表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/3

後編


 ぎょろりと大きな黄色の目。大きな口から覗くのは黒く鋭い牙。

 赤く塗られた雪鬼の面は、十年以上使われているせいだろう、昔見た時よりも色褪せて薄汚れているように思えた。

 

 ――ああ、マリだ。


 数年ぶりに見るのに、すぐにわかってしまった。

 他にも同じ色で似たような面をつけた雪鬼はいるのに、わかってしまう自分が嫌だ。

 フレッカは急いで目を逸らして、ショールをさらに深く被る。赤い雪鬼と目が合ったと思ったのはきっと気のせいだ。これだけの人ごみの中で、マリが自分に気づくはずがない。

 だが、耳に届く鈴の音が、わあっと歓声をあげる周囲の人達が、雪鬼がこちらに向かっていることを知らせてくる。

 まさかという思いで、恐る恐るショールの下で目線を上げれば、赤い雪鬼が人込みを掻き分けてこちらに向かっているのが見えた。

 今度こそ、気のせいでも何でもなく、雪鬼と目が合う。


「っ…」


 フレッカは無意識のうちにじりじりと後ずさる。一直線に近づいてくる雪鬼の姿が恐ろしくて、とうとう身を翻して、並んでいた列から飛び出した。

 祖母から頼まれていたホットワインのことは、もう頭から抜けている。


 ただ、雪鬼から逃げるために、フレッカは駆けだした。




*****




 お母さん、助けて。

 雪鬼に攫われちゃう。

 嫌だよう。恐いよう。


 雪鬼に追いかけられて泣くフレッカを、母は困ったように笑って抱きしめてくれた。

 大丈夫、怖くないわ。私があなたを守るもの。――そう言っていた母は、フレッカが十歳のときに病で亡くなった。


 その年、喪が明けたフレッカは一人で祭りに参加して、雪鬼に追われながら母の姿を探した。


 お母さん、どこ?

 雪鬼に攫われちゃう。助けてよ。

 お母さん、お母さぁん。


 何度呼んでも、声を上げて泣いても。

 抱き上げてくれる母は現れなかった。

 そしてようやく、フレッカは泣きじゃくる自分を慰めて抱きしめてくれる手は無いのだと実感した。

 通りの隅でぼろぼろと泣くフレッカを抱き上げたのは、母ではなかった。

 涙で霞む視界に映るのは、歪な赤い鬼の顔。


『……ごめんね、怖がらせて』


 恐いお面の下から聞こえる声は柔らかく、涙でぐしゃぐしゃになっているフレッカの顔をそっと拭ってくる。

 雪鬼は、フレッカが泣き疲れて眠ってしまうまで抱きしめてくれていた。

 心地良く優しい声が、フレッカの耳元で囁く。


『大丈夫だよ。これからは僕が君を――』




*****




 後ろから、コロンッ、ガランッ、と鈴の音が聞こえてくる。

 フレッカは振り返らずに人込みを掻き分けながら、大通りを走った。長いスカートが脚に纏わりつき、人々に踏まれて溶けた雪がブーツの底を滑らせる。

 転びそうになりながらも、フレッカは足を止めなかった。途中で横の道に入り、多少人が少なくなった道を駆け抜ける。

 フレッカは小さな頃のように、一心不乱に雪鬼から逃げた。


 もう昔みたいに雪鬼は怖くない。本物の化物じゃなくて、鬼の面を付けて山羊の毛皮を被った人間なのだとわかっている。

 それなのに、怖かった。


 雪鬼に――否、マリに捕まることが。


 フレッカが苦手なのは、雪鬼じゃない。

 マリだ。

 雪鬼に扮したマリが、ずっと怖かった。


 あのとき、母を亡くしたフレッカを優しく抱き上げてくれた腕を、本気にしてしまう自分が怖かった。

 雪鬼であるマリの腕の中で安堵してしまった自分が嫌だった。


 彼は本気じゃない。母親がいなくて泣くフレッカを慰めただけなのに。

 周りの人から言われなくたって、わかっているのに。


 泣きたくなる。

 縋ってしまいそうになる。

 抱きしめてほしくなる。


 だからフレッカは、それ以来祭りに参加しなくなった。

 雪鬼に扮したマリに会わないようにした。

 気づかないようにずっと心に蓋を閉めて、マリを遠ざけた。甘く優しい言葉に心がぐらつくことがないよう、耳を閉ざした。

 いつか彼の気まぐれの優しさが終わり、自分から離れてしまっても。一人になっても大丈夫なように。

 一人で生きていける。マリの手は必要ない。

 心細い泣き顔なんて、見せるものか。

 

 もう今日で終わりだ。

 雪鬼のマリに会うのは、これで最後だ。


 だから今、逃げてしまえば、もう――



 目の奥が熱くなり、ぼやける視界を振り切って、フレッカは足を前に出す。

そのとき、雪が溶けて氷の層になった所に足を置いてしまい、滑って体勢を崩した。

 脚が縺れて転びそうになったところで、強く腕を引かれる。フレッカの身体は後方へと引き寄せられ、山羊の毛皮の匂いが鼻についた。

 フレッカを抱き留めたのは、追いついた赤い雪鬼だった。


「放して下さい…!」


 フレッカは顔を逸らして雪鬼の胸を押し返す。

 身を離して、ぐっと歯を噛み締めて喉の震えを堪える。


「……何なんですか、一体。私はもう子供じゃありません。昔みたいに泣いたりしません。泣き顔が見たいならよそを当たって下さい」

「……」

「そんなに、最後まで、私をからかいたいんですか?あなたの遊びに付き合っている暇はないんです。早く放して下さい!」


 フレッカが怒鳴っても、雪鬼は手を放そうとはしなかった。

 それどころか、ぐっとフレッカの身体を引き戻して、胸の中へとすっぽり収めてしまう。フレッカがもがけば、雪鬼の面に手が当たってずるりと地面へと落ちた。

 鬼の面の下から現れたのは、案の定、マリの顔だ。


「っ…」


 彼の額には汗が浮いて黒髪が張り付き、息は荒い。

 鬼の面だけで結構な重さがあるうえ、山羊の毛皮を含む雪鬼の衣装はかなり重い。そんな重量を身に付けての疾走のせいだろうか、マリはフレッカを抱きしめたまま、ぜーはーと息を吐き出す。


「ちょ…まって……なんで…ぜんりょくで、にげるかな……」


 息を切らしながら、マリは「かっこつかない……もう、さいあく…」とフレッカの肩にぐったりと頭を乗せて項垂れる。

 逃げるのに必死だったはずのフレッカは、大丈夫かと問いたくなるようなマリの疲労困憊度合に気が削がれ、隙をついて逃げることを忘れてしまう。

 マリの呼吸が落ち着いてきた頃にようやく我に返るものの、今からじたばたと暴れても恥ずかしい。

 肩と腰に回ったマリの腕の力が一向に弱まらないせいもあって、フレッカはマリの胸に拳を当てたまま俯いた。

 最後に深呼吸して息を整えたマリが、口を開く。


「ねえ、フレッカ」

「…何ですか」

「僕が見たいのは、君の泣き顔だよ。他の人のは別にいい。からかってないし、遊びのつもりも無い」


 先ほどフレッカがぶつけた言葉に対して、マリは返答する。


「放っておけない。悪いけど…まあ、あんまり悪いとは思ってないけど、放してあげられない。ごめんね」

「なんで…」


「言ったでしょ。『僕が君を守るから』って」


「っ……」


 フレッカははっと息を呑む。

 あのときのことを覚えていたのかと呆然としていれば、マリは溜息を付いた。


「まったく……何で信じてくれないのかな」

「でも、あなた、縁談が…」

「だから話があっただけだって。この間麓の町に出向いたのは、一応親の顔を立てて会いに行っただけで、ついでだし断ってきた。相手のお嬢さんも結婚する気はさらさら無くて、その話はすぐ済んだし。むしろ今後の毛織物の取引について熱く語ってたし」


 あっさりとマリは答えて、フレッカを抱く腕に力を込める。


「…なのに君は、早く結婚しろなんて言ってくるし。俺だって早く結婚したかったよ。さすがに成人前に手を出すのはいけないと思って、君が16歳になるまで我慢してたんだけど」


 マリの言葉を、信じられない思いでフレッカは聞いていた。

 マリの縁談は無くなった。彼が結婚したかった相手は、まさか…。


「……だって……あなたは、私の両親がいないから……」

「あのね、同情だけでここまでしないよ。毎回毎回誘っても振られるし、街の皆には笑われるし。こんなかっこ悪い真似、君の前だけでしかできない」


 マリはそこまで言って、フレッカに回していた腕を解く。

 面を外した汗だくの顔。緩やかな髪は乱れて、いつも甘い笑みを湛えている顔に浮かぶのは真剣な色だ。

 雪鬼の衣装のままマリはフレッカの手を取って、地面に膝を付いた。背の高い彼の頭が、フレッカの胸よりも低い位置にある。そうなれば、俯いていた顔も丸見えになってしまう。

 深い緑色の目が、唇を引き結ぶフレッカの顔を覗きこんだ。


「フレッカ」

「……」

「僕は君が好きです。どうか僕と結婚してください」

「…っ」

 

 強張った唇が震える。

 喉に熱い塊が詰まったかのように、声が出ない。

 鼻の奥が痛み、目の周りに熱が集まった。


「っ、…ひ、ぅ……」


 マリの申し出は、とうとうフレッカの頑なな涙腺を崩す。息を吸えば、引き攣ったような音が喉から零れ出た。

 ぼろぼろと溢れてきた涙を、歪んだ顔を隠そうとすれば、両手を握っていたマリがそれを阻む。


「…やっと、泣いた」

「っ…!…あなた、はっ…」


 こんなときにまで、とフレッカは非難しようとしたが、マリの慈しみを込めた視線に言葉を詰まらせる。


「君が無防備に泣きつける相手に、ずっとなりたかった。君が泣くのを我慢することのないよう、僕が側にいてあげたかった」

「……」

「だから、泣いていいよ」


 笑顔のマリが手を放して腕を広げる。

 おいで、と言わんばかりの体勢だ。いつものフレッカなら無視して立ち去ったことだろう。

 だが――


「……」


 抱きしめてくれる手が、そこにあることを知ったから。

 もう一人じゃないことを知ったから。


 フレッカは、無言で手を伸ばした。

 幼子のようにマリの首に腕を回して抱き着けば、彼は驚いたようにしばし固まる。


「……う、わ……どうしよう、ちょっと、これは…」


 かなり嬉しい、と呟いたマリは、抱き着いたフレッカの背中に両腕を回して、ぎゅうっと強く抱きしめ返してくる。


 強い力もしっかりした腕も男の人のもので、母とは違う。

 だけど、安心できた。

 あの頃のように。


 堰を切ったように泣き続けるフレッカを、マリはずっと抱きしめてくれていたのだった。







 それは、国の北の端にあるこの村に伝わる昔話。

 恐ろしい化物である雪鬼ネージュトロルは、悪い子を攫いに村にやってくる。しかしいい子にしていれば、雪鬼は祝福と春を届けてくれる。

 そんな雪鬼を主役とする村の祭りでは、ある年から新たな伝統が増えることになった。

 村の独身男性が扮する『雪鬼』が意中の女性に愛の告白を行い、女性が受け入れれば二人には祝福が送られ、一生仲睦まじく暮らせるというものだ。

 いつしかその伝統は定着し、今ではこの村の一大行事となっている。

 伝統のきっかけを作った老夫婦――織物名人の妻と商売上手の夫は、今でも村の外れで、時に喧嘩をしながらも仲良く暮らしているという。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ