第8章:共食いの倫理、あるいは汚物たちの聖域
『17:52』
また、この静寂だ。
オレンジ色の防音壁、埃の舞う放送室。そして、目の前で魂が抜けたように座り込む星野琉佳。
「氷室からの拒絶」という精神的致命傷は、ループしてもなお、彼女の魂のひだに消えない傷跡を残していた。
――ガチャンッ。
無作法な音を立てて、放送室の鍵が外側から開けられた。
創真が振り返るより早く、踏み込んできた二つの影が、室内の異様な空気を嗅ぎ取った。
乾と山田。創真と同じ、クラスの最底辺グループに属する「オタク仲間」だ。
「……うわ、マジかよ。星野さん、本当にいるじゃん」
「噂、本当だったんだな。創真がお持ち帰りしたって。おい創真、お前一人でこんな上等な女、独り占めはずるいんじゃねえの?」
彼らの濁った瞳に、ドロリとした下卑た欲望が灯る。
乾は、制止しようとする創真の胸を「どけよ」と乱暴に突き飛ばした。体力のない創真は、あっけなくミキサー卓の角に叩きつけられる。
彼らにとって、創真は自分たちと同じ「無力なモブ」でしかない。だからこそ、モブが手に入れた『戦利品』は、自分たちにも分け与えられるべきだという、吐き気を催すような権利意識があった。
「や、やめて……こないで……」
怯えて後ずさる琉佳。だが、背中はすぐに冷たい壁にぶつかった。
「いいじゃんか、ちょっとくらい。どうせ創真に色々されて、もう汚れてんだろ?」
乾が、ニチャアと笑いながら琉佳の肩を掴み、その細い体を床に押し倒した。
「ひっ……!」
「山田、動画回せ。生徒会長様がこんなとこで乱れてるなんて、最高のオカズになるぜ」
山田が息を荒くしながらスマートフォンのカメラを構える。乾の脂ぎった手が、琉佳の制服のスカートの裾を無遠慮に捲り上げ、白い太腿を這い上がっていく。さらに、抵抗する彼女の腕を押さえつけ、ブラウスのボタンを乱暴に引きちぎった。
白い肌と、淡い色の下着が剥き出しになる。
「やめっ、触らないでぇっ……!」
琉佳は泣き叫びながら、絶望の淵で、視線だけを必死に彷徨わせた。
そして、床に倒れ込んでいた創真と、目が合った。
「――創真くんっ、助けて……っ!!」
悲痛な、命を絞り出すようなSOS。
その一言が、創真の脳髄に、致死量のドーパミンを溢れさせた。
(……あぁ。俺は、呼ばれた)
俺はモブじゃない。システムから彼女を救う、絶対的な主人公だ。
ブチッ、と。
創真の中で、人としての最後の一線が千切れる音がした。
創真は無言のまま立ち上がると、傍らにあったスチール製の大型三脚を掴み上げた。
「いい匂いすんなぁ、星野さ――」
乾が琉佳の首筋に顔を埋めようとした、その瞬間。
――グシャッ!!!
振り下ろされた三脚の金属脚が、乾の側頭部を完璧なフルスイングで粉砕した。
熟れたトマトが潰れるような音と共に、乾の体が横殴りに吹き飛び、壁に激突して痙攣を始める。
「……え?」
山田が間抜けな声を上げた時には、もう遅かった。
創真は転がっていたオーディオケーブルを素早く手に取ると、山田の背後からその首に投げ縄のように巻きつけた。
「がっ、ひぎっ……!!」
背中に膝を押し当て、力任せにケーブルを引き絞る。
山田の顔が瞬く間に紫に変色し、白目を剥く。空を切る足が床を叩くが、創真の顔には一片の感情もなかった。ただ「汚物を消毒する」という、無機質で純粋な殺意だけがそこにあった。
やがて、山田が完全に動かなくなり、失禁の臭いが室内に漂い始める。
静寂が戻った放送室。
血だまりの中で、創真はゆっくりと立ち上がった。
ミキサー卓の上。黒い手帳が開き、新たな文字が浮かび上がる。
>>
【タイムループ対処手引き(改訂版):第8条】
同族嫌悪と領土防衛について。
素晴らしい「ヒーローごっこ」だったね、後輩くん。彼女のSOSで、自分の殺意を完璧に正当化できた気分はどうだい?
でも、鏡を見てごらん。君が殺したその『ゲスなオタク』たちと、君にどんな違いがある?
彼らは正直だった。「ヤらせてくれ」と欲望を隠さなかった。
一方の君は、「助けてやる」という大義名分の裏で、結局は彼女を独り占めにして、自分の欲望を満たしたいだけじゃないか。お前がこれから彼女にやろうとしていることは、こいつらの行いと、本質的に何一つ変わらないんだよ。
>>
手引書の痛烈な皮肉。
だが、今の創真には、それすらも心地よいBGMに過ぎなかった。
創真は、返り血で赤く染まった顔のまま、床で震える琉佳の元へ歩み寄った。
「……大丈夫だ、琉佳。俺が、全部排除したから」
彼女の前に跪き、怯える彼女の頬に優しく手を伸ばす。
琉佳はガタガタと震えていた。目の前には、同級生を躊躇なく惨殺した狂人がいる。
だが、同時に、彼女をあの辱めから救い出してくれたのは、間違いなく彼なのだ。
恐怖と、安堵。血の匂いと、唯一の庇護者への盲信。限界を超えた恐怖のストレスは、彼女の精神の中で「吊り橋効果」を極限まで暴走させた。
「……創真、くん……」
琉佳は、破れたブラウスをかき合わせることも忘れ、血まみれの創真の胸にすがりついた。
彼女の目には、もはや床に転がる死体など映っていない。世界には、自分と創真の二人しかいなかった。
「もう、誰も入れない。ここは、俺たちだけの場所だ」
創真は、彼女の震える唇を塞いだ。
血の味と、涙の味が混ざり合う。
それは、システムへの反逆の儀式であり、互いの狂気を肯定し合うための、決定的な刻印だった。
創真の手が、彼女の破れた衣服を静かに剥ぎ取っていく。
琉佳もまた、もがくように創真のシャツを掴み、彼を自らの内側へと引きずり込もうとした。
冷たい床の上、生温かい死体のすぐ傍らで、二人の肌が重なり合う。
痛みと熱。
創真が彼女の最奥へと踏み込んだ瞬間、琉佳の口から悲鳴のような喘ぎ声が漏れた。
「あ……っ、創真くん、そうまくんっ……!」
それは恐怖なのか、悦びなのか、彼女自身にも分からなかった。ただ、自身を満たす圧倒的な熱量と、彼が自分だけを見てくれているという独占欲の充足だけが、彼女の壊れた精神を繋ぎ止めていた。
互いの爪が背中に食い込み、汗と体液が混ざり合う。
手引書が嘲笑った通り、それは純愛などではなく、ただの「共依存という名の暴力」だった。
だが、二人にとっては、この血生臭い交わりこそが、世界で唯一の『真実の愛』だった。
何度も、何度も。
意識が白濁するまで、互いの存在を確かめ合うように激しく求め合う。
死体と血の匂いが充満する密室で、二つの命が完全に溶け合い、一つの歪な怪物へと羽化していく。
『18:00』
――そして、チャイムが鳴った。
時間の強制リセット。
世界が反転し、再びあの強烈なノイズが視界を白く染め上げる。
だが、今回は違った。
創真の細胞の奥深くまで刻み込まれた、彼女と結ばれたという絶対的な『熱』。
そして。
極限の恐怖と快楽の果てに、創真のすべてを受け入れた琉佳の魂に、決して消去できないほどの強烈なバグが焼き付いていた。




