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「その黄色いゴミ箱を持って消えろ」と100均卵料理グッズを見下して追放した王国が、一年後に俺を呼び戻すまでの話  作者: 藍帽


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煌めく錦糸と、不屈の包丁

 街道を十日ほど歩いた頃、遠くから祭りの太鼓の音が聞こえてきた。エルナはその間ずっと、昨日と一昨日に食べたものの感想を、交互に繰り返し語っていた。シュウはそれを、繰り返しうれしく聞き、喜ばしい旅の音だと思うようになっていた。


 その街に着いた時、広場は異様な熱気に包まれていた。


 三年に一度の収穫祭。街中の屋台が出揃い、夕刻には五百人を超える人出が見込まれると、宿の主人が興奮した様子で教えてくれた。


「あの屋台、すごい人だかりですね」


 エルナが指差した先に、黄金色の看板があった。


 『ガストリーナの錦糸亭』


 輪の中心で、一人の女性が包丁を振るっていた。年は五十歳くらい。白い割烹着、きつく結った黒髪。薄焼き卵を紙よりも等しい幅で短冊に変えていくその手元に、観客たちが息を呑んでいた。一寸の狂いもないリズム、一呼吸ごとに積み重なる黄金の糸。それは彼女の人生そのものだった。


「……腕が、立ちますね」


 シュウが呟いた時、その女性が鋭い目でこちらを見た。


「あんたは?ひょっとして……」


「ガストリーナさん、ですね。王宮で副調理長を務めていた」


「昔の話だよ」と彼女は言った。「今は市場で錦糸を売るだけの女さ。……弟から手紙が来ていた。魔力もない奇妙な道具を担いで旅している男がいる、とね」


 弟。シュウの脳裏に、あの王宮の厨房が浮かんだ。ガストフ、王宮料理長。ガストリーナの目に、弟の面影があった。


「何と書いてありましたか」


「『相手にするな』と」ガストリーナが短く笑った。「あの子らしい。」


 少し間があって、ガストリーナが自分の手元の錦糸を見た。それからシュウを見た。


「……一つ聞かせてもらおうか。あんたの道具とやらは、この錦糸を作れるのかい」


 挑発ではなかった。二十年、この技術だけを磨いてきた職人の、正直な問いだった。


 シュウが答えようとした、その時だった。


---


「ガストリーナさん! 大変です!」


 助手の少年フィンが血相を変えて走ってきた。


「今夜の祭りの本部から追加注文が来ました。来賓席に『うなぎのせいろ蒸し』を三百人分出すことになって……」


 うなぎのせいろ蒸し。それは、この国の食文化が到達した、一つの完成形である。


 職人はまず、秘伝のタレを隅々までまとわせた飯を重箱に敷き詰め、その上に炭火の香を纏った鰻の蒲焼を鎮座させる。しかし、これだけではまだ未完成だ。仕上げに、熟練の技で薄く、細く、まるで絹糸のように切り出された「錦糸卵」が、その身を覆い隠すほど贅沢に、雪のごとく天に散らされる。


 真骨頂はここからだ。蓋を閉じ、せいろに入れ、猛烈な蒸気に晒すことで、錦糸卵はただの添え物から「黄金の衣」へと変貌を遂げる。


 せいろの蓋を開けた瞬間、溢れ出す白煙の向こう側に現れるのは、熱を帯びて鮮やかさを増した黄金の輝き。蒸気の魔法によってしっとりと、羽毛のような柔らかさを得た卵の糸が、鰻から溶け出した芳醇な脂をその身に抱き込み、宝石のような光沢を放っているのだ。


 箸を入れれば、とろける鰻と、タレの染みた熱々の飯。それらを優しく包み込む錦糸卵の、淡雪のような口溶け――。これこそが、王都の高級料亭が誇る、最高純度の御馳走であった。


 ガストリーナの目が、手元の錦糸の山を見た。それから空を見た。それから自分の手を見た。


「……錦糸が、三百人分」


 刻限まで、もう時間がない。一人では、どれだけ急いでも百人分が限界だ。


「……うな重にするしかない」


 ガストリーナが静かに呟いた。悔しそうでも、投げやりでもなかった。ただ諦めの混じった、職人の声だった。せいろ蒸しを、うな重に格下げする。錦糸卵なしの、ただのうな重に。それが今夜の現実だ。


「待ってください」


 シュウが進み出た。この素晴らしい職人の悲しむ顔を見たくないと思った。出しゃばりかもしれないが、できることはやりたい。


「手伝わせてください。せいろ蒸しのまま、やりましょう」


 ガストリーナが眉を上げた。「……あんた、今から仕事増やしたね?」


「増やしました」


「……度胸だけはあるね」ガストリーナが腕を組んだ。「やってみな」


---


 シュウが鞄から取り出したのは二つの道具だった。


 一つ目は、鮮やかな黄色の長方形のトレー。手のひらより少し大きく、底面には細かい凹凸が格子状に刻まれている。持ち手が両端についており、形は妙に愛嬌があった。【うすやきたまごメーカー】。


「これに卵液を大さじ二杯、流して傾けて均一に広げる。あとは魔導炉で三十秒。それだけで薄焼き卵ができます」


「……三十秒?」


「フライパンも、火加減の調整も、いらない。誰がやっても、毎回同じ厚みで仕上がります」


 二つ目は、白い柄に五枚の薄い金属刃が等間隔に並んだ道具。刃と刃の間隔は完全に均一。一本ではなく、五本が同時に動く。【ねぎカッターVer.錦糸】。


「なんだいそれは?」とガストリーナが言った。


 エルナも気になったようで、隣で恐る恐る手を挙げた。「……あの、シュウ様。それは……?」


「見ていてください」


 シュウはトレーに卵液を流した。傾けて均一に広げ、魔導炉に三十秒。取り出した瞬間、凹凸面から卵がすっと剥がれた。均一な厚み、均一な焼き色。縁の焦げが、一切ない。


 その薄焼き卵を俎板に置き、カッターを当てて一引き。


 ザッ。


「……っ」


 黄金の糸が、一瞬で皿を満たした。


「一動作で五本。太さは均一です」シュウがエルナにカッターを渡した。「エルナさん、次をお願いします」


「わ、わかりました……!」


 エルナが薄焼き卵にカッターを当て、一引きした。黄金の糸が散る。


「……あ」


 もう一引き。また散る。


「……あ、あ」


「エルナさん」


「も、もう一回だけ」


「エルナさん」


「……はい!!」


---


 そこから三人は、無言で動き続けた。


 ガストリーナがトレーに卵液を流す。シュウが魔導炉に入れて取り出す。エルナが(一引きだけと言い聞かせながら)カッターを引く。フィンが蒸篭に並べる。


 最初の百枚を超えた頃、ガストリーナが初めて口を開いた。


「……あんたの道具は、疲れないんだね」


「疲れません」


「私は疲れる」ガストリーナが手を止めずに言った。「二十年かけて、刻限までの百人分が限界になった。それが答えだ」


「あなたの二十年が積み上げた精度を、道具が形にしているだけです。あなたがいなければ、今夜この錦糸は存在しない」


 ガストリーナは何も言わなかった。ただ、次のトレーに卵液を流した。


 夕刻。祭りの本部に、三百人分のせいろ蒸しが届いた。


---


 仕事が終わった後、ガストリーナがシュウに二つの重箱を並べた。


「一つは私が切った錦糸。もう一つはあんたの道具で作ったやつだ。食べ比べてみな」


 重箱から湯気が立ち昇る。甘いタレの香り。ふっくらと蒸し上がったうなぎの身の上に、それぞれの錦糸卵が雪のように散っている。白米がタレと鰻の脂を吸い、器の底まで琥珀色に輝いていた。


 シュウが左の皿に箸を入れた。錦糸卵と鰻を一緒に口へ運ぶ。


「……美味い」


「当たり前だ。私の錦糸だよ」


 次に右の皿。道具で作った錦糸を乗せた方。シュウが口に運ぶ。


「…………同じ、ですね」


「同じだよ」ガストリーナが静かに言った。「だから食べてみろと言った」


 ガストリーナ自身も箸を取り、両方を交互に食べた。鰻の脂が卵の甘みを包み、タレの香りが鼻を抜けていく。


 ガストリーナの箸が、止まった。


 皿を見たまま、しばらく何も言わなかった。


「……太さが揃っているから、どこを食べても同じだけ鰻の味を引き立てる。私のも、道具のも……同じ美味さがする」


 一呼吸。


「……なんで同じ美味さのものが、こんなに腹が立つんだろうね」


 ガストリーナはゆっくり立ち上がり、シュウの道具を一度だけ見てから、自分の包丁に視線を戻した。


「……一つ聞いていいか」


「どうぞ」


「このトレー、薄さを変えられるのかい」


「卵液の量で調整できます」


「カッターの刃の幅は?」


「固定です」


「……そこかもしれない」ガストリーナが腕を組んだ。目が、さっきより静かで、なおかつ明るかった。「私なら、包丁の角度で太さを変えられる。極細も、中細も、その日の料理に合わせて自在に。……あんたの道具が一つの正解を量産するなら、私はあんたが届かない場所を狙う。そういうことだろう」


「そういうことです」


「なら、まだやれるな」


 ガストリーナが包丁を握り直した。その顔に、諦めはなかった。


 シュウは少し、この人が好きになった。道具に負けて、それでも前を向いた。王宮にいた頃、こういう職人と並んで仕事ができていたなら、と思った。追放されて初めて気づくことが、まだある。


 シュウの隣で、エルナがいつの間にかカッターを取り出して錦糸卵を作っていた。


「……エルナさん」


「も、申し訳ありませんでしたわ!! でもこれ、引くのが気持ちよくて……!!」


 エルナが真っ赤になって手を引っ込めた。ガストリーナがカラッと笑った。その頬を横目で見て、シュウも小さく笑った。


(この国はまだ知らない。100円の本当の価値を)


---


 同じ頃、王宮の一室で、ガストフは手紙を広げていた。


 差出人はフィン。ガストリーナの工房の助手の少年だ。ため息が先に出た。「あいつのことか」


 内容を読む。要約すれば「ガストリーナが旅の男の道具に量産で太刀打ちできなかった」という趣旨だった。


「ふん。私と並ぶ地位を得られたかもしれないのに、料理バカが」


 部下が「ガストリーナ様を破るとは……」と口を開きかけた。


「はっ、一人の野良料理人に勝ったところでなんだというのだ。小物を相手にしている暇はない」


 ガストフの考えは令嬢を虜にした旅人と姉を破った旅人が同じであるということに至ることはなかった。

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