なぜ、お金なんて存在するのだろうか?
世界の最初の時代、人の言葉は石のように絶対的だったと言われている。
契約書も、鍵も、見知らぬ者が微笑みかけてきた時に喉の奥に広がるような、かすかな疑心も必要なかった。真実とは証明したり守ったりするようなものではなく、足元の土と同じように、ただ当たり前にそこに存在していた。
それが「サティヤ・ユガ(真実の時代)」だ。人間がまだ「腐敗する」ということを知らなかった頃、世界がその尊厳を保っていた時代。
当時、空が落ちてこないように支えていたのは四本の柱だった。「真実」「清浄」「慈悲」そして「自律」。
そのうち三つは、すでに失われた。人間が綺麗な服の裏に汚れを隠せるのだと気づいた瞬間、清浄は偽善へと消えていった。生き残りが競争となった時、慈悲は無関心へと変わった。そして、快適さに溺れて弱くなった私たちの手で、自律の柱はへし折れた。
残された柱は、ただ つ。「真実」だけだ。
だが今の世界を見渡せば、それも今や一筋の糸で繋がっているに過ぎない。
人は強欲とは金のことに過ぎないと思っている。だがそれは違う。金とはただ、欲を測るための安い道具に過ぎない。つの時代を破滅させる本当の強欲とは、自分のものではないものを奪い取り、それを「正義」と呼ぶような、必死で卑しい衝動のことだ。自分が本当に信じ込むまでつき続ける嘘のことだ。互いに手が届くほどの至近距離に何百万もの人間が暮らしながら、ただの一人も信用することができない、そんな街の姿のことだ。
真実が潰えた時、世界は雷鳴とともに終わるのではない。内側から腐り落ちていくのだ。
車輪は回り、時代から時代へと巡り、やがてその spokes(矢)が折れ始めた。そして今、私たちはサイクルのまさにどん底にいる。空気は目に見えない不吉な何かで淀み、毎朝目を覚ますたび、その重苦しさが胸にしみ込んでくる。
……
…
.
「おじいちゃん、空を見て何を考えてるの?」
「ん? ああ……ただ綺麗な星に見とれていただけさ。ところでシン、こんな時間にどうしたんだい? もう寝る時間はずっと過ぎているよ」
「分かってる……でも、お父さんとお母さんに会いたかったんだ」
「ふたりとも仕事で忙しいからね。帰ってくるのは夜遅くになるよ」
「毎日これだ……」シンはうつむきながら呟いた。
「そんな悲しそうな顔をするんじゃない、シン。お前は強い子だ」おじいちゃんはそう優しく言うと、彼の肩に温かい手を置いた。「お父さんもお母さんも、お前が不自由なく暮らして、良い教育を受けられるように毎日一生懸命働いているんだよ」
「なんで……?」
「ん? なんで、とはどういうことだい?」
「なんで、お金なんて存在するのかな……?」シンはぽつりと尋ねた。
おじいちゃんは言葉を失い、黙って彼を見つめた。「なぜお金が存在するのか、か……」
「……なんでもない。もう寝るね、おじいちゃん。おやすみなさい」
老人は再び夜空を見上げ、心の中で静かに思った。
(シン、私の愛しい孫よ。お前はこの世界に対して純粋すぎるな。なぜお金が存在するのか、と問うのかい? それはただの紙切れに過ぎないが、人々を支配する絶大な力を持っている。言で言えば、男も女も関係なく惹きつけるものだ。私たちの肉体に 時的な幸福を与える幻影なのだよ。今の時代、お金がなければ水一杯すら手に入らない……まるで人間が、自然がタダで与えてくれたあらゆるものを自分の所有物にしてしまったかのようだな)
……
「シーーン、起きなさーーい!」
ドスッ、と重いパンチが僕のみぞおちにめり込んだ。
「ぐはっ……な、何すんだよ、お前……ッ、痛ってぇ……」
僕の妹は、本気で誰かの肋骨をへし折る勢いのエグい拳を叩き込んできた。
「今日が6月21日だってこと、忘れたの!?」
まるで僕が何か重大なことでも忘れたかのように怒鳴り散らしてくる。
「ろ、6月21日……!?」
近所中に響き渡るような大声で叫んでしまった。
6月21日—僕の人生で最も重要な日。今日はおじいちゃんの命日だ。おじいちゃんが亡くなってからというもの、僕はいつも同じ夢を見る。「なんでお金なんて存在するの?」とおじいちゃんに尋ねる夢だ。それが、僕がおじいちゃんに訊いた最後の質問だった。あの夜何があったのかは分からないけれど、別に知らなくてもいいと思っている。
「いつまでボーッとしてるのよ!?」
「はッ!? あ、いや、今すぐ準備するから向こう行ってて!」
「ハァ!? さっさと着替えなさいよ、このバカ!」
母親みたいに小言を言ってくるのは、僕の妹のショウコだ。まあ、血は繋がっていないんだけど。怒られる前に、さっさと準備しよう。
今日は僕にとって 番大切な日だから、普段じゃ考えられないスピードで準備を済ませた。急いで階段を駆け下り、食パンを 枚くわえて家を飛び出す。
「行ってきます、お母さん!」
「気をつけてね! 走っちゃダメよ!」
僕は星野シン、どこにでもいる大学生だ。趣味は世界を旅することと、世の中の理屈や説を解き明かすこと。なんでこんな趣味があるのかは分からないけれど、昔から好きなのだ。色んな本を読むのが好きだが、別にガリ勉というわけではない。最近読んでいるのは『プラーナ』インド教の古代聖典で、世界の始まりについて書かれた本だ……まあ、無駄話はこの辺にして道に集中しよう。
三十分ほど歩いて、おじいちゃんのお墓に到着した。墓石は落ち葉と泥で汚れていたので、僕はかがんで手で丁寧に泥を払いのけた。
「……やあ、おじいちゃん」
必死で込み上げてくる涙をこらえた。
「今日は少し遅くなっちゃってごめんね。でもほら、おじいちゃんの好きな激辛カレー買ってきたよ」
おじいちゃんは激辛カレーが大好物だった。僕は昔から、おじいちゃんみたいに辛いものは食べられなかったけれど。カレ の箱をお墓の脇に供える。もちろんおじいちゃんが食べるわけじゃないけれど、お腹を空かせたホ ムレスの人にでも届けばいいな、なんて思いながら。
「やあ、ボウズ。久しぶりだな」
背後から穏やかな声が聞こえた。振り返ると、そこにはあの激辛カレーの箱を手にしたお坊さんが立っていた。
「あ、こんにちは」僕は深々と頭を下げた。「回忌以来ですね。お元気でしたか」
このお坊さんは、おじいちゃんの生前の一番の親友だった。僕が七歳の頃からの付き合いだ。本当に立派な人で、昔いろんな大切なことを教えてくれた。強欲や執着を捨てて生きることの大切さも、全部この人から教わったのだ。
「おお、お前も激辛カレーを買ってきたのか。ハハハ! さすがアイツの孫だな。それに引き換え、ウチの孫ときたら……」
お坊さんはどこか呆れたような顔をした。
「ちょっとじいさん! 待ってくれよ、歩くのが早すぎるんだよ!」
僕と同い年くらいのやつが、肩で息をしながらハァハァと走ってきた。タケシ このお坊さんの孫で、僕の親友だ。時々、僕たちの家族は昔からずっと縁があるのかなと考えたりもするけれど、今はどうでもいい。
「待つ理由がどこにある? 健康と体力作りのために毎朝筋トレしろと言っておるだろ! それなのに毎度毎度エロ漫画ばかり読みおって! 何度捨てても買い直しおってからに、自分たちが僧侶だということを忘れたか!」
お坊さんは本気で怒り狂っている。
「へいへい、落ち着けってじいさん! エロ漫画読むくらい犯罪じゃないだろ! 強盗でもしてるわけじゃあるまいし!」
「色欲は最大の罪の一つだと言っておろうが、この罰当たりが!」
お坊さんはタケシの頭に思いきり拳骨を落とした。
「いっだぁぁぁッ! やめろよクソジジイ!」
「このクソガキ……!」
「はいはい、二人ともそこまで!」僕は間に割り込んだ。「怒り(憤怒)も大きな罪の一つですよ。感情をコントロールできないと、心の平穏を失っちゃいます」
「うぐっ……む、むう、分かっておるわ……」お坊さんはハッと息を吐き、怒りを収めた。「ふむ、よく覚えておったな」
「当然ですよ、全部お寺様が教えてくれたことですしね」僕は得意げに笑ってみせた。
「さて、ワシはもう行くとするよ。タケシ、お前はどうする?」
「行くよ……たく、シンの方がよっぽど大人だな」タケシは痛そうにタンコブを擦りながら呟いた。「マジで痛ぇ……」




