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「オーク――と、いうのですか」


「はい。巨大な人間型の魔物で、通常は上級の冒険者が複数人で倒すような敵です」


 屋敷の復旧工事の音が、どこからともなく聞こえていた。僕とヒルデは、小さな店内で互いに向き合い、紅茶を飲んでいる。


 幸いカーラは、ヒルデを殺すことはしなかったらしい。あの後、屋敷の奥で縛り上げられた彼女が見つかったそうだ。


「しかし、どうして街の真ん中に突如オークが現れたのか……。そして、一体誰が倒したのか……。リンさん、本当にご存知ないんですか?」


「僕は気絶していましたから……。ですが、オークの死体には、僕の槍と、シュリさんの槍が突き刺さっていたんですよね?」


「ええ、恐らく、シュリ――さん? の方の槍が、致命傷になったと」


「でしたら、シュリさんが倒したと見るのが、妥当でしょう。相打ちになってしまったようですが……」


「……そうですね。でも、リンさんはそれで良いんですか?」


「何がですか?」


 ヒルデは、紅茶を一口含んだ。僕たちの周りは、護衛と思しき騎士たちが囲んでいる。騎士とはいっても、今は甲冑をつけていない。


 まだ朝で、店内は微昏い。窓から陽光が射しこんで、冷たい部屋を暖めていた。


「いえ、いいんです。しかし、主導犯たるカーラの行方も分からないというのは……」


「逃げられた、ということですが」


「逃げられましたね。せめて、彼女が誰の手先だったのかだけでも、知りたかったのですが……」


 それはもう、分からないことだ。カーラが誰に雇われて、どんな魔法を使って、何を考えて死んだのか。たとえば、彼女は自分の言った通り、ドミル伯に雇われていたのかもしれない。

 だが……。そんなことは、想像に過ぎない。


 死者は何も語らない。シュリと同じ。


 ヒルデは窓外の景色に、眼を細めた。復興を始めた雑踏が見える。


「ですが、確かに言えることもあります」


「何でしょう」


「この先、いつになるかは分かりません。ですが近い将来、シハルは……。紛争に巻き込まれるでしょう」


「そうですか」


 カーラが失敗したのだから、シハルを狙う人間は大人しくなると思うのだが、現実はそうでもないらしい。しかしその場合、戦争の責任は誰が負うのだろう。隙を見せたヒルデなのか、彼女を倒した僕なのか、シハルを狙う誰かか。


 そんなのは、誰にも分からないこと。


「リンさん、シハルには力が必要です。象徴的な力、実際的な力が。つまり……、貴方のような」


「はあ。でも……」


「どうしても、ここに留まって戴くわけには、いきませんか」


 ヒルデは何か勘違いをしている、と思った。街へ攻め込んだゴブリンから、街の住民を護ったのは、街の冒険者と騎士だ。僕など、ほとんど何もしていないに等しい。むしろ、僕が大人しくしていれば、犠牲はもっと少なかったかもしれない。それに。


「すみません。シハルには、もう……」


 シュリがいない。もう、僕は首都へ行くほかない。いつ起こるか分からない紛争のために、ここで過ごすことは、できない。


「……はい。これまで、ありがとうございました。シハルを代表して、ここに感謝を」


 ヒルデは胸に手を当てて、そう言った。



 店を出る。道行く人は、路に濃い翳を落としていた。


 カーラがオークになったのだと言えば、信じてもらえただろうか。

 もし、僕があのオークを倒したと言えば、上級に上がれただろうか。


 しかし、何か違う気がした。


 それは、あの闘いの中。蟲魚の神髄に気づいた時から、ずっと僕にまとわりついている違和感だった。何かが、致命的にずれている。大切なことを見落としている実感。

 ただ曖昧なものがあるだけで、具体的には分からない。


 ダングの言葉に、カーラの言葉。

 僕を殺してくれなかった――僕が殺した相手。


 僕は、矛盾しているのか。

 僕は、頭がおかしいのか。

 そういうのを、纏めて何と言うのだったか。

 確か、狂っている――とか。


 宿に戻って、荷物を確かめていると、戸を叩く音がした。


「どうしました?」


 扉を開けると、コフィーが下を向いて立っていた。


「あの……、リンさんにお客さんが来てます……。下に」


 それだけを絞り出すように言って、コフィーは走り去って行った。あの日から、彼女はずっとこうだった。それは、僕があの冒険者が死ぬ様子を、傍観していたことへの、憤りかもしれないし、僕をおいて逃げ出したことに、引け目を感じているのかもしれなかった。


 階下に降りる。僕に客とは、誰だろう。心当たりがない。


「あ、おにいちゃん!」


 宿の玄関には、大きな鞄を背負った、シロハが立っていた。意外な人物に、思わず眼が丸くなる。


「シロハさん、どうしました。こんなところで」


「えっとね、おにいちゃん、しゅとに行くんでしょ?」


「はい。もう出発するところです」


「わたしもつれてって!」


 思わず、辺りを見廻す。特に僕たちを見ている人影はない。


「いえ、あの、シロハさん。それは……」


「おじいちゃんが言ってたの!」


「え、シュリさんが? 何と?」


「『わしがとつぜんいなくなったら、リンおにいちゃんに槍を教えてもらえ』って」


「僕に? ……エリさんではなく?」


「うん。だってエリおねえちゃんは、受付のしごとがあるもん」


 シロハはそう言って、胸を張る。どうしてシュリはそんな遺言を遺したのだろうか。彼は僕の旅の目的を知っていたはずなのに。


「ですが、シロハさん……」


「『そのときには、リンくんはわしに、おんを感じているはずじゃ』って」


「おん――恩義ですか」


 僕がシュリに恩を感じているはず、とは。蟲魚についての教授のことだろうか。確かに、シュリの言葉のお蔭で、僕は少し強くなった。

 いや、しかし……。シュリのあの言葉がなければ、あの場で僕は死ねたわけで。そういう点から見れば、恨みを感じるべきなのでは。


 これも矛盾――か。


 やはり僕は狂っているのかもしれない。


「ね、いいでしょ!」


 眼前のシロハは、大きな鞄にふらつきながら、瞳を輝かせて僕を見上げている。


「分かりました。僕もすぐに準備を整えます」


「やった! すぐ来てね」


 二階の部屋に戻り、手早く荷物をまとめる。


 予定していた出発日から、もう一週間が過ぎていた。足の怪我が治るのを待っていたのだ。まだ完全に恢復したとはいえないけれど、布を巻けば問題なく歩ける程度にはなった。


 出発の前に、コフィーに挨拶しようと思ったが、彼女は宿の奥に引っ込んで、会えなかった。仕方なくシロハと共に、想像以上に長居することになった宿を跡にする。


「どうしたの? 門あるの、あっちだよ?」


「いえ、少しだけ寄りたいところが」


 冒険者組合に立ち寄って、中を覘く。受付にエリの姿はない。


 正直なところ、安心している自分もいた。シュリが死んで、僕は生き残った。彼女にどんな顔をして会えば良いか分からない。


「行きましょう、シロハさん」


「うん!」


 路はますます混雑していた。ゴブリンの襲撃による死体は片付けられ、破壊された施設の修復も始まっている。ここでも魔法が活用されているようで、足場が一瞬で生み出されている。


 見事なものだな、と感嘆しつつ歩く。シロハとはぐれないよう、彼女の手を握った。

 右手には槍、左手にはシロハ。隙の大きい歩き方だ。


 やがて、門の前に着いた。この街のもう一つの門、南門だ。ここから出てまずは、西へ向かう。首都に到着したら、僕を殺してくれる人を捜すのと並行して、シロハを預けられる人も見つけねばならない。

 門番に軽く会釈する。街に入るのは警戒されても、出るのは簡単だ。向こうも鷹揚に頷き返した。


「待って下さい」


 何故か呼び止められたので、振り向く。さて、僕はどこか不審だったか。


 エリがいた。鞄を背負って、膝に手を付いて、息をきらせている。


「エリさん。どうされました?」


「シロハを……、連れて、行くんですか」


「はい。シュリさんがそう言い遺したと、聞きましたが」


「それは私も聞いています。……でも、貴方は、シロハの人生に、責任を持てるんですか? 死のうとしている、貴方が」


「それは……」


 難しいだろう。なにせ、僕は狂っている。首都への道程だろうと、僕を殺してくれる人が現れ次第、シロハのことなど無視して死ぬに違いない。

 それは間違いなかった。


 エリは大きく咳き込んで、顔を上げた。ようやく息が整ったらしい。


「だから、私も一緒に行きます。リンさんが……、いつ死ぬか分からないから」


「エリさんが? でも、受付の仕事があるのでは」


「さっき辞めました」


「そ、それは、まあ……」


「エリおねえちゃんも来るの?」


 シロハが飛び跳ねて喜んだ。まあ僕と一緒にいるより、エリと一緒にいる方が、シロハにとっても良いだろう。僕が途中で死んでも、彼女が責任を持って面倒を看るだろうし。


「お願いします、リンさん。こう見えてもお爺ちゃんに鍛えられてますから、自衛の闘いくらいできます」

 エリはそう言うと、腰の剣を叩いた。確かにシュリも、そのようなことを言っていた記憶がある。


「ですが……」


「っていうかもう、断られても無理やり随いていくんですが」


 ならば最初から訊く必要はなかったのでは。そう指摘しようか迷ったが、何か拙い気がしたので、止めた。


「あのさあ、兄ちゃんがた。朝っぱらから、こんなところで痴話喧嘩しないでくれないか?」


 門番が僕たちを見て、眠そうな声を出した。見ると、僕たちを遠巻きにして、何やら観衆がついているようだ。


「べ、別に痴話喧嘩なんてしてません!」


「はいはい。いいから、とっとと行ってくれよ」


「い、行きましょう、リンさん、シロハ!」


 エリはそう言って、一人で先に歩き始めてしまった。僕とシロハも、慌てて跡を追う。

 不意に、手を繋いでいるシロハが、僕を見上げた。


「ねえ、おにいちゃん」


「なんですか」


「チワゲンカって、なあに?」


「分かりません」


「ゲンカ」――原価か。つまり、物の値段の話に違いない。だが「チワ」が何を意味するのか不明だ。竹輪を省略したものだろうか。しかし竹輪原価では、先程の会話と噛み合わない気もする。謎だ。後でエリに尋ねよう、と思う。


 途中でエリに追い付いて、三人で並んで城壁を出た。

 強い風が吹いていた。遠くの方に山が見える。頂上が雲に隠れている。


「あ、ちょうちょ!」


 歓声を上げるシロハ。彼女の目の前を、黄色い蝶が飛んでいた。きっと僕が知らない種類の蝶だろうが、見た目はほとんど変わらないように見える。


 シロハは蝶を捕まえようと手を伸ばす。


 蝶は突然飛ぶ方向を変え、逃れて行った。


「あー……、行っちゃった」


 シロハが残念そうにつぶやく。捕まえて、どうするつもりだったのか。


 蝶はますます高度を上げ、かと思えば急降下し、次の瞬間には別の方向へ飛んでいる。  


 無秩序な飛び方。

 無駄な動き。

 つまりは、意想外の動き。

 だから予測できない。捕まえられない。


 或いは……。


 自由な動き。


 それが、蟲の動きなのかもしれなかった。


 白い雲の浮かぶ空へ、蝶は姿を消してゆく。


 シロハもエリも、そして僕も、その様子を眺めていた。

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