第16話(ユウキ) 凍てついた時の中で語られる(3)
とりあえずは安全を確保できたようだった。あれからずいぶんと経つが、追手の来る気配はない。かく乱は成功したいみたいだ。彼女と話がしたかったが、不用意に音を立てるのはまずいと思って、ずっと黙っていた。
サクラはまだ目をつぶっている。本当に寝てしまったのかはわからない。ただ眼を閉じているだけなのかもしれない。目に見えているものだけがすべてではないのだ。
体の火照りがようやく引いてきた。先ほどまでは熱でも出たみたいに全身が熱かったが、こうして休むうちにだんだんとクールダウンしてきた。疲れも徐々に抜けてきている。体に溜まったにごりのようなものが、聖なる力によって浄化されていくような感じがした。
今はこうして休んでいられるが、いつ見つかるかわからない。その前に、なんとしても有効な策を練らなくてはならなかった。
しかし、この夜がどうしたら終わるのかが不明なので、どう行動すべきかもまったく思いつかなかった。ある程度の指針がはっきりしていれば、いくつかの策を見出すこともできただろう。しかし、現在は何もわからない状態なのだ。時間の止まった原因もわからないし、得体の知れない化け物が追ってきている理由もわからない。何も見えない真っ暗な地下室で、むなしく手足をじたばたさせているようだった。自分が何かの探し物をしているらしいことはわかったのだが、どこにあるのか、そしてそれが何なのか、そういった情報が一切ない。いよいよ手詰まりになってきたことがわかってきた。
でも、それでもどうにかしないといけない。とりあえず、不気味な視線の化け物から逃げなくてはならないことは明らかだ。あれにつかまってしまうことは終わりを意味する。その結末がどんなものであれ、僕たちにとって不幸なものであることはわかりきったことだ。そうならないためにも、まずは力を回復することが先決だった。ゆっくり休んでおいて、次の逃走のための体力を養うこと。それが唯一の、はっきりとした目的だった。
「何か、話でも、する?」
僕は驚いて少女を見た。彼女は起きていたらしい。今、起きたのだろうか?
「話をするにしても、あまり声は出せないよ」と僕は小さな声で言った。「それに、話っていってもなぁ。こうして話題の提供を求められると、何も浮かんでこない」
「何でも、いい。それで、気がまぎれるので、あれば」
「そうだな……」と僕はどうしたものかと悩む。彼女と何か話したいとは思っていたのだが、いざ話そうとすると何について話したらいいのかがわからない。これまでのことを思い返しながら、話題を探した。
「君、音楽は聴く?」と僕は言った。結局、無難なところに落ち着いた。
「人並には、聴いていると、思う」と彼女は答えた。
「あまり、好きではないのかな?」
「そうかも、しれない。ただ、聴いている、だけだから」
「そっか……」と言って、僕はある話を思いつく。「僕にはね、高校に入る前からずっと好きなミュージシャンがいるんだ。彼らの曲はほとんどすべて持っている。ずいぶんとマイナーな人だから、名前を聞いてもあまりピンとこないと思う。でも、彼の曲は素晴らしい。偶然友人の貸してくれたCDの中に、彼の曲が一曲だけ入っていて、その曲を聴いた瞬間、雷に打たれたような感じがしたんだ。それはすごい衝撃だった。当時は記憶がないのもあって、それほど多くの曲を知っているというわけではなかったんだけど、それでも、その曲には何かしらの運命を感じた。それこそ世界の見方が変わってしまうような印象を受けた」
「その曲は、今でも、好きなの?」と彼女は訊く。
「そうだね、好きだ」と僕は答えた。「初めて聴いたその曲は、僕の中で大切なものになっている。好きという言葉では到底足りないほどにね」
「曲の、タイトルを、教えて」
「『凍てついた森の中で』」
彼女はしばらく考えていた。「聞いたことは、ないかも、しれない」
「まあ普通はそうだよ。それほど売れているわけじゃないし、テレビにも出ないからね。でも、どうしてかはわからないけど、その曲は僕の心を激しく揺さぶった。僕という人間が、二つに分かれてしまうような奇妙な感覚になったんだ。この曲を聴く以前の僕とはすっかり変わってしまった。それまでは小さなことでくよくよする弱い人間だったんだけど、その曲に出会ってからは何もかもを大らかに受け入れられるようになった。それが、強くなった、と一概には言えないのかもしれないけど」
「中学校に、上がる前に、既に、変化を、経験している、のに」
「そう。そこからさらに変わってしまったというわけだ。記憶を失う前の自分と、その曲を聴く前の中学時代の自分と、そして今の自分。僕は三人に分割されて生きている」
「その曲について、もっと詳しく、聞かせて」
「わかった」と僕はうなずいた。「彼は――名前は群青カオルっていうんだけど――この曲を出す前にもいくつかの曲を発表しているんだ。でも、どれも全然売れなかった。曲自体もとても聴けるものじゃなかった。まあ、彼のことを知ったうえで聴くと、そこにも確かなメッセージが感じられるんだけどね。そうして何年か細々と活動して、あまりに売れないので、彼は次第におかしくなっていった。自分という存在が嫌になって、自己否定を繰り返した。その結果、頭のどこかのネジが飛んでしまったんだろうね。彼はまともな生活を送れなくなった。
でも、彼には大切な人がいた。その人は彼の恋人だ。彼女は、ほとんどまともな会話すらできなくなった彼に辛抱強く接した。何を言われようと我慢し続けた。喫茶店でアルバイトをしながら、余った時間をほとんどすべて彼のために費やした。彼女はまだ大学生だったんだ。群青カオルとは八歳も年が離れていた。二人がどうやって出会ったのかはわからない。でも、彼らはお互いを深く愛し合っていた。二年近くそういう生活が続いた。
そして、ついに群青カオルは自分を取り戻すことができた。ようやく闇から抜け出すことができた。完全に狂ったわけではなくて、単に落ち込んでいただけなんだろうね。二年間ずっと落ち込むのは、さすがに病気だとは思うけど。で、そのとき、ちょうど彼女は大学を卒業したらしい。偶然の一致といえばそうだ。しかも彼女はまだ同じ喫茶店で働いていて、そこへの正式な就職も決まった。あるとき、空が晴れるように全部がうまくいったんだ。それは彼らのこれからの幸せを暗示していた。
彼はこの二年間どんな状態で、どれだけ彼女に迷惑をかけたのかを知った。そして、彼女に感謝し、今度は自分が頑張る番だと決意した。そこから彼は、急いで曲作りに取り掛かった。二年というブランクがあったから、一曲を作るのに半年以上かかった。納得がいかなくて、途中で何度も作り直したんだ。自分の才能の限界を感じながらも、あきらめずに最高のものを作ろうと努力し続けた。その間、生活費も必死になって稼いだ。アルバイトの身だったから、多少は彼女に支援してもらったんだけど、できるだけ働いて迷惑をかけないようにした。
そうしてできたのが、『凍てついた森の中で』。これは二人の男女がどこかの世界の、ひっそりとした森の奥で自分たちだけの幸せを見つける情景を歌ったものなんだ。彼らは現実を追われ、その森に逃げ込む。そして木々に囲まれて生活していくうちに、新しい幸せを発見する、という物語になっている。その二人がどういう結末を迎えるのかはあいまいにされているけど、結末に至るまでの道のりについては、とてもリアルに描かれている。しかも幻想的だ。聴いていると、自分がおとぎ話の世界に旅立ったような神秘的な経験を味わえる。その曲で、彼は一躍有名になった。有名とはいっても、それはごく限られた世界での話で、一般的にはまだマイナーだったけどね。でも、その曲は多くの人に絶賛された。それ以降、彼はいくつもの名曲を生み出していった。どれも好きなものばかりだけど、でもやっぱり『凍てついた森の中で』ほどに強烈な曲は他にはない。少なくとも自分はそう思っている。彼は今でも曲を作り続けているよ。その女性とは何年か前に結婚した」
「素敵な、話」と彼女は言った。「その曲、聴いてみたい」
「CDなら貸すよ。僕はもう何回も聴いたし、音楽プレーヤーにも入っているから」
「ありがとう」と彼女は言った。そして、建物に切り取られた空を見上げた。
「私の、想像だけど、今の、私たちって、その、歌われた、情景と、かなり、一致しているのかも、しれない」
「うん。ここは森じゃないけど、いろいろと重なるところがあるんだ。だからこそ、この話をしたいと思った」
その歌は、二人が幸せになる前に終わっている。その先どうなったのかは語られていないのだ。その終わり方はとても気に入っていた。あえて結末をぼかすことで、聴き終わったあとの余韻が長く残る。その余韻を味わうために、何回も聴いてしまう。
この冒険に結末などあるのだろうか。僕は疑問に思った。もしこの歌の通りに進行するとしたら、僕たちはいったいどういう結末を辿るのだろう。元の世界に戻れるのか、それともこのままここで一生を過ごすことになるのか。僕はどちらも望んでいたし、どちらも望んでいなかった。自分がどうしたいのかがわからない。
その曲の登場人物であれば、この閉じた世界を選ぶのだろう。現実には戻らず、二人だけで静かに暮らす。それはとても魅力的なことに思えた。
でも、僕にはどうしてもそちらの道を選ぶことができない。現実に戻りたいと願う自分がまだいる。なぜつまらない現実を捨てきれないのか、理由ははっきりしない。どうしてだろう?
その理由を問いかけ続けるが、答えは帰ってはこなかった。
一匹の猫が鳴いた。それは唐突に前触れもなく聞こえた。気がつくと、前方に真っ黒な猫が行儀よく座っていた。その猫はもしかしたら黒くなかったのかもしれない。ただ、全身が黒かったのでそう表現したにすぎなかった。本当は茶色かったのかもしれないし、灰色だったのかもしれない。明かりがないので色が判別できないのだ。
猫は金色の目を光らせてこちらを見ている。正確には僕だけを見ていた。じっと見つめると、その猫はどこかで見た覚えがあるような気がした。それもかなり最近のことだ。記憶を探り、そして、その猫が昨日の夕方に訪ねてきた黒猫だということに思い当たる。僕を拘束して、髭をぴくぴくさせながら腹に座ってきたあいつだ。今回は何をしてくるつもりだろう。この猫も僕を追ってきたのだろうか? 何もわからないまま、僕はサクラと顔を見合わせた。
「にゃあ」と猫が鳴いた。そして大きなあくびをした。姿勢よく座ったまま、動かない。何かを待っているようにも見える。僕とサクラはその場で立ち上がった。いつでも逃げられる準備をしておかなくてはならない。
しばらくすると、猫は歩き出した。天啓に導かれるような、謙虚で慎み深い歩行だった。かなりゆっくりと僕たちから離れていく。
迷った末に、僕たちはその猫についていくことにした。そうしなくてはならない気がしたからだ。根拠なんてない。その立ち振る舞いから、彼はきっと僕たちに危害を加えるつもりはないのだということが感じられただけだ。少女に寄り添って、猫のあとをつける。
猫はこちらを振り返った。きちんとついてきていることを確認したのだろうか? 詳しいことはわからないが、猫はそのあとで歩く速度を速めた。僕たちは小走りでそのままついていった。
「この、猫は、何者?」と少女が訊ねる。
「昨日初めて会ったんだ」と僕は説明した。「僕の動きをとめて、鍵のかかった僕の家に勝手に上がりこんできた。そして、何もしないまま帰っていった。何者かは知らない」
彼女は首をかしげた。当事者でなければ、この説明ではわけがわからないだろう。しかし、あのときのことを長々と説明するのも億劫だったので、それ以上の説明はしなかった。彼女は顔をうつむかせながらそのことについて考えていた。
「でもまあ、悪い猫ではないと思う」と僕は付け加えておいた。
道はだんだんと細くなっていった。人間一人がやっと通れるくらいの幅で、僕たちは一列になって歩かなければならなかった。その猫は、ファンタジー世界のようにしゃべりはしないが、どことなく幻想世界の住人のような雰囲気を感じた。その優雅な歩き方や目の色にしてもそうだ。第一、この世界で動けていることがもう普通じゃない。敵ではないと信じながらも、警戒は緩めずに進んでいく。
路地は一本道に長く続いていた。うんざりするほどの長さだ。行く先は黒いインクで塗りつぶされたように真っ暗だった。何だか自分たちが、別の世界へとつながる通路を歩いているような気がした。あるいは本当にそうなのかもしれなかった。
「ねえ、まだ歩くのかな?」と僕は猫に質問してみた。だが、もちろん答えは帰ってはこなかった。あれ以降一度もこちらを見ようとせず、ただ自分に与えられた役目を淡々とこなしているようだった。そこには確かな自信が感じられた。自分は間違ったことはしていない、自分の歩く道こそが正しい道なのだ、とでも言いたげに。僕はため息をついた。行き詰った結果、猫に先導されることになるとは思いもしなかった。頼りない自分にげんなりしながらも、猫に導かれるままに歩いていった。




