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警告者

 翌日、病院の医師から異常無しの太鼓判を押された友和は、学校に向かうべく街中を歩いていた。

 何でもソフトボールが当たった箇所が人体の中で最も骨の厚い前頭骨だった事もあり、友和自身眩暈や頭痛といった症状が出ていないため、精密検査の必要もなく二、三言会話した後に解放された。

 昼間の街中を制服姿で歩いているのはどうも場違いな気がしていたが、病院に行くから遅刻するという大義名分がある友和は、急いで学校に行く必要もなかった。

 携帯電話の文字盤で時間を確かめると、今の時刻は調度十一時を回ったところだった。

「昼飯が始まる頃に着けば良いかな」

 呟いた友和の眼に、開店しているファーストフード店が目に映った。

 途端に、ぐーっとなる腹の虫。

 今朝の亜紀子は、本当に友和を朝食抜きにしたのだ。

 病院に行くんだから調度良いわよね、と健康診断でもないのに訳の分からない理屈まで言って。

 友和は半ば吸い込まれるようにファーストフード店に入って行こうとした時、

「感心しないわね。今の時間、高校生は学校に行っているんじゃないかしら?」

 女の声がした。

 友和はびくりと身体を震わせると、周囲を見回した。誰もいない。とすると、今の声は自分に向けられたものだ。

(ついてないな、巡察か)

 自分の間の悪さを呪いながら後ろを振り返ると、そこには煌くような銀髪を短く切り揃えたスーツ姿の女が立っていた。

 怜悧(れいり)そうな感じの美人で、背が高かった。

 同年代の中で平均身長の友和と殆ど変わらない。百七十センチは優にあるだろう。

(私服警官? それにしては、随分派手な髪だな)

 友和の心に疑念が差した。

 パンツルックで上下をびしっと決めている銀髪の女は、友和の顔を見て意外そうな顔になった。

「あら? こう言っては何だけれど、貴方って案外普通なのね」

(普通って何だ?)

 訝る友和は、警戒心を滲ませながら口を開いた。

「警察の人ですか?」

 すると、銀髪の女はくすりと笑った。笑うと、落ち着いた雰囲気の割に急に幼く見えた。

「取り締まりをしているから、まあ警察に近いとも言えるわね」

「俺に何のようですか?」

 友和の心が、ざわざわと騒ぎ始めた。

 目の前の女から、警察官独特の金属的な威圧感は感じない。だが、それとは別に自分の足場を徐々に切り崩されて行くような、確実に追い詰められている焦燥感があった。

(逃げるか?)

 心の中で一人呟く友和。

 だが、

「貴方、館林さゆを知ってるでしょう?」

 銀髪の女がそう言った瞬間、逃げる気が失せていた。

 代わりに、込み上げて来るものがあった。

(今、何て言った?)

 友和は無意識の内に、両の手を握り締めていた。

 ぎりぎりと握った鞄紐が手の平に食い込んでいるが、友和は気にならなかった。

 すると、銀髪の女はふんふんと鼻を鳴らした。いや、嗅いでいるかのようだった。

「エピネフリン、ノルエピネフリンの分泌を確認。心拍数も上昇してるわね。臨戦態勢という事かしら……でも、汗腺や皮脂の臭気からすると、内因性モルヒネは作られていない? とすると、著しい痛覚の鈍化は無く、筋力の(ロック)も外されていない?」

 呟いている銀髪の女が眉間に縦皴を刻んだ。

「あんたは、何者なんだ?」

 低く、友和は問うた。

 銀髪の女は友和を暫らく見詰めた後、眉間の縦皴をふっと消して、

「……少なくとも、貴方の人としての人生を守ろうとしている者だわ。どう? 時間があるのなら、少し私とお話しないかしら」

 と、口にするとくるりと背を向けて一人歩いて行った。

「自分から話しかけておいて、何なんだよそれは! お前、館林の事を知っているのか!?」

 友和が遠ざかって行く女の背中に声を放つが、女は一向に振り返る様子もなく、一人すたすたとアーケードの方へと歩いて行く。

 友和は舌打ちをすると、ズボンのポケットから取り出した携帯電話で再び時間を確かめる。

 高校までの道程と昼休みの始まりの時間を考えて、友和には自由に使える時間がざっと三十分程あった。

「三十分だけだ。それだけだ……」

 友和は自分に言い聞かせるように呟くと、足早に銀髪の女の後を追った。


 銀髪の女が行き着いた場所は、大手のファミリーレストランだった。

 さっさと入ってしまった銀髪の女を追って店内に入ると、ウェイターが一瞬怪訝そうな顔になった。

 平日の昼間に、学生服の若者が訪れる事を不自然に感じたのだろう。しかも、先程入店して来た銀色の髪の女を睨み付けているから余計にだ。

 友和が銀髪の女の方に向かって行こうとしたので、

「お客様――」

 ウェイターが友和に声を掛ける。

 その時、

「構わないわ。私の連れなのよ」

 と、銀髪の女が言ったのでウェイターは引き下がった。

 友和は乱暴に銀髪の女の対面に座った。

「まずは私の名前を覚えてもらおうかしらね。――悲迦留(ひかる)、そう記憶してもらって差し支えないわ」

 薄く笑みを浮かべて言った。

「ヒカル? 名字はないのかよ」

 ぶっきらぼうな調子で訊ねた。

「聞きたかったのなら応えるけど? それとも貴方が名付けてくれる?」

「馬鹿にしてるのか? まあ、あんたがヒカルって言うのならそれで良いさ。それよりも、話ってのを早くしてくれよ」

「そうね。良いわ。……と、その前に注文は? 奢るわよ」

 幾ら空腹とはいえ、この状況で物が食べられる程友和の神経は太くなかった。素っ気無く応える。

「水でいい」

「遠慮しなくてもいいのに。ああ、それじゃ、私はこれとこれを……」

 悲迦留と名乗った銀髪の女は、メニューから調理品の見本を二三指差し、控えていたウェイトレスが注文を取っていた。

 ウェイトレスがオーダーを口頭で確認し、厨房へと戻って行くのを横目で見送った悲迦留は、テーブルに両肘をついて手を組むと、その上に贅肉のない顎を乗せた。

友和は大人の余裕を見せ付けられているような気がして、一層渋面になった。

「さっき、俺の人としての人生を守るって言っていたよな。それって、どういう意味だよ」

「そのままの意味よ。私の言う通りにしてくれれば、君は普通の人生を送る事が出来るわ。そう言えば、まだ貴方の名前を聞いてなかったわね。教えてもらえるかしら?」

 友和は逡巡した。

 銀髪の女が偽名を言っただけかもしれないのに、自分の本名を名乗る必要があるのか。そもそも、相手の正体がまるで分からないのだ。ここは教えない方が無難だろう。それに、今の友和は不味い事に制服姿だ。銀髪の女が単身か組織の一員かは知らないが、調べればすぐに咲倉高校の生徒だと分かるだろうし、こんな時代だから友和の名前なんて簡単にばれるだろう。

 もっとも、その手間を省かせてやるなんて気持ちは、友和には更々無かった。

「断る。好きに調べれば良いだろ」

「もう、可愛くないわね。大人と話をしている時は、素直になった方が良いわよ?」

 悲迦留が人生の先輩めいた忠告を口にするが、友和は無視した。

「それで、俺の人生と館林がどう関係するんだよ」

「関係あるわ。私はね、館林さゆを追い掛けているのよ。そこに、君という存在が加わるのは、追い掛ける側として好ましく無い訳」

 友和は、悲迦留を見据えたまま、息をはいた。

 館林さゆの名を口にした時から、ある程度予想はついていた。

 声を潜めて、友和は問う。

「あいつが、普通の人間とは違うからか?」

「違うから追い掛ける、とは簡単には言えないわね。貴方が知らないだけで、常人とは異なる力を持つ存在は昔からいたわ。世間一般的には超能力者だなんて随分とオブラートに包んだ言い方をしているけれどね。でも、館林さゆは別格なのよ。見過ごす事は出来ないわ」

「館林の、あいつの力がそんなに怖いのか? 夜中に、空を泳ぐぐらいなんだぞ?」

「飛翔、いえ飛泳(ひえい)能力は、悪用しようと思えば何にでも利用出来るわ。その最たるものが要人の暗殺かしらね。音もなく空中から忍び寄って刃物でグサリ、もしくは真上から重い物を落とす事も可能ね。しかも、逃走経路は空。スナイパーかヘリが必要だわ」

「何で館林がそんな事をするんだよ。一方的な考え方じゃないか」

「そうかしら? 私の想像は荒唐無稽じゃないわよ。実際、それに近い事例があったしね。聞きたい?」

「それは、あんた達が館林を追い掛けるからだろう!」

 思わず声が大きくなった。

 店内の客やファミリーレストランの店員達が、一斉にこちらを見る。

 友和は無数の視線を感じたが、気にならなかった。

 しかし、悲迦留は友和の眼を真正面から受けながら、また鼻を鳴らしていた。

「熱量増大、発汗量も上がっている。けれど、相変わらず分泌ホルモンの異常検知は確認出来ない。つまり、これは人間がただ怒りを覚えている状態」

「あんた、さっきから何なんだよ。学者か何かか?」

「とんでもない。そんな高尚なものじゃないわ。けれどね、私は、ピーターパンを追い掛けているフック船長じゃない。人心を欺く天魔、分かりやすく言えば人の心を操る悪魔を狩る猟犬なのよ」

「館林が、心を操る悪魔?」

「そう、私が館林さゆを追う本当の理由がそれなのよ。あいつはね、人の心を操って、人形みたいに扱うの。……でも君は、随分レアケースみたいね。館林さゆとの接触度の割に、君からはそういった兆候があまり見られない」

「――一つ教えてくれ。あんたが言う普通の人生って何だよ?」

 友和が、悲迦留の言葉を遮った。

館林と自分との事を、何かのデータのように一々語られるのが不快だった。

「年上の話は聞くものよ」

 悲迦留は苦笑を口許に浮かべると、少しの間考察するように友和の少し上の辺りを見遣って、徐に口を開いた。

「……そうね。日本人として普通に考えるのなら、このまま高校生として勉強して大学に入り、就職してそれから好きな女の子と結婚して家族を持つ事かしら。まあ、貴方が実は冒険癖の持ち主だったなら世界を渡り歩いてもらっても構わないわ。それでも、人としての人生というレールを外れる事はない。自暴自棄になって破滅しようと、それは人としての結末に過ぎないし、無論、私はもう二度と貴方に干渉しない」

 それを聞いた友和は、思わず笑ってしまった。失笑したのだ。

 悲迦留が胡乱な目付きになった。

 切れ長の瞳に獰猛さと理知の光が一緒に内在している。なるほど、確かに猟犬の眼だ。

 対峙している友和は背中がざわつくのを覚えたが、しかし睨み返して言い放った。

「話にならないな。結局は、お前に降伏する人生じゃないか。だったら、俺はそんな負け犬みたいな人生なんていらない」

 そして、友和は席を立った。これ以上、この女の近くにいたくはなかったのだ。

 配膳を運ぶウェイトレスの脇を足早に通り過ぎて外に出る。

途端に冷たい空気が友和を取り巻いて、頭の中がしゃんとした。同時に空腹を覚える。

「行こう、学校に。館林に会わないと」

 手にした鞄の紐を握り直すと、友和は一歩一歩力を込めて歩き始めた。


 一人、ファミリーレストランに残った悲迦留は、ようやく運ばれて来た料理を口に運びながら、右の耳穴に入れている極小マイクから聞こえてくる野太い男の声に耳を傾けていた。

『あの兄ちゃんの様子はどうだった?』

 歳の頃は三〇代の半ばだろうか、低く張りのある声だが、何処か遊侠者めいた不思議な魅力があった。

「ふん。あの年代の男って、みんなヒーロー願望があるのかしらね。見ていて痛々しいわ」

 先ほどまでとは裏腹に、悲迦留は襟元に隠したマイクピンに向かって悪態をついた。かなり小声で話しているので、店内にいる客に彼女の会話が聞かれるような事はなかった。

『仕方ねえさ。あんな美人の嬢ちゃんに必要とされるんだからな。まあ若い男ってのは、何かをしたくてうずうずしているもんなんだよ。で、一度火が付いちまったらなかなか消せねえんだな、これが』

真伏(まぶせ)、あんたどっちの味方よ?」

 苛々とした様子で悲迦留が言う。

「それよりも、あの騎士気取りの坊やが何処の学校の生徒か分かったの?」

『悲迦留だって、あの兄ちゃんと大して歳変わらねえだろうに』

「早く!」

 悲迦留が思わず声を荒げ、通りがかったウェイトレスがびくっとなった。

『へいへい、分かりましたよ。ちょっとお待ちなすって、っと……』

 暫く、極小マイクの向こう側でごそごそかたかたと身動きする音が聞こえた。聞き覚えのあるその音に、悲迦留は真伏がパソコンの端末を使っている事を知った。

 かちかち、とマウスを数回クリックする音の後、再び真伏の声が聞こえて来た。

『まあ、見りゃ分かる通り学生さんだな。悲迦留の隠し持ってたマイクロカメラに制服がばっちり写ってたから、どの高校の生徒かはすぐに分かったぜ』

「高校名は?」

『花が()くに倉庫の(くら)咲倉(さくら)高校だとよ。まあ、並以上の県立高校って事で県内ではまあまあ有名らしいな。で、あの兄ちゃんを張っていれば、館林さゆといつかはご対面って訳だ』

「上手く行けばね。本当なら、直ぐにでも館林さゆ自身を捕捉したかったけれど、正面から行ってあいつの妖術に掛かる訳にはいかないし。……ねえ、館林さゆがその高校に在籍している可能性ってあるのかしら?」

『あん? まあ調べられなくはないが、相手は館林さゆだ。人を操って改竄(かいざん)させているかもしれないぞ』

「……ちょっと、あいつの臭いが強過ぎるのよ。まあ、そのお陰でようやくこの街にいるって事が分かったのだけれど」

「そうすると、あの兄ちゃんの身体からは館林さゆの臭いがぷんぷんするってわけか。こいつはもしかすると、知ってるどころか実は懇ろになってんじゃねえのか? 館林さゆだって見た目は餓鬼だが女だしな」

 真伏の品のない笑い声が聞こえてきた。

「馬鹿言わないで。あいつがそう簡単に他人に気を許すものですか。ともかく、臭いの強弱は接触頻度に影響されるわ。それから考えると、館林さゆが高校生に扮装していて一日中あの坊やの近くにいたとしても、あながち間違いではない。それぐらいの臭いなのよ」

『まあ、実年齢からすると、確かに高校生やっててもおかしくはないがな』

「そうなのよ。だから、この件は私の方で調べるわ。それと真伏にはやってもらいたい事があるの」

『なんだ?』

「実は、あの坊やを洗ってほしいのよ」

『……背後関係を揺さぶるのか。搦め手は逆効果だと思うがな。あの兄ちゃんが一層頑なになるだけじゃないのか?』

「理で説いても分からないのなら、現実に分かってもらうしかないわ」

『好きじゃないんだがなあ、そういうのは』

「いいからやりなさい。これは命令よ」

「……命令とあれば仕方ない。分かりましたよ、悲迦留様」

 そして、真伏からの通信が途切れた。

 悲迦留は、食べ終わった食器を片付けようとしているウェイトレスに声を掛けると、更に幾つかのメニューを追加した。

 これから本格的に動く事になる。エネルギーは出来る限り必要だと、館林さゆを追い続けている悲迦留の本能が告げていた。

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