プロローグ
都市部で行き交う人混みの中、冴えないサラリーマンがそこに居る。厳冬の月、冷え切る身体に鞭を打って、営業を掛ける二十代半ば位の男が、血眼になって源泉となる顧客を探し回っていた。
「こんにちは、お兄さん、いい部屋探してませんか?」
赤信号になった人混みが停止した瞬間、交差点前の通路でそれは行われる。営業を掛ける定型分を自らの口が吐いていることには、ものの数年で慣れた。仮の顧客となる若者に厄介な目で見られるも、下がらずに次の言葉を繋ぐ。
「お兄さん、この辺の人ですか?身長高いっすねモテそう!」
根も蓋も無いことではあるが、容姿から攻めていくのも一つのテクニックではある。特に若者の場合は照れ隠しするものだからだ。
「あ、嫌……興味ないんで……」
どうやら、違ったらしい。こういう時もある。
営業を掛けるのは難儀なものだ。そういや、自己紹介が遅れたな。
「俺の名前は五行六腑だ。今をときめく、二十七歳、会社員だ。現在は街に繰り出して路上営業をバリバリやる営業マンを遂行している、普通の人間って奴さ。お客様に『こんにちはー』と何度、声を掛けたことか。ガン無視もあった。もう慣れたことさ。さっきの若者は返事してくれるだけ律儀で有り難い。そんなことを言っても、次の契約に繋げるため、闘志を燃やしてやらなければならない……」
誰に言ってるかは知らないが、営業のやりすぎでビルの窓に映る自分に向かって自己紹介していた。最早、末期だった。
緩んだネクタイを正装する。
別にこんなに語ってはいるが、この職業が好きな訳ではない。むしろ、生活のために嫌々やってるだけだ。
「じゃあ、何でそんなスーツを着てキラキラしてそうに見えんだって?」
身だしなみは社会人なら一通りやるものではあるし、仕方がない事だからだ。雰囲気も外面だけ。表面上で形作る人間なんて、この社会じゃ当たり前のことである。内心思ってることはドス黒い事を考えてる奴ばかりだ。
かといって、外面が良くても毎月の営業成績は下から数えた方が早いほど。だから、今こうやって笑顔を貼り付けて、お客さんを捕まえようと必死に追いかけているんだ。まあ、要するに切羽詰まってるて、訳だ。
話は変わるが、俺には持病のようなものがある。それは生まれた時から呪いのようにへばりついている。過去の話になるが小さい頃から心臓が弱かった。中学生になった時、思い切って心臓が弱いのに関わらず、スポーツをやれば、ゲキツヨ心臓になれると信じて、家族を振り切ってサッカー部に入部した。
だが、結果はどうだったか、レギュラーに入れず万年ベンチ入り。芝を踏むのは練習と、事前試合のお気持ち表明だけ。それに、レギュラー陣をあっためる役割だけだった。まあ、それもこれも、おれの心臓が悪い。
走ると、胸が痛くなる。走るのもままならない。
あれよ、あれよと時はすぎ、結局、サッカー部も自分には向いておらず、高校生は帰宅部でゲーム三昧。大学はFラン卒で何も変わり映えもない毎日を繰り返していた。それから今の営業職に就いた。
中学生の頃に学んだサッカー部で培った盛り上げ力を評価された俺はある意味、適材だとは思うが、これしか持ち合わせていなかった。取り柄かと言われたらそうとも言えない。本来なら、チヤホヤされたい側だし、その場凌ぎでやっていただけだからだ。そんな営業職に就いてからも未だに心臓は弱いままだった。
窓越しに見える虚像に向かい合った自分と目が合う。
この前も、お客さんを必死に説得する筈が、俺の心臓が弱いばかりか、ディフェンスをあっさり抜かれてしまい、追いかけようと走るが息が出来ずに、そのまま街の彼方へとお客さんを逃してしまった。
何で俺ばっかり、こんな目に。本当なら今頃、サッカー選手でお金持ちになってて、マクラレーンにポルシェ、隣に超絶美人で尻と胸が最高の最愛の妻がいる人生な筈なのにな、と頭の中で思いに耽り現実と比較して気持ちが落ちる。
今日も、嫌々ながら営業し終わった。
街中のビルの目の前で、窓に映る自分に話しかけてる姿は奇人としか言いようがない。
部署はそのビルの反対側にあるため直帰するには近すぎる距離だった。
職場へ帰ってきたら、営業部長が俺を睨みつけていた。
すると、口が開かれる。
「はあ、今月のノルマ全然じゃないか、もっと客取れよ、お前。いっつも、おせぇんだから、今月くらい巻いてこぅな、まあ、二日でとれるかしんねえけど。そうなったら、お前が契約な?」
俺は目をギョッとする。
「いや、でも部長、ノルマは最低限で取れた筈ですが?」
低姿勢で、部長の顔を窺いながら恐る恐る疑問を呈した。
「なに言ってんだよ、馬鹿か。先月の最低と今月は違えんだよ。動くんだよ、今月は!これだから、まったく、とりあえず明日までにある程度の契約してこい、今からモッカイ、外回りだ!」
部長の声は平成初期の真夏の三部練で追い込む監督のそれであり、スパルタ仕込みでコンプライアンスなんて言葉を知らない人種だった。生粋の体育会系で精神論者の怒号は俺の耳の中にまで、つんざく。鼓膜が震えてキーンと耳鳴りがした。
「えっ、わっ、分かりました!行って参ります!」
まだ、部長は何か言っているが、二つ返事をして、その場を後にした。こういう所も俺のいけないところだとは思っている。いつか、ぜったいに辞めてやる、何回か思ったことはあるが、今の生活から抜け出せず、給料もそこそこ貰えるから、理不尽なことを言われても、何だかんだやっていた。
そして街へと赴いた。
お客さんの契約を交わしてる途中、スタスタと優雅に黒い猫が路地裏から歩いてきた。こっちを見るなり様相が変わる。
黒い猫が駆け足で、ポケットに入れてた俺の紐付きカードケースの社員証を口に咥えて走り抜けていった。街の喧騒を駆け巡る。道中、通行人とぶつかりそうになりながら必死に猫を追いかける。住宅街へと繋がる裏通りに、黒猫は息遣いが荒くなった俺を煽るように、前足を舐めてお腹や耳やらを毛繕いしている。
完全に馬鹿にされていた。すかさず、息を整えて黒猫を掴まようと両手を広げるが、踵を返した黒猫の速度には追いつかなかった。
裏通りを抜けて街道に出てきた。
通路の塀をひょいひょいと伝っていく。黒猫を必死に追いかけると工事現場のような場所へとつく。その中へ黒猫は入って行った。
クソ、こんな所まで入りやがって。だけど、社員証無くしたら部長になんて言われるか。しかめっ面をした部長の顔がモヤモヤと浮かび上がっていた。
『入るな!』と表示された看板を無視して敷地内へと駆け足で侵入する。
黒猫は建設途中の鉄骨をいとも簡単に登っていく。
「おいおい、どんだけ上がるんだよ、待てよ猫ぉ。」
追いかける俺に対して、黒猫はこちらを一瞥し、また鉄骨の階段を上がった。
白い吐息が夜の寒空に消えていく。
肌は紅く染まり、額に汗を掻いている。
小走りで息切れしながら登る。ようやく最上階、もう行き場がない猫を追い詰めた。
「よーし、よしいい子だ。さあ、捕まえた!」
ーーガコんっ
「え?」
捕まえようとした瞬間、建設途中の鉄骨は足場ごと崩れて猫も俺と同じく宙に浮いていた。ボルトとナットが緩み、繋ぎ止めていた配管は外れて地面に突き刺さる。
ここは最上階、落ちればただでは済まない。視界は加速度的に早くなり物体が残像として映っていく。必死で猫を抱き寄せて俺は地面に激突した。
瞬間、辺りは暗くなり全てが無にきした。
何処からか光が差し込んできた。グラデーションのように辺りは輝いていく。
『此処は……何処だ?』
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