音楽の授業 1
美和子先生が大きなケースを肩に担いでやってきた。
黒く馬鹿でかいケースの中身は電子キーボードが入っている。
これがないとこの授業は始まらない、音楽の授業が開始される。
小学生の先生というのは何でもできる。その最たる例がこの音楽の授業だろう。
すべての分野をオールマイティにこなせる、子供達にとってはスーパーマンのような存在だ。
ところで、私もガラにもなく小学生と中学生でピアノを習っていた。
なぜ習っていたのかは思い出せないが、おそらく母親辺りが強く勧めたのだろうと思う。
中学生まで習った私の腕前はというと、初歩的な曲ならばなんとかなるが、中級のレベルのモノはかなり難しく、上級レベルのものは手を付ける前にあきらめざる終えないような、初心者に毛が生えたようなレベルだった。
高校生になると通学時間と野球の部活動に時間を追われて自然と辞めてしまった。この分野はあまり向いていなかったのかもしれない。
音楽の教科書をパラパラとめくってみる。
新しい流行曲が取り入られているというニュースを見たので、どのような曲があるのかと見てみると、流行曲とよばれるものはせいぜい1~2曲程度で、後は懐かしい曲がほとんどをしめていた。
『こいのぼり』『赤トンボ』『海』『ちいさい秋みつけた』どれもやさしい曲だ。むしろ5年生でやるには稚拙に感じる、もっと複雑な曲でも構わないだろう。
「それでは皆さん『赤トンボ』を歌いますよ、準備は良いですね?」
「はーい」
子供達が楽しそうに返事をする。
じつは、この赤トンボという曲はけっこう悲惨な内容も含まれている。
その歌詞の一節には『15歳の女性が嫁に行って、連絡さえ付かない』という現代ではちょっと考えられないような暗い面影のある詩なのだが、子供達はそんなことをまるで考慮せず、明るく元気に大きな声でこの曲を歌い始めた。
演奏が始まってすぐにこの授業の問題点があらわとなった。
私の声では、声変わり前の子供達の音域について行くのはとても辛い。
だが問題はそこではなかった。美和子先生の演奏にあった。
演奏を聞いていると、頻繁に音をはずしたり、タイミングがずれたりする、それだけではなくいくつかの音符は飛ばされて、譜面に載っている意味すら成しえない状態にあった。
なまじピアノをやっていただけに私は気になってしょうがないが、まわりの子供達はまったく気にしていない様子だ。もしかしたら気がついてすらいないのかもしれない。
この無秩序な演奏は授業中ずっと続いた。
授業が終り、あまりに気になったので美和子先生に声をかけてみる。
「あの、その、ピアノの演奏の事なのですが……」
「ええ、すいません、下手ですよね、これでも練習をしているのですが……」
恥ずかしそうに、顔をうつむかせてしまった。
「あの、いままではどうしてましたか?」
「ピアノが出来る子に演奏してもらっていました。でもうちの学校の5年生はピアノの出来る子が一人しか居ないんですよね。その子が今は1組におりまして……」
なるほど、おそらく去年あたりまではその子に演奏してもらっていたのだろう。
しかし、これは参ったな、いちおう解決策は一つ思いついたのだが、なんとも面倒くさい……
まあ仕方ないか、アレならまだ私の方がマシだ。時間を持て余しているし、ここは犠牲になるか。
「よければ、練習の為に少し時間の猶予は欲しいのですが、私がピアノの演奏をしましょうか?」
「ほんとうですか、ぜひともよろしくお願いします!」
とたん、美和子先生の表情が明るくなる。いままでこの授業が苦痛だったのかもしれない。
好きでも無いピアノの練習はちょっとした地獄のような日々だったのだろう。それは初めて見るかもしれない満面の笑みだった。
こうして不協和音の地獄からクラスのみんなを解放する為に、私の音楽活動が再開された。




