天の楽園 6
穏やかな大海は、深き青さを湛え、その色を映し取ったかのような大空が晴れ渡る。人がまだ、海の果てを知る由もなかった古き時代。日本の古き文献にも見られるように、『天』と『海』は、繋がっている、否、一体であると考えられてきたという。
南シナ海南方、赤道近傍海域。青白く掠れ、海面から空へとシームレスにグラデーションを描く水平線は、確かに天と海は一つであると錯覚させる。そして、その感覚は、今、確かな繋がりとなって、この海域に『天の御柱』となって具現化していた。
『……思えば、我々人類は、遙か太古より空を見上げ、あまねく星々に想いを馳せて参りました。我らの意志は、常に宇宙へと向かう。これは、人類に宿命づけられた、神の御心なのかもしれません。無限に広がる、大宇宙という神の……』
国連エンブレムが輝く演台に立つ、白いスーツに身を包んだ黒人紳士は、スピーチを一度区切ると、胸に手を当て、そして天窓から覗く晴れ渡る空を見上げた。
南シナ海南方に浮かぶ、ほんの数十年前までは住む人もいない未開の小さな島に、かつての面影はない。この時代の最先端の建造物、整備された港、エアポート、この島の全域に、人の手が入っていない場所はない。そして、今、この島は、かつてないほどの人を迎え入れている。
島の中央に位置する巨大なドーム状施設の最下層、エントランスホールに集う上質なスーツ、鮮やかなドレスで着飾った、およそ三千人ほどの紳士淑女たちが、演台の紳士の視線につられるように天を仰ぐ。
ホール中央に設けられた式典会場の演台で、スピーチに立つ国連事務総長の後ろには、円錐台形の優美な塔が、ドームホール上部の開口部を抜け、空へと高く伸びている。さらにその塔の上部からは、細長い紐のようなものが数本見える。それははるか天高くまで伸びていた。
事務総長は、顔を下げ、来賓の一同を見渡す。
『しかし、私たちは、その崇高なる神の御心に目を閉ざし、幾多の過ちを繰り返して参りました。分断、差別、環境破壊……そして、戦争……多くの困難が、人々を引き裂き、宇宙へと向かう我々の願いを阻み続けてきました。そう……あの、バベルの塔の神の裁きであるかのように』
再び事務総長が言葉を区切ると、突然、混沌と絶望の入り混じったオーケストラのファンファーレが鳴り響く。サプライズの演奏に、来賓達はざわめき出す。姿を現さないオーケストラを探す者もいる。
同時に、ホールの照明が落とされると、事務総長の言葉をなぞるように、中央の塔の左右に中空モニター(時空間コントロール光形成スクリーン)が現れ、聖書の時代から連綿と続く人の争いの歴史が、映し出された。
『O Freunde, nicht diese Töne!(おお、友よ、このような調べではない!)』
映像に、重厚なバリトンのソロが重なる。
ざわめいていた来賓達は、次第に静まり、世界の至宝である巨匠、ベートーヴェンの渾身の傑作、交響曲第九番第四楽章と、壮大な映像が紡ぎ出すコラボレーションに魅了されていく。事務総長の言葉は、まるで元から、音楽の一部であったかのように流暢に旋律の上を流れる。
『種を超え、国を超え、試練を乗り越えた人々が、再び手を取り合い、天を目指すために‼︎ そして、今、人類はその時を迎えたのです‼︎』
左右のスクリーンが暗転し、中央の塔へとスポットが当たる。塔の基部はペデストリアンデッキとなっており、その上で演奏を続けるオーケストラが、照明で浮かび上がった。
塔には、二十世紀、宇宙時代の幕開けから、月への到達、太陽系を離れるボイジャー、火星への有人飛行到達、そして、軌道エレベーター建設着工……これまでの宇宙史の歩みが、塔の下層から上層へと流れるように、プロジェクトマッピングで映し出される。
『Freude!』
喜びを高く宣言する歌と共に、事務総長の演題の後ろ、塔最下層の大型メインゲートがライトアップされると、来賓たちからどよめきが湧き起こる。
『ご覧ください! 我々は、今、天の楽園への帰還を許された‼︎ ……今、ここに! 人類の叡智と、友愛の統合の象徴! 軌道エレベーター『オービタル・エデン』への扉を開こう‼︎』高らかに両手を広げ宣言する事務総長の晴れやかな声に、会場は拍手に包まれる。その拍手に迎えられるかのように、合唱パートが『歓喜の歌』を歌い出す。
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『……事務総長の開所宣言と共に、軌道エレベーター『オービタル・エデン』が動き出しました!』
テレビの中の女性レポーターが、興奮気味に会場の高揚を伝えてくる。小さな少年は、テレビ越しのオービタル・エデン開所セレモニーに目を輝かせて見入っていた。ベートーヴェンの交響曲は、行進曲風に変わり、そのリズムに乗って、自動輸送コンテナが列をなし、開いたばかりのメインゲートへと流れ込んでゆく。
『軌道エレベーターは、従来の宇宙貨物船に変わり、地上から宇宙、その反対に宇宙から地上へ安全かつ、大量に、より早く、よりコストを抑えた物資の搬送を実現します。これにより、伸び悩んでいた宇宙開発事業が大きく前進することが……』
「宇宙……行きたいか? やっぱり?」目の前の歴史的瞬間に魅了される少年、航星と並んでテレビを見つめるティムは、ポンと彼の頭に手を乗せ、クシャっと軽く髪を掴むようにして、撫でてやりながら訊ねる。
「うん! 大きくなったら、ティムのお父さんみたいに宇宙船に乗って、ママを月に連れて行ってあげるんだ!」航星はテレビから目を離さずに答える。
昼下がりの午後、鳥海まほろば市郊外の天文台は和やかだ。夜の観測までは時間がある。このところよく来るティムと、五歳の航星。ここの管理人、穂波は、自分の息子が、ティムと二人仲良く並んで、談話室でテレビを見ている後ろ姿に親子を感じ、思わず頬を上気させていた。二人はテレビに夢中で、それには気づかない。ほっと吐息をこぼして、ティーカップをとり、その湯気に頬を埋めるようにして、ミルクティーを飲む。
「けど、あなたのお父様、軌道エレベーターできたら、お仕事、とられちゃうんじゃない?」穂波は、ティーカップを置いて、ティムの横顔をチラリと横目で見ながら言った。
「いや、それがさ。月との往復便も増えるみたいだし、地上に降りる必要なくなるだろ。そのせいか、逆に仕事が増えるみたいなんだ。地上に降りてこれなくなったら、もう、宇宙人だよな」と航星に向かって、空笑いするティム。つられて航星も笑っている。
「ふぅん……」と穂波は頷き、テレビへと視線を移す。画面の中で、ホール中央の塔、発着タワーのプロジェクトマッピングが、着工から三十年あまりの、軌道エレベーター建設の記録映像に変わっている。あの二十年前の、『世界同時多発地震』が、その工期を大幅に遅らせたが、その困難を乗り越え、再び建設を再開する——天への歩みのような音楽に彩られた、その流れる映像に人々は涙を誘わずにはいられない。
「そういえば、月観測関連の案件もこのところ増えてるのよ」と穂波。
「……だろうな。軌道エレベーターができて、月への入植拡大の計画も動いてるらしいから。ますます、月からは目が離せなくなるさ」そう言ってティムは、何を思っているのか、小さく眉を顰め、テレビの映像をしばらく見つめていたが、苦笑して飲み物のカップを手にとる。彼は航星と同じ子供用のオレンジジュースを飲んでいた。暑いから冷たいものがいいと、航星と同じものを欲したのだ。そして、子供用のビスケットに航星と一緒になって手を伸ばし、美味しそうにほうばっている。そんなティムに穂波は、クスリと微笑み、しばらく見つめていた。
行進曲風の曲調は、次第に静けさに沈みこんでゆく。会場がそれに合わせて暗転する。音楽は、息を吸い込むかのように会場の熱気を吸い込む。そして——
合唱が再び、さらに高らかに喜びの歌を歌い出す。ドームホール内壁一面に、幾つもの映像を映し出しながら。世界各地を代表する合唱団が、共に歌い出した。
世界は、天の新たなる楽園、オービタル・エデンの下、今ひとつとなったのだ——




