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第五章 帰還の兆し?

第五章


 身を刺すような寒さの中、ロイとエルザは街から城へと至る道を歩いていた。

 二人は祐樹の頼みで、学校として使える建物や教員となりうる人材などを探してきたところだった。

「まさか、こんなことになるなんてなぁ」

「うん。ユウキ、すごいよね。王様やアルマ様を動かしたんでしょ」

 ロイとエルザが頼まれた仕事は、祐樹が正式に国から依頼された教育計画の一環だった。つまり、ロイとエルザは一時的にではあるが、祐樹を通じて間接的に国から給料をもらっていることになる。それぞれの本業である商店と酒場の仕事については、少しの間、国の仕事を優先させてもらっていた。

「それにしても、意外と見つかったな」

 ロイの手元には、学校として使用可能な建物と教員候補の一覧があったが、それは祐樹から期待されていた件数を二倍近く上回っていた。

「うん。景気が悪いせい、だよね」

 その一覧にある建物の多くは、持ち主が破産して売りに出されたり、夜逃げして打ち捨てられたりしたものだったし、教員の候補となる人材は、貴族の家庭教師を解雇された者や、勤めていた商店を首になった者が多かった。それらがたくさん見つかったということは、この国の経済が傾いていることを示していた。

「ああ。ユウキに教えてやらなくちゃな」

 二人の仕事には物件と人材を探すことだけではなく、街の様子を見聞きし、この国の現状を正確に把握することも含まれていた。その情報は今後の教育計画やその他の政策に活用される。

 しばらく歩いて、二人が城に着くと祐樹が城の中を走っているのが見えた。

「おーい、行ってきたぜ!」

 祐樹はロイの声に気づいて立ち止まると、大きく手を振った。

「ありがとう! これから会議なんだ! 終わったら行くから待っててくれ!」

 祐樹は大声で叫ぶとそのまま走り去っていった。そんなふうに城の中を走り回ったり大声で叫ぶのは祐樹しかいなかったが、城の他の者たちはすでに慣れた様子で気にもしていないようだった。

「変わったよね、ユウキ」

 ロイは頷いた。ロイが初めて出会ったとき、祐樹はどこか自信のなさそうな青年だった。本当は五歳くらい違うというのにロイやエルザが自分と同じくらいの年齢だと思ってしまったのも、容姿だけではなくその覇気のなさが一因だろう。

 しかし、今の祐樹は揺るがない信念に従って動いているように見えた。何が祐樹を変えたのかはロイにもエルザにも分からなかったが、それは好ましい変化に思えた。そして、その祐樹がこの国を変えつつある。

「あいつならこの国をいい方向に変えてくれそうな気がするんだ」

「どうしてそう思うの?」

「一つは、俺たちの知らない知識を持ってるからだな。だけど、俺がそう思うのはもう一つ理由がある」

 エルザが話の続きを催促するようにロイを見る。もったいぶらずに早く話せということだ。

「あいつは公平なんだよ。自分がアルマ様付きの教師になっても偉そうにすることはなかったし、俺への態度も今まで通りだった。逆に、アルマ様に対してもへりくだったりしないんだ。なんて言ったって、あいつ、アルマ様に説教垂れたんだぜ。あいつなら、国の上から下まで全体のことを考えて行動できる。そう思うんだ」

 まるで自分のことのように語るロイを、エルザは楽しそうに見ていた。

「珍しいね。ロイが他人のことをそんなふうに言うなんて。よっぽどユウキのことが好きなんだ」

「茶化すなよ。まあ、気に入ってるのは確かだけどな。そういうエルザはどう思ってるんだよ、ユウキのこと」

 ロイの問いにエルザは固まった。二人の会話にしては長い沈黙が続いて、何かまずいことを訊いただろうかとロイが思ったところで、ようやくエルザが口を開いた。

「好きだよ。優しくて、頼りなさそうだけど、本当は頼りになる」

 エルザの表情は一見すると穏やかだったが、付き合いの長いロイにはそれがエルザの悲しいときの表情だということが理解できた。だからエルザの言う「好き」だという感情が、単なる友人に対するものと異なることも察しがついた。

「本人にそう言えばいいじゃないか」

 ロイの提案にエルザは怒りと困惑の入り交じった曖昧な表情を浮かべた。

「分かってないなぁ。最近のユウキを見てると、わたしにはなんとなく分かるの」

「分かるって、何がだよ」

 エルザは何か答えようとしたが、口をつぐんで首を横に振った。

「やっぱり、いい。わたしの想像だから」

「なんだそりゃ……」

 ロイが呆れていると、二人のいる方に向かって一人の男が歩いてきた。王家の傍流であることを示す黒い色の髪と鳶色の瞳、そして腰に提げた拳銃がその人が誰であるかを語っていた。

「やあ、エルザと、それから……ロン」

「ロイです」

 ロイが訂正すると、エドワードは笑いながら謝った。

 エドワードは祐樹の協力者であり、祐樹が王の怒りを買いそうになったときもエドワードが仲裁した。そんな人格者だが、ロイはあまりエドワードのことが得意ではなかった。それはエドワードから本心というものが伝わってこないからだった。

「今日もユウキの手伝いか?」

「はい、そうです。エドワード様はご公務ですか?」

 エルザが先ほどまでのロイとのやりとりを忘れたかのように、にこやかに応じた。ロイはそれを見て苦笑した。

「ああ、そうだよ。忙しくて嫌になるが、そうも言ってられない。ユウキの教育計画の方はうまくいってるのか?」

「それなりに。まだ始まったばかりなので、いろいろ準備が大変ですが」

「そうか。アルマも関わっているからな、エルザと…ロイの力でうまくいかせてくれ」

 王家の人間から激励を受けるなどそうそうあることではなく、ロイたち一般人からすれば喜ぶべき事だ。実際、エルザは嬉しそうに礼を言っていたが、ロイとしては素直に受け取ることができなかった。それは何も名前を覚えてもらえないからではなく、エドワードの言い方が気になったからだ。

 アルマも関わっているから――エドワードはそう言ったのだ。ユウキの教育計画はもはや誰か個人のためのものではなく、国全体のものだ。エドワードはそのことを理解してくれていない。

 しかし、それでも構わないとロイは思った。すでにエドガーやアクセルが祐樹の理解者であり、他にも祐樹の計画を支持する者は増えつつある。中には、エドワードのようにあまり理解してくれない者もいるだろうが、反対されているわけでもないので大勢には影響がないはずだ。

「ところで、エルザ、紅茶でも飲んでいかないか。もう少ししたら時間ができるんだが、いっしょに紅茶を楽しむ相手がいなくてね」

「はい、喜んで」

 祐樹の仕事を手伝い始めて以来、エドワードはエルザのことを気に入り、こうして何度か茶に誘ったりしていていた。ロイとしてはエルザの祐樹に対する感情も知っているがために複雑な心境だった。加えて、そもそも王家の者が本気で庶民に入れ込むわけがないから、エルザのことが心配でもあった。

「それはよかった。ロイ、君もたまにはどうだ?」

「いえ、せっかくですが俺は結構です」

「そうか、残念だ。では、また後ほど」

 エドワードはそう言って去っていく。エドワードが十分遠くに行ったのを見計らって、ロイはエルザに忠告をしようと口を開いたが、その前にエルザが笑いながらこう言った。

「分かってる。本当にただのお茶だから」

「そうか。それならいい」

 ロイはエルザが酒場で言い寄ってくる何人もの男たちをうまくあしらっていたのを思い出し、自分の心配が杞憂だったと思った。相手が王族の人間とはいえ、エルザにとってはあまり変わらないのかもしれない。

「さ、もう行こう。調査結果をまとめなくちゃ」

 ロイは頷いた。二人がやるべき仕事はまだ山ほどある。こんなところで油を売っている暇はないのだ。




 もう動けない。

 祐樹はベッドの上にうつ伏せに倒れ込んだ。毛布が顔に当たって息苦しかったが、疲れきった身体は多少の不快はものともせずに休むことを優先した。

 早朝から会議に出席し、それが終わったら城内の使用人たちへの授業を行い、その合間には教育計画における予定やカリキュラムの作成を挟み、その後は再びいくつかの会議をこなした。そしてつい先ほどロイとエルザの報告を受けたところだったが、それでもまだこの日の予定が終わったわけではなく、これからアルマに対する授業をしなくてはならない。

 身体は疲れていたが、精神はそれほどでもなかった。恐らく、着実に前に進んでいると日々実感できているからだろう。

 廊下の柱時計が、その鐘の音でドア越しに午後四時を伝える。祐樹はアルマの部屋に赴くためにおもむろに身体を起こしかけた。

 ドアを叩く乾いた音が部屋に響く。

「はい、どうぞ」

 ゆっくりとドアが開き、祐樹は信じられないものを見た。

「アルマ様……どうしたんですか」

 アルマは何も答えずに静かに部屋に入り、後ろ手でそっとドアを閉めた。その行動の意味に気づいた祐樹は驚いて立ち上がった。

「女中もいないんですか?」

 アルマと部屋で二人きりになるなど、あの女中が知ったら発狂ものだ。それでなくとも、普段から一人で出歩くことの滅多にないアルマが、いったい何を思って祐樹の部屋を訪ねてきたのだろう。そんなことをせずとも、少し待っていれば祐樹の方からアルマのところを訪れたにもかかわらずだ。

「はい。今日の授業は休みにしていただけますか」

「それは構いませんが……どうしたんですか?」

 アルマが自ら授業を休みたいと申し出るのは珍しかった。初回の授業を除けば、アルマはとても熱心に学んでいた。

「ユウキが疲れているでしょうから……どうしたんですか、そんな驚いたような表情をして」

 アルマに言われて祐樹は表情を改めた。

「いえ、すみません。そのことを伝えるためにわざわざここに?」

 アルマは首を横に振って椅子に腰掛けた。

「ユウキも座ってください。今日はただお話をしようと思って来たんです」

「はあ……」

 祐樹が妙なこともあるものだと思ってベッドに腰掛けると、それを見たアルマは立ち上がって祐樹の隣に座りなおした。そのことが祐樹をさらに驚かせた。ロイやエルザならともかく、一国の王女と横並びで座って話をすることになるとは想像もしていなかった。

「順調ですね」

 混乱していた祐樹は、それが教育計画のことだと気づくのに少しばかり時間がかかった。

「はい。アルマ様に手伝ってもらっているおかげで、想像以上にうまく進んでます」

 アルマもまた祐樹ほどではないが、教育計画の重要人物としてたくさんの仕事をこなしている。蝶よ花よと大切に育てられてきたアルマはすぐに根を上げるだろうと祐樹は思っていたが、それは大きな勘違いだった。

「いいえ、ユウキの考えがあればこそです。私はユウキがいなかったら、こんなふうに国のために動くことはなかったでしょう。あなたは不思議な人ですね。誰も知らないような知識を持ち、それでいてそれをひけらかすことをしない控えめな人かと思えば、私を叱りとばす。そんな人には初めて出会いました」

 アルマは穏やかな表情で語った。仮面のような微笑みではなく、食い入るように真剣な眼差しでもない――祐樹のはじめてみるアルマの表情だった。

「教えてください、ユウキ。あなたのいた国のことを。どんな場所にあり、どんな気候で、どんな動物がいて、どんな人たちが住み、どのように国が治められているのか」

 それは異国への憧れだろうか。アルマがそんなことを知りたいというのは祐樹にとっては晴天の霹靂だった。何しろこの数ヶ月、祐樹自身も自分のいた世界のことをほとんど忘れて、ランス王国の未来に頭を悩ませていたのだ。

「オレの国、ですか」

 祐樹がまず思い出したのは、ランス王国と同じくらい閉塞感に満ちた社会と無気力に授業を受ける予備校の学生たち、そして彼らに無気力に講義し続ける自分自身の姿だった。しかし、それ以前に祐樹は大切なことをアルマに言っていなかった。その大切なことを隠し続けたままでは、何を語ったとしても嘘になるだろうし、アルマの期待に添うこともできないだろう。

 祐樹は窓越しに空を見た。昼の短いランス王国の空はすでに暗く、三つの月が浮かんでいた。

「オレのいた世界には、月が一つしかありませんでした」

 アルマの表情が変わったのが分かったが、祐樹は言葉を止めなかった。アルマには本当のことを話さなくてはいけないと思った。

「オレは、本当は死ぬはずでした。高いビル…塔の上から飛び降りて、でも気づいたらこの世界にいました」

「どうして……」

 どうして、こんな重大なことを黙っていたのか――そう責められるか、あるいは信じてもらえないのだと祐樹は思った。しかし、それは違った。

「どうして、死のうと思ったんですか?」

 真剣な表情だった。ただの好奇心から訊いているわけではなく、かといって責めるわけでもなく、アルマはひたむきな目で祐樹を見つめていた。

 それが自分を心配してくれているのだと祐樹は気づいた。

「ずっと、流されて生きてきました。周りに言われるがままに勉強して、そこそこの学校に入って、なんとなく就職して。ただ、もうこのまま生きていても、自分には大した未来が待っていないような気がしたんです」

 教師が生徒に言う台詞ではないと思いながらも、祐樹は自分の言葉を止められなかった。アルマは真剣な表情を変えずに黙って聞いていた。そんなアルマなら、自分のくだらない話でも何かの糧にしてくれるかもしれないと祐樹は思った。彼女の聡明さはこの数ヶ月の短い時間でよく分かっていた。

「ユウキ、あなたは今でもそんなふうに思って生きているんですか?」

「オレは……」

 困惑した。アルマの質問にではない。その質問に答えられない自分に対して困惑したのだ。

「私はそうは思いません。確かにユウキはこの国で捕えられたり、私の教師にさせられたり、お父様の前で提案をさせられたり、いろいろなことに巻き込まれたと思います。でも、ユウキはその中で自分の考えを持って、全力で皆の期待に応えてきました。その結果、この国の将来を決める仕事をしている。違いますか? そんな人が、ただ流されて生きているなんて、私は認めません」

「アルマ様……」

 アルマの懸命な訴えに祐樹は圧倒され、心奪われた。

「すみません、言い過ぎました」

 アルマも自分を抑えられなかったのだろう。はっと気づいたように祐樹から顔を背けて謝罪した。

「いえ、ありがとうございます、アルマ様。オレも、そう思います」

 いつの間に自分は変わっていたのだろうと祐樹は思った。元の世界にいたときに感じていた疲労にも似た空虚な感情は消え去り、代わりに自分がこの国の将来を変えるのだという強い決意が祐樹を動かしていた。

「よかった」

 アルマはほんのわずかに微笑んだ。

 そのとき祐樹は気づいた。祐樹を変えたのは、ロイやエルザをはじめとしたこの国の人々であり、そして誰よりも――目の前の少女アルマなのだ。ひょっとしたら、自分はアルマの本当の笑顔を見たくて、そのために懸命にやってきたのかもしれない。

「それじゃあ、オレのいた世界のことを話しましょうか」

「はい、ユウキ。とっておきの話をお願いします」

 それから祐樹は、自分のいた世界のことをアルマに語り聞かせた。元の世界にあったはずの閉塞感といった負の印象は、不思議とどこかに忘れ去ってしまっていた。




「用って何だよ」

 ロイが不安そうに周りを見回しながら祐樹に訊いた。

「ロイは高いところ苦手なんだよね」

 からかうような口調で言ったのはエルザだ。ロイとは対照的に、その場所から平然と足下を見たり、遠くを眺めたりして楽しそうにしている。

 三人がいるのは城の敷地内にある塔の頂だった。

「グライダーを造ろうと思うんだ」

 祐樹は懐から折り畳んだ紙を取り出すと、二人に開いて見せた。ロイとエルザはそれを見て、ぽかんとした表情をした。

「なんだそりゃ」

「鳥?」

 その紙に描かれていたのは、グライダーの設計図だ。それをロイとエルザの二人が理解できなかったとしても無理はない。何しろこの世界には空を飛ぶための道具などありはしないのだから。

「空を飛ぶための道具さ」

 ロイは、祐樹に対して忙しくて気でも狂ったのかとでも言いかねない表情を浮かべた。

「そんな顔するなよ。これを見てくれ」

 祐樹が足下にあった革布をどかすと、そこからは木や竹などの材料に加えて、設計図に描かれたのによく似た一抱え程度の模型が登場した。

「それに乗って飛ぶの?」

 エルザが恐る恐る祐樹に尋ねる。いくら高いところが平気とはいえ、そんな無謀なことはできないという意志がよく伝わる表情だった。

「大丈夫。飛ぶのはオレだし、本当に造るのはこれよりもっと大きいやつだ。こいつはただの試作品。模型だよ」

 祐樹がそう言っても、二人は全く信じようとしなかったので、祐樹はその模型を塔から放って見せた。

 百聞は一見にしかず――模型のグライダーはすっと空気に乗り、墜ちることなく真っ直ぐ滑空していった。以前この塔で祐樹がアルマに見せた紙飛行機より遙かに安定した軌道を描いている。そして、そのグライダーは数百メートルは飛んで点のようにしか見えなくなったところで静かに着地した。

「まじかよ」

「信じられない……」

 その言葉とは裏腹に、二人は祐樹の言葉が本気であり、その実現性もあるのだということを悟ったようだった。

「どうだ? 手伝ってくれないかな。二人には教育計画の方も手伝ってもらってるのに、これ以上、頼みごとするのは悪いんだけど」

「水くさいこと言うなよ。仕事の内容にしちゃ給料もらいすぎてるとは思ってたところだしな」

 ロイの気さくな笑顔を見て、祐樹は安心した。

「だけどさ、どうしてそんなもの造るのか、教えてくれないか?」

「ああ、それは……」

 何と説明すればいいのか祐樹は悩んだ。アルマの夢を叶えてやりたいと言ったら笑われるだろうか。

「アルマ様のため?」

 エルザが穏やかな表情で訊いた。祐樹はエルザの洞察力に驚かされつつも頷いた。

「ああ、実はそうなんだ」

 祐樹が答えると、ロイが少し慌てたように祐樹に近寄ってきて、肩を二、三度叩いた。

「分かったぜ。そういうことなら任せとけよ!」

「あ、ああ、助かるよ」

 祐樹はロイの勢いに押されながらも、何とか礼を言った。

 それから祐樹はロイとエルザに図面の説明をして、製作に取りかかった。その製作は、ここのところ会議ばかりしていた祐樹にとってはいい息抜きになったし、それはロイやエルザにとっても同じだった。ときには他人に気を使うことのない作業に没頭するというのはいいものだ。

 昼過ぎから始めた作業は、気づくと夕方になっていた。そのことに気づいたのは、陽の光が弱くなって手元が見づらくなってきたからだ。それに加えて、暖を取るためにたき火をたいているとはいえ、夕暮れ近い屋外ではさすがに寒い。

「そろそろ終わりにしよう」

 祐樹がそう声をかけると、ロイは顔を上げて周囲を見渡した。

「なんだ、もうこんな時間かよ」

 ロイは祐樹以上に集中していたようだった。実際、ロイの造った部分はとても丁寧で、しかも祐樹の期待以上に進んでいる。この分なら、あと数回こういう形で作業を行えば完成しそうだ。

 ふと祐樹がエルザを見ると、エルザはまだ作業を終わろうとしていなかった。いや、正確に言えば作業自体は止まっているのだが、固まったまま立ち上がろうとしないのだ。

「大丈夫? 具合でも悪いのか?」

 エルザは何かに見入っているようだったが、祐樹が近づいてきたことに気づいて慌てて立ち上がった。

「う、うん、大丈夫。何でもないよ」

 それならよかった――祐樹はそう答えようとして、しかし声が出てこなかった。エルザが見ていたものを祐樹も見たからだ。

「ユウキ――」

 それは塔から遠目に見える二人の男女の姿だった。夕日に照らされていたが、女の薄い金髪がその人が誰であるかを語っていた。男の方は最初は誰か分からなかったが、黒い髪と腰に下げた銃に見覚えがあった。

 アルマとエドワードだ。

 二人はまるで恋人同士のように近い距離で何かを話し合っていた。そして次の瞬間、エドワードがアルマを抱きすくめた。

 世界の音と色が消えたような気分になった。

 祐樹はその光景に背を向け、片づけを始めた。

「寒いから早く終わらせて戻ろう」

「あ、ああ、そうだな」

 ロイは少し焦っていたようだが、祐樹の言葉に従って端材を一カ所に集めたり、余った材料を束ねたりといった作業を再開する。エルザもしゃがんで片づけを始めたが、普段のてきぱきと手際のいい彼女の特長はすっかり陰を潜めていた。

「エドワード様とアルマ様、来年にはご結婚されるんだって。エドガー様が先日、決められたそうよ」

「そう、なのか」

 エドワードは温和で、アルマもその面倒見の良さを慕っていた。恐らくは国中の誰しもが祝福する婚姻となるに違いない。

 しかし、祐樹の心はざわついた。理性では祝わなければと思う一方で、感情は理性を否定していた。

「どうして、エドガー様はそんなことを? 少し急じゃないか。アルマ様はまだ十六だろ」

 言葉を失った祐樹の代わりにロイが訊いた。少し冷静に考えればロイの疑問ももっともだったが、祐樹はその程度の疑問も思いつかないほどに動揺していた。そしてさらに言えば、祐樹はそれほどに動揺してしまう自分自身を理解することができないでいた。

「プロシアからアルマ様を王室に、って申し出があったって」

「政略結婚を断るためか。エドガー様も思い切ったことするなあ」

 大国プロシアとの政略結婚ともなれば、ランス王国のような小国にとっては決して悪い話ではないし、断れば関係が悪化してしまう可能性もある。エドガーとしてはどうしても手元から愛娘を手放したくなかったということだろう。

「早く戻ろう。寒くなってきた」

 祐樹は造りかけのグライダーを手早く革布で包んだ。日が暮れ始めてそれほど時間は経っていないはずだったが、祐樹は身体の芯から冷えてきたような感覚を覚えた。

 指先が震えているのもそのせいだろう。




 その翌日、祐樹は冴えない頭で教育会議に参加していた。

 昨日の夜はよく眠れなかった。

 どうやら自分はアルマのことで本当に衝撃を受けたらしいと祐樹は気づいていた。まさか、あの十六歳の王女に恋でもしていたというのか。身分も違えば、歳も違い、髪の色や肌の色も違うし、文字通り住む世界も違う――そんな彼女に想いを抱くなどどうかしている。

 祐樹は会議が閉会すると同時に大きくため息をついた。会議で話されたことなどほとんど頭に入っていない。途中、何度か意見を求められたが適切な回答をできたかどうかも自信がなかった。

「今日は身が入っていなかったな」

 ぽんと肩をたたかれて振り返ると、アクセルが立っていた。アクセルも同じ会議に出席していたのだが、祐樹の不調に気づいていたらしい。

「すみません。あまり眠れてなくて」

 祐樹はあくびをかみ殺しながら言った。アクセルはそんな祐樹を見て苦笑した。

「何か、ご用ですか?」

「いや、なに、ただの食事の誘いだよ。昼でもいっしょにどうだ?」

 アクセルに食事を誘われるなど珍しいことだったが、断る理由もなかったので祐樹は快諾した。

 しかしアクセルに連れて行かれた先で、祐樹は安易に誘いを受けたことを後悔した。

「ここですか……?」

 祐樹が連れてこられたのは王家の会食の間だった。そこは主に王家の者が食事をとるための部屋で、それ以外には高位の賓客に対するもてなしに使われるくらいだ。当然、祐樹が立ち入ったことはない。

「そんな情けない顔をするな、ユウキ。まるで叱られた犬のようだ」

 何という言い種だと祐樹は心の中で憤慨したが、気分は叱られた犬というよりは、売られていく牛のそれだった。

「いいですよ。もう慣れました」

 祐樹がそう応じると、アクセルは頷いて衛兵に豪奢な扉を開けさせた。

 中で待ちかまえていたのは祐樹の予想通りエドガー、アルマ、エドワードの王家の面々だ。

「よく来たな。座るがいい」

 祐樹が本でしか見たことのないような大きなテーブルの端をエドガーが示す。

 言われるがままに座るとエドガーと向かい合う形になり、その両隣にアクセルとエドワード、そしてアルマが座っていた。祐樹と王家の四人との間には若干の距離がある。

「さて、腹も空いているだろうから、食事をとりながら話でもしよう」

 エドガーの言葉を合図に、何人かの給仕たちが部屋に入ってきて料理の盛られた皿を置いていく。用意された食事は、祐樹がこれまで生きてきた中で見たこともないような贅をこらしたもので、思わず嘆息した。

 それからしばらく雑談をしつつ食事をしたが、緊張のあまり雑談の内容も食事の味も祐樹の頭にはほとんど入ってこなかった。情けないとは思ったが、慣れることはできそうにない。

 食事がほぼ終わりかけた頃に、エドガーが祐樹を観察するように眺めた。

「なんでしょうか」

 エドガーは祐樹の問いに困ったように唸った。

「気を悪くしないでほしいのだが、そなたのように若く、経験もなさそうな者が教師をやっているということがいまだに不思議でならないのだ。そのうえ、国全体を巻き込んで教育を行い、成果を挙げようとしている。いったいどこからそのように大胆な案が出てきたのだ」

 祐樹はようやく自分がこの会食に呼ばれた理由を理解した。

「正確には、オレの案ではありません。オレのいた国から学んだことです。オレのいた国では教育制度が整備されて、誰でも学ぶことができました」

「なるほど、そなたの故郷の制度から着想を得たというわけか。もう少し、その話を聞かせてくれ」

 エドガーは祐樹の話に興味を持ったようだった。

「はい。オレのいた国では――」

 祐樹は求められるがままに話をした。

 十年近い教育を行う制度があること、国民のすべてがそれを受けなくてはならないこと、それらが無償で提供されていること。祐樹にとっては当然のことでも、エドガーたちにとっては驚きの内容だったのだろう、頷きながらも時折、難しそうな表情を浮かべていた。

「そのような話は聞いたことがない。プロシアですらも、そこまで徹底してはいないだろう。そうまでして、本当に効果が得られるのか?」

「ええ。オレの国は領土自体はごく小さいですが、経済的には、大国をしのぐほどに繁栄しています」

 エドガーは感心したように唸った。

「教育だけで経済の繁栄がもたらされると?」

「いいえ、教育は万能ではありません。適切な経済政策がなくては国は繁栄しません。その政策の効果を最大限引き出すのが教育です」

 エドガーは考え込むように目を閉じた。たったそれだけの動作で周囲の者たちの目が引きつけられるのは、さすが一国の王だ。

「それは、国の発展を支えるのがその国の民だから、ということか」

 祐樹は少し驚いた。祐樹が初めてエドガーに教育の拡充を提案したときに言ったことをエドガーは覚えていたのだ。

「そうです。特にランスのように農業や資源に頼ることのできない国では、その重要性はより高くなります」

「必ずしもそうではないのではないか」

 間髪入れず祐樹に反論したのはエドワードだった。心なしか怒っているように見えるのは、祐樹がランス王国のことをけなしたと思ったからかもしない。そして、エドワードは自らを大きく見せるように立ち上がってこう言った。

「優秀な王や大臣たちが民を率いればいい。それだけのことではないか。何も民に余計な知識を与えて賢しくする必要などない」

 立ち上がった勢いでエドワードの腰の拳銃が揺れる。その拳銃が、力でもって民を率いようとするエドワードの考えを言葉以上に雄弁に物語っていた。

 祐樹はエドワードの態度と考えが意外で、どう切り返せばいいのか分からなくなった。祐樹はエドワードのことをもっと温和で理解のある人物だと思っていた。

「それは違うのではないでしょうか」

 祐樹の代わりに凛と答えたのはアルマだった。

「なに?」

 エドワードは予想外のところから反撃を受けて慌てたように応じた。面倒見のいい従兄として接してきたエドワードは、アルマから反論されたことなど生まれてこの方なかった。

「軍を率いるときに、大将の指導力があればそれだけでいいのでしょうか」

 エドワードは安心したように笑った。

「何を言っているんだ、アルマ。今は軍の話などしていない……」

「エドワード」

 アクセルがやや厳しい口調でエドワードを諫めた。

「分からないのか。アルマが言っているのは、喩え話だ。軍を率いて敵に勝つためには、優秀な大将だけでは足りない。優秀な兵が必要だ。同じことが国を発展させるのにも言える」

 優秀な王や大臣だけでは国を発展させることはできず、その国の民が優秀であって初めて効果的に成長できる――アクセルの説明を聞いてエドワードは押し黙り、そのまま座って乾いた声で笑った。

「驚いたな。よく学んでいるじゃないか、アルマ」

「ありがとうございます」

 低い笑い声が響く。皆が驚いてそちらを見ると、笑っているのはエドガーだった。

「教育が人を変え、人が国を変える。ユウキよ、そなたの国の仕組み、よく理解できた。これからに期待しているぞ」

「はい」

 祐樹は軽く頭を下げた。顔を上げると、アルマと目があった。アルマはこちらを見て、ほんのわずかに微笑んだ。祐樹はそれを嬉しく感じると同時に、無性に寂しい気持ちになった。




 それから数日後の夜、祐樹は城の図書室に来ていた。

 夜になって図書室を利用する者などおらず、そこには祐樹しかいなかった。灯りも、祐樹が来たときに帰ろうとしていた司書に無理に頼んで点けてもらったものだ。

 祐樹は広い机に広げた何冊もの本と格闘していた。

「占星術師、か」

 ページを繰るたびに、一人の男が残した星々の運行に関する膨大な記録が現れる。そこには祐樹がこれまで知らなかった多くの事実が記載されていた。

 例えば、三つの月のそれぞれの満ち欠けの周期が十三、二九、五三日であることや、惑星の数が八個であって祐樹の世界のそれと一致することだ。

 しかし、祐樹が知りたいのはそんなことではなかった。祐樹が探しているのは、どうすれば元の世界に戻れるのかという手がかりだった。

 どうすればいいのかは分かっている。ただ飛び降りるだけだ。どこから飛び降りればいいのかも分かっている。あの塔の頂点だ。

 残された情報は、いつ飛び降りればいいのかということだけだった。アルマに占星術師の話を聞いた後、試しに塔から石を放ってみたが、その石は消えることなく地面に落下した。人間でないと世界の間を移動することはできないのではないかとも考えたが、祐樹がこちらの世界に来たときに服やファイア・スターターも一緒に持ってこれたことからその可能性は低かった。そうだとすると、残された条件としては飛び降りる時間しかない。

 時間といっても、それが一日のうち一回のものなのか、それとも一年のうちに一回程度のものなのか、あるいは祐樹の生きている間には二度と来ないものなのかは分からない。もし二度と来ないものであれば、元の世界に戻ることはできないということになる。

「何かないのか」

 あの塔から異世界に消えたという占星術師が、まったくのでたらめで飛び降りたのだとは祐樹には思えなかった。それではあまりにも都合がよすぎる。男は何か確証を得ていたに違いないのだ。

「何を探しているんですか」

 突然、背後から声をかけられて祐樹は呼吸が止まりそうになった。

「アルマ様……」

 祐樹の後ろに立っていたのはアルマだった。上からのぞき込むようにして祐樹の机を見ている。

 その距離はとても近くて、アルマの優しい花の香りがかすかに祐樹の鼻孔をくすぐった。祐樹は思わず赤面して、うつむいた。

「星の本ですか?」

 アルマは尋ねてから、はっと息を呑んで祐樹の顔を見た。

「戻るんですね」

 無表情な微笑みをアルマは浮かべていた。そんな微笑みを久しく見ていなかった祐樹は切ない気分になった。

「分かりません。でも…」

「帰ることができるなら、ということですね」

 アルマは一歩下がって、変わらぬ表情のまま祐樹を見た。

「この国の教育計画はどうするんですか? まだ計画の最中です」

 祐樹は当然、そのことも考えていた。これほど重大な任務を途中にして突然消えてしまうほど無責任ではない。むしろ、この世界で祐樹の果たすべき仕事は終わったと考えていた。

「下地は揃いました。王にも認めていただいた。後はオレの意志を知っている人がいれば進めることができます」

「誰ですか? ユウキの代わりになる人など、この世界にはいません」

 ずいぶん買いかぶってもらったものだと祐樹は思った。一国の王女にこれだけの信頼を寄せてもらうなど、祐樹の人生において二度とないだろう。

「アルマ様、ですよ」

 アルマが仮面の微笑みを崩し、何を言っているのか分からないという困惑の表情を浮かべた。

「アルマ様なら、この国のすべての人々の教養を高め、国をさらに発展させることができます」

「無理です。私には、ユウキのように深くて多様な知識はありません。他人に教えることもできません」

 祐樹は立ち上がってアルマの両肩に手をおいて、アルマの空色の瞳を見つめた。

「それは違います。オレだって、国の全員に教えろと言われたって無理です。教えるのは他の人に任せればいい。アルマ様がやらなくてはいけないのは、国全体を公平に見渡して、皆に教育が行き渡るようにすることです」

 アルマはまるで駄々をこねる子どものように首を振った。

 それは祐樹がずっと思ってきたことだった。アルマは祐樹に会ったときもロイに会ったときも、ほとんど動じることなく、一人の人間として相対した。エドガーやアクセル、エドワードといった他の王族たちにとって祐樹たちが王族でも貴族でもない単なる民であるのとは、そこが大きく異なっていた。

「できません」

「いいえ、できます。アルマ様、あなたには人を導く力がある。現に、オレはアルマ様のおかげでここまでやってこられたんです」

 アルマが惚けたように祐樹を見て、寂しそうに目を閉じた。

「決意は固いんですね」

 アルマはそう念押しすると、本棚から一冊の本を抜き取った。その装丁から、祐樹がこれまで閲覧してきた占星術師の膨大な記録の一つであることが伺えた。

「私も、幼い頃に塔から飛び降りた男の話に興味があって、調べたことがあります。授業を抜け出して、ですけど」

 アルマは冗談めかして言ったが、あまり楽しそうな口調ではなかった。ぱらぱらとページをめくっていき、あるページで手を止め、しばらく読み込んでから祐樹に本を手渡した。

 祐樹がそれを受け取って見ると、左側のページは半ばほどまで文字と図が埋まっていたが、それ以降は白紙だった。

「占星術師の最後の記録です。当時の私には、書いてあることが難しすぎて理解できませんでしたが、ユウキなら理解できるかもしれません」

「ありがとうございます」

 祐樹が礼を言うと、アルマは頷いて足早にその場を立ち去った。

 アルマを見送った祐樹は、改めて本に視線を落とした。

「同じ、か」

 そこに書かれていたのは、これまで祐樹が読んできたのと同じ三つの月の運行記録だった。何か手がかりになるものがないかと探してみたが、目新しいものは何もなかった。

 諦めかけて何気なく白紙のページを見ると、下の方に染みのようなものがあるのが目に入った。よく見てみるとそれは大きさの異なる三つの円だった。それぞれが部分的に黒く塗られており、月の満ち欠けを表しているようだった。

 次のページをめくってみると、やはり同じように下の方に小さく三つの円が描かれている。次のページも、その次のページも――月の満ち欠けは徐々に変化し、数十ページ進んだところでそれは途切れて、代わりに米粒のように小さい文字が書かれていた。

『囚われ人、塔より異界へと赴かん』

 祐樹はその一文を読んだ瞬間、この本の一見すると白紙に見えるページが、獄中の占星術師によって書かれたものであり、さらには、この男が塔から飛び降りれば異なる世界に行けると知っていたのだと悟った。

「そうか、そういうことか――」

 この本から読みとれることはそれだけではなかった。文章で分かりやすく書かれているわけではなかったが、飛び降りるべき時間についても描かれている。

「新月の夜か」

 男が記したと思われる最後のページの三つの月はすべて黒く塗りつぶされていた。それは三つの月すべてが完全に欠けて、新月を迎えていることを表している。それが異世界への扉が開くタイミングというわけだ。

 だが、祐樹は重要なことに気づいた。

 完全な新月が訪れるのはいつだ。

 三つの月がそれぞれ異なる周期で満ち欠けしている以上、そうたびたびすべての月が隠れるとは思えない。少なくとも祐樹がこの世界に来て数ヶ月、一度もそんな光景を見たことがなかった。

「待てよ」

 祐樹は鉛筆を取り出して、紙に計算式を書き始めた。三つの数字のかけ算だ。それぞれの数字は三つの月の満ち欠けの周期を表している。

 計算を終えて、祐樹はことの重大さに気づいた。

「五十年、だって……」

 それが完全な新月の訪れる周期だった。つまり、最悪の場合、祐樹は五十年はこの世界から帰れないことになる。

 祐樹は焦燥感を抑えこみながら、占星術師の記録を読み込んだ。果たしてそこには記録日時が記入されていた。

 何度も確認した後、祐樹は呆然と呟いた。

「来週じゃないか」

 それはあまりに急な終わりの始まりだった。




 ぱたん、と扉が閉まる。

 アルマは深くため息を吐いた。部屋を見渡したが、普段いるはずの女中の姿が見あたらない。何か用事でもあって席を外しているのだろう。

 そうだと分かった瞬間に、目頭が熱くなりアルマの視界が歪んだ。人前で涙を見せてはいけないという王女としての緊張感がなくなったせいだったが、それでも目を潤ませるだけで涙をこぼすことはしなかった。

 自分でも理由が分からないほど感情が高ぶっていた。アルマは目を閉じて自分を落ち着かせようとしたが、落ち着こうとすればするほど、かえって心はかき乱された。

 脳裏に浮かぶのは祐樹との思い出ばかりだった。

 初めて庭園で祐樹に会ったときのこと、最初の授業でひどいことを言って祐樹を追い返したこと、祐樹に学ぶ意味を教えられたこと、塔で落ち込んだ祐樹を慰めるつもりが逆に紙飛行機を教えてもらい幸せな気分にしてもらったこと――全ての記憶がつい先ほどの出来事のように鮮明に色づいていた。

「くるしい…」

 アルマはドレスの胸元をくしゃりと握りしめた。

 祐樹が自分にとって特別な存在だということは分かっていた。アルマを一人の人間として扱い、一人の生徒として叱り、進むべき道を示してくれた。アルマにはそれが嬉しかった。自分がただの飾り物ではないと実感できた。

 だから、アルマは祐樹を尊敬していたが、それ以上の感情は持っていないとも思っていた。でも、それは間違っていた。

 廊下を走る音が聞こえて、アルマはハンカチで目を軽く拭った。

 それが女中の慌てた足音であるとアルマは知っていた。

「アルマ様、いらっしゃいますか!」

 扉が開け放たれ、肩で息をする女中が現れた。感情的になったり興奮したりしやすい彼女だが、ここまで慌てているのはアルマも見たことがなかった。

「どうしたの? そんなに慌てて」

 アルマは少なくとも表面上は毅然とした態度を見せて訊いたが、女中の言葉を聞いて絶句した。

「ユウキ殿が…!」


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