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十年の誤読 ー戻らないと決めたー  作者: fudo_akira


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第2章|2014年10月30日 ― 初めて触れた日

2014年10月30日。

その日は、十年の物語の中で、もっとも静かで、もっとも取り返しのつかない一日だった。


待ち合わせ場所は武蔵小杉のカフェ。

「コーヒーでも」と軽い言葉で決まった約束だった。

けれど、店の前に立った瞬間、私の心臓の音がうるさく感じられた。


ガラス越しに見えたユキは、画面の中で見ていた姿よりずっと静かで落ち着いていた。

控えめな服装。自然なメイク。姿勢はまっすぐで、どこか影をまとっている。

その影が、私には美しく見えた。


「はじめまして」

ユキは小さく微笑んだ。

その笑みは、長い間使われていなかった道具を取り出すような、ぎこちないものだった。


このときのユキは、家庭を壊すつもりなど一度もなかった。

夫と娘を大切にし、日常を守ることが当たり前だった。

ただ、あきらと話す時間が“静かな救い”になっていた。それだけだった。


私はそのぎこちなさを「照れ」だと思った。

しかし実際には、ユキの胸の奥には、別の感情が渦巻いていた。


——どうして私はここにいるんだろう。

家を出るとき、夫の顔をまともに見られなかった。

娘の「いってらっしゃい」の声が胸に刺さった。

それでも、足は武蔵小杉へ向かっていた。


私はそんな葛藤を知らない。

ただ、彼女の沈黙を「慎重さ」だと受け取っていた。


「こういうの、慣れてなくて」

ユキがぽつりと言った。

その言葉の重さを、私は理解できなかった。


カフェを出る頃には、夕方の光が街を薄く染めていた。

私たちは自然な流れでカラオケボックスへ向かった。

歌うためではなく、扉を閉める理由が欲しかった。


ONE OK ROCKの曲を入れた。

歌が終わるたびに、沈黙が増える。

肩が触れ、視線が逸れ、また戻る。

触れてはいけない距離が、音もなく消えていった。


誰が始めたわけでもない。

二人の間にあった境界線が、静かに溶けていった。


そして、私たちは男女の関係になった。

その瞬間、私は「始まった」と思った。

ユキは「戻れない」と思った。


けれど、ユキはこのときでさえ、“別れよう”とは一度も思っていなかった。

罪悪感はあった。

それでも、あきらを失う未来は想像できなかった。


帰り際、ユキは小さく息を吐いた。

「……早かったね」

その言葉を、私は“照れ隠し”だと解釈した。

しかし実際には、ユキは自分の弱さを責めていた。


——どうして止められなかったんだろう。


その夜、ユキは家に帰り、洗面所の鏡を見つめた。

化粧を落とす手が震えていた。

夫の気配がするリビングに戻るまでの数分が、異様に長く感じられた。


それでも、別れようとは思わなかった。

あきらとの時間は、罪悪感より先に“救い”として胸に残っていた。


私はその頃、スマホの画面を見つめていた。

ユキからの「今日はありがとう」の短いメッセージを何度も読み返しながら、胸の奥が熱くなるのを感じていた。


——これは、特別だ。

そう思い込んでいた。


11月、急速に深まる距離


11月に入ると、会う頻度は急激に増えた。

武蔵小杉、溝の口、新宿、渋谷、横浜――

地名が、感情の記号のように並んでいく。


11月3日。

短い再会。

ユキは控えめに笑った。

その笑顔の裏にある罪悪感を、私は読み取れなかった。


11月7日。

溝の口の駅から少し離れた道。

手を繋ぐまでが自然に早くなった。

私はそれを「距離が縮まった証拠」だと思った。


11月14日。

渋谷の人混みの中、他人のふりが上手くなった。

ユキは歩きながら、ふと横顔を曇らせた。

私はその曇りを「疲れ」と解釈した。


11月26日。

はるひ野。

ユキの生活圏に足を踏み入れた夜。

彼女は言葉が少なかった。

私はそれを「安心している」と受け取った。


——誤読は、いつも優しさの形をしている。


12月、深まりと歪みの始まり


12月に入ると、私たちはさらに深く関わるようになった。

恵比寿で背伸びした店に入り、

新宿で何かが傷つき、

町田のドライブホテルで唐揚げを食べながら笑った。


ユキは決して多くを求めなかった。

帰る時間を守り、家庭の話を避け、未来を言葉にしない。

その慎重さが、私には“覚悟”に見えた。

だがユキにとっては、“防衛”だった。


——これ以上踏み込んだら、壊れてしまう。


そう思いながらも、私の誘いを断れなかった。

私の軽い冗談に笑ってしまう自分が、時に許せなかった。


12月29日。

町田のホテル。

唐揚げの匂いが部屋に広がる。

私は「また会おう」と言った。

ユキは「うん」と答えた。


その「うん」は、私にとって未来の約束だった。

ユキにとっては、罪悪感の延長だった。


それでも、ユキは別れを考えなかった。

あきらを失う未来のほうが、ずっと怖かった。


この頃の私たちは、同じ時間を過ごしながら、まったく違う場所に立っていた。

私は「始まり」だと思っていた。

ユキは「戻れない」と思っていた。


それでも二人とも、“別れ”は想像していなかった。

触れてはいけない距離は、もうどこにもなかった。

しかしその代わりに、

触れてはいけない“心の距離”が、静かに広がり始めていた。

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