肉汁の抱擁と、溶けゆく高慢
二人で歩くようになって、四日が経った。エルナは道中ずっと、昨日食べたものの感想を言い続けていた。シュウはそれを、特に否定する理由がなかった。
街道沿いの宿場町。シュウとエルナが地元の猟師から分けてもらった猪肉を焼いていた時のことだ。
突如、街道を砂塵が舞い、豪華な馬車が二人の前で止まった。
「――見つけましたわ。こんな卑俗な場所で、野蛮な焚き火料理に興じているなんて」
馬車から降り立ったのは、扇子を優雅に揺らす公爵令嬢ベアトリーチェ。シュウの元婚約者であり、この国の「卵の贅」を支配する特権階級の象徴だ。
「ベアトリーチェ。追放された僕に何の用です」
「用? あなたが持ち出した『ゴミ』の中に、王宮の宝物庫の鍵が混ざっているという疑いがありますの。……あら、そこの汚らしい女は? まさか、あなたの新しい『猫ちゃん』かしら」
ベアトリーチェの刺すような視線がエルナを射抜く。エルナが「猫ちゃん……っ!?」と顔を赤くする横で、シュウは冷淡に、オレンジ色の二層構造の容器を取り出した。
「ベアトリーチェ、ちょうどいい。あなたは信じている。『手間暇こそが、高貴。価値とはそういうこと』と。しかし、価値とはそれだけではない。この【温泉たまご職人】一つで証明しましょう」
「そんな安っぽい箱で? お笑い草ですわ。わたくしを満足させるには、王宮の料理人が三日三晩、魔力火で温度を監視し続ける『極限の半熟卵』を越えねばなりませんのよ?」
「いいえ。必要なのは、熱湯。……そして『放置』という名の合理性だけだ」
シュウはお湯を注ぎ、ただ放置した。お湯が静かに容器の下へ抜けていく間、シュウは一つの器を用意した。
そして、待つ…………頃合いだ。
強火で表面を焼き上げた猪肉の丼。その中央に、シュウが卵を割り落とす。
トロン。
現れたのは、白身がうっすらと真珠色に曇り、黄身が「個体と液体の境界線」を維持する、完璧な温泉卵。
漂う湯気と肉の脂の香りに、ベアトリーチェの鼻がかすかに動いた。彼女は気づいていない。自分が半歩、前に出ていたことに。
「……どうぞ」
シュウが器を差し出す。
「……結構ですわ。道端の焚き火料理など、わたくしの口には——」
言いながら、彼女の視線は丼の中央に釘付けになっていた。黄身が、揺れていた。ぷるり、と。まるで今にも溢れ出しそうな、完璧な張力で。
ベアトリーチェの様子を見て、シュウはもう一度薦めた。
「是非」
ベアトリーチェは扇子を握り直した。
「……一口だけですわ。評価してあげるというだけで、決して——」
箸を取る。小さく、ほんの一口分だけ掬う。口に運ぶ。
瞬間、彼女の動きが止まった。
「…………」
猪の猛々しい脂を、温泉卵のまろやかさが飼い慣らすように包み込んでいた。熱と、柔らかさと、じわりと広がるコクが、喉の奥まで静かに落ちていく。
「……っ。な、なんですの、これ……」
声が、漏れた。意図せず。
しかしベアトリーチェは、扇子を素早く顔の前に広げた。立て直す。まだ立て直せる。
「……ま、まぐれですわ」と彼女は言った。「温度管理など、王宮の職人なら当然できること。これ一品で証明になどなりませんわ。……もし本当に価値があるというなら、もう一品見せてみなさい」
シュウは少し間を置いた。それから、静かに次の器に手を伸ばした。
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茹でたての熱い麺に、削った硬質チーズと黒胡椒を和えたものを器に盛り、その中央に二つ目の温泉卵を乗せた。
「混ぜてください。麺の熱で、卵がソースになります」
「卵を……ソースに?」ベアトリーチェが眉をひそめた。「生煮えの白身など、不浄でしょう。こんなものを混ぜたところで——」
気がつけば、箸が動いていた。
脳が命令を出す前に、手が期待していた。黄身が崩れ、麺の熱を纏いながら、とろりとした黄金のソースへと姿を変えていく。チーズと溶け合い、黒胡椒の刺激を柔らかく包みながら、麺の一本一本に絡みついていく。
「あ……っ」
一口すすった瞬間、ベアトリーチェの肩が揺れた。卵が、熱の中でソースに変わっていた。王宮のどんな技巧も使わず、ただ温度と時間だけが生み出した、なめらかな感触。
「体が、熱くなって……止まりませんの……っ!」
器が、また空になった。
ベアトリーチェは口元を扇子で隠した。隠しながら、小さく息を整えた。
「……ま、まだ足りませんわ」と彼女は言った。声が、わずかに上ずっていた。「二品程度で分かったような顔をしないでくださいませ。あと一品、見せてみなさい。そこまで自信があるというなら」
エルナが隣でそっとシュウの袖を引いた。
「……あの、シュウ様。あれ、自分から望んでいますわよね?」
「そうですね」
「……意地を張る方向が完全に間違っていますわ」
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仕上げに、軽く炙ったパンに蜂蜜を滴らせ、三つ目の温泉卵を乗せた。
「最後です」
「……ふん。これで終わりなら、とっとと——」
一口食べた瞬間、ベアトリーチェの瞳から最後の理性が失われた。
「……っ! 蜂蜜の鋭い甘さを、卵のまろやかさが優しく包み込み……熱いパンと、少しだけ冷めた卵の温度差が……脳を、直接かき回すようですわ……。あぁ、もう……駄目……っ!」
ベアトリーチェの膝が折れ、大地の土に高価なドレスが汚れるのも構わず、崩れ落ちた。乱れた吐息を漏らし、虚空を見つめるその顔は、もはや公爵令嬢の威厳など微塵もない。三つの器は、全て空だった。
「わたくしは……わたくしが食べてきた『高貴な卵』は……。お湯を入れて放置しただけの、この箱に……っ。しかも……自分から、もっと見せろと……言って……っ」
誇り高き令嬢の顔は、屈辱と、それを上書きする圧倒的な食の快楽と、そして自業自得の自覚によって、溶けていた。
「ベアトリーチェ。熟練の技も、魔法も素晴らしいものだ。ただ、計算された物理法則だってそれに劣るものではない」
シュウは、地に伏したまま虚空を見つめているベアトリーチェを一瞥した。
エルナが隣で、その様子をしばらく黙って見ていた。それから、小さく言った。
「……シュウ様。この人、また来ますわよ、きっと」
「そうかもしれませんね」
シュウはそう言って、荷物をまとめ始めた。
(この国はまだ知らない。100円の本当の価値を)
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同じ頃、王宮の一室で、ガストフは書状を読んでいた。
ベアトリーチェの侍従長からだった。要約すれば「公爵令嬢が街道で口にした料理により、体調を崩された」という内容だ。
「……食材管理の問題か」ガストフは書状を机に置いた。「旅の露店食などというものは、衛生状態が知れている。当然だ」
傍らの部下が「その、公爵令嬢が召し上がったのは、旅人が作った卵料理だそうで……」と口を開いた。
「ふん、なんということだ。そのようなものを食べるからそうなる。まあ、よい、食い意地のはった令嬢のことより、優先すべきことがある」
ガストフは立ち上がった。すでに彼の考えは自分の地位を脅かす可能性のある者をどうするかということに移っていた。なんとしても今の地位を守り続けてやる。旅人の作った料理にあらがえなかった令嬢について、それ以上気にかけることはなかった。




