第5話 穏やかな日々
朝の光が、小屋の窓から差し込んでいた。
「おはようございます、ティスレイアさん」
「ああ」
ルーカスは桶を手に取り、外へ出ていった。
井戸の滑車が、きしんだ音を立てる。
ティスレイアは寝台から起き上がり、上着を羽織った。
外に出ると、ルーカスが井戸の脇でしゃがみ込み、水を汲んでいた。
桶に水が落ちる音が、ぱしゃん、ぱしゃん、と続いている。
「おはよう、ルーカス」
「あ、はい。おはようございます」
ルーカスは振り返って、少し慌てたように立ち上がった。
桶の縁から水が跳ねて、靴を濡らしている。
「……濡れてるぞ」
「あ、ほんとだ」
ルーカスは靴を見て、それから困ったように笑った。
「すみません、もうすぐ朝食できますから」
「急がなくていい」
小屋の中に戻ると、薪のはぜる音と、湯気の匂いがしていた。
人間の朝の音だった。
※
昼前、集落の広場へ出た。
老人が一人、軒先で薬草を選り分けていた。
ルーカスの薬の師にあたる人らしい。
「お嬢さん、これはなんていう草か知ってるかい」
老人が、葉の細い草をひとつかみ差し出してきた。
「……ヨモリ草だな」
「へえ。なんに効くか分かるかい」
「腹の冷えに効く。ただ、それは採るのが早すぎる。あと半月置いてからの方がいい」
老人は驚いたように目を丸くし、それから皺の中で笑った。
「そりゃあ、長生きしてる方は違うねえ」
長生きと一括りにされたのは、初めてかもしれない。
子供たちが駆けてきて、ティスレイアの裾を掴んだ。
「お姉ちゃん、こっち!」
「お姉ちゃん見て見て、あれ何の鳥?」
子供たちは、空を指差している。
木の梢に小さな鳥が止まっていた。
「……あれは、鵐だ」
「シトド! しとどって言うんだ!」
「変な名前!」
子供たちは、しとど、しとど、と繰り返しながら笑い転げた。
オロオロしているティスレイアを、ルーカスが少し離れた場所から見ていた。
夕方、集落の井戸端で水を汲んだ。
洗濯籠を抱えた女が、通りすがりに会釈をしてきた。
「いつもありがとうね」
「……ああ」
それだけだった。
それだけのやり取りが、千年生きてきて、ほとんどなかった。
※
日が傾き始めた頃、ルーカスと連れ立って広場を歩いていた。
夕餉の煙が、屋根のあちこちから細く立ち上っている。
広場の端で、男が一人、こちらを睨んでいた。
黒髪、琥珀色の瞳、額に三日月の傷。
年齢は、二十歳そこそこの男だ。
ルーカスがそれに気づいて、足を止めた。
「ルーカス」
男が低い声で呼んだ。
「いつまでそのエルフを匿うつもりだ」
「……」
「さっさと国兵に報告して、処刑してもらえ」
ルーカスは少しのあいだ黙り、それから静かに口を開いた。
「彼女は、村の子供を治療してくれた人です」
「だからどうした」
男の声には、抑えきれない熱があった。
「エルフは、エルフだ。いつ俺たちの喉を裂きにくるか分からねえだろ」
「……」
「お前の親父も母さんも、エルフに殺されたんだろうが」
ルーカスは、答えなかった。
男はもう一度、こちらを睨みつけた。
憎しみが、瞳の奥に固く沈んでいた。
そのまま男は背を向けて、広場の向こうへ消えていった。
「……すみません」
ルーカスがぽつりと言った。
「あいつは、家族をエルフに殺されてて……」
「そうか」
「気にしないでください。あいつだけです、ああいうこと言うのは」
ティスレイアは何も言わなかった。
——気にしないでください。
そう言われて、気にしないでいられる者がいるのだろうか。
※
夜、小屋の中で焚き火の代わりに小さな炉が燃えていた。
ルーカスは、いつもより口数が少なかった。
木の椀でホットミルクを差し出してきて、自分の分も傍らに置いた。
「ルーカス」
「はい」
「あの男は、また来るのか」
ルーカスは少し考えてから、首を横に振った。
「……分かりません。でも、大丈夫ですよ」
「そうか」
それ以上、聞かなかった。
炉の中で、薪が一本、ぽとりと崩れた。
火の粉が、短く舞って消えた。
——大丈夫、か。
人間の言う「大丈夫」というのは、あてにならないものだ。
何百年も戦場にいて、それは知っている。
ティスレイアはホットミルクの椀を両手で持ち、その温度を、しばらく感じていた。
ルーカスが小さく欠伸をして、炉に薪を一本足した。
「明日も、晴れるといいですね」
「……ああ」
短い言葉だけ交わして、夜は静かに過ぎていった。
集落のどこかで、犬が一度だけ吠えた。
あとは、薪のはぜる音だけが、続いていた。
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