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第四章 教育計画

第四章


 嫌な汗が背中を流れる。シャツの脇の部分に汗染みができていないかが少し不安だった。そんなことを気にする冷静さがあるなら、どうしてこんなにも緊張してしまうのか、不思議でたまらない。

 改めて顔を上げると、何人もの人間が祐樹をじっと見つめていた。そうそうたる顔ぶれだ。エドガー、アクセル、アルマ、その従兄のエドワードを始めとして、宮廷付きの学者ジャコムッツィや大臣といった政治に関わるものが大きな会議室に集まっている。

「さて、ユウキ殿、国政に関して意見があると伺っているが」

 会議の進行役を務めるエドワードが、容赦なく祐樹に発言を求めた。その隣ではアクセルが笑いをこらえるようにして祐樹から視線を逸らしており、さらに隣ではアルマが天使のような微笑みで祐樹を見ていた。

 人の言うことは簡単に信じるものではないなと祐樹は思った。

 アルマが祐樹を訪ねて質問をしていったのが昨夜の出来事だ。そして、今朝になって祐樹は突然この会議室に連れてこられ、国政に関しての意見を求められている。昨夜、アルマは確かに「一人の生徒」として質問したはずなのに、これはいったいどういうつもりなのだろう。

 アルマの天使のような微笑みの下には、実は悪魔の嗜虐的な笑顔が潜んでいるのではないかとさえ祐樹は思った。思ってから、それはそれで美しいのだろうと場違いなことを考えた。

「はい。教育に関することです」

「教育、だと?」

 エドガーが片方の眉をピクリと上げた。厳格そうな容貌をしているがために、たったそれだけの動きでも、祐樹は気圧されそうになった。

「はい、そうです」

 祐樹はエドガーの威圧を押し退けて何とか返答した。アルマに対してあれだけ偉そうに説教を垂れた手前、ここで逃げるわけにはいかなかった。

「言ってみるがいい」

「街に学校を造っていただきたいのです」

 祐樹が意見を言うなり、会議室はざわついた。大臣たちが話し合っているが、その表情を見る限り祐樹の意見に対して肯定的な者は一人もいないようだった。進行役のエドワードは、そもそもあまり興味を持っていないようだったし、アルマも微笑んだまま表情を変えない。そして、頼みの綱のアクセルは祐樹の提案をいまいち理解できていない様子だった。いきなり学校を造れと言われて、その意図を理解しろというのは無理なことかもしれない。

「学校? そんなものを造って何になる。軍備の増強や、その他諸々の支出がある中で、学校の建設に出す金などない」

 大臣の一人がそう言うと、他の大臣やエドガーも頷いて同意した。しかし、その程度の反論ならば祐樹も予想済みだ。

「この国を将来にわたって繁栄させるために、国民の教養を高めることが必要なんです。それに、費用は大してかかりません。学校と言っても屋根一つ、黒板一枚あればそれでいいのです。廃屋や倉庫を使ったって構いません」

 祐樹の言葉を聞いた大臣たちが、再びざわつき始める。祐樹の提案をほんのわずかだが前向きに検討しているのだ。

「おまえはこの国に関係のない異国の民だ。どうしてそんな者の意見を国政に反映できよう」

 勝ち誇ったように言ったのはジャコムッツィだった。祐樹はぐっと黙り込んだ。この二ヶ月に満たない時間で、祐樹は自分がこの世界の住人であるかのように感じることが多くなっていた。ジャコムッツィの言葉はそこに冷や水を浴びせかけるものだった。

 ジャコムッツィの言葉は同時に、大臣たちの議論も停止させた。彼らもまた異国の人間の言葉が信用に値するものではないと考えたのだ。

 祐樹は助けを求めるようにアルマとアクセルを順に見たが、二人の表情は変わらない。祐樹自身で対処しろということだ。

「オレは異国の人間です。でも、オレはこの国に来て、この国の人たちに助けられて、今こうして城の中で仕事までもらっています。オレはこの国からもらった恩に報いたいと思っています」

 ジャコムッツィはふんと鼻を鳴らしただけで、それ以上は何も言わなかった。祐樹の意見に対する議論を止めることができただけで、ジャコムッツィの目的は遂げられたのだろう。確かにこのままでは、検討すらしてもらえないまま祐樹の提案は葬られてしまう。

 会議場に沈黙の空気が流れる。

「それでは、本日の議題は以上でよろしいでしょうか」

 進行役のエドワードが出席者たちの顔を見回し、これ以上、意見の出ないことを確認した。

「それでは……」

「待ってください」

 会議を終わらせようとしたエドワードの言葉を遮り、祐樹ははっきりと言った。

「なんでしょう、ユウキ殿」

 エドワードは大して興味がなさそうに、祐樹に訊いた。

「皆さんは、この国の状況が、このままでいいと思っていますか?」

 祐樹が意を決して放った言葉は、会議室を再びざわつかせた。好奇と非難の視線が祐樹に向けられる。

「この国は、衰えつつあります。軍備や経済政策に金をつぎ込んだところで、その流れは変わらないでしょう」

「貴様、何を言うか!」

 大臣の一人が激昂して祐樹の言葉に噛みつく。祐樹の記憶が正しければ、その大臣は経済担当だ。国が衰えているということと、それに対する自身の政策を批判されていると思ったのだろう。

「事実を述べたまでです。オレは……」

「そこまでだ」

 会議室に低く威厳ある声が響きわたる。それは国王エドガーのものだった。

 エドガーは厳しい視線を祐樹に向けていた。その表情からはエドガーが祐樹に対してどんな感情を向けているのか分からなかったが、少なくとも好意的なものではない。

「経済政策に承認を与えているのは私だ。それを非難するということは、すなわち私を非難するということに他ならない。たかが教師風情に非難されるほど、私は衰えていない」

 エドガーの静かな怒りがその場を凍り付かせる。

 祐樹は大きく息を吸い、深く吐き出した。それと同時に失望感が胸の中に広がっていくのを感じた。批判に耳を塞いで新しい意見を聞こうとしない指導者に対する失望と、自分には何も変えることはできないのだという己への失望が混じりあっていた。

「国王、勝手を知らない者の意見です。そんなにお怒りになることもないと思いますが」

 凍り付いた場の雰囲気を変えたのはエドワードだった。エドワードはにこやかな笑顔で言葉を続ける。

「ユウキ殿の提案は面白いものだったではないですか。ただ、国王の考えておられるように、私も今はそれを試すべき時ではないと思います」

「む……」

 エドワードの言葉にエドガーは渋々といった様子で頷いた。

「ユウキ殿、これで提案は終わりだな?」

 エドワードの言葉に、祐樹は頷いた。気が抜けてあまり興味が持てず、とりあえず頷いたという形だ。

「それでは、これで閉会とします。みなさまお集りいただきありがとうございました」

 エドワードが立ち上がり、そう宣言する。立ち上がった拍子に、腰に差した拳銃らしきものが僅かに揺れていた。その色は鈍く、ずっしりと重そうで、まるで祐樹の心の内を表しているかのようだった。




 会議室から出た祐樹は、城の建物を出て敷地内をさまよい歩いていた。身体は疲れていなかったが、代わりに精神がすり減っていた。

 疲れ果てた心で空を見上げると、青空にうっすらと二つの月が見えた。

 元の世界に戻りたい、と祐樹は思った。

 そうすれば少なくとも、国王の前に立って意見を述べ頭から否定されるなどという経験は二度としなくて済む。この世界で教えるのとは違い、気楽に予備校の生徒たちに数学やら科学やらを教えていればいい。

 それからしばらく歩き、ふと気づくと祐樹は高い塔の下に立っていた。扉が目の前にあったが、施錠はされていないようで僅かに開いてる。

 祐樹は扉を開けた。さび付いた蝶番がきしみ、中に陽が差し込む。そこにはひたすら上に昇っていく螺旋階段があった。中に入るとくしゃみが出た。長らく人が立ち入っていないようで、ひどくほこりっぽい。

 誘われるようにして階段を昇り始める。

 それは長い階段だった。ひたすらぐるぐると昇っていると、気がおかしくなりそうになる。段を上がるたびにほこりが舞い上がり息苦しい。階段が螺旋を描いているため、塔の頂上を見ることすらかなわない。所々にある採光窓だけが心の救いだったが、それすらもくすんでしまって外の景色を見ることはできなかった。

 それでも祐樹は昇るのをやめなかった。理由はない。ただ、昇ってみたかったのだ。

 どのくらい昇り続けたのか――気づくと祐樹は塔を昇りきっていた。階段は塔の天井につながっており、天井には扉が付いていた。

 上に向かって扉を押し開けると、扉の軋む音とともに光が差し込んできた。ずっと薄暗い中にいた祐樹は手をかざして目を守りながら外に出た。

 螺旋階段の出口は塔の屋上の中央に位置していた。塔の屋上は祐樹が思っていたよりもずっと広く、階段の出口から端まで十歩くらいはあった。その端には柵といえるものはなく、膝までの高さくらいの段が申し訳程度に設けられているだけだった。

 祐樹が端の段に片足をかけて塔の下を見ると、目もくらむ高さだった。少しだけ先に目をやると、城下町のレンガの赤が見え、さらに先には遙か遠くまで広がる平原の緑、そして、抜けるような空の蒼があった。

「ユウキ」

 名を呼ばれて祐樹は驚いて振り返った。

 そこにはアルマが立っていた。ドレスの裾や袖は黒く汚れ、薄い色の美しい金髪にはほこりが付いており、少し疲れている。その様子から一人でここまで昇ってきたのだと知れた。

「アルマ様……どうしてこんなところに?」

「ユウキを探していたんです。使用人に聞いたら、ここに入っていくユウキを見たという者がいたので昇ってきたんです」

 アルマは何かを躊躇うかのように口を閉じ、視線をさまよわせた。そして意を決したように祐樹を見た。

「すみませんでした」

 アルマはそう言って目を伏せたが、祐樹は我が耳と目を疑った。王家の者がこうして誰かに謝罪するなど、ありえないことだった。

「どういうことでしょうか?」

 祐樹が訊くと、アルマはいつも通りの真っ直ぐな目で祐樹を見た。

「私はユウキとの約束を違えました」

 祐樹は頷いた。アルマが言っているのは、祐樹を会議室に突然呼びつけて教育推進の提案をさせたことだ。それはアルマの王女としての権限を使った行為であり、昨夜、アルマが「一人の生徒」として祐樹に質問すると言ったのと矛盾していた。

「過ぎたことは仕方ありません。でも、聞かせてください。どうしてあんなことを?」

「ユウキなら変えられるかもしれないと、思ったんです。この国の現状を。頭の固いお父様や大臣たちの考えを」

 しかし、現実には真っ向から否定され、挙げ句の果てにエドガーの怒りまで買ってしまった。

「それでは、失礼します」

 アルマはそう言って塔の中へと戻っていこうとした。

「待ってください」

 祐樹は後先考えずに、アルマの手を掴んだ。アルマが少し驚いたように目を開いて祐樹を見る。王女の手を許可もなく取るような無礼者には、これまで出会ったこともなかったのだろう。

「変えたいと本気で望んでいますか?」

 祐樹はアルマの手を握りしめたままそう訊いた。アルマもまた手を握られていることなど忘れたかのように、祐樹を食い入るように見つめていた。

「はい」

「どうして、自分で変えようとしないんですか」

 アルマはゆっくりと首を横に振った。

「お父様も、他の皆も、私の意見など聞きません。私はただの飾りですから」

 そんなことはない、祐樹はそう言おうとして口をつぐんだ。確かにエドガーやその他のアルマを囲む人たちは、彼女をまるで小さな子どものように可愛がるところがある。アルマはそのことを飾りと言っているのだろう。

「では、行動で変えましょう。言葉で分からないなら、行動で示せばいい」

「行動、ですか?」

 アルマが不思議そうに訊く。祐樹はそこでようやくアルマの手を握りしめたままだったことに気づき、慌てて手を離した。

「そうです。教育が重要であることをまずはエドガー様に分かってもらわないといけない。そのための行動です。具体的には、まだ何も考えていませんが、少なくとも言葉だけでは説得できないことは、今日のことでよく分かりました」

「教育の効果を示すということですね」

 それは決して容易なことでない。しかし、この国の現状を変えたければ必ず乗り越えなければならないことでもある。

 アルマはしばらく考え込んだ。

「まず、城の者に教育を受けてもらうのはどうでしょう」

 アルマの表情は真剣そのものだったが、その中に自分の答えが間違っていたらどうしようという不安が垣間見えた。

「なるほど。いいですね」

 祐樹がアルマに授業をしているとき、アルマの女中が部屋の片隅で素知らぬふりをしながら熱心に授業を聴講していることに祐樹は気づいていた。

 その女中を含めて城に仕える者もまた状況はロイたちと変わらず、他人よりも抜きんでるものを欲しているということだ。そんな人々に学問を教えることができれば、エドガーに教育の効果を示せるかもしれない。

「そうですか」

 アルマの表情がかすかに緩む。それは気をつけて見ないと分からないくらいの変化だったが、これまでアルマがあまり見せたことのない嬉しそうな表情だった。

「でも、皆の者に教えるとすれば、それはユウキの仕事です。私にできることがあるでしょうか」

「そうですね……」

 まさかアルマに授業を代行してもらうというわけにもいかないし、そもそも授業を行うだけで、本当に効果があげられるのか怪しかった。

「あります」

 効果を示すためには、適切な教育を適切な人たちに対して行い、適切に評価することが必要だ。祐樹がそのことを説明すると、アルマは心得たように頷いた。

「私は各部門の長と話をして、必要な教育と人を洗い出せばいいんですね。評価は、それぞれの長たちにしてもらう形でいいですか?」

 アルマの理解の早さは、彼女の聡明さの表れだ。そんなアルマをただの飾りとしてしか扱っていないのは、この国にとって大きな損失に違いなかった。

「はい、それでいいです。それから、評価はできれば数字で示せた方がいいです。仕事の速度がこのくらい向上したとか、失敗の数がこれだけ減ったとか」

「分かりました」

 アルマは一瞬だけ微笑みを見せた。祐樹はそれがいつもの仮面ではなく、自然で健やかなアルマの素の笑顔だった気がした。

「あとは、物ですね。黒板や白墨は必要だと思いますが、ありますか?」

 普段、アルマに教えるときは黒板は使わずに紙に書いて教えている。一対一の場合はそちらの方が効率がよかったが、一対多となるとそうはいかない。

「分かりませんが、たぶん大丈夫だと思います。エドワード兄様に相談してみます」

「エドワード様ですか?」

 意外な名前が出てきたなと祐樹は思った。エドワードは先ほどの会議で、祐樹の意見を面白いとは言ったものの、今は実行すべきではないとも言った。決して祐樹の意見に賛同してくれているわけではないのだ。

「はい。エドワード兄様は面倒見のいい方なので、この程度の相談であれば、何とかしていただけると思います」

「そうですか。それではそのあたりはアルマ様にお任せします」

 アルマがそこまで信頼する人物なのだから、確かなのだろう。

「こんなところですね。アルマ様にもたくさん働いてもらわないといけませんが……」

「私が言い出したことです。気にしないでください」

 祐樹は塔から見える景色に目を遣った。

 不思議な気分だった。たった数十分前には打ちのめされたような気持ちだったというのに、今はもう立ち直って次なる行動に移ろうとしている。

「きれいですね」

 アルマが祐樹の視線をたどるように塔からの景色を見ると、渡り鳥の群が二人の前を飛び過ぎていった。

 濃い茶色の鳥で、祐樹はその名前を知らなかった。そのことを察したのか、アルマは鳥の群を目で追いながら説明をした。

「アエスタという名の鳥です。冬の始まりに南へ飛び、春の終わりに戻ってくる。あの鳥が去っていったということは、もうそろそろ本格的な冬が来ます」

「詳しいですね。鳥が、好きなんですか?」

 アルマはこくりと頷いた。その様子はあどけない十六の少女のもので、鳥への憧れがにじみ出ていた。

「あんなふうに、空を自由に飛べたらいいと思います。なぜ人は飛べないのでしょう」

 それが理由を尋ねる問いではなく、ただ同意を求めているだけであることを祐樹は理解していた。だからこそ、少しだけ意地悪をしてみたくなった。

「人は飛べます」

 アルマの半信半疑の視線が愉快だった。

「からかうのはやめてください、ユウキ。いくらあなたが私の知らない深い知識を持っていたとしても、できることとできないことの区別くらいはできます」

「からかっているわけではありません」

 祐樹は慌てて弁解した。アルマの口調が怒っているように感じたからだ。

「人には羽がありません。だから飛ぶためには羽を造ればいい。それだけの話です。実際、オレのいた国では、人は人工の羽で空を飛ぶことができます」

 アルマの目はまだ半信半疑で、しかも若干の怒りの色が残っていた。祐樹は懐から紙を取り出して、ひらひらとアルマに振って見せた。そして、それを二度、三度と折っていく。

「紙飛行機です」

 祐樹がそれを渡すと、アルマは不思議そうに眺めた。

「この紙と、空を飛ぶことにどんな関係があるんですか?」

 祐樹はアルマから紙飛行機を返してもらうと、風向きを確かめて空に向かって投げた。

「すごい……」

 紙飛行機は、木の葉や紙片などとは違い、まるで自分の意志を持っているかのように前を向いて飛び続ける。アルマはその姿に完全に目を奪われていた。

「昔から、紙飛行機を折るのは得意だったんです。アルマ様も造ってみますか?」

 緩やかに空を舞う紙飛行機から目を離せぬまま、アルマは頷いた。

 その数分後にはアルマの紙飛行機はできあがっていた。初めて造っただけあって、祐樹が造ったものよりも所々が歪んでいたがまあまあの出来だった。うまく風を受ければ長く飛んでいられるだろう。

「鳥のように羽ばたく羽を造るのは難しいんです。だから、こうして動かない羽で空気を受けて空を舞う。それが紙飛行機です。さあ、投げてみてください」

 アルマの手を離れた紙飛行機は、ふらつきながらもうまく風をとらえ、高く舞い上がった。空には二つの紙飛行機が飛んでいる。

 アルマの顔にまた一瞬、微笑みが浮かんだ。

「紙飛行機を人が乗れる大きさにしたものが、ユウキの国で人々が空を飛ぶのに使うものなんですか?」

「そうですね。形や材料は違うんですが、考え方は同じです」

 アルマは「そうですか」と言って、もう一度、二つの紙飛行機を眩しそうに見た。憧れと寂しさが入り交じったような表情だった。

「飛ぶといえば、この塔には言い伝えがあるんです」

「言い伝え…ですか?」

 突然、何を言い出すのだろうと祐樹は思った。

「この塔は神の世界への扉と言われています」

 世界、扉――胸がざわついた。

「詳しく教えてください」

 あまりに真剣な様子の祐樹をアルマは怪訝そうに見たが、何も訊くことなく塔にまつわる言い伝えを簡単に説明した。




 それは一人の男の話だった。

 数十年前、占星術を専門とする男が城に仕えていた。占星術とは祐樹の世界で言う天文学と星占いの源流のようなもので、星々の運行を研究し、人や世界の運命を導きだそうとするものだ。

 その男は毎夜この塔で星空を観察し、記録し続けていたらしい。その成果かは分からないが予言は驚くほどよく当たり、当時の王からも重宝されていた。

 しかし、当たりすぎることが災いした。男はあるとき王の死を予言してしまい、王の怒りを買ったのだ。すぐに不敬罪による投獄が決定され、男は幽閉された。

 幽閉された男は、ある夜に脱獄して己の半生を過ごしたこの塔に逃げ込んだ。そして、追っ手に追われるまま塔の屋上まで昇り、そこから飛んだ。

「男は、どうなったんです?」

「消えたそうです。塔の下に男の亡骸はありませんでした。この高さから落ちて生きていられる人はいないでしょうから、どこか違う世界に消え去ったのだと、皆が噂しあったそうです。…どうかしましたか?」

 祐樹は自分がすっかり考え込んでいたことに気づいた。

「ああ、すみません。なんでもありません」

 間違いないと思った。アルマの話はロイの話と一致する。その男がロイの言っていた男であり、飛び降りた場所はこの塔なのだ。祐樹は今すぐにでも飛び降りたい気分に駆られて塔の下をのぞきこんでみたが、そんな気分は一瞬で消え去ってしまった。もし戻れなかったら地面に叩きつけられてぺしゃんこだ。祐樹としてもそれは避けたかった。

「戻りましょう、アルマ様」

 祐樹はアルマの顔を見た。ここから飛び降りるのはもう少し材料がそろってからでいい。今はまだこの世界でやるべきことがあるのだから。




 一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎた。その間、祐樹とアルマは目の回るような忙しさだった。

 授業を行う場所の確保に、生徒となる臣下や使用人の選出、そして授業――全てが初めての試みで、何一つすんなりと進むことはなかった。しかし、祐樹とアルマの粘り強い努力が次第に周囲を変えていった。

 まず初めにエドワードが陥落した。祐樹はその場には立ち会わなかったが、アルマがエドワードを説得したのだった。それによって城内の講義室とその他諸々の備品を揃えることができた。

 次に、城の諸部門の長たちの理解を得た。これも主にアルマの仕事だったが、必要に応じて祐樹も出ていって説明をした。中にはアルマや祐樹の言うことによく理解を示し、気前よく部下を差し出す者もいたが、多くの長たちは業務に支障を来すのではないかと心配したり、王の不興を買うのではないかと恐れたりして協力するのを渋った。そんな長たちを何とか懐柔できたのは、アルマの微笑みと言葉巧みな説得によるところが大きかった。アルマは祐樹がこれまで語ってきた教育の意味を自分なりにまとめ、各部門にどう役立つかを切々と語ってみせたのだ。そして最後にはあの微笑みを見せることで、頷かずにいられる者などただの一人もいなかったというわけだ。

 そこから先は祐樹の腕の見せ所だ。生徒のレベルや担当業務の種類に合わせていくつかの組に分け、それぞれに適したカリキュラムを組んだ。個々の生徒の意見もなるべく聞くようにし、授業内容の質問に始まり、要望や不満まで受け付けて授業の改善に役立てた。そこまできめ細かい指導を行ったことがなかったから、自分の説明の分かりにくい部分や、生徒の陥りやすい勘違いなど祐樹にとっても発見の日々だった。

 また、これまでのように数学ばかりを教えている訳にもいかなかったから、化学や物理なども教えた。政治や経済などの分野は祐樹にも教えることができなかったから、予定外ではあったがジャコムッツィを初めとする城の学者たちに協力を仰いだ。彼らも初めは教えることを渋ったものの、例によってアルマの説得を断りきれずに協力してくれることになった。

 さらに祐樹とアルマにとって幸いだったのは、生徒たちが想像以上に熱心だったということだ。彼らもロイやエルザたちと同じように、この国に漂う閉塞感から何とか逃れようと必死でもがいているのだった。

 こういった多大な努力とささやかな幸運によって、成果は着実に出ていた。経理部では書類の処理速度が二倍近くになったうえ、不備は半分以下に減った。軍の砲撃部門では砲弾の命中精度が数倍以上に向上した。火薬を取り扱う技術部門ではマグネシウムやナトリウムといった金属の精錬が可能になり、祐樹が以前に提案し完成していた白色の閃光弾に加えて様々な色のものが作れるようになった。また、外務大臣とエドガー王の外交を補助する部門では、小手先の交渉術を策定するのをやめ、情報収集を重視するようになり、従来より効果的な外交が可能となった。この他にも祐樹たちによる教育の効果はいくつもあった。

「いかがですか、お父様」

 アルマとエドガー、アクセル、エドワードの四人は、講義室の陰から祐樹の授業を眺めていた。エドガーは厳しい視線を送っていたが、やがて諦めたように頷いた。

「認めよう。私が間違っていたらしい。率直に言えば、教育というものにこれほどの効果があるとは思っていなかった」

 アクセルとエドワードが珍しいものを見るかのように、驚きの表情を浮かべてエドガーを見た。エドガーが己の誤りを認めることなどそうあることではないのだ。

「認めていただいてありがとうございます、お父様」

 アルマはいつもの仮面の微笑みを浮かべてエドガーに礼を言った。エドガーを認めさせることができたのは、各部門の長に詳細な成果を数字や表としてまとめてもらっていたからだ。

 祐樹がここまで見越していたのだと思うと、アルマは素直に感心した。頭の固いエドガーを動かすためには、十分すぎるほどに証拠を集めなくてはならない。祐樹はそのことを理解した上で今回の取り組みを行ったのだ。

「一度、あの者と話をする必要があるな」

 王として自分の過ちを認めた以上は、それを正すための行動をとらなくてはならない。今回の場合、それは教育のための施策を打つことだ。

「ユウキには伝えておきます。今日か明日にでも一度、会議をしましょう」

 アルマが言うと、エドガーはアルマをまじまじと見つめた。アルマは何か変なことを言っただろうかと考えたが、特に思い当たることはなかった。

「どうかしましたか、お父様」

「いやなに、アルマが自分で何かすると言い出すのが珍しくてな。だが、考えてみれば、この企みそのものがあの者とアルマの仕業なのだな。私は不思議でならないのだ。どうしてアルマがこんなにも懸命に働いたのかということが」

 嬉しさと寂しさの入り交じったような複雑な表情をエドガーは浮かべていた。

 確かに、以前のアルマをよく知る者であればエドガーと同じ感想を抱いただろう。アルマはよく言えば奥ゆかしく物静かな性格の持ち主だったが、悪く言えば受動的で己の意見を持とうとしないところがあった。今回の活動は、そんなアルマの印象を大きく崩すものだった。

「それも教育の一つの成果です」

 エドガーはアルマの答えにむうと唸ってから声を抑えて笑い始めた。

「教育は人の性質まで変えるということか。面白い」

 その隣のアクセルも事の成り行きを面白そうに見ていた。

「アクセル、こうなることを予想していたのか?」

 もともと祐樹をアルマの教師に据えたのはアクセルだ。エドガーとしては、アクセルの術中にはめられたような気分になったのかもしれない。

「まさか。ただ、何かが変わるかもしれないと思ってはいました」

「アクセル、たったそれだけのことで、得体の知れない者をアルマの教師にしたのか。少し軽率じゃないか」

 エドワードが呆れたようにアクセルを非難した。

「もちろん、アルマに付ける前に試してみたさ。だが、何事もすべてを見通せるわけではない。国を変えるためには、ときには思い切った行動も必要だ」

 アクセルの言い方はこの国を変えなくてはならないという口振りだった。しかし、エドワードも、エドガーでさえもそのことに関して何も咎めなかった。彼らもこの国の閉塞感に気づいてはいた。ただ、それに対して自分たちが有効な手を打てないことを認めることができなかっただけなのだ。

「そもそもエドワード、おまえも協力したらしいじゃないか」

「ありがとうございました、エドワード様。揃えていただいた品のおかげで、授業を行うことができました」

 アクセルの言葉に絶妙なタイミングでアルマが礼を重ねた。エドワードは苦笑して両手を挙げ、降参を示す。そのときに腰にかけた銃が前後に揺れた。

「私も同罪ということか。まあいい、可愛い従妹の頼みは断れないさ」

 アルマはエドワードに微笑みを返した。

 これで王家の同意は得られた。もう大臣たちや学者たちも祐樹の意見を頭から否定することはなくなるだろう。

 アルマは遠目に祐樹を眺めた。祐樹は熱心に授業をしており、生徒たちもまた真剣に取り組んでいる。それは祐樹とアルマの成した仕事の成果だった。しかし、その成果はまだ城の中というごく狭い空間に収まっている。

 ここから先、祐樹が相手にするのはランス王国全体だ。規模は遙かに大きく、人々の教養は比べようもなく低い。より困難な仕事になることは明らかだった。うまくいくかどうかはひとえに祐樹の肩に掛かっている――アルマはそう思って、すぐに考え直した。

 うまくいくかどうかは、自分と祐樹の努力次第だ、と。もはやアルマはお飾りの傍観者ではなかった。


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