浜辺の狂詩曲 3
「珍しいね、君がこうして、昼に会いに来てくれるなんて」
テーブルを挟んで対面に座る男は、そう言うと、グラスの水を口に含んだ。
「そうね。時間、大丈夫ですか?」サニは、上目遣いで男を見つめて言った。そんな仕草をしたところで、この男、附属病院小児科医、伊藤が、動じることもないのは、サニもよくわかっている。
「大丈夫。一時間はゆっくり休めるから」
伊藤が、そう言う間に自動配膳カートが、料理を運んでくる。
IN-PSID附属病院四階に位置する院内食堂は、混雑を極めていた。病院の職員や患者向けではあるが、中央区画の職員や医療部の学生などもよく利用しているのだと、伊藤は言う。
「ここは初めて? 案外いけるよ」この混み具合を見れば、期待はできそうだとサニは思った。
カートに手を伸ばした伊藤の顔が曇る。見れば、伊藤の左手の掌に、包帯が巻かれている。先程まで、隠していて気づかずにいたが……
「あ、こ、これ? ちょっと、料理してて、手が滑ってね、ハハハ」何食わぬ顔で乾いた笑いをたてる伊藤。何かあるのはあからさまだが、サニは余計な詮索はしないことにした。そんなことより、今は食欲の方が勝る。
伊藤が進めた看板メニュー『庄内豚のハンバーグ定食』が、鉄板の上でジュウジュウと、脂とソースの香りを弾かせていた。否が応でも期待値は上がる。
「院内レストランなんて、使う機会ないから。ではでは、いただきまーす!」
夏はやっぱり肉っしょ! っとばかりにサニは、一口大にカットしたハンバーグを頬張った。
「あ、ホントだ! 美味しい!」「ねっ」
会話も忘れ、二人はしばし、食事に集中していた。
****
「それで、改まって話って?」
食後のコーヒーを受け皿に戻し、伊藤が穏やかに問いかける。
「うん。まっ、その……」サニは、答える代わりに、アイスコーヒーを啜る。
「終わりにしよう……て、ことかな?」
伊藤は、デザートのパンナコッタを掬いながら、淡々と言った。
「えっ? なんで……」「ふふ、そんな憑き物がとれたみたいな、爽やかな笑顔、見せられたんじゃ……ね」「つ、憑き物……って……」
氷が溶け残った水のグラスがプリズムとなって、テーブルの上に虹を描いているのが、ふと目に止まる。
「……確かに……憑いてたのかも……」
「はぁ? ……」真顔のサニに、伊藤は怪訝な表情を浮かべながら、パンナコッタを口に運ぶ。
「まあ、僕の方は構わないよ。それを話にわざわざ?」「う、うん。他は適当に済ませたけど……まぁ、先生には良くしてもらったし」「そっか。ありがとう」
サニは、ちょっとバツが悪そうにしながら、伊藤と同じデザートに手をつけ始めた。
「……探していたもの……見つかったんだね」伊藤の言葉が、サニの手を止める。時々、見透かしたような事を口にする。それがこの男に得体の知れない魅力と、色気を与えているのだとサニは思う。
スプーンを置き、そっと胸に手を添える。
「……うん……ずっとここにあったんだ」
「それじゃ、直人くん……だっけ? 彼と?」
「うぅんん……振られちゃった」
軽く頭を振って、サニは再び、スプーンを手に取った。口に含んだパンナコッタのブルーベリーソースが、甘く爽やかに口の中で溶け出してゆく。
「えっ……あ、ごめん」「いいの。ダメ元だったし、先に振った? ……のはアタシだし……いいの、コレで」
「で、でも……なんか、ちょっと……なんでだろ……」ふと目頭に熱っぽい感覚を覚え、サニは目元に手を当てがう。
「サ、サニちゃん、ちょっと……」伊藤は、周りを見まわし、狼狽してサニを隠すように左手を伸ばす。
「あ、ご、ごめんなさい!」
サニはハッと我を取り戻し、手早く潤んだ目頭を手で拭う。その時、伊藤の瞳が、何かに気付いたのか、大きく見開く。同時に、背後の方で、急速に波動収束するかのような、昂る気配を感じ取り、サニは振り返った。
「なに、この視線……」
レストランの奥の席からだ。気配の感じる方へ視線を送れば、こちらを伺う人影が見えた気がした。女? サニはそう感じた。
「イツツ!」「だ、大丈夫? 先生??」
伊藤の包帯に、血が滲んでいる。どうも、無理に手を伸ばして傷口が開いてしまったようだ。
「ば、場所……変えよう」
先程までとは打って変わって、伊藤はソワソワとしながら、サニを追い立てるように席から立たせる。
「えっ?? ちょっ……ちょっと?」
****
処置室に駆け込むと、伊藤は包帯をとり、自分で怪我の手当を始めた。掌いっぱいに、斜めに走った切傷は、どう見ても料理のケガではない。
「その傷……女でしょ?」
処置室のベッドに腰掛け、伊藤の処置を眺めていたサニは、冷ややかな口調で訊ねる。
「いや……まぁ……ハハハ」「さっきの食堂にいたの?」「……」
「いたんだ……」「こ、ここなら大丈夫。休憩時間、誰も来ないから……はは」
一人で自分の片手に包帯を巻くのは、医者とはいえ、どうにもやりにくそうだ。
「もう……貸して」サニは、包帯をとると、手際よく巻き始めた。
「あ……ありがとう」伊藤は、サニに左手を預けたまま大人しくしている。何気なく伊藤の胸元の名札に目が行く。
……じゃ、僕のことも、呼んでみて。名前で。誠児って呼べるかい? ……
思えば、伊藤を名前で呼んだ事など一度もなかった。
『伊藤誠児』
そういう名前だったと、別れを決めて初めて認識した。
漢字は苦手だ。象形文字とはいうが、やはり絵のように見えてしまう。
『伊藤誠児』……『伊藤誠児』……『伊藤誠……
どこかで見た文字だ、とサニは思った。
そう、都市伝説か何かだ。百数十年前の昔話。途方もなく女性にもてたが、反面、女の憎しみを買い、壮絶な最期を遂げた男の話……
その男の名前は、確か……伊藤……ま……なんたら……漢字の字面は、そうこんな感じ……
「‼︎」
「先生……刺されないでね」「な、な、何だい、急に。こ、これは……そういう傷じゃ……」「そういう傷でしょ」言いながら、包帯をキツく止める。伊藤は、苦悶に顔を歪めた。
構わずサニは話し始める。
「どーもこの世界、インナースペースからなのか、時々、意味もなくメタ的なネタがぶっ込まれているみたいなの」
「へ? メタ……」
「先生の名前もきっとそう! だから!」
「な、何言ってんの、サニちゃん??」「とにかく……女遊びは謹んで。大丈夫、グッドエンドへの選択肢はまだ残されてるわ!」
「い、意味わかんないよぅ」
ぐいと顔を寄せ、目力たっぷりに説くサニに、伊藤はたじろいだ。
サニの鬼気迫る表情に空恐ろしいものを感じ、何か話を逸らそうと、伊藤はちょうど、手近にあったフライヤーを手に取る。
「そ、そ、それよかさ……これ、どう?」
「へっ?」
目の前に広げられたフライヤーに、ふと我に戻ったサニは、目を白黒させていた。




