星詠みのマダム
無事に会議が終わり、アリサが正式に楠家へ居候することが決まった。
それより少し後、みちるが入浴している間を見計らって、アリサは改めてマスターとマダムに礼を伝えに向かった。
「……失礼します、マスター、マダム」
「ちょうどいいところよ。あなたの話をしていたの。さあ、座って」
アリサは軽く会釈して、空いている椅子の前に立つ。
テーブルの中央には赤ワインのボトルとグラスが二つ、ナッツやビスケットが盛られた小皿――二人の晩酌用らしいものが置かれていた。
「改めまして。今日からお世話になります。どうぞ、よろしくお願いします」
椅子に座る前に深々とお辞儀をする。
行くあてもなかった自分を受け入れ、この国での戸籍まで与えてくれた二人に対し、感謝してもしきれない。
この恩は、必ず自分にできる形で返すと心に誓っている。
「ああ、こちらこそ。お店の方はもう何も心配はしていないよ。それよりも……みちるのことよろしく頼みます」
「そうよ。あの子……本当はとっても優しくて、寂しがり屋なの。アリサちゃんみたいな同い年の子がそばにいるだけで、ずいぶん違うはずだから」
「……この身に代えてでも」
アリサは静かに敬礼をする。それは、兵士としての、そして彼女なりの誓いだった。
「ははは、そんなに堅くならなくて大丈夫ですよ。もうアリサさんも、我が家の一員………戸籍上は親戚ですからね」
マスターの言葉にアリサがマダムへ目を向けると、マダムはウィンクを返した。
「それより、詠子さん……家内から君の話を聞いたときは、正直、半信半疑だったよ。まさか、本当に予言通りにゴミ捨て場で裸で倒れているとは思わなかったからね」
マスターが苦笑混じりに語り始める。
実はアリサと出会う二週間ほど前、みちるが春休みに入ると同時にマダムと共に旅行に出かけていた。目的地は海外で暮らす両親のもと。
そしてその出発前に、マダムは一枚の置き手紙を残していったのだ。日付と時間まで指定され、「必ず行うこと!」という注意書きまで添えられていたその紙は、もはや予言書というより指令書だった。
基本的にはその内容に従って、二人はアリサを助けるべく動いてくれていたらしい。
「星詠みのマダムの名は伊達じゃないってことよ。世間一般にはよく当たる占い師として通っているけれどね」
「……なるほど」
魔法のこと──特に、アリサがあの時に受けた視られている感覚の正体を今ここで聞いていいものかどうか。
そう迷ったその一瞬を、彼女は見逃さなかったのだろう。
詠子はふと手を動かすと、何もない空間からさらなる酒のつまみを取り出して机に並べた。
マスターもまるで驚いた様子を見せず、当然のようにその様子を受け入れている。
「……マダムのそれは、魔法ですか?」
「ええ、そうよ。初対面のときに使ったのは見通しの魔法──目を合わせた人間の記憶を読み取る魔法。
それと、星詠みの魔法。未来をぼんやりと見通すことができるの」
あのとき感じた、魂まで見透かされたような感覚。
レジストが効かなかったということは、やはり魔科学とは根本的に異なるものなのか……。
「家内の不思議な力は遺伝していてね。息子にも強力な魔法の素質があったみたいで、制御できるように毎日練習していたよ」
「……マスターは、魔法は?」
「まさか! 私はただの人間ですよ」
そう言って、肩をすくめるとマスターは苦笑を浮かべ、グラスのワインを一息で飲み干した。
おそらくこの魔法の事、かなり重大な機密情報なのだろう……。それを私に話してくれたということは、少しは信頼してもらえている……ということだろうか?
マスターが空になったグラスを置いたあと、ふと真剣な眼差しをアリサへと向ける。
「──みちるもね、家内の血を引いているから、魔法の素質はあるんだよ。かなり強い力が、ね」
「……そうだったんですか」
アリサが思い返すのは、つい先程の会議の時に彼女と目があった瞬間。不安定ながらも不思議な気配のようなものを感じた瞬間があった気がする。
「けれど、子供の頃にね……ちょっとした事故があったんだ」
マスターは少し声を落として、言葉を選ぶように話し出した。それを見て、詠子がゆっくりと続ける。
「まだ小学校に上がる前のことだったわ。現場を見ていた子へ見通しの魔法を使って視ただけだから正確な会話までは分からない。けれどやんちゃな男の子が、あの子の気を引こうとしたのでしょうね……」
ふぅ……と詠子はため息をつきながら続けた。
「子供のいたずらで大きな蜘蛛を目の前に出された時、恐怖の感情が爆発してしまったのか男の子の持っていた蜘蛛が一瞬で焼け焦げ、男の子も火傷をしてしまったの。あれは……魔法の暴走だった」
アリサは黙って耳を傾ける。みちるが纏う常人とは異なる気配、どこかで感じる孤独の影。その理由が、少しだけ繋がった気がした。
「それからよ。みちるは……私達家族以外の人とは距離を置くようになった。表面上は明るく振る舞っていても、心の奥には誰も踏み込ませない……。まるで、自分の中にある何かを恐れているみたいにね」
「だから、アリサさん」
詠子の声が柔らかくなる。その目には孫娘を案じる祖母の深い愛情の色が宿っていた。
「どうか、あの子のそばにいてあげて。……あなたなら、あの子の凍った心を、少しずつ溶かしてあげられるかもしれないわ
「……了解しました」
アリサは静かに、しかし力強く頷く。
それは任務ではなく、自分自身の意志によるもの。
心の奥で芽生え始めた、自分が生き残る為ではなく、誰かのためにという感情が、その一歩を後押ししていた。
そんなアリサの様子を見てマスターとマダムは安心したように微笑んだ。
「さて!みちるちゃんの事はここまでにしておいて、アリサちゃんの事も教えてくれるかしら?」
マダムは既に映像として私の過去を見ていたはずだが、横にいるマスターはまだ何も知らないだろう。
それに、こちらとしても楠家の秘密を知ってしまった以上、自分だけが情報を伏せておくのは、不義理というものだ。
この二人なら、口が軽いということもないし、信頼に足る。
そう判断したアリサは、一つ深く呼吸を整えると、マスターとマダムそれぞれの目をまっすぐに見据えて口を開いた。
「……分かりました。私も、お二人には正直にお話しようと思っていたところでしたので」
軽く一礼して席を立ち、アリサは判断を下す。
──論より証拠。まずは実物を見せた方が早い。
[……展開]
機械染みた、抑揚のない音声が唇から漏れた瞬間。
黒と紫を基調とする無数の魔術回路が床に展開され、まるで精密機械のように魔法円が重なり、正確に、冷徹に回転を始める。
ナノマシンの粒子が紫の光を放ちながらアリサの身体を走り、黒を基調としたバトルスーツを形成していく。
その姿は、ロングコートを思わせる静謐なシルエット。背中には、黒翼を模した装飾がマントのように展開された。
両腕には漆黒の魔術回路が刻まれたグローブ。脚には、機能美と戦闘力を兼ねたロングブーツ。
そして──最後に、彼女の右手に収束した粒子が、一本の杖型デバイスを構築する。
先端には、艶のない無機質な宝石が──まるで「ようやく出番か」と言わんばかりに──冷たく鈍く、静かに光った。
頭部には、目元を覆うように白銀のバイザーが展開される。
それはまさに、「兵器」としての魔法少女。祝福よりも死と絶望を招く死神と呼ぶべき存在の姿だった。
「……これが私。特別侵撃魔導機動部隊所属、識別コードH-163」
その変身は、傍目には一瞬の出来事だった。
瞬きをすればすべてが終わっていたように見える。そうした錯視魔法が発動するのがお約束なのだ。
呆然と口を開けたまま固まるマスターと、未知への探求心を隠すことなく、全身を興味深そうに食い入るように見つめるマダム。
その対照的な反応は、どこか微笑ましくもあり──
同時に、魔法という存在がいかに異質で、そして多様であるかを再認識させてくれる光景でもあった。
「やっぱり、視るのと目の前にあるのとでは全然違うわねー」
マダムが楽しげに言葉を漏らす。
「視れたアリサちゃんの記憶には戦闘の記録しかなかったけれど……。基本的な魔法は使えないのかしら?」
「……もちろん、存在します」
アリサは静かに頷いた。
「清潔な水を生み出す魔法、火を灯す魔法……。日常的なささいなことでも、すべて魔法で処理することが可能です。
そもそも魔科学とは、人の生活を豊かにするために、長い長い年月をかけて研究されてきた──偉大なる技術の結晶のはずでした。
……その末路があれでは、先人たちも報われないでしょうが」
そう口にしながら、アリサはパワードスーツの[解除]コマンドを発動する。
紫の光が彼女の身体を包み、戦闘用の装束は一瞬で霧散。何事もなかったかのように、普段の私服姿へと戻った。
マスターとマダムの目には、その一連の流れすらまるで魔法のように映ったに違いない。
「うーん……やっぱり、私たちの使う魔法とは似て非なるものね」
マダムは腕を組みながら唸った。
「精霊の力をまったく感じなかったわ。どちらかというと……そうね、機械を相手にしているみたいだった」
さすがは星詠みのマダム。鋭い指摘だった。
だが、アリサは表情一つ変えず、その言葉に応えることはなかった。
……まだこの技術は、この世界に開示すべき段階ではない。アリサはそう判断していた。
いくら恩人とはいえ、世界を滅ぼしかねない原理の一端たりとも今は誰にも語るつもりはなかった。
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マスターとマダムとの話し合いは、みちるが風呂から戻ってくる気配を感じ取り急遽終わりを告げた。
アリサの魔科学の事も、みちるが魔力を持っている事をアリサが知ったという事も、今はまだ彼女には内緒にしておこうと取り決められた。
洗面所の引き戸がカラリと開き、湯上がりのみちるがリビングに戻ってくる。
濡れた髪をタオルで拭いながら、彼女は祖父母と共に座るアリサの方へちらりと目を向けた。だがその視線は一瞬だけで、すぐに逸らされる。
「……ちゃんとお風呂、残してあるわよ。次、入るんでしょ?」
口をついて出た声も、どこかぎこちない。普段ならもっと勝ち気に言っていたかもしれない。だが今は、なんとなくどこか気まずさが先に立っていた。
アリサは小さく頷いてマスターとマダムへと軽く会釈し立ち上がる。
「……感謝します」
短く、そして丁寧に返したその声に、みちるはまた微妙な間を置いてから「ふんっ」とそっぽを向きソファーに腰を下ろした。
アリサが浴室へと向かっていく背を、みちるはこっそりと目で追った。
何か言いかけて、でも結局何も言えず、そのまま黙ってテレビのリモコンを手に取った。
バラエティ番組の賑やかな音声が部屋に広がるが、画面に集中するでもなく、彼女はしばらくぼんやりと思考に耽ていた。
アリサがシャンプーを洗い流そうと、再びシャワーのレバーをひねると流れてきた突然の水に不意を打たれ悲鳴を堪えている頃、みちるはまだソファーに座りぼんやりと考え事を続けていた。
「みちる、まだ髪を乾かさないのかい?」
「おじい様……!……うん、ちょっと考え事していて」
ソファーの前のソファテーブルに湯気の立つホットミルクを置き、マスターもとい芳夫もみちるの隣へと腰掛ける。
「あっ……!おじい様のホットミルク!旅行中もずっと飲みたかったのよね!」
カップを持ち上げ、念入りに息を吹きかけ火傷しないように冷まし、気を付けながら口を付ける。
みちる好みのたっぷりのはちみつと砂糖の甘味が効いた、温かくまろやかな牛乳が彼女のもやついた心も溶かしていく。
ふぅ……と息を長く吐くと少し楽になった気がした。
「……ひょっとしてアリサちゃんの事かな?」
「……うん。さっき私……あの子に酷い事言っちゃった。まだ何もあの子の事知らないのに。
でも、あの子は……すごく冷たくて、感情がないっていうか……何を考えてるか分からなくて……」
みちるは膝を抱え込むようにソファの上で身体を丸め、マグカップを両手で包んだ。
「なのに……ずっと気になっちゃって……」
「ふむ」
芳夫は笑いもせず、ただ穏やかにみちるの話を聞いていた。
「……さっきだって、本当は謝りたかったのに素直に言えなかった。……なんか変な感じなの、あの子の前だと」
そう言って、みちるはほんの少し唇を尖らせた。
照れと苛立ちがない交ぜになったような、まさに年頃の少女らしい表情だった。
「みちる」
芳夫は優しく孫娘の頭に手を置き、優しく愛おしそうに彼女を撫でる。
「その気持ちを持てたことが、きっと大事なんだよ。アリサちゃんも……いろんなことを背負ってここに来ている。だがきっとみちると同じで、まだどうしていいか分からないだけだ」
「……わたしと、同じ……?」
「そうさ。不安な時に強がってしまうのも、不器用にしか言葉を出せないのも、年齢や生まれた場所なんて関係ない。きっとアリサちゃんも――」
そのとき、洗面所の引き戸がカラリと音を立てて開いた。
アリサが湯気の向こうから現れ、用意された部屋着を纏いながらリビングへと戻ってくる。
まだ湿った髪を整え切れておらず、いくぶん無防備な姿だ。
彼女はソファに座るみちると芳夫に目をやり、「お風呂、頂きました」と頭を下げ、二人の邪魔をしないようそっとその場を通り過ぎ、階下の喫茶スペースへの階段を降りて行こうとする。
みちるは、ソファーから跳ねるように立ち上がり、咄嗟にアリサへ声をかけようとして……でも、喉の奥に言葉が引っかかった。
そうしてようやく捻り出せたのは、隣にいる芳夫にしか聞こえないくらいのほんの小さな一言だった。
「……ごめんね」
しかし、その言葉にアリサの足がピタリと止まった。
そして振り返るとぺこりと軽く会釈をして、今度こそ階段を降りて行った。
たったそれだけのやりとり。
だけど、それは確かにほんの一歩だけれど、その距離は確かに近付いていた。
みちるは再びソファへ座り、ホットミルクを手にしながら、少しだけほっとしたように微笑んだ。
その時、マダムがキッチンから顔を出し、みちるに声をかけた。
「みちる、髪を乾かさないと風邪をひくわよ」
「あ……、はい!おばあ様!」
みちるは慌てて立ち上がり、洗面所へと向かった。
ドライヤーの音が洗面所から聞こえてくる中、マスターとマダムは静かに会話を交わした。
「アリサさんも、意外とあの子と相性は悪くないのかもしれないね」
「ええ、みちるも彼女のことを気にかけているみたい。このまま二人が仲良くなってくれるといいわね」
その頃、階下の喫茶スペースに戻ったアリサは、昨日使わせてもらっていた毛布がどこにもない事に気付いた。
別に毛布が無くても、室内で雨風を凌げる上に地べたでもない、しかも流れ弾が飛んでこないだけでも上々で、それ以上望むのはあまりに贅沢だと一人納得し、昨晩と同じソファ―席へ横になった。
目を閉じて深呼吸をすると、挽かれたコーヒー豆の香ばしい匂いが鼻腔を擽り、より心地良さを増してくれる。
「……今日は色々な事があった」
あまりにも平和で穏やかな時間。
マスターの淹れるコーヒーを楽しみ和やかに談笑する人々、美しい自然の青々しくも爽やかな空気、誰かの為に一生懸命になれる柚木あかりという少女。
……もしかしたらあの時から、ずっと長い夢を見ているのかもしれない。
脳裏に過るのはあと一歩、僅かに届かなかったが故に極光に包まれた世界。あの光景がアリサの人生最後の景色のはずだった。
今この日本で本当に自分が生きているのか。
それとも夢を楽しんでいるだけなら、あの極光で身体が吹き飛ばずに奇跡的に助かって昏睡でもしているのだろうか?……否、そんなはずがない。
アリサには信仰する神も宗教もない。というのも魔科学の発展により、人々は神という不確定な存在へと縋る必要がなくなったからだ。
それ故に、死後の世界の存在を全く信じていなかった。
寿命を迎えた人間は、ただのたんぱく質の塊となり、ナノマシンにより分解されて消えるのみ。
その後の魂の行方など誰も観測できた試しが無い事がないなら、天国も地獄も存在していない。
ただ電源を切られた機械のようにモノになるだけなのだと。
「……でも、夢なら覚めないで欲しいな」
もしこれが夢だとしたなら……。いっその事眠っている私を殺してほしい。
——チクン。
胸の奥、ほんのわずかに、針で刺すような違和感が走った。だが、それは痛みと呼ぶにはあまりにも弱々しく、アリサは特に気にすることもなく眠りにつこうと思考を止めた。
アリサが意識を深い眠りへと落とし込んだ頃、階段を降りる足音が静かに近づいてくる。
「あ……寝ちゃってる?」
部屋着姿に髪を乾かし終えたみちるがそっと喫茶スペースを覗き込み、ソファで静かに眠るアリサを見つけ眉をひそめた。
「……良くこんなところで毛布も無しに寝れるわね、まだ夜は寒いのに」
つい小声でツッコミを入れてしまうが、当の本人は何の問題も感じていないかのようにすやすやと眠っている。
「心配して見に来て損したわ、まったくもう……」
小さく息を吐くと、みちるは店の奥からそっと毛布を取り出し、アリサの上に優しくかける。
「……おやすみ」
そう囁いて、彼女は階段を引き返していった。
星詠みのマダムは魔女さんだったのです! マダムは強キャラです。
次回もお楽しみに!