第5章|2021〜2024年 ― 十年の愛と指輪
2021年に入ると、私たちの時間は派手さよりも密度を選ぶようになった。
新横浜のホテルで年の始まりを祝った翌日、向ヶ丘遊園で寿司を食べ、車でコーヒーを飲む。
その一つ一つが、約束事のように自然だった。
ユキはこの頃も、
別れを考えたことなど一度もなかった。
家庭を捨てるつもりもない。
ただ、あきらと過ごす時間が、自分の心を支えていることを理解していた。
映画を観て、ラーメンをすする。
イオンを歩き、ダイソーで小さな日用品を選ぶ。
生田緑地の駐車場でエンジンを切ると、時間が少しだけ緩む。
ユキは窓の外の緑を見ながら、今日の出来事を心の中で整えているようだった。
私はその横顔を見て、何も起きなくていい、ただ一緒にいればいいと思うようになった。
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2022〜2023年、深まる日常
手作りのおにぎり、雨の日のドライブ、買い出しの帰り道。
喧嘩もあったが、翌日には同じ場所に来てくれた。
許し方を知っている人の背中だった。
伊豆の海、温泉、桜。
はるひ野の台所で揚げた天ぷら、豚汁の湯気。
ユキは料理の向こうで、家という言葉を静かに肯定していた。
笑う回数は増えた。
けれど、ふとした瞬間の沈黙は深くなった。
私はその沈黙を「安心」だと誤読した。
実際には、ユキの中で“現実”と“逃避”の境界が揺らぎ始めていた。
それでも、
ユキは別れを考えなかった。
あきらを失う未来のほうが、ずっと怖かった。
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2024年、静かな変化
2024年に入ると、ユキのLINEは短くなり、返事の速度がゆっくりになった。
会えば以前と変わらないように見える。
けれど、別れ際の速度だけが違った。
靴を履くのが早くなり、時計を見る回数が増え、
ドアに向かう背中に迷いがなくなった。
「……あきらくんといると、幸せなんだよ」
ユキはそう言った。
私は嬉しくなって笑った。
だがユキは続けた。
「でもね、その幸せが……重くなるときがあるの」
その言葉の意味を、私は深く考えなかった。
考えたら、何かが壊れる気がした。
ユキはこの頃、疲れていた。
けれど、別れを考えたわけではない。
ただ、十年という重さを抱えきれなくなりつつあった。
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2024年12月10日 ― 十年の指輪
冬の横浜・元町は、昼の光が石畳に反射し、
クリスマス前の柔らかなざわめきに包まれていた。
私はその日のために、指輪工房を事前に予約していた。
十年という節目を、形にしたかった。
言葉にする勇気はなかったが、
指輪なら伝わると思っていた。
元町の駅前で待ち合わせたとき、
ユキは少し驚いた顔をした。
「……今日は、どこ行くの?」
「ちょっと、予約してる場所があって」
「予約?」
ユキは不安そうに眉を寄せた。
けれど、私の表情を見て、すぐに微笑んだ。
「……うん、行こう」
その“うん”には、
期待と不安と、十年分の信頼が混ざっていた。
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指輪工房の光
工房の中は、金属の匂いと昼の光が混ざり合っていた。
ユキは緊張したように笑いながら、金属を削り、叩き、磨いた。
「……こんなこと、していいのかな」
「いいよ。十年だよ」
「……うん。でも……」
その“でも”の後に続く言葉を、ユキは飲み込んだ。
私はその沈黙の長さから、彼女の中に“疲労”があることを感じ取った。
だが、その正体までは読み切れなかった。
ユキはこのときも、
別れを考えていなかった。
ただ、十年の重さに胸が少しだけ痛んだ。
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完成した指輪 ― 二人の“意味”の違い
完成した銀の指輪を見つめながら、ユキは小さく息を呑んだ。
「……綺麗」
だがその声は、どこか遠かった。
ユキは指輪を左手にはめず、右手の中指にそっと滑らせた。
「……ここなら、誰にも気づかれないから」
その言葉は、十年の関係の“限界”を示していた。
そして私は、その瞬間、胸の奥で静かに思っていた。
——十年も一緒にいたんだ。
——これは、形にしてもいいはずだ。
——言葉にしなくても、伝わるだろう。
それは、私なりの誠実さであり、
無言のプロポーズのつもりだった。
だがユキは、その沈黙の意味をまったく別の角度から受け取っていた。
——この人は、未来を望んでいる。
——私は、その未来には行けない。
指輪の重さは、私にとっては“確信”だったが、
ユキにとっては“限界の証”だった。
それでも、
ユキは別れを考えなかった。
ただ、胸の奥に小さな痛みが残った。
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変わってしまった沈黙
その日を境に、ユキの沈黙は質を変えた。
以前の沈黙は安心だった。
今の沈黙は、距離だった。
私は言葉を増やした。
説明し、確認し、安心させようとした。
けれど、送信した直後に後悔する。
長文は、重い。
重さは、ユキが一番避けてきたものだ。
2024年の終わり。
ユキの心の中で、まだ小さな“限界の影”が生まれた。
しかしそれでも、
ユキは別れを考えていなかった。
あきらを失う未来だけは、想像できなかった。
このときの私たちは、
十年の愛が“終わり”に向かっていることを、
まだ誰も知らなかった。




