第三章 王女アルマ
第三章
その日の夜、エルザの働く酒場は、営業時間の終了後にちょっとした塾という様相を呈していた。
ロイとエルザの他に、ロイの友人三名が、祐樹が黒板に書いた内容を見ては紙に書き写していく。黒板は店の品書き用の小さなものだったし、彼らの使う紙も粗悪なものだったが、その光景は教室に他ならなかった。
皆、祐樹の教えを求めてこの場に集ったのだ。知らない間にロイが仲間を集めていたらしく、祐樹が祭りの帰りにここへ連れてこられたときには、すでにロイの友人たちが待ちかまえていた。
もちろん、ただで教えているわけではなく、ロイがしっかりと代金を取っている。勝手に他人を使って金を得るなど図々しいといえばそれまでだが、祐樹はむしろその商人らしさに感動してしまった。このくらいでなければ、この世界で食っていくことはできないのだろう。
「ユウキ、そこが分からないんだけど」
ロイの友人の女の子が祐樹に訊く。彼女はエルザと同じようにこことは別の酒場で働いている女の子だったが、満足に引き算もできない程度だった。実際、質問があった箇所も、ごく基礎的な問題だった。他の二人は大工の弟子と縫い子だったが、やはり似たようなものだった。
この国の教育水準は低い。ロイとエルザがまだ恵まれている方だということを目の当たりにして、祐樹は衝撃を受けた。出会った当初、ロイができたのは、祐樹の世界でいう小学生の高学年程度の算数なのだ。ロイはこの一ヶ月でかなり成長していたが、それでも中学校卒業程度といったところだろう。
「二桁以上の引き算をするときは、こうして筆算にするといい」
「筆算?」
「そう、筆算。こうして数字を縦に並べて、まず一の位同士で引き算をするんだ」
祐樹が予備校で担当していたのは中学・高校クラスだったから、ここまで基礎的な内容を教えるのは初めての経験だった。しかし、初めてにもかかわらず、祐樹は自分でも意外なことに楽しんですらいた。
ロイに教えているときも感じることだったが、彼らはよく聞き、よく質問し、必死で我がものにしようと努力する。一言で言えば、それは熱意だった。
皮肉な話だと祐樹は思った。祐樹の世界では学びたいと願ってもいない者が高度な公式を教授され、この世界では学びたいと切望する者が引き算すら満足にできない。
「じゃあ、ちょっと休憩にしようか」
祐樹はチョークを置いた。時計はなかったが、祐樹の経験上、教え始めて二時間近くが経っているはずだった。
「ユウキのいた国では、教師はみんなユウキみたいに若いの?」
祐樹が椅子に腰掛けると、エルザが話しかけてきた。
「いや、そんなこともないよ。若いのもいるし、年寄りもいる。たくさんいるんだ」
「たくさん? たくさんいて、そんなに教える相手がいるの?」
不思議そうな表情をするエルザに、祐樹は頷いた。
「ああ、オレのいた世界では誰でも――」
激しくドアを開ける音が響きわたる。ドアが壊れてしまうのではないかと思わせるほどの音に、皆が振り返った。
それと同時に大勢の人間がなだれ込んでくる。彼らはあっと言う間に店の中に入ってしまうと、祐樹たちを取り囲んだ。そのうえ、彼らは祐樹たちに向けて槍を突きつけ、一人がこう叫んだ。
「動くな!」
祐樹は思わず両手を挙げたが、他の誰もそうしていないのを見てゆっくりと下ろした。
いったい何が起きたのか、祐樹はもちろん、ロイたちも理解できていないようだった。ロイの二人の女友達は突然の事態に怯えるばかりだったし、ロイと大工の友人も焦ったように周囲を見回している。エルザは急な出来事に、祐樹の腕に飛びついて離れようとしなかった。
祐樹が改めて確認すると、男たちは赤い上着に白いズボンを履いている。その姿はまさしく兵士だ。
「どういうことだ……」
祐樹が呟くと、一人の兵士が槍を祐樹の眼前に突きつけた。
「黙れ」
高圧的な態度に祐樹はむっとした。しかし、反抗すればこの兵士は容赦なく自分を突き殺すだろうと思うと恐ろしくなり、祐樹は黙った。
「殺すなよ」
兵士たちの後ろから、長身の男が歩み出た。他の兵士たちよりも造りが丁寧な服を着ていることから、隊長格だと伺い知れる。
祐樹はその男に見覚えがあった。薄い色の金髪に、空色の瞳が特徴的な整った顔立ち――祐樹はそれらを知っている。
「アクセル様……」
エルザの呟きを聞いて、祐樹はようやくその男のことを思いだした。
ランス王国の王子アクセルだ。
「訳が分からない、という顔をしているな」
アクセルは口元こそ笑っていたが、冷たい目でその場の全員を睨み、最後に祐樹へ視線を定めた。
「それは、そうでしょう。こんなふうにされる覚えはない」
ロイが抗議したが、祐樹のときと同じく槍を突きつけられて黙らされた。
「一ヶ月前、貧民窟で強盗が捕まった。それ自体は珍しいことじゃない。だが、そいつらの言うことが、妙に気になるんだ」
祐樹はまさかと思いながら、アクセルの話の続きを聞いた。
「妙な服装をした、燃える石を持つ異国人風の男がいた、とな。最近やったことを審問官が洗いざらい吐かせたら、そんなことを言ったそうだ。言い訳にしては妙だろう。嘘をつけば生命を失う。そいつらはそんな状況で、そろって怪しげなことを言ったんだ」
二人の強盗に追われ、ロイに助けられて辛くも逃げきった一ヶ月前の出来事――それがこんな形で戻ってくるとは祐樹は夢にも思っていなかった。
「今日、祭りの中でその強盗たちの言う異国人風の男によく似た者を見かけた。それが貴様だ」
アクセルはまるで判決でも言い渡すかのように、祐樹に対してそう言った。
祐樹は祭りのときにアクセルがこちらを見ているように感じたことを思い出した。あれはただの気のせいではなかったということだ。
「そんな強盗の言うことを信用するのかよ! そんなの二人で口裏合わせてるだけだろ」
ロイが突きつけられた槍をものともせずに、アクセルに噛みつくように言った。
「ロイ!」
兵士がロイを槍で突こうとするのを見て、祐樹は叫び、エルザは声にならない悲鳴を上げる。
「やめるんだ」
アクセルが兵士を制止する。兵士はアクセルを見て不服そうな表情を浮かべたが、すぐにロイに槍を向けて不動の姿勢をとった。
アクセルはロイを見てにやりと笑った。
「俺は一言も言っていないぞ。捕まった強盗が二人だとはな」
やられた、と祐樹は思った。ロイもすぐに自分の失敗に気づいて顔面蒼白になった。
「さて、聞かせてもらおうか。貴様は何者だ」
「オレは……」
アクセルがなかなかの切れ者であることに祐樹は気づいていた。下手な嘘をつけば看破されるだろう。しかし、本当のことを言ったとしても信じてもらえる保証はない。
「ユウキは、異国の教師だ!」
再びロイが叫ぶ。祐樹は、ロイが自分を助けようと必死に行動してくれていることに感謝した。
「教師だと? こんな、若い奴が?」
アクセルは鼻で笑って信じようとしなかったが、ふとした拍子に黒板に目をやり、苦笑した。
「こんな初歩の算術をするのが教師の仕事か?」
「それは、この子たちに教えていたものです。もしあなたが望むなら、高等な数学を教えることもできるし、この国をもっと豊かにする知識を教えることもできます」
そんなことが本当にできるかどうか分からなかったが、祐樹は虚勢を張ってそう言った。自分を守ろうとしてくれたロイに応えるためだ。
「ずいぶんと大きなことを言うな」
アクセルは腰に下げた剣に手をかけた。祐樹はそれを見て息を呑んだが、ついにそれが抜かれることはなかった。
「おもしろい。ついてこい」
「アクセル様!」
兵士の一人が驚いて声を上げるが、アクセルが片手を挙げてそれを制止した。
「いい。おい、ユウキとやら」
兵士に槍を向けられたまま祐樹が立ち上がるところに、アクセルが近づいて声をかける。その声はとても小さく、祐樹にしか聞こえなかっただろう。
「おまえの仲間は捕まえない」
祐樹はアクセルの言葉の意味するところを理解し、小さく頷いた。
「オレは逃げる気もないし、嘘をつくつもりも、ありません」
「物わかりがいいな」
アクセルが驚いたように祐樹を見た。
アクセルの言葉は慈悲などではなく、ロイたちは人質だということを意味していたのだ。祐樹が何かすれば、アクセルはすぐにでもロイたちを捕まえるだろう。
「お褒めの言葉ありがとうございます」
祐樹は怒りを込めてそう言った。しかし、アクセルは怒るかと思いきや楽しそうに笑った。
「皮肉だな。教師というのも、あながち嘘ではなさそうだ」
この王子の教師像は歪んでいる――祐樹はそう思ったが、すぐにそんなことなどどうでもよくなって、これから自分がどうなるのかを考えた。
ビルから飛び降りて、異世界へ落ち、そしてその地の王族に捕らえられ、牢獄で果てる――平凡だったはずの人生にしては、上出来かもしれない。
祐樹は大きくため息をついた。
空はまだ暗く、ひどく寒い。
アクセルに捕らえられて城内の個室に閉じこめられた挙げ句、数時間後に祐樹が連れてこられたのは城の広大な庭だった。
「眠そうだな」
祐樹の前に立つアクセルが笑った。祐樹が閉じこめられた部屋にはベッドがあったが、緊張と不安で一睡もできなかったのは言うまでもない。
「おかげさまで。そんなに無防備でいいんですか」
アクセルは護衛の兵士を一人も付けていなかった。
「かまわんさ。おまえの細腕で俺に勝てるとは思えないし、何より、おまえはそういうことをする人間には見えない」
要約すれば身も心も弱そうだと言われただけだったが、祐樹は不思議と腹が立たなかった。アクセルの言い方に嫌みがなかったからだろう。
「それで、ここで、何を?」
祐樹は周囲を見回した。庭は街との境に立つ城壁まで緩やかに下っていく。城はやや高台に建てられていたから、街をよく望むことができた。相変わらず灯火はほとんど見えなかったが、三つの月がもたらす明かりでかえって幻想的に見えた。
「まあ、待て――ああ、来たな」
祐樹たちが来たのとは別の方角から、長い髭の老人が兵士に付き添われて歩いてくる。
「ランス王国の宮廷付きの学者だ」
その到着を待って、アクセルは祐樹に老人を紹介した。
「ジャコムッツィだ」
老人はそう言った。ここまでゆっくり歩いてきただけだというのにその細身の身体は息切れで上下していた。
「ジャ……」
「ジャコでいい」
祐樹が言い淀んでいると、アクセルがどうでもよさそうにそう言った。
「こんな時間に何用ですかな、アクセル様」
夜明け前に起こされた上に、勝手に名前を省略されてジャコムッツィは怒っているようだった。大きな目が来たときよりも険しくなっていた。
「おまえたちに相談があるんだ。ユウキ、狼煙というのは分かるな?」
「ええ。情報の伝達のために上げる煙のことですよね」
「そうだ。ランスの軍では、緊急伝達用に狼煙を使っている。狼煙は早馬を出すより早いからな。しかし困ったのは、夜に見えないことと、雨の日には煙すら立てにくいということだ。何かいい方法はないか」
アクセルの問いかけにジャコムッツィがおおげさに頷く。
「狼煙に白い煙を出す燃料を使えばよろしいでしょう。さすれば、夜であっても、ある程度遠方まで見えます」
ジャコムッツィの答えにアクセルは不満そうに眉根を寄せた。
「雨のときはどうする」
「屋根を設けるか、雨露の落ちてこない場所を選んで燃やすほかないでしょうな」
アクセルは首を振った。
「いまいちだな。すでに軍では白い狼煙を使っているし、雨の問題には答えられていない。もっといい方法はないか」
そう言われて、ジャコムッツィは困ったように頭をかいた。
「まったく、アクセル様はいつも無理難題ばかりですな」
「そういうジャコはいつも常識的な答えばかりじゃないか。たまには軍師らしく閃きの一つでも見せてみろ」
アクセルはそう言うと、祐樹を振り返った。
「どうだ、ユウキ。異国の者として、何かいい知識はないか?」
あるにはある、と祐樹は思った。ポケットの中にはファイア・スターターがあり、それを使えばアクセルの悩みを解決できるかもしれなかった。しかし、それには一つ問題があった。
「どうした、ユウキ。黙っていては分からない。あるのか、ないのか」
祐樹は迷った挙げ句に頷いた。
「あります。でも……」
「でも、なんだ?」
自信のなさそうな祐樹に対して、アクセルが不可解そうに訊いた。
「オレだけでは……オレ一人の力ではできません」
それを聞いたアクセルは、呆気にとられたような表情を見せるとすぐに声を立てて笑いだした。
「なんだ、そんなことか。人の力があればいいと、そういうことか?」
祐樹はアクセルを不思議そうに見つめながら頷いた。
「ええ。火薬を扱える人間が必要です」
「火薬職人か。城内にも何人かいるな。いいだろう、行ってみよう」
アクセルはそう言って、さっさと歩き始めた。祐樹はその行動の早さに驚きながらも、その後を着いていった。
五分ほど歩いていくと、敷地の外れに小さな石造りの建物がいくつか並んでいた。アクセルは迷う様子もなく、そのうちの一つに入っていく。
中には火薬の匂いが充満し、一人の壮年の男が黙々と何かの作業をしていた。細かい作業のようだったが、それにしてはずいぶん薄暗かった。
「何の用ですか、王子。ここは危険ですから、なるべく立ち入らないよう、お願いしていたと思いますが」
男が作業を止めてアクセルを見た。睨んだといっても過言ではないほど、その視線は強かった。
「すまないな、エルンスト。頼みがあって来た」
そう言ってアクセルがここまでの経緯を説明した。
説明が終わるまでエルンストはじっと話を聞いていたが、聞き終わると同時に祐樹を睨みつけた。
「こんな怪しげな奴の言うことを、信じているのですか。ジャコムッツィ殿も?」
火薬を恐れて建物の入り口付近に立っていたジャコムッツィは、まさかというように首を横に振った。
「私はそんな者の言うことは信じていない。アクセル様の気が済むまでお付き合いするだけのことだ」
エルンストはジャコムッツィの答えに頷いた。
「ユウキ、といったな。どうなんだ?」
祐樹はポケットから黒い塊を取り出し、アクセルとエルンストに見えるようにかざした。
「これを使います」
「何だそれは」
エルンストは祐樹からその黒光りする塊を受け取り、不審そうに観察した。
「ファイア・スターターです。火を熾してもいい場所はありますか?」
エルンストは無言で部屋の端を指差した。祐樹はその辺りへ行くと、ファイア・スターターをナイフで強く削った。
強く白い光が部屋中を照らし出し、前もって目をつむっていた祐樹を除いた全員が目を覆った。しかしその光は一瞬のもので、部屋はすぐにまた薄暗くなった。
「それが、強盗の言っていた燃える石か」
ジャコムッツィとエルンストがただ唖然として言葉を失う中、アクセルだけが好奇心を剥き出しにしていた。
「そうです。主成分はマグネシウムという物質で、強い光を発して燃える性質があります。さっきみたいに」
「それを狼煙の代わりに使うというわけか。しかし光るだけでは狼煙にはならない。遠くまで見える必要がある。どうするんだ?」
アクセルが面白そうに訊いた。
「このファイア・スターターを粉末にして丸め、火薬で打ち上げるんです。大砲と同じ原理ですが、これの場合は小さな筒と火薬があれば十分なはずです」
それを聞いていたエルンストがむうと唸った。先ほどの強力な光を見せられ、さらにそれを狼煙の代わりとして使う具体的な手段まで説明されたことで、祐樹の言葉を認めざるを得なくなったのだ。
「できるか、エルンスト」
アクセルに問われ、エルンストは頷いた。
「恐らく。実用のためいくらか試験は必要でしょうが、やってみる価値は十分にあります」
エルンストの答えを聞いて、アクセルは満足げに頷いた。
「よし、ではこの件はおまえとユウキに任せた。いいな、ユウキ」
祐樹は戸惑った。
この国にとって異物であるはずの祐樹に、こんなにもたやすく仕事を任せようとするアクセルの真意が理解できなかった。
「何を驚いた表情をしている。おまえの提案は理に適っていたのだから、それを採用するのは当然だ。そして、それをなしうるのはおまえとエルンスト以外にあるまい。違うか?」
祐樹はアクセルの物言いに押されて思わず頷いた。ランス王国において祐樹が怪しい人物であるということを除けば、アクセルの判断は至極まっとうだ。
アクセルは祐樹が頷くのを見ると、その場を颯爽と立ち去った。ジャコムッツィも慌ててその後ろを着いていく。
祐樹は呆然とアクセルの背中を見送った。
「ユウキと言ったな。驚いたか」
エルンストが苦笑いを浮かべて祐樹を見ていた。
「はい、正直。オレは不審者としてここに連れてこられたというのに、いきなり仕事を任せられるなんて」
しかも、アクセルは祐樹に兵士の監視をつけることもなく平然と去っていった。
「決断し、人に任せるのが王家の仕事だ」
エルンストの言葉を聞いて、なるほどと祐樹は思った。日々決断をし続けているアクセルにとって、この程度の決断はとるに足らない出来事というわけだ。
エルンストが言葉を続ける。
「しかし、知り合って間もない者を王子が信用するというのは、さすがに信じがたい。おまえ、どんな手品を使った」
「さあ、そう言われても……」
祐樹が自信なげに答えると、エルンストはふっと笑った。
「まあ、いいさ。さあ、教えてくれ。どうすればいい」
アクセルに仕事を依頼されてから数日後、祐樹はアクセルの部屋を探して城内の石造りの廊下を歩いていた。
時折、使用人や女官たちとすれ違ったが、彼らは祐樹を一瞥してすぐに目を逸らしてしまった。祐樹の黒い髪や目、そしてワイシャツにズボンという服装が彼らにとって異質だったからだろう。
そんな視線は街でも同じように浴びていたから、祐樹は大して気にも留めなかったが、困ったのは道を尋ねることもできないということだった。街では珍しいものを見るように祐樹をじろじろと眺める輩がいたから、そういう人間に道を訊けばよかったが、城の中にはさすがにそんな無礼な者はいなかった。もっとも、話しかけようとするとスタスタと歩き去ってしまうのを無礼と言わないのかどうかは祐樹には判断しかねたが。
「広すぎだろ……」
アクセルの部屋へ来て欲しいと兵士から伝言を受けたのが一時間前――祐樹はそれからずっと城内をさまよい続けていた。こんなことなら兵士に場所を聞いておけばよかったと祐樹は思ったが、後悔は先に立たない。
「ロイたちは元気かな」
祐樹は心細くなり、優しく逞しい友人たちのことを思い出した。アクセルは信用のおける人物だから、約束を違えてロイやエルザに危害を加えると言うことはまずないが、それでも心配だった。
祐樹はそんなふうに他人の心配をしている自分に気づいて驚いた。元の世界にいたときは他人の心配をすることもなく、自分のことしか考えていなかったが、今は少しだけ違っていた。
「何かご用ですか?」
考えにふけっていた祐樹は突然声をかけられて、慌てて前を見た。
「あ……」
祐樹から数歩のところに立っていたのは、薄い色の金髪と空色の瞳が特徴的な少女――アルマ王女だった。建国記念の祭りで遠くから見たときよりも遙かに近い。そのせいかアルマの美しさは際立ち、祐樹の鼓動は高鳴った。
「ここは私の庭園です。庭師と王家の者以外の立ち入りは禁じられています。衛兵に止められませんでしたか?」
アルマは怒るのでもなく怯えるのでもなく、ただ静かに笑顔でそう言って、祐樹を見た。
祐樹は周囲を見回した、どうやら祐樹がいるのは中庭らしく、低木や花が植えられ、丁寧に整えられている。冬だから咲く花も限られていたが、春になればきれいになるのだろう。
「ああ、ええと…すみません。ぼーっとしてたらいつの間にか入っていました。すぐに出ていきます」
「ええ、そうしてください」
笑顔。しかし、その瞳には一欠けの感情もない。祐樹は、建国記念の日に見たアルマの笑顔を思い出した。あのときアルマの笑顔を見て剥がれ落ちそうな仮面だと思った。その仮面が、目の前にある。
「何をしている」
背後から声をかけられ、祐樹はしまったと思った。王女のいる場所に無断で入ったとなれば咎は免れない。
「すみません、オレは――アクセル様?」
祐樹に声をかけてきたのはアクセルだった。
「こんなところにいたのか。呼んだのに全然来ないから迎えに来たんだ」
祐樹はほっとして、今までずっと迷っていたこと、その結果この庭園に迷い込んでしまったことを説明した。
「そうか。まあ、この城も慣れない者にとっては広いのだろうな」
アクセルは苦笑した。城の中で迷子になるなど、ずっとこの城で暮らしてきたアクセルにとって理解しようと思ってもできないことなのだろう。
「ええ、すみませんでした。ひとまずここから出ましょうか」
祐樹がそう提案すると、アクセルは手でそれを制した。
「いや、ここでいい。もともとユウキとアルマに話があったんだ。ちょうどいい」
祐樹は静かに佇むアルマをちらりと横目で見たが、アルマは相変わらず微笑を浮かべていて何を考えているか分からなかった。
「どういうことですか、アクセル様」
「まあ、待て。まず例の件の進み具合を教えてもらおうか」
例の件とは、アクセルが祐樹に依頼した狼煙の代替品――閃光弾のことだ。
「今はいろいろ配合を変えたりしている試作段階なので、あと一ヶ月もすればそれなりのものができると思います」
「ユウキは何かやることがあるのか?」
アクセルに問われて、祐樹は少し考えこんだ。
「あまり多くはないですね。エルンストに教えられることは教えてしまったので」
エルンストは頑固な職人気質の男だったが、飲み込みは早かった。だから、祐樹に残された仕事は要所で助言をすることくらいだ。
「そうか。それはよかった。では、新しい仕事を頼む」
話の内容こそ事務的だったが、アクセルの口調はどこか楽しんでいるようなものだった。祐樹はなんだか嫌な予感がした。
「新しい仕事、ですか?」
「そうだ。ユウキにはアルマの教師をやってもらう」
「……は?」
祐樹にはアクセルの言葉をすぐに理解することができなかった。しかし、理解できていたとしても冗談だとしか思わなかっただろう。
「聞こえなかったか。アルマに学問を教えて欲しいと言ったんだ」
口調こそ楽しげだったが、アクセルの目は本気そのものだった。
祐樹は困惑した。他の仕事ならまだしも、よりにもよって大切な王女の教育を見知らぬ異国人に任せるなどどうかしている。
「この国を豊かにできると、そう言ったな?」
祐樹は頷いた。アクセルに捕まった夜、祐樹は確かにそう言った。しかし、それはあの場を切り抜けるために大げさに言ったことで、本当にできるかどうか怪しい。
「まず手始めにアルマに教えてくれ。アルマは――」
「アルマは勉強が好きではない。私からも頼もう、異国の教師よ」
低く落ち着いた声――祐樹が見ると、一人の初老の男が庭園の入り口に立っていた。
「父上、いらしていたのですか」
アクセルの言葉を聞いて、祐樹はその男がランス王国の王エドガーであると思い出した。
「ああ。何やらおまえが楽しそうなことを企んでいると聞いてな」
エドガーは一国の王らしく威厳たっぷりに歩いてきて、祐樹を品定めするように見た。
「アクセルから話は聞いていたが、おまえが異国の地から来たという男か。ずいぶん、若いな――いや、歳など関係ないか。名は何という?」
「祐樹です」
エドガーはそうかと頷いて、祐樹の肩に手を置いた。
「アルマは教師の教えることなどほとんど聞かず、この庭園に来ては花を愛で、鳥を見て過ごしているのだ。国を継がぬ王女の身であるからそれでも構わぬが、できることなら基本的な学問くらいは修めさせておきたい」
王女として恥ずかしくない程度の教養があればいいというのがエドガーの考えだった。
「できるか?」
エドガーの問いに、祐樹はすぐに返答できなかった。それは、やる気のない生徒に勉強を教える難しさを祐樹が知っているからだった。
祐樹が閃光弾を発案して貢献した今となっては、もうアクセルにロイやエルザたちをどうこうしようというつもりはないだろうから、断ることは難しくない。しかし、祐樹はアルマが見せた先ほどの笑顔が気になって、断ることができなかった。
「やってみないことには、分かりません。最善の努力はします」
エドガーは祐樹の答えを聞いて目を丸くしたかと思うと、すぐに笑いだした。その笑い方は息子であるアクセルによく似ていた。
「いいだろう。まずは任せてみよう。アルマは、それでいいな?」
それまで静かに事の成り行きを見ていたアルマは、エドガーの問いに小さく頷いて微笑んだ。
「はい、お父様」
アルマの答えを聞いて、エドガーは困ったように肩をすくめた。
「返事はいいんだがな。まあ、やれるだけやってみてくれ」
期待はしていない――エドガーはそんな口振りで言葉を残して庭園を去っていった。
「それでは、頼んだぞ、ユウキ」
アクセルもそう言って庭園を出ていったが、エドガーとは対照的に熱の感じられる口調だった。駄目でもともと――どうせそんな気持ちでこの仕事を任せたのだろうと思っていた祐樹にとって、それは少し意外なことだった。
祐樹は静かに微笑むアルマを見て、これは厄介なことになったかもしれないと思った。
翌日の昼、祐樹の嫌な予感はものの見事に的中した。
祐樹はアクセルに指定された時間にアルマの部屋を訪れて算術を教えようとしていたが、アルマは窓の外を見るばかりで一向に祐樹の話を聞こうとしなかったのだ。
「アルマ様、どうして聞いていただけないのですか」
祐樹が困り果てて訊くと、アルマは笑顔でこう答えた。
「聞くに値しないからです」
強烈な拒絶の言葉――優しく美しい笑顔がそれをさらに引き立てていた。そのあまりに無慈悲な態度に祐樹は心が折れそうになったが、一教師としてそう簡単に諦めるわけにはいかないと思った。
「そうはいきません。もし分からないのであれば、分かるように丁寧にお教えします。どうか、授業を受けていただけませんか」
アルマはゆっくりと首を横に振り、笑顔のまま祐樹を見た。その瞳は空色にもかかわらず、まるで底がない海のように静かだった。
「異国の教師さま、あなたはこの城の他の学者や教師たちと何も変わりません。だから私の態度もまた、その方々に対するものと変わることはありません」
祐樹はアルマの手厳しい意見に言い返すことができなかった。祐樹は無意識のうちに自分が教師としてこの世界の人々より優秀だと思っていたが、それは大きな間違いだとアルマに指摘されたようで、恥ずかしい気持ちになった。
「聞かせてください。学ぶことの、何がそんなに嫌いなんですか」
祐樹は何とか状況を改善しようと思ってそう訊くと、アルマは目を瞑って考えた。
「私にもよく分かりません。ただ、何の意味もないように思えるだけです」
漠然としたアルマの答えに、祐樹は頭を抱え込みたい気分になった。そして、それに追い打ちをかけるようにアルマが立ち上がってこう言った。
「お帰りください」
祐樹はため息をついてその言葉に従った。十六の少女とはいえ王族である以上、逆らうことはできなかった。
「明日、また来ます」
祐樹はせめてもの抵抗として、そう言い残して返事を待たずに部屋を出た。
それから祐樹は離れた棟にある自室に戻りながら、ひたすらアルマに言われた二つのことを思い出していた。
一つは、祐樹が他の教師と変わらないということ。もう一つは、アルマが学ぶことを無意味だと考えているということだ。
祐樹のどのような点が他の教師と同じでアルマの気に食わないのか、何故アルマは学ぶことに意味を見いだせないのか――どちらも考えれば考えるほど、アルマの真意が分からなくなった。
そもそも祐樹自身が熱意を持って勉強したことなどなかった。それはアルマほどではないにしろ、学ぶことを無意味だと思っていたからだ。
それでは、そんなふうに思っていた理由は何だっただろう――思考を巡らせていると、祐樹はいつの間にか自室に到着していた。
祐樹はドアを開けた。
「よ、元気そうだな」
部屋の中にはロイがいた。
祐樹は自分が見ている光景が信じられずに一瞬固まったが、すぐに他人に見られてはいけないということだけは気づいた。
慌てて部屋の中に飛び込み、ドアを勢いよく閉めた。一呼吸した後、祐樹は椅子に腰掛けたロイを見て、努めて冷静に質問した。
「どうしてここに?」
ここは城内だ。民間人がおいそれと入れるような場所ではない。
「ちょっと、知り合いのつてでな」
ロイの言い方で、祐樹はピンときた。
「女か?」
「よく分かったな。城で働いてる子がいるんだ」
祐樹はロイの答えにうなだれた。ロイはやたら女友達が多いが、まさか城の使用人にまで知り合いがいるとは祐樹も想定外だった。だが、確かに知り合いに手引きしてもらえば使用人の住む棟までであれば比較的簡単に入れる。それが合法かというと、決してそうではなかったが。
「オレのこと、心配して来てくれたのか?」
祐樹が問うと、ロイは照れくさそうに鼻の頭をかいた。
「まあ、そんなとこだ。エルザも心配してたしな」
「そうか、エルザが……」
アクセルに捕らえられて一週間が過ぎただけだったが、ロイやエルザと過ごした日々がずいぶん昔のことのように感じられ、懐かしい気分になった。
「なんだよ。俺が来るより、エルザの方がよかったか?」
ロイがからかうように訊いたが、祐樹はゆっくり首を振った。
「いや、嬉しいよ。ありがとう、来てくれて」
祐樹があまりに真摯に礼を言ったせいで、ロイは焦ったように目を逸らした。
「やめろよ。まあ、でも元気そうでよかったぜ」
「ああ、ロイもな」
祐樹は机を挟んでロイの前に座った。
「聞いたぜ。アルマ様の教師やるんだってな」
「耳が早いな。協力してくれた女中に聞いたのか?」
ロイは頷いた。城の中は一種の閉鎖社会だから、噂話はすぐに広まる。祐樹のような異質な存在の噂であれば、それこそ狼煙を上げるのと同じくらいの速度だろう。
「異国の教師がアルマ様に学問を教えるってな。すごい出世じゃないか。酒場の日雇い教師から王宮の家庭教師だ」
「すぐにクビになるさ」
祐樹は自嘲的にそう言った。
「どういうことだ?」
ロイは不思議そうに祐樹を見た。
祐樹は先ほどのアルマとのやりとりを説明し、自分がアルマの真意を理解できていないことを正直に告白した。
ロイは難しそうな表情で祐樹の話を聞いていたが、話が終わるとにやりと笑った。
「何か、分かったのか?」
祐樹が期待して問うと、ロイは首を横に振った。
「いや、全然。他人の苦労話は面白いな」
祐樹は眉をしかめた。真剣に話しているというのに、それを笑うことはないだろうと思った。
「冗談だ。怒るなよ。でも、アルマ様がそんなふうに考えてるなんて、意外だな。俺にも理解できない」
それはそうだろうなと祐樹は思った。ロイは自ら教えを請い、祐樹も舌を巻くほどの熱心さで取り組んだ。学ぶことを無意味だと考えているアルマとは正反対だった。
「ロイは、どうして学びたかったんだ?」
「簡単さ。今をより良くしたかったんだ。今の状況から逃げ出したかったって方が、正しいかな」
「どういうことだ?」
祐樹が重ねて問うと、ロイは困ったように首をひねった。
「商店で徒弟をやってるとさ、たまに見るんだよ。俺より一回りも二回りも上のやつが、もう役に立たないからって商店をクビになるのを」
ロイは感情を挟まないように淡々と語った。
「そうなった後はもうどうにもならなくてさ、奮起して自分で商売できるやつはいいさ。だけど、クビになるようなやつはそんな能力もない。あとは、貧民窟で強盗でもやるしかない」
祐樹はこの街に訪れた夜に、二人の強盗に襲われたことを思い出した。あの二人もまた、そんな経歴を辿ってきたのかもしれない。
「他にもあるぜ。ずっとやってきた商店がつぶれて、その一家も、働いてた奴らもみんな路頭に迷って、隣のプロシア国で奴隷まがいの仕事してるとかな」
ロイはそこまで言うと大きく息を吐き、机の上に置いてあった水差しに直接口を当てて、ぐいと水を飲んだ。
「俺はそうなりたくなかった。だから、勉強して抜け出したかった。だけど誰も教えてくれなかったし、学ぶための本もなかった。そんなところにユウキが現れたんだ、必死にもなるさ」
ロイが話し終わっても、祐樹はしばらく何も言えなかった。今まで祐樹が見てきた生徒の中に、こんなにも必死で学ぼうとした生徒はいなかった。いたとしても気づかなかっただろう。なぜなら、祐樹が彼らのことを知ろうとしなかったからだ。
聞いてよかったと、祐樹は思った。
「ありがとう。アルマ様が勉強を無意味だと言っていた理由が、なんとなく分かった気がする」
他の教師と同じだと言われたことに関しては、まだその理由は分かっていなかったが、ともかく明日アルマとよく話してみようと祐樹は考えた。
「そうか。それならよかった」
ロイは立ち上がって笑顔を浮かべた。
「もう帰るのか?」
「ああ。今日はユウキが無事かどうか確かめに来ただけだからな。エルザにも報告しなくちゃいけないし」
ロイはドアを開けようとしたが、何かを思い出したように振り返った。
「どうしたんだ?」
「一つ忘れてた」
祐樹は苦笑しそうになったが、ロイが真剣な表情をしていたので、つられて似たような表情になった。
「ずっと昔、違う世界から来たって奴がいたらしい」
「な……」
ロイの言葉に、祐樹は呼吸を忘れそうになった。
「何十年も前の、ほとんど言い伝えみたいなものらしいけどな。その男は月が一つしかない世界から来たと言っていたらしい」
自分のいた世界だと祐樹は直感的に思った。過去にも祐樹の世界からこの世界に来た者がいたということに、祐樹は興奮した。
「それで、その男の話は他にないのか?」
祐樹が勢い込んでそう言うと、ロイは宥めるように祐樹に両の手のひらをかざした。
「落ち着けよ。その男はあるとき突然、この国から姿を消したらしい」
「姿を消した、だって?」
「ああ。だけど、何人かがその男が消える瞬間を見たんだそうだ。その男は、高い塔から飛び降りて、そして地に落ちる前に姿を消したそうだ」
祐樹は呆然とその話を聞いていた。ロイはそんな祐樹の態度を見て勘違いしたのだろう、取り繕うように口を開いた。
「くだらない作り話だとは思ったんだけど、いちおうユウキに教えとこうと思ってさ」
祐樹は首を横に振った。
「いや、くだらないなんてとんでもない。ロイ、ありがとう! これで戻れるかもしれないぞ!」
「あ、ああ、そりゃよかった」
祐樹の興奮した様子に、ロイは度肝を抜かれていた。こんなにも我を忘れた祐樹を想像できなかったからだろう。
「そうだ。答えは簡単だったんだ。飛び降りればいいんだ。それでオレは元の世界に戻れる!」
祐樹はそう言って窓のところまで行くと、窓を開いて足を窓枠にかけた。
「お、おい、ちょっと待てって!」
ドスンという大きな音とともに祐樹とロイが床に倒れ込む。飛び降りようとする祐樹を、ロイが慌てて引っ張ったのだ。
「痛いな。何するんだよ」
「それはこっちの台詞だ。正気かよ?」
ロイが呆れたように祐樹に訊いた。
「もちろんだ。飛び降りれば元の世界に戻れる。実際、オレがこっちの世界に来たときも、ビルから飛び降りたんだ」
「らしくないぜ、ユウキ! そりゃ、ユウキはこっちに来たときに、ビルとかいう場所から飛び降りたのかもしれない。だけど、ユウキの世界じゃ飛び降りた奴がみんな消えちまうのか? 違うだろ? この世界でも同じだ。高いところから落ちたら、普通はつぶれて終わりだ」
ロイの言葉を聞くうちに祐樹は次第に冷静になってきて、確かにロイの言うとおりだと思った。飛び降りたところで元の世界に戻れる保証はどこにもない。
「こういうのなんて言うんだっけな……。そうだ、あれだ、必要条件だ。飛び降りることは、元の世界に戻るための必要条件だけど、十分条件じゃない。そうだろ?」
祐樹は苦笑して頷いた。必要条件と十分条件――それは祐樹がロイに教えた数学の論理だった。元の世界に戻るためには、少なくとも飛び降りるということは必要だが、それだけでは十分ではない。
「ロイに教えられたな。確かにそうだ。戻るためには、きっと他にも満たすべき条件がある。助かったよ、もう少しでぺしゃんこだった」
「まったくだぜ」
ロイはそう言って大きな声で笑った。祐樹が冷静になって安心したのだろう。祐樹もつられて腹の底から笑った。それから二人はしばらく笑っていた。不思議と笑いが止まらなかった。
腹筋が痛くなった頃に祐樹が笑うのをやめると、ロイもいつの間にか声を出して笑うのをやめて祐樹を笑顔で見ていた。
「ユウキがそんなに笑うのはじめて見たぜ。笑えるんだな」
どれくらいぶりだろうと祐樹は思った。腹の底から笑った記憶など思い出せなかった。
「まあ、これでひょっとしたら帰れるかもしれないってことは分かった。ありがとう、ロイ」
「気にするな。ユウキは友達だからな」
祐樹は少し驚いて、ロイの顔をまじまじと見た。
「なんだよ」
「いや、なんでもない。ありがとう」
冬に咲く花は少なく、多くの鳥たちも暖かい土地へ逃げていく。
だからアルマは、ランス王国の長く厳しい冬が嫌いだった。そして庭園の植物や鳥たちの様子から、もうすぐ本格的な冬が訪れることを予感して陰鬱な気分になっていた。
「あの異国の教師は、今日も来ると思う?」
アルマは陰鬱な気分にもかかわらず、微笑みを絶やすことなく、側に控えていた女中に訊いた。
「さあ、私には分かりかねます。ただ、いずれにしろ、あのような下賤の者に、アルマ様が気を使われる必要はございません」
女中はそう言ってアルマにへりくだった様子でお辞儀をした。
アルマは「そうね」とだけ答えて、小さく咲いた花を眺めた。女中の答えは聞かずとも分かっていたし、本当のところは尋ねるまでもなかった。ただ、アルマは自分でも不思議なことに、捨て台詞のようにまた来ると言い残した異国の教師のことが僅かではあったが気になっていた。
「あなたは、学ぶ意味などあると思う?」
くだらない質問だと思いながらアルマは問うた。
「いいえ、アルマ様はすでに読み書きも算術もお出来になります。それ以上は無用というものでございます」
アルマはまた「そうね」とだけ答えて、高い木の上でさえずる鳥を眺めた。女中が自分に対して厳しい意見を言うはずがないとアルマは知っていた。だから、くだらない質問だと思ったのだ。
アルマに対して厳しい者などこの城には一人もおらず、皆が無条件に優しく接した。兄のアクセルと従兄のエドワードだけは数少ない例外だったが、それでも二人とも優しい性格をしていたから、叱られたりすることは皆無に等しかった。
皆が自分に望んでいるのは、人々に笑顔を振りまき心を安らがせることだとアルマは理解していた。いずれは嫁ぎ先で同じ事をすることになる。そして、それ以上のことなど「無用」というわけだ。
もうすぐ授業の時間ね――アルマは庭園の日時計を見た。今頃、あの異国の教師がアルマの部屋を訪れ、自分の生徒がいないことに失望しているかもしれない。あるいは、面と向かって拒絶される心配がなくなって安心しているかもしれない。
「ここにいたのですか!」
アルマは驚いて庭園の入り口を見た。
そこには異国の教師――祐樹が立っていた。走ってここまで来たのだろう、息が乱れて肩が大きく上下している。
「まあ、なんですか。ここは王家の庭園ですよ。勝手に入ってこられては困ります」
アルマの女中が、祐樹に非難の言葉を浴びせる。
「知っています。でも、オレは、アルマ様の、教師です。そして今は、授業の時間です。それなら、オレがここに、いることに、何か問題がありますか」
祐樹は息も絶え絶えに反論した。女中は眉をしかめたが、祐樹の筋が通っていたからそれ以上は非難できなかった。
「おっしゃるとおり、問題ありません、異国の教師さま」
アルマは女中の前に進み出て、空色の瞳で祐樹を見た。
「それなら、よかった」
安心する祐樹に対して、アルマはにこりと微笑みかける。
「でも、私は、この庭園から出たくありません。異国の教師さまといえど、こんなところで授業はできないでしょう?」
椅子もなければ机もない。紙もなければ鉛筆もない。まさかアルマを芝生の上に座らせて、土の上で講義をするわけにはいかないはずだった。
「いいえ、できますよ、アルマ様。ここでやりましょう」
祐樹は余裕すら感じさせる笑顔で言い切った。
アルマは女中と顔を見合わせてくすくすと笑い合った。祐樹の言葉が追いつめられて出てきただけのはったりだと思ったのだ。
「この場所で? いったい何を教えていただけるのですか?」
「世界の在り様を」
祐樹はそう言って、手を鳴らした。すると木にとまってさえずっていた鳥たちが、その音に驚いて飛び立っていった。
アルマはその鳥たちが飛んでいくのを眩しそうに見た。
「鳥がお好きなんですね、アルマ様」
「ええ。あなたが彼らを驚かせなければ、もう少しその姿を愛でることができたのに」
アルマは微笑んだまま祐樹を非難した。
「すみませんでした。でも、少し驚いただけだからすぐに戻ってきますよ。ここには、彼らの巣がありますから」
祐樹はそう言って枝の陰を指さした。アルマがよく見ると、そこには確かに巣らしきものがあった。
「それよりも、アルマ様。鳥たちがなぜ飛べるか、ご存知ですか?」
「それは、羽があるからでしょう。」
祐樹の問いに、アルマは当たり前だと言わんばかりに答えた。そして、もちろんその答えは間違いではない。
「そうです。では、なぜ羽があると飛べるのか、分かりますか?」
「それは……人が泳ぐときに水をかくように、彼らは空気をかくのでしょう」
アルマがそう言うと、祐樹は驚いたような表情を浮かべた。アルマは自分が正解したのだと思ったが、祐樹がまた笑顔に戻るのを見て、まだ問答が終わっていないことに気づかされた。
「それでは、羽を作って人につければ、人は飛べますか?」
「いいえ。飛べるわけがありません。だって、彼らの羽は特別なものだから。そんな羽を人が造れるわけがありません」
いったいこの教師は何を言いたいのだろうとアルマは思った。教えることがなくて時間を引き延ばしているだけかと思ったが、どうもそうではなさそうだった。
「そうですね。では彼らの羽がどう特別なのか、説明できますか?」
アルマは返答に窮した。そもそも、そんなことを説明できる者がいるとは思えなかった。
「できませんか。でも、オレの授業を受けてもらえば、いずれそれが分かるようになります」
嘘だと思ったが、祐樹の自信に満ちた表情を見てアルマはどうしても言い返すことができなかった。
「あの木々が風に揺れる理由を説明できますか? どうして冬が去って夏が訪れるのかを説明できますか? どうやって人や動物が生き、死んでいくのかを説明できますか?」
アルマは首を横に振った。何一つ説明できなかった。
「学問を学ぶということは、世界の在り様を知り、それを書き表すということです。鳥が飛び、木々が風に揺れる様子を数式で表現し、季節の移り変わりの原理を図で説明し、人や動物の性質を体系的にまとめあげるということです」
祐樹は慎重に、しかし熱っぽく語った。アルマはそんな祐樹から目を離すことができなかった。学ぶことの意味をこれほど真剣に話す人物をアルマは知らなかった。だから普段であれば笑顔でさらりと受け流すところを、思わず真正面から反論した。
「私が世界の在り様を知って、それで何になりますか。異国の教師さま、あなたが語ったのは学ぶことの意味です。でも、それは私にとって価値があることではありません」
祐樹の顔が険しくなった。それは聞き分けのない生徒を叱る教師の顔であり、そんな表情でアルマを見る者は他にいなかった。
アルマは微笑みこそ絶やさなかったが、一歩後ろに下がって祐樹の視線から逃れようとした。
「それは違います、アルマ様。世界を知ることは、国や民を知る基礎となります。王女である貴女は、人の上に立たなくてはいけない。そんな人が、国や民のこともろくに分からないようでは、この国はすぐに滅ぶでしょう」
祐樹の静かな口調とは裏腹に、その内容は苛烈だった。アルマは衝撃を受けて言葉を失った。
「何という暴言でしょう! 不敬罪ですぐにでも投獄すべきです!」
女中が悲鳴を上げるように叫んだ。入り口に立っていた兵士が何事かと中に入ってこようとしたが、アルマがそれを手で制した。
「構いません」
その言葉は女中と兵士の両者に向けられていたが、その視線は祐樹を射ぬいていた。
「やっと、本当の顔を見せてくれましたね」
祐樹に言われて、アルマは自分の頬に触って微笑が消えていることに気がついた。しかし、アルマは取り繕うことはせず、真剣な面もちをして祐樹を見る。
「明日、部屋でお待ちしています、ユウキ」
アルマはドレスのスカートを少し持ち上げ、軽く礼をした。祐樹はその言葉と態度に少し驚いた表情を浮かべたが、すぐににこやかに笑った。
「そのつもりでした。アルマ様」
祐樹は一礼をすると、庭園を去っていった。残されたのはアルマと女中だけだ。
「まったく、失礼な輩でしたね」
女中は怒り心頭といった様子で、祐樹の背中を睨んでいた。その背中が見えなくなると、不服そうにアルマを見た。
「よろしかったのですか、ア……」
女中は息を呑んだ。彼女が見たこともないような表情をしてアルマは佇んでいた。
「あの方に教わりたいと思ったの」
アルマは真っ直ぐに祐樹の背を見つめていた。
アルマの教師となって数日が過ぎた日の夜、祐樹が部屋に戻るとロイが待っていた。
「よう、遅かったな」
「ああ」
前回と同じく突然の訪問だったが、祐樹は驚かなかった。何となくだが、そろそろ来るような気がしていたのだ。
「聞いたぜ。うまくやってるみたいじゃないか」
「ああ。ロイのおかげだ。少なくとも、学ぶことの意味は伝えることができた」
祐樹が説得した日以来、アルマは別人のように真面目に授業を受けていた。それは祐樹にとってもアルマにとっても大きな進歩だった。
「少なくとも?」
「オレが他の教師と同じだと言われたことは未解決だ」
初めて祐樹がアルマに教えようとしたとき、アルマは二つの理由から学ぶことを拒絶した。一つは学ぶことが無意味であるということ、もう一つは祐樹が他の教師と同じであるということだった。前者は説明できたが、後者については祐樹自身どんな点を同じと言われたのか理解できていなかった。
「どんなふうに伝えたんだ?」
ロイに問われて、祐樹は庭園でのアルマとの会話の一部始終を説明した。
ロイは最初こそ真剣な表情で祐樹の説明を聞いていたが、説明が進むにつれて次第に表情を変えていき、話し終える頃には完全に呆れかえっていた。
「そりゃ、たぶん解決してるぜ。だいたい、そうじゃなきゃ、アルマ様だってユウキの授業を受けようとはしないだろ」
それもそうかと祐樹は頷いた。釈然としないが、知らぬ間に解決していたのであればそれでいいのかもしれない。
「授業の方はうまくいってるのか?」
「ああ。アルマ様は賢い。教えたことはすぐに理解して自分のものにしてしまう。やる気さえあれば教えるのは簡単だ」
まるで砂が水を吸うように、あっと言う間に数学も科学もアルマは学び取っていく。祐樹はアルマに教えるのが楽しかった。唯一の気がかりは、法律や治世学といった王家の者として必要な学問を祐樹では教えることができないことだった。いずれ別の教師を付けるようにアクセルに進言する必要がある。
「そっか。うらやましいな」
「まあ、アルマ様はそれなりに基礎教育を受けてきたから速いんだろうな。それを考えれば、ロイはすごいよ」
ロイは少し驚いたような表情を浮かべて祐樹を見た。
「ああ、いや、違うんだ。うらやましいって言ったのは、ユウキに教えてもらうことができていいなってことだ」
祐樹は返す言葉が見つからなかった。学ぶことを希求していたロイにとって、祐樹はたった一つの希望だったに違いない。それが今では王宮の教師となり、ずいぶんと遠い存在になってしまった。
「そんな顔するなよ、ユウキ。大丈夫だ。基礎は教えてもらったからな、あとは自分で何とかするさ」
ロイは祐樹を安心させるように笑った。
「そうか。でも、分からないことがあったら来てくれ。いつでも教えるよ」
「頼むよ。あんまり入り浸ると、エルザに怒られるけどな」
何故そこでエルザが出てくるのだろうと祐樹は思ったが、少し考えてはっと気づいた。
「ロイはエルザと付き合ってるのか?」
「は? そんなわけないだろ」
ロイは呆れたような表情を浮かべる。
「オレばっかりがユウキに会ってると、やっかまれるってことだよ」
「そんなものかな。面白い話をしてやれるわけでもないのになあ」
朗らかで可愛らしいエルザのことを思い出しながら、祐樹はそんな感想を述べた。
「あのなあ……」
そんな祐樹に対してロイが何か文句を言おうとしたときのことだった。トントントンと規則正しくドアを叩く音が部屋に響いた。
ノックだ。
祐樹はロイに静かにするよう合図を送り、部屋の片隅のクローゼットを指した。ロイは黙って頷くと、その中にそっと隠れた。
「はい、誰ですか?」
ロイがクローゼットに隠れたのを確認し、祐樹はドア越しに訊いた。
「アルマです」
「アルマ様?」
祐樹は驚いてすぐにドアを開けた。果たしてそこにいたのは微笑を浮かべたアルマだった。その側には衛兵と女中がついている。
「どうしたんですか?」
普通ならアルマが城を出て、使用人たちの住むこの建物に来ることはない。王家の者は、使用人に用事があれば使いの者を寄越して城まで参上させる。
「入ってもいいですか?」
「ああ、ええと、どうぞ」
アルマを部屋に入れていいものか迷ったが、断ることの方が失礼だろうと思って承諾した。
部屋にアルマが入ってくる。そして、当然のように衛兵と女中も入ってこようとしたが、アルマがそれを止めた。
「外で待っていて」
二人はあからさまに驚き、困ったように顔を見合わせた。しかし、最終的には問題ないと判断したのだろう、女中がアルマに対して頷いた。
「ドアの外に控えております。万が一、何かありましたら大きな声で呼んでください」
二人が出ていき、ドアが閉まる。信用されていないなと祐樹は思った。特に、あの女中には庭園の件でずいぶん警戒されてしまっている。
「ユウキ」
アルマはその表情から微笑みを消し、真剣な眼で祐樹を見つめていた。祐樹はその視線に心臓を射抜かれたような気分になった。
「なんでしょうか?」
この数日間、祐樹はアルマに教えていて気づいたことがある。それは、アルマが他人に見せる笑顔のほとんど全てがよくできた作り笑いだということだ。そのことに気づいたとき、祐樹が初めてアルマを見たときから感じていた違和感が氷解した。まさしく、アルマの笑顔は脆い仮面だったのだ。
しかし、庭園で学ぶことの意味を伝えた日以来、アルマは祐樹に対してみだりに笑顔を見せることはしなくなり、代わりにこうして真剣な表情をすることが多くなった。
祐樹は嘘の笑顔よりもこの真剣な表情の方がずっと好きだったが、同時に苦手でもあった。思わず見入ってしまい、目を離せなくなってしまうからだ。
今もまた、アルマの真剣な眼差しから逃れることができなかった。
「王女として問うのではありません。一人の生徒の質問だと思って、聞いてください」
アルマはそう前置きをすると、彼女にしては珍しく、躊躇うようにして口を開いた。
「この国の状況をどう思いますか? このランスの国は、この先もずっとこのままでいいのでしょうか?」
それは祐樹の意表を突いた質問だった。会って間もない異国の一教師に対して、王女が国の行く末を問うなど誰が想像できるだろうか。
「率直に言います」
一瞬、祐樹は当たり障りのないことを言おうかと思ったが、アルマが「一人の生徒として」訊いたのは祐樹の正直な意見を聞きたいからだと気づいてやめた。そもそも、庭園であれだけ失礼なことを言ってのけたのだから、いまさら何を言おうと大差ない。
「この国は少しずつ衰えています。人で言うならば病人でしょう。そしてその病は放っておけば死に至る。建国記念の日に街へ出られて何か感じませんでしたか?」
アルマは突然の質問にもうろたえることなく頷いた。
「年々、活気がなくなっている気がします。今年は路上で暮らしている民の姿も多く見られましたし、出ている店の数も少なく、そこで売っている品も、値打ちの低い物に見えました」
よく観察していると思い、祐樹は舌を巻いた。アルマはあれだけ笑顔を振りまいておきながら、その笑顔の下では冷静に街を見ていたのだ。仮面のような笑顔もここまでくれば一つの長所とすら言えるかもしれない。
「アルマ様が感じられた印象は、そのままこの国の置かれている状況です」
アルマは「そうですか」と呟き、表情を曇らせた。
国が少しずつ衰えているとはいえ、アルマには今のところ何の影響もない。だから、アルマが自分のことのように国を憂いている姿が、祐樹には少し意外だった。
「どうすれば、よいのでしょう」
その言葉に祐樹はさらに驚いた。そして、この数日間でアルマの中で何かが変わったのだと気づかされた。少なくとも祐樹が庭園で学ぶことの意味を述べたとき、アルマに国の行方に対する興味があるとは思えなかったし、ましてそれを改善するために何か行動を起こす様子など微塵も感じられなかった。
「難しい問いですね。オレも答えを教えることはできません」
「やはり、そうですか……」
あからさまに落胆した様子を見せたわけではなかったが、アルマの声は小さくなっていた。
「オレが教師だから、こう思うのかもしれません」
祐樹はアルマの様子を見て、自信のない意見ではあったが思い切って言うことにした。あるいは、何かの手がかりになるかもしれない。
「この国に足りていないのは、教育だと思います」
「教育、ですか? 軍備や経済ではなく?」
アルマが怪訝そうに訊いた。
その疑問はもっともだった。国の力はその軍備と経済力で概ね決まる。そして、実際に隣国のプロシアなどでは軍備の増強が経済の成長を生み、経済の成長がさらなる軍備の増強をもたらしている。
しかし、それらを支えているのは教育なのだ――この考えを伝えきることは、自分だけではできないと祐樹は思った。すっと立ち上がると、アルマの視線を意に介することなくクローゼットを開け放った。
「な……」
アルマはクローゼットの中に潜んでいたロイを見て悲鳴を上げそうになったが、何とかこらえた。
「どうも」
ロイは決まりが悪そうにクローゼットから出てきた。滑稽な姿ではあったが、アルマは当然ながら少しも笑う素振りは見せなかった。
「街にいたときに世話になってた友人です」
「ロイです」
アルマは毅然とした態度で頷いた。少なくとも表面上はもう落ち着いている。
「ユウキ、どういうことですか?」
使用人の住む建物とはいえ、やはり一般人を招き入れているのはまずかったか――祐樹はそう思い、頭を下げた。
「申し訳ありません。今回限りですので、見逃してもらえませんか」
しかし、アルマは首を横に振った。
「そんなことを訊いているのではありません。私の問いに答えるために、その方をここへ連れ出したのでしょう?」
そのきっぱりとした態度に、祐樹は自分がアルマを見くびっていたことに気づかされた。ずっと笑顔の仮面をかぶってきたというのに、その芯は驚くほどしっかりしている。
「その通りです。ロイは、オレがこの国に来て最初の生徒です。でも、オレは逆にロイからこの国のことをたくさん教えてもらいました」
それから祐樹は、ランス王国を訪れたその日に貧民窟で強盗に襲われたこと、ロイに助けられたこと、そして、ロイが現状から這い上がるために祐樹に教えを請うたことや、その仲間たちに算術を教えたことを話した。
アルマは話にずっと聞き入っていた。自分の知らない世界に新鮮さを覚えるとともに、その現状に少なからず衝撃を受けているようだった。
「街は、そんな様子なのですか」
アルマは誰に言うわけでもなく、そう呟いた。思っていたよりもずっと衰えているこの国に、驚きと失望を隠せないでいた。
ロイはアルマの呟きに対して頷いた。
「貧民窟の人口は少しずつ増えています。街の誰もが、少しずつこの国が弱っていることに気づいていますが、この状況を抜け出すにはどうすればいいのか、誰も分からないでいます」
アルマはロイの顔を見た。その表情は、祐樹に対するものと同じように真剣なものだった。
「それでも、あなたは抜け出すために、ユウキに教えてもらうことを選んだ。それは、どうしてですか?」
ロイはアルマの問いに少し考え込んだ。
「俺は商人の徒弟です。算術を学べば帳簿の扱いもうまくなる。そうすれば、俺は重宝されるようになって、仕事にあぶれることはなくなる。でも、今はそれだけじゃないと思っています」
「どういうことですか?」
「学ぶことで、世の中が少しだけ、はっきりと見えるようになったんです。どうやって世の中が動いているのかとか、どうして俺の手元には金がなくて、大商人のところには金も物も余ってるのかとか。その仕組みが見えてきたんです」
アルマは雷に打たれたように驚きに固まり、祐樹を見た。
「何を教えたのですか? 算術を教えるだけで、そんなことが分かるようになるとは思えません」
「いいえ、オレが教えたのは、アルマ様に教えているのと同じ程度の数学だけです。ただ、ロイはそれを通して、物事を論理的に考える力を身につけました」
アルマは信じられないといった様子で首を振った後、改めて祐樹とロイを見た。
「本当なんですね」
祐樹とロイは揃って頷いた。
「経済も軍備も国を繁栄させるためには必要です。でも、その二つを支えるのはこの国の人たちです。働いて、物を作り、経済を豊かにし、国の守りを固める。その基礎となるのが、学ぶことで得られる知識と考え方です。今、この国にはそれが圧倒的に足りていません」
アルマはしばらく目を閉じて考えると、おもむろに立ち上がって祐樹を見つめた。
「よく、分かりました。ロイも、ありがとうございました」
アルマはそう言って部屋を出ていった。
後に残された祐樹とロイは顔を見合わせると、崩れ落ちるようにしていすに座り込んだ。
「王女様に説教垂れる日が来るとは思わなかったぜ。それも、お礼を言われるなんてな」
「気持ちよかっただろう?」
祐樹がそう訊くと、ロイはにやりと笑って頷いた。
「まあな。だけど……」
「気になるか?」
アルマがわざわざ祐樹の部屋を訪れ、兵士も女中も付けずに国の状況について質問したのには、何か理由があったはずなのだ。
「ああ。アルマ様、笑ってるだけのお姫様かと思ってたけど、ずいぶん違うな。本当に、何かやるんじゃないか?」
「たとえば?」
「革命、とか」
ロイの言葉を聞いて、祐樹は思わず吹き出した。
「さすがに、それはないだろ。まあ、たぶんそこまで大したことはできないさ。まだ十六の女の子だ」
祐樹はそう言ったものの、自分の言葉に自信は持てなかった。アルマはこれまでに祐樹の想像を何度もいい意味で裏切っている。祐樹の心は言いようのない不安と、淡い期待が渦巻いていた。




