楠家での生活
翌朝、5時丁度に私は目を覚ました。
体を起こすと、自分に掛けられている毛布が目に入り、ほんの一瞬だけ眉をひそめる。
「……いつの間に?」
どんなに深く眠っていても、誰かが近付けば必ず感知し即応していたはず。それが今回は、全く気づかなかった。
「……気が緩んでいた」
呟くと、両手で自分の頬を思い切り叩く。
「……ひはひ」
思わず強く叩き過ぎ、口の中にじんわりと鉄の味が広がる。
しかし数秒後には出血も止まり、頬の赤みもスッと引いていった。
これでいい。油断のし過ぎだ。
すっかり目が覚めた私は、客用トイレの洗面所に向かい、顔を洗う。
冷たい水が肌を引き締め、まだ少し重い頭がようやくクリアになる。
鏡に映る自分の寝癖も、魔法で一瞬のうちに元通りにし、邪魔にならないように低めの位置でポニーテールを結った。
続いて、昨夜寝ていたソファや店内の客席の清掃に取りかかる。
下手に音を立てれば階上のマスター夫妻やみちるを起こしてしまうかもしれない。
それを避ける為、道具は使わず、魔法だけで静かに。しかし徹底的にホコリや汚れを消し去っていく。
無駄のない動き、無駄のない思考。ただ静かに、ただ黙々と。
まもなく、喫茶スペースは埃一つ、髪の毛一本すら落ちていない完全な清潔空間へと変貌を遂げた。
任務をやり遂げた私は、ソファへ腰を下ろし、無人の店内をぐるりと見渡す。
きっと今日も、この空間には穏やかな笑顔と、ゆっくりとした時間が流れる。
……例えこれが夢だとしても、穏やかな時の中で過ごせるのなら、きっとこれ以上の幸せはないのかもしれない――。
ぼんやりと天井を見上げ、束の間の安堵に身を委ねた。
しかし、やがて手持無沙汰になり、ふと目を閉じる。
今度は千里眼の魔法を起動し、視界をはるか空高く押し上げる。
脳内にダイレクトに送り込まれてくるのは、まるで航空写真のような映像。町全体を俯瞰し、重要な拠点を一つひとつマッピングしていく。
柚木あかりから教わった学校
パン屋やアクセサリーショップ
そして警察署、病院、消防署といった公的施設
さらには、いざという時に迅速に移動できるよう、迷路のような細道も一本一本正確に記憶していく。
――ズキン。
「……くっ」
あまりに一度に情報を詰め込みすぎたのか、頭に鋭い痛みが走った。
一旦魔法を中断し、眉間をぎゅっと押さえ込む。
ナノマシンが自動的に働き、ズキズキとした痛みを鎮めていく。
数秒後、痛みが完全に引く。
「ふぅ……」
やれやれと、大きく息を吐く。
静まり返った空間の中で、階上からわずかな物音が聞こえてきた。
チラと時計を流し見て、時間的に見ても、きっとマスターかマダムが目を覚ましたのだろう。
少し間を置き、老夫婦が身支度を済ませた頃合いを見計らって、階段を静かに上っていった。
* * *
階段を上り切り、静かにリビングの扉をノックしてから開ける。
「……おはようございます」
「おはようございますアリサさん、今日も早いですね」
キッチンからマスターの声が返ってくる。すでにエプロン姿で、朝食の支度を始めている所のようだ。
マダムも窓際で観葉植物の世話をしており、朝の静かな時間がそこにはあった。
「おはようアリサちゃん、今朝ももう掃除を済ませてくれたんでしょう?」
マダムが指をくるくるっと回し、魔法を使った事を思わせるジェスチャーしながら穏やかに微笑む。
「……はい。問題ありません」
短く答えつつ軽く一礼をした。
その時、マスターが料理をする手を止め、私へと振り返った。
「アリサさん。朝食まではもう少し時間がかかるから、みちるを起こしてきてくれるかい?」
マスターの言葉にマダムもいたずらっぽく笑いながら続けた。
「あの子、まだ時差ボケで起きれないかもしれないから」
「……承知しました」
みちるの部屋はこのリビングより更に上の3階にある。
初めて楠家に来た時からこの家が3階建てであるのは外観から分かっていた。リビングからも上に登る階段が見えていたが、許可なく踏み込む事は出来ず、気になっていた場所ではあった。
階段の電気を点け、トントンと足音を立てながらテンポよく階段を登っていく。
階段を登り切った3階は廊下と3つのドアに分かれており、よく見ると天井にも取っ手が付いており更に上にも空間がある事が察せられる。
このドアの一つはみちるの部屋へ、もう一つは楠夫妻の部屋へ、さらにもう一つのドアはトイレのようだ。
この中でもみちるの部屋はとても分かりやすい。
ご丁寧にドアに<みちる>と書かれたミニ看板が下げられているからだ。
しっかりとドアをノックし、10秒程待っても中から返事がない。
「……お嬢様、失礼致します」
もう一度ノックをして、ドアノブを捻り、みちるの部屋へと足を踏み入れた。
……この空間は、彼女のものだ。
一目でわかる。どこまでも無駄を排除し効率的で寝泊りするだけの部屋と違い、どこか柔らかく、甘い匂いが漂う場所。
壁は薄いクリーム色で、ほんのりと花の模様が織り込まれている。窓辺にはレースのカーテン、その奥には陽の光を柔らかく受け止める厚手の布が揺れていた。
その隅に、ふと目に留まったもの――小さなクマのぬいぐるみ。さらに視線を移すと、机の上に並べられた文房具や、整然と積まれた本、ドレッサーの上に置かれた装飾品たち。
そして品のあるアンティーク調のベッドで、未だスヤスヤと眠り続けるみちるの姿。
「………まるでお姫様みたいだ」
思わず、声に出していた。別に誰に聞かせるつもりもない。ただ、自分の目に映るものをそのまま言葉にしただけだ。
無駄なものが多い。飾り気がある。だがそれは、彼女にとっての日常の一部なのだろう。
この空間には武器も装備もない。代わりに柔らかさと温かさが満ちていた。
そっと彼女の近くへと歩み寄り、その身体を優しく揺する。
「んぅ……、あれ……おばあ様……じゃない。アリサ……?」
「……おはようございます、お嬢様。マスターからの指令で参りました」
「そ……おはよ……」
その返答は気だるげで、一度開いた瞼もすぐにゆっくりと閉じられる。
「………………すぅ」
再び寝息を立て、眠りの世界へと戻っていこうとするみちるの身体を揺さぶり、覚醒を促す。
ゆさゆさ
「うぅ~…………何なのよ~…………。クロワッサンは一つで良いってば……」
ゆさゆさゆさゆさ
「うるさい~……今何時だと……、ん……? へゃああああっ!?」
今度こそばっちりと目が合い、みちるの眠そうな目が一気に見開かれ、奇声を上げながらベッドから跳ね起き、そのまま後退ろうとしてベッドから落ちる。
「痛ったぁ……! ななななな!! 何で! ナンデ!?」
「おはようございます、マスターからの指令で起こしに来ました」
無表情を崩さず淡々と告げ、ペコリと一礼する。
「スンッ……てしてるんじゃないわよ! ……びっくりしたじゃない」
みちるはむくれながらそっぽを向き、右手で長い髪の毛をくるくるといじる。自身の恰好がベッドから落ちて乱れていたのに気付いたのか慌てて直し、キッと私を睨みつけた。
「ちゃんと起きたから大丈夫よっ! 着替えるから下に行ってて!」
「……畏まりました」
踵を返し、速やかにみちるの部屋を後にする。
「……起こしてくれてありがとう」
ドアを閉める寸前に、みちるが呟いたのをしっかりと聞き逃さなかった。
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任務を終えた私は階段を静かに下り、再びリビングへと戻った。
「ありがとうアリサさん。あの子、起きてくれたかい?」
キッチンでフライパンを振っていたマスターが、軽く笑いながら声をかける。
恐らくみちるがベッドから落ちてドタバタしていたのが聞こえていたらしい。
「……はい。問題ありません。支度をしてすぐに降りてくるそうです」
きっちりと報告すると、マダムもクスクスと微笑んだ。
「ふふ、あの子ったら、きっとまた寝ぼけてたんじゃない?」
「……その通りでした」
無表情のまま、淡々と告げると、マスターとマダムは思わず吹き出す。
「まあまあ、朝は誰だってそうなるさ」
ジュウジュウといい音を立てて、目玉焼きが焼ける香ばしい匂いが部屋に満ちていく。
マスターは手際よくベーコンと目玉焼きをそれぞれの皿へと盛り付け、焼き立てのクロワッサンを大皿に並べた。
「今日も良い出来だね」
マスターは満足そうに呟き、テーブルに料理を並べ始める。
程なくして、上からパタパタと走る足音が聞こえてきた。
「おはよう、おじい様!おばあ様!」
みちるが足早に階段を下りてきた。パジャマから春らしいワンピースに着替え、寝ぐせの立っていた髪はしっかりと梳かされていた。
そして私と目が合うと、さっきの出来事を思い出したのか顔に赤みが増していた。
「おはようみちるちゃん、よく眠れたかしら?」
マダムが優しく微笑むと、みちるは少しふてくされながらテーブルにつく。
「もう、おばあ様ったら……ほんとアリサが突然来て、びっくりしたんだから!」
「あなたがなかなか起きてこないからでしょう?」
マダムがクスッと笑い、みちるは「むぅ~……」と頬を膨らませた。
「……マスターの指令を遂行しただけです」
「……あんたはほんっと、ブレないわよねぇ……」
みちるはため息混じりにそう言った。
一方私は、テーブルに並べられた大皿の上のクロワッサンへと興味を向けていた。
パリ……フランスという国では日常的に食べられている、バターが豊富に練り込まれたサクサクした触感が特徴の人気パンと情報にはあった。
それについ先ほど、みちるの寝言でも出てきたパン……とても興味深い。
「……クロワッサン」
「~~~~ッ!! あんた後で覚えておきなさい……!」
「……??」
何故か目前のみちるが顔を赤くして憤慨しているが、首を傾げつつもクロワッサンをひとつみちるの小皿へ、もう一つを自分の小皿へと取り分けた。
みちるは鼻息荒く私を一瞥するも、クロワッサンを一口かじると、思わず表情がほころぶ。
「うん……! やっぱり、おじい様のクロワッサンは最高!」
「おはようみちる、そう言ってもらえるとおじいちゃんも作った甲斐があるよ」
キッチンから戻ってきたマスターが、ニコニコと笑みを浮かべながらみちると私の前に淹れたてのカフェオレを並べていく。
(一口であんなにキラキラした笑顔に……、これは期待しても良いのだろうか?)
クロワッサンを手に取り、一口大へと千切ろうと力を込める。指先から伝わるのはサクサクッとした薄い生地が何層にも織り込まれた生地の触感としっとりした油分、これはきっとバターが染み出したものなのだろう。
期待を込めて早速一口——。
始めはカリッと、次に噛みしめるとサクジュワッと芳醇なバターの甘味と香りが口内に広がっていく。程よい塩味がアクセントとなり、もはや一口一口千切る手間すら惜しくなるほど、食べ進める手が止まらない。
「……ッ!」
クロワッサンは曲線を描く形をしたパンだが、中央に近付く程その胴回りは太くなり、さらに両先端とは打って変わりモチモチとした食感になっている。
サクサクした部分と比べて食べ応えもあり、更に噛む度に練り込まれたバターの旨味を感じやすい。
最早止まれない……! しかしモチモチエリアは短く、あっという間にサクサクエリアへと進んでしまった。
カリカリから始まりモチモチを経てカリカリに戻っていく。
——脳裏に電流が走る。
まるで人生みたいではないか? 人の人生の旬もあっという間だと先人は言っていた。
このクロワッサンは一つだとただの曲線。しかし二つ合わせると円となる……。つまりカリカリとモチモチは人の命のサイクルを意味しているのではないか??
宇宙の真理を解明しかけていた私に、みちるが「……え、怖っ」と顔を顰め、マダムが「あらあら」と楽し気に笑っていた。
その後、続けて食べた目玉焼きとベーコンにまた感動し、脳内で饒舌に味の感想をツラツラと述べている時。
「……もうすぐ学校か。春休み、あと少ししかないのよね」
クロワッサンをつまみながら、みちるが呟いていた。
「新学期の準備はできてるの?」
マダムが問いかけると、みちるは「え……ええ、問題ないわ」と視線を逸らす。
私はそのやり取りをじっと見つめ、静かに目を伏せた。
自分にとっては関係ない場所――。でもあの柚木あかりがいる場所。
そんな思考も、みちるが目玉焼きに醤油をかけていたのをまねして食べた衝撃でどこかへ吹き飛んでしまった。
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まもなく開店時間となり、エプロンの紐をきっちりと結び直すと、マスターの合図でドアの看板をオープンに変え常連の老夫婦を案内する。
そのまま立て看板を外に出し、あとはみちると共にホールの配膳を行っていく。
開店から1時間もすると次々客足が増え、一時はカウンター席まで満席になるほどの大盛況振りを見せた。
「……お済みのお皿、お下げします」
「……2番テーブル、オーダー入りました。ウィンナーとアイスオレ、バタートーストとハムサンド」
「……生クリームと食パン、ブラジルとコロンビア豆の補充完了しました」
無駄な動きは一切なく、動作もキビキビと完璧であると評価できるだろう。
空いたお皿は瞬時に片付け、店内の清掃も隅々まで見逃さない。
マスターとマダムも満足気に頷いてくれていた。
「うーん……アリサちゃん、やっぱりすごいわねぇ」
マダムが笑顔でそう呟くと、みちるも感心したように頷く。
「……ほんと、なんでそんなにテキパキ動けるのよ。今日でまだ二日目でしょ?」
……しかし、私にもどうにもならない弱点がある。
「……いらっしゃいませ」
入店してきたお客様に声をかけるが、常連のおばあちゃんは一瞬固まる。
「……あ、あら?あの……初めて見る子ね?」
「ああ、親戚の子で昨日からお手伝いしてくれてるんですよ」
マスターがすかさずフォローを入れ、みちるが笑顔で案内する。
その後戻ってきたみちるが、私の耳元でそっと小声でささやいた。
「……あんたさ、無表情すぎ。もっと笑顔笑顔!」
「笑顔……」
目を瞬かせてから、ぎこちなく口角を引き上げる。
しかしその表情は変わることなく……否、きっとほんの0.5mmくらいは動いていただろう。
……固まった表情筋は中々に頑固で強固だ。
「いや変わってないしっ!」
みちるがビシッと私の胸へ手刀を当てた。
細腕の一撃は軽く、ぽすっと音だけが虚しく鳴る。
「……申し訳ありません。次善策を検討します」
「いや、次善とかじゃなくて……自然に、もっとリラックスしなさいよ!」
みちるが頭を抱えている間にも、私は淡々と注文を取り、ミスひとつなくキッチンへと戻っていく。
――後に彼女から告げられた評価は、『動作は完璧。でも、接客だけがどうしても人間味に欠けているわ』との事であった。
「でも……ほんと、すごいわよね。私がここでお手伝いしたときなんて、注文間違えたりグラス割っちゃったりしたのに……」
少しだけ悔しそうに、でもすぐフォローに入れるようにみちるは私を見守り続けていた。
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お昼過ぎのピークを過ぎた頃、店内はようやく落ち着きを取り戻していた。
カウンター席では常連客の男がいつも通りノートパソコンとにらめっこ中、あとはぽつりぽつりと数組だけ。
私は最後のテーブルを片付けると、きっちりとトレーを整え、キッチンに戻った。
「ふぅ……」
みちるはホールを見渡してようやく一息つけそうだと、肩の凝りをほぐすように軽くストレッチをする。
「帰国して早々に忙しかったわね……私達がいない間もこんなに忙しかったの?おじい様」
サイフォンのフィルターを付け替える手を止めて、マスターがみちるへと目を向けた。
「いいや、不思議と昨日おとといと急に人が増えてきてね。アリサさんがいてくれて助かったよ」
視線が私に向き、マスターへとぺこりと軽くお辞儀する。
「……マスターのご指導のおかげです」
「その真面目すぎるとこが逆にすごいわよ……」
みちるが呆れ半分に呟き、時計を一瞥して少し逡巡した後、再び口を開いた。
「ねぇ、アリサ」
「……何でしょうか?」
「新学期の買い物、付き合いなさいよ。お店もおじい様とおばあ様に任せても大丈夫?」
みちるの言葉にマスターが手を挙げて応える。
「……買い物」
一瞬だけ眉をひそめる。
人混み、雑踏、にぎやかな町並み――自分には、まだ未知の空間だ。
「別に大したことしないわよ。文房具とか、ちょっと春服見たりとか。それだけ」
みちるはわざと軽い口調でそう言い、手をひらひらと振った。
「……承知しました。同行します」
これは、この世界を知るチャンスである。
確と頷き、静かに手を握り締める。
「ふふ、お二人とも気をつけて行ってきてね~。帰ってきたら、またお茶にしましょう」
「はーい! 行ってきます! ほら、アリサ!」
みちるは元気よく手を挙げ、私の腕を引っ張るようにして居住スペースへの階段を登っていく。
「……いいわねぇ、青春って」
「……ああ」
そんな二人の言葉が、背後から小さく聞こえていた。
少しずつ日本の知識も得てきたアリサ。
次はいよいよお出かけです。
次回もお楽しみに!




