第二章 王国と友人
第二章
目を開けると、満天の星空が視界いっぱいに広がった。
祐樹は、起きあがろうとしたが、全身に痛みが走ってうめき声を漏らした。それでも何とか起きあがると、自分が置かれている状態を把握するために周囲を見回し、呆然とした。
祐樹がいたのは、街の路上でもなければ、病院のベッドの上でもなかった。そこは平原の真ん中だった。
「オレは、確かに、ビルの屋上から飛び降りた……」
祐樹はもう一度、周囲を見渡し、我が目を疑った。
「そんな……」
祐樹の目には、月の光が映っていた。
奇妙な点が二つあった。
一つは、その日が新月であり、月の光など見えるはずもないのに、祐樹の目には確かに月が見えているということ。
もう一つは、そんなことがどうでもいいと思えるくらいの異常――祐樹の目に映る月が、三つあった。
一つは満月、もう一つは半月、もう一つは三日月だった。その大きさは順に小さく、色も順に薄い。祐樹の知っている月にいちばん近いのは、色と大きさどちらに関しても二番目の月だった。
よく見てみると、夜空を彩る星々も祐樹の知っている星空とは全く異なっている。
「ここは、どこなんだ」
祐樹は、自分が死後の世界に迷い込んだのかと思ったが、頭を振ってその考えを吹き飛ばした。大学で工学を学び、予備校で物理と化学を担当しているというささやかな矜持が、死後の世界などという非科学的なものを認めさせなかった。
祐樹は立ち上がり、あてもなく歩き始めた。夜道ではあるものの、三つの月が出ているおかげで、足元を見るのには困らなかった。
しかし歩き始めて三〇分が経った頃、歩けど歩けど全く姿を変えることのない平原に、祐樹の心は折れそうになった。日本の平原でこれほど広大なものは、少なくとも祐樹の記憶にはない。月が三つある時点で、そもそも地球ですらないのかもしれないが、祐樹はその可能性はなるべく考えないようにしていた。
だから、地平線に点のような明かりが見えたときも、その距離が四、五キロくらいだろうと思った。それが地球上での水平線までの距離だからだ。
「行くしかない、か」
祐樹はかすかな希望を感じて、これまでよりは幾分、軽い足取りで歩き始めた。この不可解な世界で、これから行く先に何が待ち受けているのか予想もできない。だが、どうせ死ぬところだったのだから、何が起きようとも構わないと祐樹は思っていた。ただ、凍死は避けたいところだと、冷たい風に首をすくめながら最後に付け加えて、もう一度歩き始めた。
それから一時間強歩いたところで、祐樹は点のように見えていた明かりのもとへたどり着いた。歩く速さが時速四キロ程度であることを考えると、この世界の大きさは地球と変わりないようだった。
しかし、そんなことよりも祐樹は明かりの正体に目を奪われた。
明かりの正体――それは街の灯りだった。
街といっても、祐樹が予備校で教鞭を執っていた街とは、外見も、漂う雰囲気もかけ離れている。
祐樹の立っている場所が、ちょうど街の入り口付近だろう。石造りのささやかな囲いが左右に広がっている。祐樹の立つ場所から先へ進むにつれて、赤レンガ造りの家々が増えていき、街の中ほどにはそれらをかき分けるようにして立つ教会らしき建造物がある。そして、街の中心には大きな城のようなものがそびえている。その様子は、まるで中世ヨーロッパの街並みだ。祐樹のささやかな世界史の知識と相違しているのは、街を取り囲む城壁がないことくらいで、それ以外はまるで世界史の資料集を見ているようだった。
それを見て、祐樹の心には二つの感情が入り混じった。一つ目は、ここが祐樹の知っている日本ではないことが明らかになっていく不安で、もう一つは、この地に住む者たちが知性を持つ生き物であり、恐らくは人の形をしているだろうという希望だった。祐樹の知っている映画のように、怪物に頭からバリバリと食べられるということはなさそうだ。
祐樹は意を決して街へ入り、周囲を見回しながら進んでいった。
陰気――それが街を中から眺めて、祐樹が初めに抱いた感想だった。
街の中は意外にも暗く、ほとんどの家に灯りは点いていなかった。道には全く人影がなく、寂しい雰囲気が漂っている。道を舗装する石畳もところどころ盛り上がったり、欠けたりしていて手入れが行き届いていないことが伺い知れた。そして、その状況は建物の密度の濃くなるあたりへ来ても変わらなかった。
「罰でも当たったのかな」
街の寂しい雰囲気にあてられて、祐樹は弱気になっていた。死後の世界を信じているわけではなかったが、大した理由もなく己の生命を断った人間にとって、この寂れた城下町はふさわしい場所に思えた。
カラン
小石が石畳を転がる音がして、祐樹は振り返った。
「あ」
暗闇に隠されてよく見えなかったが、そこには二つの影があった。そして、それは間違いなく人影であり、心細くなっていた祐樹は思わず近寄ろうとした。
しかし、何かがギラリと光り、嫌な予感がした祐樹は止まった。
暗闇から二人組の男が出てきて、月光がその姿を明らかにする。二人の男たちは、とりとめもない組み合わせの薄汚れた衣服を身にまとっていた。下品な笑いと、月光の下で鈍い輝きを増したナイフが、男たちの正体を物語っていた。
「金を出せ」
祐樹は恐怖を感じるより先に驚いた――彼らが言っていることを理解できたことに。彼らの顔の特徴は欧米人のものに近いが、言葉は祐樹の知るどんな言語とも異なる。にもかかわらず、祐樹は彼らの言葉をすんなりと理解できてしまったのだ。
だが、そんなことを気にしている場合ではないとすぐに気づいた。
「おい、何か言えよ」
一人は汚れた金髪に青い目と彫りの深い顔立ち、もう一人は栗色の髪に茶色の目と高い鼻が特徴的だった。
ナイフを持つ強盗二人を相手にして戦う自信はなかったし、仮に相手が一人だったとしてもかなり分は悪かっただろう。何しろ最近の運動と言えば階段の上り下りくらいだ。そのうえ、ここまで歩いてくるのにかなり体力を消耗していたから、走って逃げることができるかも怪しかった。
「金は、ない」
祐樹がそう答えて後ずさると、男たちもにじりよって来た。祐樹が何かないかとポケットを探ると、固い物が手に当たった。
男たちがしびれを切らして襲いかかってくる。
祐樹はポケットの中にあったファイア・スターターを取り出すと、それで金髪の男のナイフを受け止めた。
その瞬間、強烈な閃光が走った。
「うわっ」
光をまともに見たのだろう、二人の男は手で両目を押さえていた。祐樹はとっさに目を閉じたから、視界ははっきりしていた。
祐樹は一目散にその場を逃げ出した。後ろから男たちの怒号が聞こえてくるが、すぐに追ってくる気配はない。
しばらく逃げたところで、祐樹は息切れがひどくなって立ち止まった。何回か角を曲がったから、あの男たちに見つかることはないだろう。
「もう少し鍛えないとだめか」
少し走っただけで悲鳴を上げる心臓と肺を恨めしく思いながら、祐樹は握りしめた手を開き、自分を助けた鈍く光る直方体の固まりを見た。
「それにしても、うまくいったもんだ」
ファイア・スターターと呼ばれるそれは、その名の通り、火を熾すのに使用する強力な火打ち石だ。マグネシウムが主成分で、その欠片は強い光とともに激しく燃える。長さにして掌底から中指の先程度、太さは握りしめるのにちょうどいいくらいだ。
武道の心得も何もない祐樹が、そんなものでナイフを受け止められたのは奇跡的だったし、その結果、あれほど強く発光してくれたのも祐樹にとっては想定外だった。
祐樹は寒さをしのぐためにその場で膝を抱えて座り込み、家々の屋根の合間から見える空を見た。そこには相変わらず見知らぬ星座と三つの月があり、この世界が祐樹の慣れ親しんだものとは異なるのだと冷酷に告げているようだった。
祐樹は抱えた膝に顔を埋めた。
時間跳躍、空間転移、平行世界――そんな似非科学のような仮説が祐樹の頭の中をぐるぐると走り回ったが、考えても分かるはずがなかった。
だが、この世界に来ることができたのだから、戻ることもできるはず――祐樹はそう自分に言い聞かせた。その論理が正しいという保証はどこにもないことは理解していたが、見知らぬ世界で生命を落としかけた祐樹は、そう思いこまないと不安に押しつぶされそうだった。
「おい」
心臓が激しく鳴った。
祐樹が慌てて顔を上げると、そこには先ほどの二人の男たちが立っていた。祐樹の位置からははっきりとは見えなかったが、二人ともにたにたと笑っているようだった。
「おっと、動くなよ」
立ち上がろうとした祐樹に、金髪の男がナイフを突きつける。
「どうして……」
「バカな奴だ。もっと遠くまで逃げればよかったのにな。この辺りは俺たちの庭みたいなもんなんだよ」
祐樹は己の迂闊さを呪った。数回、路地を曲がったくらいではこの男たちを出し抜くことはできなかったということだ。
「金はない」
「構わない。俺たちが興味あるのは、その石だ」
栗色の髪の男が、そう言って祐樹の手からファイア・スターターを奪い取った。
なけなしの武器を失った祐樹は、それでも必死でこの場を逃れる方法を考えていた。祐樹自身はその矛盾に気づいてはいなかったが、つい数時間前に自殺を図ったにもかかわらず、この世界で訳も分からず殺されるのは嫌だった。
しかし、逃げだそうにも背面は壁、前では二人の男が祐樹を囲んでいる。どうあがいたところで、この窮地を脱することはできそうになかった。
「こいつ、どうする?」
金髪の男が、祐樹の頬をナイフの腹で叩きながら訊いた。そのとき刃がわずかに祐樹の頬を切り、血が滴った。
「殺せばいいだろ。顔見られてるしな」
男たちの会話を聞いて、祐樹は絶望的な気分になる。
「オレは誰にも、何も言わない。それで、いいだろう」
祐樹は懇願するようにそう言ったが、金髪の男に鼻で笑われた。
「そう言う奴を見逃して、そのあと捕まったバカを俺は何人も知ってる。ちょうど、そのおもちゃを試してみたかったしな。おまえは焼き殺してやる。おい、それ貸せ」
栗毛の男からファイア・スターターを受け取った金髪の男は、祐樹に向けてナイフでそれを削った。
「やめろ!」
無数の火花が祐樹の顔に飛び散り、祐樹は悲鳴を上げた。
「なるほど、こりゃ便利だな。だけど、人を殺せるほどの代物じゃなさそうだ。やっぱりナイフで殺るか」
金髪の男はつまらなさそうに鼻を鳴らし、ナイフを祐樹に突きつけたまま、ファイア・スターターを栗毛の男の方に差し出した。
「持っててくれ」
しかし、栗毛の男からの返事は一向に返ってこない。祐樹と金髪の男はそろって栗毛の男を見た。
祐樹は、栗毛の男が酔っているのかと思った。それは男があまりにふらふらしていたからだが、次の瞬間、男は白目をむいて祐樹たちの方に倒れてきた。
「おい!」
金髪の男が慌てて栗毛の男を支えた。その拍子にナイフとファイア・スターターが石畳に落ちて、乾いた音を響かせた。
「こっちだ!」
突然、祐樹は腕を引っ張られてすぐ近くの路地に連れ込まれた。
「着いてこい」
祐樹を引き込んだ人間は、それだけ言い放つとすさまじい速さで走り出した。祐樹はとっさに拾い上げたファイア・スターターを片手に握りしめて、その人影を必死で追いかけた。
人影は、狭い路地を風のように駆け抜けていく。祐樹がそれにかろうじて着いていけたのは、時折、その人影が祐樹を待つかのように速度を緩めてくれるからだった――とはいえ、全力で走らされているのに変わりはなく、十回ほど角を曲がったところで、祐樹は目の前が真っ白になって倒れ込んだ。
喧噪に目を覚ました。
ひどい夢を見ていた――それは祐樹の希望だったが、周囲の様子を見てあえなく砕け散った。
騒がしく酒を酌み交わす人々と、その接客をする店主と店員――それだけ見れば、まるで祐樹の知る居酒屋のような雰囲気だったが、店全体はレンガを主体とした古めかしい造りで灯りは油を燃やすランプ、人々の服装は無骨で古めかしい洋服、その手に持つコップは木製だった。
それでも、祐樹はほっとため息を吐いた。
そこが見知らぬ世界であることに変わりはなかったが、暖かさと明るさがあるだけで祐樹の心は安らいだ。
「目が覚めたのね」
祐樹に話しかけてきたのは、その酒場で働く娘だった。黒髪の美しい娘で、給仕用の簡素なエプロンを着ている。年の頃は一六か一七といったところだ。祐樹をのぞき込む表情は、客たちに振りまいていた笑顔のままだった。笑顔が張り付いているのだ。
「ああ。君が助けてくれたのか?」
娘の表情から笑顔が消え、代わりに驚きが表れた。そして次の瞬間には、笑いに変わった。それは張り付いていただけの笑顔とは異なり、心の底からのものだった。
「ううん、まさか。あんな危ないところ、わたしは怖くて行けないよ。あなたを助けたのはロイ。ほら、あそこにいるでしょ、カウンターの端っこでビール飲んでる」
娘の指し示す先には、カウンター席に座って店主と親しげに会話をしている青年がいた。
「ロイ!」
娘が青年の名を呼ぶと、彼は祐樹たちを見て立ち上がり、近寄ってきた。
「目、覚めたのか」
ロイは癖のある赤毛と緑色の目が特徴的な青年だった。娘と同じ年頃だろう――顔立ちは端正だがいたずらっぽそうな雰囲気があり、それが少年の面影を残していた。
「ああ。君が助けてくれたんだってな、ありがとう」
「どうってことはないさ。俺はロイ。あんたは?」
ロイはそう言って手を出してきた。
「祐樹だ」
祐樹はロイの手を握った。
「ユウキ? 珍しい名前だな。別の国の人間か? 服装も変わってるし」
「ああ、まあ、そんなところだ」
祐樹は自分の白いワイシャツと黒いズボンを見下ろしながら、曖昧に頷いた。別の国の人間であることは確かだったが、それが適切に祐樹の立場を表しているかというと疑問だった。
「それであんな危ないところにいたの。ロイが通りかからなかったら、ユウキ、殺されてたとこよ」
「まったく、エルザの言うとおりだぜ」
ロイは苦笑しながら娘に同意した。そんなことを言われても気をつけようのなかった祐樹は、二人の小言を聞き流しながら、娘の名はエルザというのかなどと関係ないことを考えていた。
「ここはどこなのか、教えてくれないか?」
祐樹が尋ねると、ロイとエルザは顔を見合わせた。
「ここは、風見亭よ。この街の酒場で、カウンターにいるのがマスター」
「ああ、ごめん、訊き方が悪かったな。この街はなんて街なんだ?」
ロイが不可解そうに祐樹を見た。
「街の名前はランスだ。ランス王国の城下町だよ。そんなことも知らずに来たのか?」
「ああ、うん、まあ、そうだよ。目が覚めたときには、草原に放り出されてたんだ。こんなことを言っても信じてもらえないかも知れないけど……」
祐樹は言い淀んだが、ロイとエルザは何も言わずにじっと次の言葉を待っていた。たったそれだけだったが、祐樹は二人が信頼に値すると思った。
「オレは別の世界から来た、と思う」
ロイとエルザはきょとんとした表情を浮かべて、祐樹を見つめた。
「それは、別の国ってことじゃないのか?」
「国はもちろん違う。だけど、もっと根本的に違うんだ」
これが化学や物理だったらもっと簡単に説明できるのに――祐樹はうまく説明できなくてもどかしい気分だった。
「そうだ、月だ。オレの世界には、月は一つしかなかった。この世界には、月が三つある。そうだろう?」
祐樹はまくし立てるようにそう言ったが、ロイとエルザは不思議そうな表情を浮かべるばかりだった。もし逆の立場だったら、祐樹も彼らと同じ反応をしただろう。もう一つの世界を肌で体感しているからこそ、その存在を確信できるのであって、他人から聞いただけではただの妄想としか思えない。
「いや、ごめん。忘れてくれ。代わりに、もっと、この国のことを教えて欲しい」
エルザは困ったような表情をしていたが、ロイは祐樹を真剣な表情で見つめながら頷いた。
「ああ、もちろんだ。エルザは仕事に戻っていいぞ」
エルザが頷いてカウンターの方に歩いていくのを見送ると、ロイはランス王国のことを話し始めた。
ロイの話によれば、ランス王国は大陸の北西端に位置する小国だった。
国の北西は海に面しているが、切り立った海岸のせいで大きな港はなく、小さな港が点在するだけだ。南から東にかけては大国と国境を接しており、その経済的、武力的な圧力を辛うじてかわしている。
内政は十代以上続く由緒正しい王家による王政で、現在はエドガーという王により治められている。治世は安定してはいるものの、農業や簡単な手工芸を主とした経済は緩やかに下降しているというのが国民の実感だ。
祐樹は、その下降感こそがこの街に入ったときに感じた陰気さの正体だろうかと思った。経済の衰退している国というのは寂れた雰囲気を醸し出すものだ。
「大陸の外はどうなってるんだ。他に陸はないのか?」
「あんな感じさ」
ロイはそう言って壁に掛かっている絵を指差した。祐樹はそれを見て、息を呑んだ。
「あれが、この世界?」
それは絵画として修飾された地図だったが、中心に大陸が一つ、その周りには海だけが描かれている。それは祐樹の知っている世界地図とは似ても似つかぬものだった。
「まあ、誰が見てきたわけでもないからな。海の向こうに何があるかなんて誰も知らないんじゃないかな。大地が平らだって言う奴もいれば、丸いって言う奴もいるし、結局、世界のことなんて何も分かっちゃいないんだよ。だから、俺はユウキの言ってることを嘘だとは思わない。もちろん、信じることもできないけどな」
ロイはそう言って立ち上がった。
「どこへ行くんだ?」
「帰るのさ」
「オレは……どうすればいい」
祐樹がそう言うのを聞いて、ロイは困ったように眉根を寄せた。
「今日はここに泊めてもらえばいい。マスターには言ってあるからな。明日からは、好きにすればいいさ」
所詮、赤の他人ということだった。
「そう、か。分かったよ。ありがとう、助かったよ」
祐樹はうなだれそうになるのを何とか思いとどまって、ロイに礼を言った。赤の他人であるはずの自分を危険も省みずに助け、さらにこの世界のことを教えてくれたのだから、これ以上を求めるのは図々しいと祐樹は思った。
「いや、ただの通りがかりさ。気にするなよ」
ロイは祐樹が礼を言ったことに少し驚いた様子で答え、立ち去ろうとした。
そのとき、祐樹たちの近くの席でガタンと大きな音がした。二人の男が今にも取っ組み合いの喧嘩を始めそうな様子で、互いの胸ぐらをつかんで怒鳴り合っている。
「おい、やめろよ、どうしたんだ」
ロイが慌てて間に入って仲裁をしようとしたが、突き飛ばされて倒れ込んでしまった。
「ロイ! 大丈夫?」
エルザが駆け寄ってきてロイを助け起こす。その間にも男たちの険悪さは増すばかりだった。
「おまえはおれに一五〇クロネ払えばいいんだよ!」
「だからそれは違うって言ってんだろ。おれは確かに昨日、一五〇クロネ借りたけど、ずいぶん前におまえのために二〇〇クロネを立て替えてるんだ。利子も入れたらおまえがおれに金を払わなきゃいけないんだよ」
「ちがうな。それを言ったら、一週間前のフェリシアのパーティーの料理代だ。おれとおまえで食材を集めたとき、おれの方が三〇〇クロネも多く買わなくちゃいけなかった。その分を払えよ。そしたらおれが金をもらうことになるだろ」
男たちは激しい剣幕で互いに一歩も譲ろうとしなかったが、突き飛ばされたロイは呆れた表情で喧嘩を見つめていた。
祐樹もロイと同じ思いだった。クロネというのがこの国の通貨単位であることは何となく分かったし、その価値が円の十倍程度であることもなんとなく察しがついた。つまり、この男たちはたかだか数千円の貸し借りを巡って、酒場の中で取っ組み合いの大喧嘩を始めようとしているのだ。そもそも数千円がそんなにも大切だというなら、貸し借りのたびに精算をしていれば、こんなこじれた事態にはならなかったはずだった。
だから、これは酔っぱらいのくだらない喧嘩――祐樹は傍観を決め込もうと思ったが、困りきった表情のエルザを見て気が変わった。
「利子はいくらですか」
祐樹は大きな声でそう訊いた。よく考えてみれば、祐樹には事態がこじれているとも思えなかった。少なくとも、話を聞く限りでは男たちは金額に関しては正確に記憶している。
「ユウキ」
ロイが驚いたように祐樹を見た。予期していなかった質問に、男たちもまた祐樹を見た。
「利子はいくらか、と訊いたんです」
祐樹はもう一度はっきりと訊いた。広い教室で教えていた声は、狭い酒場ではよく通る。
「十日で、一割だ」
男のうち一人が、酒場中の視線が自分たちに集まっていることに気づいてすごすごと答えた。
「分かりました。じゃあ、整理しましょう」
それから祐樹は、男たちの一〇件以上の貸し借りとその利子を整理した。その中には単純な貸し借りではなく――彼らの共通の友人であるフェリシアのパーティーの料理代のように――異なった金額での立て替えもあったりしたから、すべてを整理するのには骨が折れた。
「あなたが、五三クロネ払えば、それで貸し借りはゼロです」
だから、祐樹が計算をし終えて、男たちにそう告げたときには酒場から拍手喝采が起きた。
「いいぞ、兄ちゃん!」
「ご名算!」
「その調子でおれの借金もなんとかしてくれ!」
「おまえの借金はどうにもなんねえよ、ばか」
祐樹が呆気にとられていると、ロイが近寄ってきて肩を叩いた。
「この国で、まともに計算できる奴はそんなに多くないんだ。足し算と、かろうじて引き算ってとこだな」
「そうだったのか」
祐樹のやったことは、ちょっとしたパフォーマンスだったというわけだ。
「すごいじゃない、ユウキ!」
祐樹は腕に軽い重みを感じた。それはエルザが腕を掴む重みだった。
「あ、ああ……」
ありがとうと言おうと思ったが、祐樹はエルザとの距離の近さに思わず赤面して顔を背けた。女性に免疫がないわけではなかったが、エルザは祐樹がこれまで親しくなったどの女性より可愛らしかったし、服の隙間からのぞいたふくよかな胸の谷間は刺激が強かった。
「それにしても、驚いたな。ユウキは商人なのか?」
戸惑う祐樹の姿を見て、ロイはにやにやしながら訊いた。
「しょうにん…? ああ、商人か。いや、違うよ」
「じゃあ、なんなんだ。そんなに算術ができるってのに、商人じゃないのかよ」
ロイが不満そうに言った。祐樹にはロイがそんな態度をとる理由が分からなかったが、苦笑しながら答えた。
「オレは、教師だ」
祐樹がそう言うと、ロイはあからさまに驚いた。
「教師! そんな歳で?」
「オレは二三だ」
ロイの訊き方がどことなく他人を小馬鹿にしたような感じだったので、祐樹はむっとしながら答えた。
「二三だって? 俺より六つも上だったのか。そりゃ、悪かった。でも、なあ」
ロイはそう言ってエルザに同意を求めた。
「うん、わたしたちと同じくらいだと思ってた。二三歳でも教師としては若いと思うけど」
この世界では、年老いて経験を積んだ人間が教鞭を執るものなのかもしれないと祐樹は思った。もしそうだとすれば、祐樹が教師だというのはロイたちにとって不思議なことなのだろう。
「この国の学校では、どんな人が教えるんだ?」
祐樹の質問にロイはきょとんとした表情を浮かべた。
「学校……? ああ、学問を教える場所のことか。そんなのこの国にはないぜ」
ロイの答えに祐樹は驚愕した。だが、よく考えてみれば計算すらできない人々が大勢いるというのだから、学校がないという事実もありえなくはない。
「じゃあ、どうやって学ぶんだ」
「上流階級のやつは、家庭教師だな。庶民は、親に学があれば教えてもらえるが、そうじゃなかったらそもそも学ばないな」
「そうなのか……。その、ロイやエルザは、どうなんだ」
訊いていいものか躊躇いながら、祐樹は訊いた。
「俺か? 俺は商人の徒弟だからな。そこで少しは教えてもらえるけど、簡単な算術までだ」
「わたしは、お店の会計に困らない程度に、マスターから教えてもらったくらいかな」
祐樹はその答えを聞いて黙り込む。教室で教えていた生徒たちの姿が、ロイとエルザに重なった。容姿も性格も異なっているというのに、そんなふうに見えたのは祐樹自身にとっても不思議なことだった。
「そうだ!」
ロイが何かを思いついたように叫ぶ。
「どうしたの?」
「俺に、色々教えてくれないか、ユウキ」
ロイの頼みに、祐樹は開いた口が塞がらないくらい驚いた。そんな頼みが出てくるとは思ってもいなかったし、何より――
「はじめてだな」
祐樹はそう呟いた。
「え?」
「いや、なんでもない」
他人に教えを請われる――すなわち誰かに必要とされるということは、祐樹にとって初めての経験だった。
「だめか?」
ロイが残念そうに祐樹に訊く。祐樹は笑って首を横に振った。
「いや、喜んで」
鳥の鳴き声と、薄く差す太陽の光が祐樹を目覚めさせた。祐樹はベッドから起き上がると、朝の冷気に身を震わせた。
この街の朝は早い。ランス王国は大陸の北方に位置しており、冬期は日照時間が短い。だから、人々はできるかぎり仕事を日中に終えるために、陽も昇りきらないうちから活動し始めるのだ。
予備校の教師という職業柄、夜型の生活に慣れていた祐樹は、初めのうちはその生活が辛く感じられた。しかし、この街に来て一ヶ月近く経った今となっては、この街の朝型の生活の方が自分には合っていると感じるようになっていた。
部屋に置かれた洗面器の水で顔を洗っていると、ロイがぼんやりした表情で現れた。祐樹は、ロイが徒弟として働いている商店に居候しているのだ。そして、そこはロイと同じ部屋で、屋根裏部屋だった。
ロイに教えを請われた夜から、祐樹はここで暮らしてきた。商店の店主はロイが説得した。もっともただで住まわせてもらっているわけではなく、会計の手伝いとロイに教育をすることを条件に置いてもらっているのだ。
「おはよう。眠そうだな?」
「ああ、おはよう。おかげさまで、複利の計算式が夢の中に出てきたぜ……」
祐樹は苦笑した。ロイが言っているのは、昨夜、祐樹が教えた数学の公式のことだ。この一ヶ月間、平日は仕事が終わった夜に、休日は一日中――ほとんど毎日休むことなく祐樹はロイに数学を教えてきた。
それは決して楽にこなせることではなかったが、ロイも祐樹も根を上げることはなかった。
「そろそろ、辛くなってきたか?」
「ばか言うなよ。面白くなってきたとこだぜ」
ロイはそう言ったが、祐樹としてはそろそろ教えることが少なくなってきたところだった。もともと商店の会計に役立つ数学だけに絞って教えてきたし、ロイの飲み込みの速さも手伝って、かなりの速度で学習は進んでいた。生徒が優秀というのは、教師にとって嬉しいことではあったが寂しいことでもあった。
「そういえば、あっちの方の収穫はどうなんだ?」
ロイが服を着替えながら祐樹に訊いた。
「いや、何も」
あっち、とは祐樹の世界に関することだ。この一ヶ月間、商店の手伝いとロイの教育の合間を縫って元の世界に戻る術を探し続けてきたが、一向に見つかる気配がなかった。
来ることができたのだから戻ることもできるはずだと祐樹は思っていたが、その根拠のない考えも、手がかりすら見つからない状況の中で次第に揺らぐようになっていた。実は自分はこの世界の住人で、気が狂っているだけなのかもしれないと思うことすらあった。
そんなときに祐樹の心を支えるのは、祐樹の世界から持ってきたファイア・スターターだけだった。たかが着火材が心の支えになるとは思ってもいなかったが、この際、ものが何であろうが頼れればそれでよかった。
「そうか。俺とエルザも調べてはいるんだけどな、手がかりなしだ」
祐樹は頷いて礼を言った。ロイとエルザは半信半疑ながらも、元の世界へ戻る方法を探してくれている。祐樹にはそれが嬉しかった。
「さて、行くか」
ロイに言われて、祐樹は陽の昇り具合を見た。時計はこの世界では高級品のため、商人の徒弟の部屋になど置いてありはしなかった。
「そうだな、エルザも待ってるだろうし」
この日は建国記念の祝日で、二人はエルザと一緒に街を見物に行くことになっていた。夜明けを待ち合わせ時間にしていたから、時間に正確なエルザはすでに待っていることだろう。
ロイと祐樹が待ち合わせ場所に行くと、やはりエルザは待っていた。艶やかで上等そうな毛皮のコートを着ていて、化粧もし、髪も丁寧に編んでいる。
酒場で働いているエルザしか知らなかった祐樹は、その着飾った姿を見てどきりとさせられた。初めて会ったときもエルザのことはきれいだと感じたが、朝日に照らされた彼女の麗しさはその比ではなかった。
「二人とも遅いよ」
「ああ、悪かった。きれいだな、エルザ」
「ほめても許さないからね、ロイ」
ロイが素直にエルザのことをきれいだと言ったので、祐樹は少し安心した。何も緊張することはないのだ。普段通り接すればいい。
「おはよう、エルザ」
「おはよう、ユウキ」
エルザは何かを待つように祐樹をじっと見つめた。祐樹は気恥ずかしくなって、視線を逸らしながらエルザの求めに応えた。
「きれいだと思う」
エルザはにこりと笑った。
「遅刻のこと、許してあげる」
「俺がほめても許してくれなかったのに、ユウキがほめたら許すのかよ」
ロイがすかさず文句を言ったが、エルザはべっと舌を出して歩き始め、振り返ってこう言った。
「ロイは女の子を見たら必ずそう言うじゃない。そんなのただの挨拶よ」
エルザの手厳しい言葉にロイは乾いた声で笑い、その後に着いていった。
街の中心部では、まだ陽も出たばかりだというのに多くの人々が行き交っている。歩けないほどではないが、気をつけていないとぶつかりそうになるくらいだ。この街の朝が早いとはいえ、これだけの人出があるのは珍しいことだった。
「建国記念は祭りみたいなものだからな」
ロイの言葉を聞いて、祐樹はなるほどと思った。街や行き交う人々の外見こそ違えど、祐樹が幼い頃に行った祭りに通じるものがある。
「買ってきたよ」
エルザが木のコップと白いパン、そしてチーズを掲げて、勝ち誇ったような笑みを浮かべている。
「お、助かるぜ」
ロイはコップを受け取って、中身をゆっくり飲むと祐樹に手渡した。
「熱いから、気をつけろよ」
それは温めたワインだった。湯気が鼻孔に入り、いい香りが感じられた。祐樹は恐る恐る口をつけた。
「…うまい」
温かく甘酸っぱい味が口中に広がった。シナモンと砂糖を入れているのだろう、普通に飲むワインよりずいぶんと甘い。一方で、アルコールは熱したおかげでいくらか和らいでいる。
「でしょ。ここのワイン、おいしいのよ」
空気の冷たい朝には嬉しい飲み物だった。飲み物の温かさに加えて、砂糖と適度なアルコールで身体の芯から温まる。
「ありがとう」
祐樹がコップを返すと、エルザも幸せそうにそれを飲み、ほっと白い息を吐いた。
それから三人はパンとチーズを分けあって食べながら街を歩いた。そこかしこで露店が開かれ、様々な品が売られている。その多くが子どもだましのおもちゃか、得体の知れない怪しげなものだった。宝石や装飾品の類もあったが、エルザは楽しそうに見るだけで、決して買おうとはしなかった。
祐樹がその理由を尋ねると、エルザは露天商に聞かれないようにそっと耳打ちした。
「ほとんど、偽物だから」
やはりそうなのか、と祐樹は思った。確かに本物にしては安いような気がしていたのだ。商店を手伝っているおかげで、物の相場は何となく把握できている。
「今は偽物ばかり」
露店から離れながら、エルザが寂しそうに言った。その言い方からすると昔は違ったということだろうが、祐樹はそれ以上は訊かなかった。
エルザの思いはこの街の誰しもが抱いているものなのだろう。街は一見、活気に満ちあふれていたが、その中には僅かながら陰りのようなものがある。そのことは、露店の出ている大通りから少し路地に入ると、浮浪者の姿が散見されることにも現れていた。
「何が悪いのか、誰にも分からないんだ。ただ、だんだん国全体の元気がなくなっているような気がする」
ロイはそこまで言って、周囲を気にするように声を落とした。
「このままじゃ、プロシアに併合されるんじゃないかって噂する奴もいるくらいだ」
プロシアというのはランスの隣国で、この数年で経済と武力を背景に小国を併合し、勢力を増している大国だ。
ランス王国が穏やかな衰退を辿っている理由について、余所者である祐樹には何となく察しがついた。大国プロシアの存在が強く影響しているのは間違いないが、それ以上にもっと根本的な原因がある。
「いらっしゃったわよ」
エルザが先ほどまでとは異なって興奮した様子で言うので、祐樹は何事かと思った。エルザは、祐樹たちが歩いている通りが別の大きな通りと交わるあたりを指差している。
「差しちゃまずいだろ」
ロイがエルザの手をすっと下ろしてやる。それでエルザは興奮から我に返った。
「どうしたんだ?」
祐樹は不思議そうに訊いて、大通りの交わるあたりを見た。すると、普段の街では見かけないような大きな物体がゆっくりと姿を見せつつあった。
「王家だ」
その大きな物体は巨大な馬車のようだった。高さにして二階建ての家屋と同じくらい、幅は祐樹たちのいる通りをまるっきり塞いでしまうほどで、下の方では十頭近い馬がそれを引っ張っている。また、その表面には赤い布ときらびやかな宝石で装飾が施されており、貴い人々が乗っているのだと伺い知れた。
今や、通りのすべての人々――通行人も露天商も、そして遊びに夢中だった子どもたちですら、その馬車に注目している。
「王家か……すごいな」
祐樹がこのランスの城下町に来て一ヶ月――噂を聞くことは数知れず、しかし姿を見ることはただの一度もなかった存在だ。
だが、祐樹がすごいと評したのは王家が街に現れたことではなく、巨大で豪奢な馬車の方だった。あれほど巨大な馬車を造るには相当な金が必要だろう。それに加えて、馬車の装飾は、見ただけで途方もない価値であることを感じさせるほどだ。露店に置かれている偽物とは比べるまでもない。
「出てきたぜ」
人々がどよめく。馬車の上部――建物で言えば二階のバルコニーにあたる部分に、四人の男女が現れた。
「前に立っている方がエドガー国王、その両隣がアクセル王子とアルマ王女で、少し離れて立ってるのがエドワード様よ」
エルザが祐樹のために丁寧に説明した。
エドガー王は恰幅のいい初老の男だった。深く刻まれた顔の皺と笑いの欠片すらない表情が、一国の王としての威厳を示していた。二人の男性――アクセルとエドワードも皺こそないものの似たような表情をしている。
彼らと対照的なのが、王女アルマだった。にこやかな笑顔で人々に手を振っており、彼女の視線を受けたあたりの人々は男女問わず歓声をあげる。
「アルマ王女は、王家の中でも国民からの人気が一番ある。ま、あれだけきれいで、優しさに溢れてるっていうんだから当たり前だけどな」
アイドルみたいなものかと祐樹は思った。確かにアルマは際立って美しい。薄い色の金髪を宝石で美しく飾り、ドレスの胸元に見える雪のように白い肌はまるで透き通るよう、空色の瞳は見る者を魅了する魔力があるのではないかと思わせるほどだった。それほど美しい姫君に微笑まれれば、誰しもが心奪われるだろう。
「ユウキもアルマ王女に一目惚れか?」
祐樹がアルマに見入っていると、ロイがからかった。
「なっ」
祐樹は慌ててアルマから視線を外した。ロイが楽しそうに、エルザが呆れたように祐樹を見ていた。
「仕方ないさ。この国の大抵の奴は、アルマ王女に惚れてるみたいなもんだ」
ロイはそう言って笑い、祐樹は何も言わずに苦笑した。
何も言わなかったのは、言っても理解してもらえないだろうと思ったからだ。祐樹がアルマに見入っていたのは、その美しさに見とれたからではない。アルマの満面の笑みが、一瞬だけ今にもはがれ落ちそうな脆い仮面に見えたせいだ。
しかしもう一度見てみたら、それは美しい王女の可憐な微笑みに過ぎなかった。
「どうかしたの? ユウキ」
「いや、何でもない」
見間違いだったのだろうと祐樹は思った。疲れているのかもしれない。
「そろそろ始まるぜ」
「何が?」
「王様のご挨拶さ」
それからエドガーから民衆に向かって挨拶がなされた。
要約してしまえば、建国三五〇年の祝いとともに、今後の発展を祈って国民に一層の働きを期待するというものだった。
エドガーが挨拶を締めくくると、拍手と歓声が湧きおこる。しかし祐樹はどうしても拍手する気になれなかった。
「拍子抜けだな」
祐樹は思わずそう呟いた。
「どういうことだ?」
ロイが驚いて訊く。王の演説に大して「拍子抜け」などというのは不敬もいいところだ。ロイには思いもつかなかった言葉だったのだろう。
「ロイも、エルザも、他の人たちも、この国が衰退していることに気づいてる。それなのに、あの王様は何も対策を言わなかった。この国にはどんな改善が必要で、そのために何をいつどのくらいやるのか。国の上に立つ者は、そのくらい言わないとだめじゃないのか。ロイやエルザは今の演説で満足なのか?」
「ユウキ……」
ロイとエルザは祐樹の言葉に唖然とした。二人は祐樹の言うようなことがエドガーの口から語られるとは思ってもいなかったし、したがって満足かどうかなど考えるまでもなかった。王の言葉は、それだけ絶対的なものなのだ。
「いや、なんでもない。忘れてくれ」
二人の様子を見て、祐樹は自分のいる世界が元の世界とは、人も、社会も、価値観も、何もかもが異なる世界なのだということを忘れそうになっていたことに気づいた。いくら声高に主張したところで、この場にいる大勢の人々の考え方を変えることなどできはしない。
祐樹は無力感を覚えてロイとエルザから視線を外し、王家の馬車へと視線を戻した。
そのとき、祐樹は一瞬だけ王家の一人――アクセルと目が合ったような気がした。むしろ、睨まれていたといってもいいほど強い視線を送られていたように感じた。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
まさか会話を聞かれたのだろうかと思ったが、そんなことがあるはずがなかった。小声の会話が聞こえるほど、王家との距離は近くない。
「終わったぜ」
ロイの言葉通り馬車は再び動き出し、その場をゆっくりと去っていった。
「じゃあ、もう少し見物していこっか」
エルザが楽しみだという表情で、通りを指差した。王家のいなくなった通りには人々が溢れ、活気が戻っている。
「そうだな」
祐樹は釈然としない思いのまま頷いたが、次の瞬間には全て忘れて楽しもうと決めた。どうせ、王家も国の行く末も自分には関係ないのだから。




