては先に進めない。ときにはその問題が大きすぎて、自分では解決できないような気分になるときもある。

 しかし、仲間がいて、さらにその問題の先に希望ある未来があるのならば、恐れず取り組めばいい。失敗するかもしれないが、そのときはまた考えればいい。

「ユウキ」

 立ち上がる祐樹に、アルマが声をかける。

「何ですか、アルマ様――」

 こつん、と祐樹の額に何かが当たった。

「何でもありません。いってらっしゃい」

 祐樹はアルマの投げたそれを手にとって苦笑した。

 そして、それを窓の外に向かって思い切り投げる。

 それは春の風を受けて、どこまでも高く舞い上がった。


                    了



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