追跡者達
だが、友和の決意も虚しく、館林と二人切りの時に放し掛けるタイミングは一切訪れないまま、やがて放課後になってしまった。
館林は既にあの女子生徒三人と一緒に下校しており、友和は一人帰路についた。
(今夜、あの公園に来るかな、館林の奴)
顔を上げ、ちらりとあの公園の方角を見る友和。
確かに深夜のあの公園ならば、二人の会話を誰かに聞かれる事はない。
だが、回りに誰もいないという事は何者かに接触される危険性も内包している。
あの銀髪の女の事だ。
前もってあの公園に先回りしている可能性だってある。
いや、もしかしたらずっと友和を追跡して、館林との接触を待っているのかもしれない。
思わず左右を見回す友和。
だが、周囲に銀色の髪をした人物はなく、急に首を左右に振った友和を変人でも見るような目付きで見る咲倉高校の生徒の姿があるだけだった。
友和はばつが悪そうに頭を掻くと、足早に家路を急いだ。
帰宅した友和を迎えたのは、誰もいない宇木家の空気だった。
何時ものこの時間帯は亜紀子が夕食の用意をしているのだが、テーブルに書置きがあってそれには「スーパーに買い物に行っています。亜紀子より」とあった。
それを一読した友和は自室に鞄を置くと、着替えの私服を持って風呂場へと向かった。
アニメや漫画にあるような小型発信器のような物が身体の何処かに取り付けられているかもしれないと訝ったからだ。
がらりと風呂場と脱衣場の仕切りである艶消しガラスを空け、風呂場のタイルの上で制服を脱ぐ。
それから、脱いだ制服の表裏をじっと見回して、手でぱんぱんと叩いた。
風呂場で服を脱いだのは、何かが付いていてそれが落ちた時に、タイルに当たった音で聞き分けるためだ。
幸い、パンツ一丁の段階になっても、発信器の類が着ている物に付着しているような事はなかった。
ふう、と安堵の息をついた友和は、徐に自分のトランクスを見下ろした。
「まさか、こんな所にある訳ないよな……」
どう考えてもある訳がない。
そもそも、制服のズボンの内側にあるトランクスにどうやって発信器を仕込むというのか。
「でも、あの館林を追い掛けてるとか言ってたしな。常識じゃ考えられない方法で……」
まるで自分に言い聞かせるかのように一人呟いた友和は、自分のトランクスに手を掛けてそろそろと降ろしてゆく。
トランクスのゴムが友和の腰骨を過ぎて、やがて太腿から両膝に達する。
友和の動きが止まった。
自分のトランクスの内側をしげしげと眺めるという行為は、何とも言えないぐらいに嫌な気分だった。同時に、とてつもなく馬鹿馬鹿しい気持ちになる。
「やれやれ、何をやっているんだよ俺は」
自嘲気味に呟いて、トランクスを穿き直そうとゴム紐を上にやろうとした時、
「お母さんいないのか。ちょっと体育で汗かいたし、シャワーでも浴びよっかな」
由季奈の声に混じって、ぱたぱたと廊下を軽快に走ってくる音が聞こえた。
(ちょ、ちょっと待て!)
友和の脳がフル回転した。
現状として、友和は殆ど裸というかトランクス脱ぎ掛けの状態だ。勿論、脱衣場と廊下を仕切る引き戸は閉めているが、脱衣場と風呂場を仕切る艶消しガラスは、別に風呂に浸かったりシャワーを浴びるつもりもなかったし、家に一人しかいないという解放的な気持ちもあって、全開だった。
(待て待て待て! 何だこれは? いや、落ち着け。そこのガラス戸を閉めろ。曇りガラスを透かして俺の裸が由季奈に見えるだろうが、それはまあ不可抗力で、それよりも俺が声を出せば良いだけの話だ!)
「ま、待て由季――」
しかし、一瞬の逡巡が致命的な時間のロスとなって、
「さてさて、シャワーを浴びてーっと、あれ?」
がらりと開けられた脱衣場の扉と共に姿を現した由季奈と眼が合う友和。
きょとんとした顔の由季奈の眼が友和の顔から下へと下がり、途中で「ひっ」と息を飲むような声を上げたかと思うと、
「きぃぃぃややあああああああああああああ!」
由季奈の悲鳴がびりびりと風呂場内の空気を震わせた。そして間髪入れずに、
「馬っ鹿! 最低! 馬鹿馬鹿馬鹿! 友兄なんて大っ嫌いだー!」
心を引き裂く罵声を浴びせた後、ばしーんと家屋全体が揺れる程に引き戸を閉めて廊下を駆け出して行った。
一人風呂場でトランクス半脱ぎ状態の友和は、剥き出しの背中に冷たい風を感じていた。
それから数十分後、スーパーから帰って来た亜紀子の身体にコアラのようにしがみ付いている由季奈が、おずおずと友和の部屋にやって来た。
この時、私服に着替えた友和は自室にいた。
あんな事があった後なので下の居間には居づらい空気があったし、友和としても何とかして銀髪の女に接触されずに館林さゆと会う方法を考えなければならなかった。
こんこん、とドアが控え目にノックされて、
「友くーん、ちょっと良いかしら?」
亜紀子の声が聞こえた。
「ああ、良いよ」
友和が応えると、「ありがとうね」との言葉と共に亜紀子と、その亜紀子にしがみ付いている由季奈が部屋の中に入って来た。
「こっちに来て、友君。ね、ここに座って」
亜紀子がそう言って、部屋の真ん中辺りを指差す。
「え? 何で?」
「良いから早く。はい、座って座って」
亜紀子が率先して正座になり、その横で由季奈も正座になった。
促される形で、友和も二人に相対するように正座になる。
「友君は胡坐で良いわよ」
そう言われたので楽にする。
亜紀子は何時もの明るい笑顔を浮かべており、一方由季奈の方は暗い表情で赤い眼をしており、友和と顔を合わせようとはせずに俯いていた。
(泣いてたのか由季奈……。まあ、そうだろうなあ……)
風呂場の一件を思い出す友和。
あれが逆の立場だったとしても、友和は由季奈の罵詈雑言を受けていただろう。いや、女性で更に中学生という多感な頃だから、男の裸を見てしまった事よりも自分の裸を見られた方が相当ダメージは大きいだろう。多分、二度と口を聞いてもらえないぐらいに。
そう考えると、今回の件はまあ損というか間が悪かったのは友和の方だったし、風呂場の艶消しガラスを引いていなかったのも悪い。
(早めに謝っとくか。毎日顔を合わせるんだからな。長引くと、お互いに良くないし)
友和がそう結論して、由季奈に謝罪の言葉を口にしようとした時、
「友兄、ごめんなさい!」
由季奈が両手を床に付けて、本当に奇麗な土下座を見せた。
指の先までぴんと張られた緊張感と、丸くなった背中に浮かぶ謝罪の念に、友和は心を打たれた。それでいて、両の耳が真っ赤になっているのは、土下座という行為に対する恥ずかしさではなく、この行為を招いた自分自身への憤りによるものだと、友和は理解した。
だから、友和は最初呆気には取られたが、苦笑を浮かべて、
「俺の方も悪かった。驚かしてごめんな」
と、言った。
「良かったわね。友君、許してくれるって」
亜紀子が朗らかに言う。
「ほ、本当に!?」
由季奈が顔を上げる。涙で眼が潤んでいるのが友和の罪悪感を突付いた。
「ああ。だから、もう泣き止んでくれないかな? 俺が本当に悪い事したみたいに感じるから」
「わ、私泣いてなんか――」
虚勢を張ろうとした由季奈の後頭部に亜紀子の手が伸びると、その顔面をぐいっと自分の豊満なバストの谷間に突っ込ませた。
「も、もがー! お、お母さん! く、苦しいったら!」
顔の全面をほぼ埋まらせている由季奈が、半ばパニックになって叫ぶ。
だが、娘の顔を自分の胸に押し付けているのに涼しい顔の亜紀子が、
「もう、ここで怒ってどうするのかしら。折角仲直りしたのに、また友君と喧嘩するの? お母さん、いい加減面倒見切れないわよ?」
と、諭すように言った。
「う、うん……」
流石に良くないと思ったのか由季奈は抵抗を止めると、母の身体にそっと腕を回す。亜紀子も納得したようで、手の力を緩めると由季奈を優しく抱いた。
母娘の抱き合う姿に、友和は何とも言えない充足感を覚えた。
世間では親が子を殺したりその逆があったりと、人とは思えないような事件が起こったりするのに、宇木家ではそんな事は別世界の話のようだった。
本当に仲の良い家族だと友和は思う。本当に。
友和は亜紀子に顔を向けると、
「そのさ、由季奈から何を聞いたのかは知らないけれど、俺は別に怒ってなんかいないぜ。悪いのは、まあ無用心だった俺なんだし」
そう言ってぽりぽりと頭を掻いた。
「そうみたいね。でも、私一つ気になる事があるんだけど。ねえ、友君はどうしてお風呂場で服を脱いでたの?」
「そう! 私も聞きたい! だって、絶対変だもん!」
途端に由季奈も顔をこちらに向けて来た。
友和は答えられなかった。
まさか、衣服の何処かに発信器を取り付けられているかもしれなかったから、とは言えない。
そんな事を言えば、変に心配されるか、もしくは友和の精神を心配されるかのどちらかだ。
だから、友和は何も言えずに押し黙る。
無言の時間が過ぎた。
「……もしかして、学校で虐められているの?」
亜紀子の顔が曇った。
由季奈が「えっ!」という顔になる。
「な、何でそういう事になるんだよ! 虐められてなんかいないよ!」
確かに、友和は教室内では浮いている存在だ。しかし、誰かに虐められているとか、陰湿な嫌がらせを受けている訳ではない。
「そうなの? だって、虐められてる子って、自分がされた事を中々親には言えないって言うから。例えば、服とか汚されて、それを親に知られたくなくて、自分で洗ったりするらしいし」
「友兄、本当に本当に虐めとか、そういうのないの?」
亜紀子と由季奈が本当に心配そうな顔でこちらを見る。
友和の脳裏にあの銀髪が甦る。
友和は、両の手を強く握り締めた。
「……大丈夫だよ。何でもないから。ちょっと頭がずきずきしてたから、呆けてたのかもしれない」
「ちょっと! それでも問題だよ! ちゃんとお医者様に見せたの? レントゲンとか撮ってもらった方が、ムグッ!」
再び、自分の胸に由季奈を押し付ける亜紀子。
「慌てないの、由季ちゃん。友君、本当に何もないの?」
「……うん、本当にそういうのはないから。心配しなくていいから」
「そうなの?」
むーむーともがいている由季奈をそのままにして、亜紀子が眉根を寄せて聞いてくる。
友和は、ただ黙っていた。
「……分かったわ。じゃ、この話はここまでっ」
それまでの深刻そうな表情とは打って変わり、両手を胸の前で合わせて語尾にハートマークが飛んでいそうな笑顔を浮かべる亜紀子。それと、亜紀子の手が離れたのでようやく質量豊かなバストから解放された由季奈が、「ぶはっ!」と素潜りをしてきたかのように呼吸をする。
「お、お母さん! 私を本気で殺すつもり!?」
「嫌ねえ。私がそんな事する訳ないのに。ひどいわ、傷付くわ」
そう言って、亜紀子が首をぷるぷると横に振っていやいやをする。
(流石に、それは年齢的に無理があるだろ……)
友和は、口には出さずに心で呟くに止める。もし、口に出したのを聞かれでもしたら、今度は夕食まで抜かれる事になりそうだったからだ。
由季奈も口の端を引き攣らせて若干引き気味だったが、立ち上がった亜紀子に促されて手を繋いで友和の部屋から出て行く。
去り際、由季奈が少し気になっている風にこちらを見ていたが、亜紀子に引っ張られるように姿を消した。
そう思っていたら、亜紀子がひょっこりとドアの向こうから顔を出して、
「もうすぐお夕飯だから。今日も寒かったからビーフシチューにしたわ。出来たら呼ぶから、ちゃんと降りて来てね」
そう告げてから顔を引っ込めた。
友和は暫くしてから、
「……ありがとう」
小さく呟いた。
夕食時に出て来たビーフシチューは、本当に美味しかった。
亜紀子は今日が寒かったからと言っていたが、下拵えに時間がかかるはずだから前日から用意していたのだろう。
それだけの手間隙をかけているのだから、美味しくない訳がない。
友和は由季奈と一緒になって顔を綻ばせ、亜紀子の料理を絶賛した。
亜紀子も嬉しそうに微笑んでいた。
そして、楽しい食事の時間が過ぎて行って、三人で居間のテレビに映る他愛もないバラエティー番組を見ながら笑い合い……。
壁時計が十時半を差す頃、由季奈が「勉強しなくちゃ」と言って自室に行き、友和もそれにつられるように自分の部屋へ行こうとした。
「友君」
自分の特等席であるリクライニングシートに座って編み物をしていた亜紀子が、編み目から顔を上げている。
「うん? 何?」
訊ねる友和。
「今日は特に寒いそうだから、毛布をもう一枚出したの。眠る時に使って頂戴ね」
「あ……、ありがとう」
「どういたしまして。お休みなさい、友君」
亜紀子がそう言った。
「……お休みなさい」
友和が応えると、亜紀子はにっこりと笑み綻んで再び編み目に目を戻した。
友和が自室に入ると、亜紀子の言っていた通りに真新しいグレーの毛布がベッドの上に畳んで置いてあった。
友和はそれを見ながら、何と無く勉強机の椅子に腰掛ける。
結局、これといったアイディアも出ないまま、今の時間になってしまった。
どうすれば館林に会えるのか。
彼女はおそらく、今日もあの公園にいるのだろう。だから、会いに行く事自体は何でもない。
しかし、銀髪女が友和と館林の接触する機会を窺っているかもしれないのだ。
幸い、発信器の類はなかったが、いきなり今日の昼間にあの銀髪女が友和に話しかけてきたところを見ると、何らかの方法で友和が館林の近くにいる事を知ったのだろう。
では、何故銀髪女は館林ではなく友和にコンタクトを取ってきたのか。
……いや、あの女は言っていなかったか? 館林さゆは天魔であり、人心を操る悪魔だと。
そう友和に警告した。
それはつまり、館林が銀髪女の言う通りならば、接触が出来なかったのだ。
人心を操られるから(・・・・・・・・・)。
そして、それを忌避しているが故に、先に友和の方に接触したのだ。
「という事は、あの銀髪女は真正面からは館林に近付けないって訳だよな」
ならば、友和が死角を突こうとする銀髪女を牽制すれば良い。それこそ館林は、いざとなれば夜の空へと自由に泳いで行けるのだから。
長距離からスナイパーで狙われたのなら流石に不味いが、先に友和が遮蔽物のある方に館林を誘導すれば良い。それに館林の事だ。そういった可能性も考慮してあの公園にいるのかもしれない。そう言えば、あの公園は冬でも緑の葉を色付かせている常緑樹が生い茂っているので、長距離の狙撃から身を守るには適している。
友和は椅子から立ち上がると、インナーを更に着込んでから何か目ぼしい物がないかと部屋の中を物色した。
素手ではあまりに頼りないので、武器になりそうな物を探したが、大した物は出て来なかった。
元々興味がなかったのでナイフ類はなかったし、文房具のカッターも到底武器になるとは思えなかった。バットや木刀といった殴打に使える棒のような物もない。
考えた末に、友和は自室を出ると階段を下りた。
居間の方は既に電灯が消されており、亜紀子も自室で眠っているのだろう。
友和はなるべく足音を立てないように玄関口まで行くと、下駄箱の上の棚から長めの懐中電灯を取り出した。
実用一点張りの黒い鉄製のボディに単一電池を縦に四本も使う奴で、握った手にずっしりとした感触が返ってくる。何でも世界各国の警察や軍隊で正式採用されているとかで、アメリカの警察官も時にはこれで暴漢に殴打を見舞うという。
振ってみると、びゅんと風切り音がして頭に当たったら確かに痛そうだ。
スイッチを入れると、白く目映い光が前方を照らし出した。
「よし」
友和はそう呟くと、スイッチを切った。
この懐中電灯は充分殴打用として使えるし、勿論ライトを相手の目に浴びせれば立派な牽制になる。何よりも見回りの警察官に見付かった場合、散歩の最中で足元を照らすのに使うと言えば何も言ってこないだろう。これでもしナイフや棒の類を持っていたのなら、最寄の交番に連れて行かれる事は間違いない。
友和は更に数回懐中電灯を振り下ろしてその感覚を身体に馴染ませた後、ある物を取りに台所に向かう。
数分後、準備を整えた友和はスニーカーを履くと、静かに玄関を開けて外へと出て行った。
亜紀子の言う通り、外に出た途端猛烈な寒さが友和の身体を包み込んだ。
友和は懐中電灯を手にしたまま軽くその場で屈伸運動をすると、館林がいるであろう公園へとジョギングペースで走り始めた。
普通に歩いて行くには寒過ぎたし、身体を温めておかないと咄嗟に動けないと思ったからだ。
普段あまり運動を身体に課していない友和は、五分もしない内に息が切れて来た。肺のあたりが焼け付くように熱くなっている。それでも友和は白い息をはきながら走り続ける。
ひんやりとした夜の住宅地の中に、友和の足音と息遣いだけが響いて行く
フレームが鉄製の懐中電灯を直に握っているせいで、掴んでいる方の手が悴んできた。直ぐにもう一方の手で握る。手袋を持ってくれば良かったと後悔するが、友和は駆け足を強める事でそれを打ち消す。
こんな冬の夜であっても、館林はきっとスカートに素足という格好だろう。そんな彼女に比べれば、手の冷たさなんて何でもないように思えたのだ。
見上げれば雲一つない夜空に、冬の星座群が命ある宝石のように瞬いていた。
友和は前を向くと、再度懐中電灯を片方の手に握り直して走り続けた。
幾つかの電信柱の角を曲がると、友和の目に見慣れた自動販売機の明かりが見えた。
あそこの自動販売機で友和は缶コーヒーを買ったのだ。
思えば、あれが館林との出会いの始まりだった。
数日前だというのに、友和の心に懐旧の念が込み上げて来る。
と、その時自動販売機の陰から、まるで熊のような大きな人影がのっそりと現れた。
突然の事で友和は面食らったが、何よりも驚いたのがその人影の後ろに撫で付けられている頭髪が、自動販売機の明かりを受けて銀色に輝いている事だった。
咄嗟に足を止めると、友和は懐中電灯のランプ側を手に持って直ぐに対応出来るように身構える。
(どうする? 逃げる? 突破する?)
友和は逡巡する。
ざっと見て、その人影までの距離は約三十メートル。今から全力で後ろに逃げれば振り切れるかもしれない。
「そのまま家に帰ってくれるんなら、何もしないぜ兄ちゃん」
およそ三十代であろうか、何もかもが大造りな顔の各パーツを太い首の上に載せている銀髪の巨漢は、大きくて白い歯を剥き出しにしてにやりと笑った。それから特注であろうスーツの胸ポケットからタバコの箱を取り出し、その内の一本を唇に銜えた。
体格同様の落ち着きのある仕草に、友和は呑まれたようにその場に立ち尽くしてしまった。
しかし、銀髪の巨漢は友和に構わずスーツの内ポケットからジッポーのオイルライターを取り出すと、しゅこっ、と軽快な音と共に火を灯し、銜えているタバコの先に近付けた。
タバコの先に赤い光点が点ったかと思うと巨漢が長々と息を吸い込む、それに連れてタバコがみるみる縮んでいった。
それから、巨漢は満足そうに目を細めて紫煙をはいた。
怖ろしいぐらいの量の煙が巨漢の口から溢れ出た。それがずっと続くのではないかと錯覚してしまう程の量だった。
「おや? どうしたんだ。帰るならあっちだぜ?」
巨漢は律儀に携帯灰皿をスーツの内ポケットから取り出してタバコを押し付けて消し、更にタバコをもう一本取り出すとそれを銜えた。
友和は、動けないままだった。
さっきまでは頼もしいぐらいに存在感を放っていた懐中電灯の感触が、急に小枝のようにしか感じられなかった。
「それとも、その懐中電灯でやり合おうってのか? 面白いかもしれねえが、生憎俺は手加減出来ないぜ?」
巨漢が笑みを浮かべながら、再びタバコに火を点して自動販売機に寄りかかる。
みしみしと、自動販売機の固定器具が悲鳴を上げるのが聞こえた。
「それとも、ここを迂回して公園まで行くかい? 館林さゆが待つ公園にさ」
友和は眼を見開いた。
すると、巨漢は破顔した。
「人が良いな、兄ちゃん。カマかけた途端いきなり顔に出てるぜ。まあ、悲迦留もあの公園が臭うとか言ってヤマ張ってたからな」
「悲迦留? あの銀髪女がいるのか!」
「そういう事だ。兄ちゃんも悲迦留から聞いてると思うが、俺達は館林さゆを追っている。組織名は狛だ」
「コマ……。どうして、そこまで俺に言うんだ?」
「何、はっきりしておいた方が良いだろう? てめえ一人じゃどうしようもない事があるってのを思い知らされた方が、諦められるだろうよ。若い内は挫折も経験の一つだぜ?」
友和は歯噛みをする。
確かに、個人の友和が幾ら足掻こうと、組織立った連中を相手にしてはすぐに限界が立ち塞がる。しかし、友和は連中の思惑通りにするつもりなどさらさらなかった。
真正面から行って、到底突破出来る相手ではない。体格差からして歴然だ。ここは一旦下がって、機を見て行動するべきだろう。
友和は咲倉市に引越しをして数ヶ月だが、銀髪連中よりも土地勘がある事は間違いない。相手がどれだけ咲倉市の地理に明るいかは分からないが――そう友和が思考している時、巨漢はタバコを口から離して指の間に挟むと、紫煙を透かすようにして口を開いた。
「悪い事は言わねえ。宇木友和、館林さゆから離れろ。折角拾った命だ。無駄に捨てる必要はないんじゃねえのか?」
「……お前!」
「真伏だ、兄ちゃん。それが俺の名だ。ちょっと兄ちゃんの事を調べさせてもらった。……酷い事故だったな」
友和は、ぎりぎりと手にしている懐中電灯を握り締めていた。鉄という材質である事を忘れるぐらいに、強く握り締める。
「去年の九月二十日午前十時頃、S県S市の市街地から山間部へと上る二車線の道路で、前から来た四人乗りの乗用車と二人乗りの乗用車が正面衝突を起こした。内、五人が死亡。生き残った一人も、右の顔面を強打した上に右の眼球を損傷、失明する大怪我を負った……。警察当局の鑑識の結果、山から降りて来た乗用車がカーブの際にスピードを落とし切れず、センターラインを越えて対抗車両に衝突したとの見解を発表した」
「……だまれ……」
友和の口から、呪詛のような声が零れ出た。
しかし、真伏は言葉を続ける。
「その唯一生き残った一人が、兄ちゃんって事だな。……それにしても良く出来てるじゃないか、その右眼の義眼」
「……だまれよ……」
友和は、静かに腰を落とした。
「……やる気ってんなら仕方がねえ。生憎手加減出来ないが、恨むなよ」
真伏がそう言って、今回は長いままのタバコを携帯灰皿に押し付けると、それを地面に放り捨てて――瞬間、巨体が友和目掛けて疾駆していた。
速い!
自動販売機の照明範囲から一気に夜の暗闇にまで飛び込んで来たので、友和は真伏が一瞬見えなくなった。
だが、巨体のくせに俊敏な足音だけが間違いなくこちらに迫って来る。
その時、友和の左眼が、真伏の銀髪が前方右斜めに消えて行くのを捉えていた。
実際には消えたのではなく、友和の死角――右目の視界――にその巨体を滑り込ませたのだ。そして、加速度を伴った真伏の拳が、友和の右顔面へと放たれる。
無論、直撃を受けようものならば、友和は鉄塊のような拳の一撃によって顔面諸共に吹っ飛ばされ、あるいはそのまま昏倒するか即死するかもしれない。
それほどの一撃を、友和は咄嗟に半身になりつつ屈む事で避けていた。
凄まじい風切り音と共に、真伏の拳が友和の頭上を通り過ぎて行く。しかも真伏は自分の勢いを殺せずにそのまま友和の後方を数歩行き過ぎると、意外だという顔をしてこちらを振り返った。
「見えない所を狙ったのが仇になるとはな。驚きだ」
友和は無言で真伏を睨み返す。
予測はしていた事だった。
友和の過去を知り、友和を本気で止めようとするのならば、情け容赦なく見えない右側を突いてくるだろうと。
ならば、身体を右に捻る事で、左目で相手を捉えて避ければ良い。
昨日、江藤のライナーが命中したのは、紛れもなく友和の気の緩みのせいだった。しかし、真伏の拳は眼で見て避けられる速度ではない。どう避けるかは最早賭けだったが、友和の振ったダイスは六以上の目を出してくれたようだった。
もっとも、それで危機が去った訳ではない。初手を躱した事は僥倖と言って良かったが、二度続くとは到底思えなかった。
緊張と恐怖でどっと汗が吹き出す。
しかし、友和はそこから自分で打って出た。
真伏に走り込みざま、握っていた懐中電灯を渾身の力で振り下ろす。
しかし、垂直に懐中電灯を掲げてもその先が相手の頭にやっと届くかという程の体格差が友和と真伏との間にあった。
まるで直立した熊に挑むかのようだ。
案の定、友和の攻撃は真伏の頑強な腕によってあっさりと防がれていた。
更に真伏の片腕が閃いて、友和を掴みにかかろうとする。それを友和は手にしていた懐中電灯を反転させて、ライトの光を真伏の顔に向ける事で反撃する。
無害だと分かっているが、真伏はもう片方の手で両の眼を覆って数歩下がる。
その機を見逃さず、友和はズボンのポケットから密かに台所で用意していた物を、真伏に向かって投げ付けた。
ひゅん、と僅かに風を切る音に反応して、真伏がそれをまるで刃物のような切れ味の上段蹴りによって蹴り裂く。
瞬間、薄闇の中に粉末が舞い散る音がしたかと思うと、突然周囲に鼻腔を刺激する香辛料の匂いが溢れた。
「こいつは!」
真伏が思わず手の甲で鼻を押さえ、更に数歩後退する。が、急にその巨体を屈めたかと思うとくしゃみを連発した。
「……銀髪女にまた会うかもしれないから、胡椒を用意していたんだ。鼻が人以上に利くみたいだったからな。お前も同じ銀髪だから、効いたようだな」
自分の試みが成功した事に、友和は拳を握る。
悲迦留はあれ程臭いを嗅ぐような仕草をしていた。癖ではなく体質によるものだとしたら、それは人以上に鼻が利くという事だ。それも、犬並みに。
「悪いが、俺も本気なんだよ」
言い様、友和は一気に駆け寄ると、くしゃみを堪えようとして堪え切れていない真伏の銀色の頭部に、懐中電灯の一撃を見舞う。
しかし、それは一瞬前に真伏の頭があった空間を行き過ぎただけで、驚いた友和の腹部には、自分のすぐわきに移動した真伏の丸太のような太い足が食い込んでいた。
「考えたみたいだが、俺は悲迦留程に鼻は利かないんだよ。残念だったな」
真伏が蹴り足を戻すまでの僅かの間、六十キロを越す友和の身体が宙に浮いていた。
友和の胃の腑が逆流し、左の眼からは涙が溢れ出した。手元から懐中電灯が滑り落ち、地面に落ちたショックで光が消える。
世界基準の品質の高さと頑丈さが売りの懐中電灯が、まるで友和の運命を表すかのように光を消していた。
数秒間、宙に浮かんでいた友和は、地に両足が着いた途端、重力に引っ張られるようにしてその場に倒れ付した。
げぇっ、と胃の中身が喉を焼きながら競り上がって来て、アスファルトの上にぶちまける。
胃酸の酸っぱい臭いと共に、嘔吐物が湯気を上げた。
更に友和は、夕食に食べたビーフシチューの未消化分を吐き出す。
左眼の奥がチカチカして、今ここにいる事が現実か夢の中なのか分からなくなる。だが、途方もなく腹が苦しいのは事実だ。
「素人にしちゃ、頑張った方じゃねえのか。まあ、これからの勉強代と思ってくれや」
真伏の声が聞こえる。
そのいかにも荒事に場馴れした声に、友和は苦しみではなく悔しさの涙を溢す。
(畜生……、畜生……畜生!)
大人と子どものような体格の差から、戦っても話にならない事は十分に分かっていた。尻尾を巻いて逃げれば、今頃は温かい布団の中にいて安全な夢の世界にいただろう。
だが、友和は真伏という名の巨漢と対決する事を選んだ。
(あいつは、目の前にいる銀髪野郎は、『良く出来てるじゃないか、その右眼の義眼』と、言いやがった!)
「……れは、……ってねえ」
友和が、冗談みたいに笑っている両膝を殴り付けて、ふらふらと立ち上がり始めた。
「立ち上がるな。血反吐吐いてねえから内臓破裂はしてねえみたいだが、二度目はねえぞ。今日を、てめえの命日にしてえのか?」
真伏が、感情を除いた鋼の地金のような声で言う。
「俺、は……、……ねえんだ……」
友和は、歯を食い縛りながら俯く首を持ち上げる。足元に転がっている懐中電灯を、握力の入らない手で懸命に拾い上げる。
真正面には銀髪の巨漢。
胃液と血でぐちゃぐちゃの口の中を半分麻痺したような舌で舐め回し、べっと地面に吐き捨てる。
友和は真伏を真っ直ぐに見据えると、浅い呼吸ながらも息を整えると、
「――俺はまだ、父さんに謝ってないんだよ!」
吼えた。
腹を手酷くやられて胃の内容物を吐き出し、ボディブローを百発食らったような地獄の苦しみの中、友和は夜の空に向かって吼えた。
「……じゃあ、その親父さんとやらにあの世で謝るんだな。折角生き延びた命を無駄にしてごめんなさいってよ」
真伏が、両の手を拳にして構える。
友和は、懐中電灯を正眼に構える。
ひどく珍妙な格好である事は分かっている。警察なんかを気にせずに刃物を持ってくるべきだったと後悔もしている。
だが、友和は今この瞬間だけは、自分の総てを賭けて立ち向かうべきだと理解していた。
一瞬、ちらりと眼だけで夜空を見上げた友和が懐中電灯のスイッチを入れるのと、真伏が地を蹴るのとは全くの同時だった。
懐中電灯の接触部は、奇跡的に生きていた。
瞬間、光の穂先が真伏の目を狙う。が、それよりも素早く真伏が摺り足によるフットワークで横に回避。
更に、残像を残す程の素早さで友和に接近。無論、隻眼の友和にその動きの三割も見えたかどうか。
瞬間、友和が懐中電灯を下から上へと振り上げた。
しかし、真伏はその巨体に見合わぬ俊敏さで、懐中電灯はおろか先端から発せられたライトすら躱した。
ライトで眼を狙ったにしては点を突くのではなく線をなぞった友和を、お粗末過ぎると真伏は嘲りを表情から隠そうともしない。
そのまま勢いに乗った真伏は腰の入った中段突きを、案山子状態の友和の胴へと狙いを定める。
「終わりだ」
低く呟いた真伏の右拳が、まるで砲弾のように放たれる。
友和は、それが自分の胸に着弾する刹那まで、眼を見開いていた。
ずん、と闇夜に鈍い音が響く。
だが、友和は微動だにしなかった。
真伏の中段突きは、僅か一センチ程の距離で止まっていた。凄まじい拳圧が突風のように友和の胸をなぶる。
ぐらり、と真伏の巨体がよろめく。
その銀色の頭から、生白い足がVの字を形作って生えていた。
Vの字の一方は黒のハイソックスを穿いた脛であり、もう一方は閃くスカートに消える太腿だ。
スカートの上に眼を遣れば、そこにはセーターにハーフコート姿という館林さゆが、真伏の頭頂部に片膝を食い込ませているという格好で宙に浮いていた。
だが、着ている衣服はまるで火災現場から命からがら逃げて来たかのようにぼろぼろで、よくよくみれば彼女の両の頬がまるで平手打ちを受けたかのように腫れていた。
「館林の方も大変だったみたいだな」
自分の血で汚れた唇の端をひん曲げて、友和が笑う。
真伏の目がぐるんと白目を向いたかと思うと、ゆっくりと後ろに倒れた。
館林は友和のすぐ近くまで降りて来たが浮遊状態のままで、右手を差し出した。
友和は無感動のまま昏倒した真伏に暫く目を向けていたが、やがて館林の右手を取った。
友和の身体が宙へと浮かび上がり、館林が力強いドルフィンキックを行った途端、翼ではなくジェットが付いたような速度で夜空へと舞い上がった。




