第 拾弐 話 「 傷 」
雨音を耳にしながら、誰もいない雑魚寝小屋の隅に私は腰を据え、卓に置いた軟膏壺を意味もなく眺めている。薄暗い室内に月のようにぼんやりと光を放っているようだ。
手元にあるのに触れるのが烏滸がましく思えてならない。知らぬ高貴な方が私のために、衣を雨に滲ませながら持って来て頂いた物。
蟻である私に親切にする価値も必要はない。
そんな蟻にとって、この小さな軟膏壺がどれ程に禍災になりうるということを。
あの方は、───知らぬのだろう。
「……こんな物、私には」
────ガシャン!
床に茶器が破片となって散らばる。何が起きたのか己の頭が理解するのに時間を要した。
無惨に砕け散った茶器を目の当たりにし、私の身体は呪詛をかけられたように動くことが出来ない。身体が熱を失い、身が小刻みに震えていることすら気づかなかった。
慌てた足音が幾つか耳に届く。
私は振り返ることもせず、床に飛散した茶器をただ見つめることしか出来なった。
「な、なんてこと?!」
叫びに似た声が宮に響く。女官は目を向き、黒目を揺らした。その女官の他にも数人の働き蟻が、私の失態を目に焼き付ける。
「どうしてくれるのよ!!この茶杯は皇帝陛下より乱華様へと贈られた大切なお品なのよ!?」
「──あっ」
「あ、じゃないわ!この茶杯とあなたの価値は別格なのよ!!どうするのよ!!」
女官は血走った瞳を私に向けながら吐き棄てる。眉に深い皺を刻みつけながら。
「皇帝陛下に知られてしまったら……乱華様、お咎めを受けるのではないかしら……」
後ろで腕を組み、口元に指先を置いた女官が憂い顔を浮かべ沈んだ声でそう零す。
私の前に立つ女官の顔が更に険しくなっていく。
「お前のその小汚い生命と引き換えに許しを乞うのよ!!」
女官の袖か大きく揺れた。
「も、申し訳ございません」
私はその場に膝から崩れ落ち、頭を床に叩きつける。何度も何度も。自分の犯した罪を身に刻みたくて。
「どうするの……?」
「そうね……とにかく、このことを乱華様に報告しましょう」
「それが良いわ」
「だから、嫌だったのよ。下賎な者がこの玄華宮を彷徨くというのが」
嫌味を込めたその言葉が胸に重くのしかかった。伏せているのに、女官の鋭い眼光が私に突き刺さる。
「やめなさい。乱華様がお決めになったことでしょう?」
咎めるように言葉を返した女官。その女官も口と心音は別なのであろう。吐き出した溜め息がそれを物語っている。
頭上で交わされた言葉を重く受け止める。
私はここにいてはいけなかったのだと。
乱華さまに甘えてばかりで、あの方のためには何ひとつ出来はしないのだ。
唇を噛む。強く、強く噛み締める。
口に広がる血の味がとても、苦く感じた。
「こちらを片付けておきなさい」
「今のうちに、死の覚悟でもしておくことね」
その声を最後に足音が遠ざかっていく。
急に静まり返った室に取り残された私はそっと頭を上げた。
この虫けらの生命が役に立つなら、私は喜んで差し出す覚悟はとうにできている。
あの方のお傍にいられなくなる方が私には辛い。
私の犯した罪のせいで、乱華さまが咎を受けるのはおかしな話。責は私が受けるべきなのだ。
散らばった破片をひとつずつ拾いあげる。これを全て拾い集めたら、乱華さまのところに行こう。
行ってこの身を持って罪を償うと申し入れる。そう決めた。
───カチャ。
誰かがこの室に入って来た。靴が茶器の破片を踏んだ音が耳に届く。
ふわっと薫るその香りは振り返らずとも誰だか分かる。視界の端で紅い絹衣が掠めた。
私はそのお方へと顔を向ける。
「……乱、華さま?」
その声と同時に私の眉が歪む。
掴み上げようとした破片が指先に食い込んだ。痛みより熱が先にくる。でも、私は構わずその場に立ち上がり、乱華さまへと頭を下げた。
溢れてくる血は床へと垂れる。
「馬鹿者」
それだけ、だった。他は何もお言いにならない。責めもせず、声も荒らげもせずにただひと言、そう仰っただけ。
そして、乱華さまは小汚い私の手を掬いあげる。血が流れる指先へと視線を落とし、迷うことなく口に含まれた。
「───ら、乱華さま??!い、いけません!!」
慌てて腕を引く。しかし、私の腕は少しも動かない。乱華さまの細い指先は私を逃さぬようにしっかりと握られたまま。
含まれた指先から乱華さまを直に感じさせくる。胸が跳ねた。痛いほどに。
時間は瞬時。だが、その時間はひどく永く思えた。
「慌てるからだ」
怒っておられるのか、たまたまそうなのか。
乱華さまの声はいつもより低い声だった。
「───血など流すな」
そう告られた乱華さまの薄い瞳は、なぜだか切を帯びているように見える。私の視線に気づいた乱華さまと目が交じり会う。
乱華さまの強く荒々しい瞳に私は目が離せない。
傷のせいなのか、乱華さまのせい、なのか。
私の指先は激しく脈を打った。
───────
───
.....
その指は踏みにじられた指先は良からぬ方向に曲がり、紫へとさまを変えている。
纏う気配も香りも、視線も何もかも似てもいないはずなのに。
あの方に会いたくて堪らなくなってしまった。
「………乱華さま」
身が竦み、肩が細かに震え出す。
胸を押さえ、声を殺した。
涙など枯れたはずなのに。あの方を想うだけでこんなにも感情が激しく乱れてしまう。
顔を上げ、潤んだ瞳は小さな月を目に入る。
私は膝を立てた。
裾が跳る。私は雨の降り頻る外へと身を任せ、そこをあとにした。
卓の上にある小さな月を残して。
落ちてくる雨粒は私の頬を何度も撫でつける。それは慰めなのか、私という存在を洗い流すためなのか。
どちらなのか、分かるはずはない。
小屋の傍でじゃり、という音が微かに聞こえた。
だが、その些細な音は雨音の中へと吸い込まれる。
衣がゆらっと揺れた。
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