第1話 最弱インプの『スリップ』
大雨が森の木々を激しく叩きつけ、視界を白く染め上げている。
泥にまみれ、木の根の隙間にうずくまる俺は、ただ寒さと飢えに震えるだけの存在――悪魔の最下級種である、一匹の『インプ』だった。
個別の名前なんてない。魔界の偉い悪魔たちからはゴミのように扱われ、人間たちからは見つけ次第駆除される、ただの「最弱雑魚モンスター」。それが俺だ。
ここ、ルナーラ村の周辺に広がる森は、俺の縄張りであり、同時に生き地獄の舞台でもあった。
ルナーラ村は、人口わずか200人程度の、辺境の小さな村だ。そんな寂れた村の近くですら、俺は常に命の危機に瀕している。
視界を遮る激しい雨。
叩きつける雨音のせいで、周囲の気配などまるですすり泣く風の音にかき消されていた。
普通の人間の冒険者なら、こんな日にわざわざ森へ入りはしない。視界も足場も最悪で、命を落とすリスクが高すぎるからだ。
だが、今日のそいつは違った。
(チッ、またあのクソ親父か……!)
木の葉の隙間から覗く視界の先、一人の男が猛スピードで森を駆け抜けていくのが見えた。
ルナーラ村に住む、ベテランの冒険者。いつも俺を見つけては、まるで娯楽の狩りでも楽しむように、ニヤニヤしながら容赦なく追い回してくる憎き人間だ。
いつもなら、見つからないように息を殺してやり過ごす。
だが、今日のクソ親父は明らかに様子が異常だった。俺を索敵する余裕など微塵もなく、ただがむしゃらに、必死の形相で何かを抱えて走っている。
(なんだ……? 何をそんなに焦ってやがる)
親父が腕の中に大事そうに抱え込んでいるのは、一人の小さな子供だった。
ぐったりとしていて、顔が異常に赤い。
――人間の事情など、俺には知る由もない。
ただ、この時、ルナーラ村では誰にも知られていない「奇跡」と「悲劇」が同時に起きていた。
この世界では、人は生まれながらにして『先天性スキル』をその魂に宿す。
ただし、それが何のスキルであるかは、半年に一度、中央から派遣されてくる『鑑定士』に視てもらわなければ分からない。辺境の小さな村であればなおさらだ。
その子供は、つい3ヶ月前に生まれたばかりだった。
まだ鑑定士の訪問など受けていない。だから、実の親であるその冒険者すら、我が子が人類の希望たる『勇者』のスキルを宿しているなど、夢にも思っていなかった。
分かっていたのは、ただ一つ。
生まれたばかりの我が子が、『魔風病』という凶悪な病に罹患しているということ。
突如として子供の容体が急変し、一刻を争う事態になった。
だからこそ父親は、一縷の望みをかけて、高度な神聖術師がいるという隣町へ向けて、大雨の森を強行突破しようとしていたのだ。もし、これが『勇者』だと知られていれば、国家が総力を挙げて最高峰の治療魔術師を派遣しただろう。だが、今は誰もそれを知らない。
当然、最弱モンスターである俺が、そんな感動的な親子の事情を察してやる義理はなかった。
「いつもいつも、俺をオモチャにしやがって……。一発、痛い目見せてやる」
父親が差し掛かったのは、崖と崖の間に架かる、古びた一本の木橋だった。
足元は激しい雨で泥がこびりつき、ツルツルと滑る最悪のコンディション。
橋の中腹。完全に逃げ場のないその瞬間、俺は親父の足元に向けて、狙いを定めた。
俺が生まれ持つ、唯一の先天性スキル。
特に珍しくもない、ただ相手を「稀に」転ばせるだけの、世間一般では完全なハズレとされるゴミスキル。
「――『スリップ』!!」
成功率は、良くて2割程度。
いつもなら、冒険者から逃げるために何度も必死に打ち込んで、ようやく1回発動するかどうかという最低の確率だ。
もし失敗すれば、即座に気配を消して逃げる。いつも通りの、ささやかな嫌がらせと自衛のつもりだった。
だが、この瞬間、運命の歯車が狂った。
ビチャリ、と奇妙な音が、激しい雨音の隙間に響く。
一発目での、完全なクリーンヒット。
「なっ――!?」
ベテラン冒険者であるはずの親父の足元が、あり得ない角度で真横に滑った。
完全な不意打ち。それも、足場が最悪の橋の上。
もしこれが一発目でなければ、親父はすぐに危機を察知して、体勢を立て直すか橋から離脱していただろう。しかし、あまりにも完璧に決まりすぎてしまった。
「うわあああああああ!?」
大きく体勢を崩した親父は、胸に抱いた子供もろとも、あえなく崖下へと真っ逆さまに落ちていった。
ドサリ、という、肉と骨が潰れる重い音が雨の底から響き――それきり、静寂が訪れた。
「……あ」
やってしまった。
ただの嫌がらせのつもりが、崖から突き落としてしまった。
人間を殺せば、村の冒険者たちが総出で森を狩り尽くしに来る。恐怖でブルブルと身体を震わせながら、俺は一目散に自分の巣穴へと逃げ出した。
◇
翌日。
崖の下で、親父の目が覚めた。
「ガハッ……! げほっ、くそ、俺は……足を滑らせた、のか……!?」
泥まみれになりながら起き上がった親父は、激痛に顔を歪めながら周囲を見回した。
この世界には、神聖術や魔術による『蘇生術』が存在する。死後10日以内であれば、教会やしかるべき蘇生場で、デスペナルティを負いながらも復活することができるルールだ。
親父の肉体は、蘇生術の理によって、崖下に転落した時点から巻き戻るようにして息を吹き返していた。
しかし。
親父がどれだけ周囲を探しても、最愛の息子の姿はどこにもなかった。
蘇生術には、絶対に覆せない例外がある。
『寿命』、そして『病気』による死亡は、いかなる神の奇跡をもってしても生き返らせることはできない。
勇者の少年は、転落の衝撃そのもので死んだわけではなかった。
落下のショックと大雨の寒さによって、もともと患っていた『魔風病』が限界を超えて急激に悪化。その病魔によって、息を引き取っていたのだ。
ゆえに、この世界のシステムは、少年の蘇生を拒絶した。
そして、この世界にはもう一つ、恐ろしい絶対の理が存在する。
『何らかの理由で復活できなかった場合、最後にその死因(引き金)を作った者に、先天性スキルの所有権が移る』
親父は、絶望の絶叫を上げながら、教会を去っていった。
「自分が不運にも、雨の橋で足を滑らせたせいで、息子を死なせてしまった」
激しい罪悪感に苛まれる親父の頭には、一匹のインプの影など微塵も浮かんでいなかった。
◇
「ア……ガ、あ、アアアアアアアアアアッッッ!!!」
ルナーラ村の近く、誰も立ち入らない歪な土の巣穴の中で、俺は猛烈な激痛にのたうち回っていた。
身体が、内側から爆発しそうなほどに熱い。頭が割れそうだ。
骨が軋み、肉が急速に作り替えられていく。
「な、んだ、これ……! 身体が、あつい、痛い、助けっ――」
脳内に、今まで知るはずのなかった膨大な『知恵』が津波のように流れ込んでくる。言語、戦術、世界の構造。矮小なインプの脳が、強制的に拡張されていく。
ひょろひょろで、人間の子供にすら殴り殺されそうだったインプの肉体に、底知れない圧倒的な『力』が満ちていく。
触れたことも、見たこともないはずの剣や槍、あらゆる武器の扱い方が、まるで何十年も血の滲むような修練を重ねてきたかのように、明確なイメージとして身体に馴染んでいく。
さらに、皮膚の表面が鈍い鈍色に輝いた。
触れてみれば、まるで鍛え上げられた鋼鉄のようだ。物理的な攻撃を一切寄せ付けないような、圧倒的な『鉄壁の防御力』が、俺の身体を包み込んでいた。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ!!」
痛みが引き、俺は自分の手のひらを見つめた。
まだ姿は小さなインプのままだ。しかし、内包するエネルギーは、昨日までの俺とは完全に別物だった。
「なんだよ、これ……。俺は、一体何がどうなっちまったんだ……?」
父親は「自分が不運にも足を滑らせた」と思い込んでいる。
人間たちは、誰も知らない。
人類の希望となるはずだった最高の免罪符『勇者』の力が、鑑定されることすらなく、辺境の最弱悪魔に奪われたことを。
世界を揺るがす最悪の魔王が、今、誰にも知られず産声を上げた。
私の駄文を読んでいただきまして、本当にありがとうございます。
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