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オレは体調も回復し、翌日は普通に登校していた。
皆勤賞を逃してしまった今、もう遅刻せずに登校する必要もなくなったのだが。
「いやいや、そんなことはないでしょ~?」
横に並んで、眠人も一緒に歩いている。
オレが先に行ってしまわないように、今日は準備を手短に済ませたのだろう。
「べつにそういうわけじゃないけどねぇ~。たまたま早く目が覚めただけだよぉ~」
そして、オレの考えていることをおもむろに読んで発言する、妖怪染みた性質を持っている。
「ボクは妖怪じゃないよぉ~」
無視無視。
「コロコロキン○ョール~」
…………。
「無視しないでよぉ~。ごろにゃ~ん♪」
猫撫で声で鳴きながら、両手を丸めて猫のポーズ。
相変わらず、可愛らしい。
もっともオレに対しては、なんの効果も発揮しないわけだが。
ただ、周囲を登校中だった男子生徒の目はしっかりと引いていたりする。
そんなところも、相変わらずだ。
「だけど~、体調、完全によくなってるみたいで安心したよ~。もうすっかり平気なの~?」
「ん……そうだな。まだ少々頭が重いが、問題ないだろう」
不意にオレの具合を心配する言葉がかけられ、思わず素直に返事をしてしまった。
もちろん、こう言われてまで無視をするようでは、相手が幼馴染みの眠人だといえども無礼すぎるだろうが。
眠人のほうは、オレの返事を受けて温かな笑顔を返してくれた。
「ボクの看病がよかったからだねぇ~」
「お前、睡眠の邪魔をしただけで、べつに看病なんてしてなかっただろ! 挙句の果てには、オレを差し置いて寝てやがったし!」
「え~? そうだっけ~? でもぉ~、おかゆ、ふーふーして食べさせてあげたじゃん~」
「む……確かに、それはそうだが……」
事実ではあるが、こんなに通勤通学の往来が激しい中で話されては、いくらなんでも少々気恥ずかしい。
「口移しで~」
「そんなことはしていない!」
これ以上こいつと喋っていると、微かに残っている頭の重さが悪化しそうだ。
オレは無視を決め込み、すたすたとクールに高校を目指すのだった。
「クールを決め込みたいなら~、スカートの下はショートパンツじゃないほうがいいと思うよぉ~?」
「めくるなっ!」
……どうやら、無視を決め込むのは難しいようだ。
☆☆☆☆☆
この日は、通学時間も授業時間も休み時間も、何事もなく過ぎ去っていった。
前日に三連続でアストラルシャドーとの戦いが繰り広げられた。だからといって、しばらくお休みになる、などということがあるはずもない。
いつ現れるかわからない。それが奴らなのだ。
だというのに、まったく現れる気配がなかった。
戦わなくて済むのはオレにとって喜ばしいことだが、なにか妙な空気が漂っているようにも感じられる。
オレに対して突っかかってきて騒がしい声をぶつけてくるお嬢様、紅有さんが全然話しかけてこないというのも、なんだか不気味だった。
どうしても、嵐の前の静けさ、といった言葉が脳裏に浮かんでしまう。
嫌な予感がする……。
そんなオレの予感は、現実のものとなる。
しかも、思ってもみなかった、衝撃的な形で。
☆☆☆☆☆
放課後になると、いつものように眠人がオレの席にまで歩み寄ってきた。
相変わらずの素早さ。
と思ったが、今日はどういうわけか、他のすべてのクラスメイトの動作が素早い。
一瞬にして教室は静かになった。
オレと眠人以外、すでに誰もいなくなっていた。
いくらなんでも、ここまで蜘蛛の子を散らすように誰もいなくなった経験なんて、これまでには一度もない。
どう考えても早すぎる。
……いや、もうひとりだけ、残っているクラスメイトがいた。
それは紅有さんだった。
こちらに視線を向け、ゆっくりと歩を進めてくる。
だが、なにかがおかしい。
目の焦点が合っていないような、そんな印象すら受ける、虚ろな表情――。
「紅有さん? いったい、どうしたんだ?」
じっとりとした汗が、頬を伝う。
オレはかろうじて声を発することができたが、眠人はすぐそばで呆然とするばかり。
そんなオレたちのほうへ、紅有さんはゆったりとした動作で近づいてくる。
幽霊がすーっと空中を滑るかのように。
無駄な上下動が一切感じられない、人間離れした動作に思えた。
恐怖心という名の鎖で、オレの全身はがんじがらめになっていく。
身動きが取れない。
それどころか、さっきは発することができていた声すら、出せない状態へと陥ってしまうことになる。
……物理的な意味においても。
ゆっくりと近寄る紅有さんは、なにを言うこともなく、視界にどんどんと大きく映り込んできていた。
目と目が合ったまま、距離はみるみるうちに縮まり、次の瞬間――、
ゼロになった。
……ゼロ……?
これはいったい、どういうことだ……?
困惑するオレの両目の前には、紅有さんの大きなふたつの瞳がある。
唇には柔らかくて湿った感触が押しつけられている。
「ん……」
声を出そうとしても、声にはならない。唇が塞がれているのだから当然だ。
しかし――。
唇が塞がれている……?
紅有さんの唇で……?
ちゅぴっ。
静寂の支配する教室の中で、なまめかしい音だけが鳴り続く。
ちょっと待て! なにしてるんだ!? だいたい、女同士だぞ!?
そんな声も出ない。いや、出せない。
頭が真っ白になり、紅有さんを突き飛ばすという行動すら起こせない。
ただ成されるがままに身を任せる。
オレの横には眠人の気配もあるが、やはり驚きのせいで声も出せない状態なのだと推測できた。
いったいどれだけの時間、お互いの唇がつながっていただろうか。
ぴちゅっ……。
小さくひとつ、だ液の音を最後に響かせると、紅有さんの唇は離れた。
これは、どういうつもりなのか?
なにを考えているのか?
このあと、そういった疑問に対する答えが、紅有さんの口から語られるはずだ。
そう信じて疑わなかったのだが。
「ふふっ……」
どこか妖艶な微笑みだけを残し、紅有さんは教室から去っていってしまった。
「ちょ……っ!? 今のはいったい、なんだったんだ~~~!?」
その疑問に答えてくれる声はなかった。
……そうだ、眠人!
オレはハッと思い至り、隣で一部始終を見ていたはずの眠人へと視線を向ける。
と、その手にはなにかが握られていた。それは……スマートフォン……?
「なに写真なんか撮ってやがるんだ、お前は!」
「写真じゃないよ~。動画を撮ってたんだよぉ~」
「もっと悪いわ!」
ゲシッ!
「ぷぎぃ~」
容赦なく延髄チョップをかましてやったのは言うまでもない。
ちなみに、脳天も効き目が薄いようだったため、今回から延髄を狙うことにしたのを補足しておく。
「そんな補足、いらないよ~……」
文句の声を漏らす眠人は涙目になっていた。
よしよし、どうやら延髄チョップは効果ありのようだ。
……いや、そんなことよりも、もっと気にすべきことがある。
オレは眠人からスマートフォンを奪い取り、撮影された動画を確認してみた。
ゆっくりとオレに近づいてくる姿は、やはり紛れもなく紅有さんだった。
完全に唇を重ねたあとは、音を立てて吸っているように見えた。
吸うだけではなく、ときおりだ液にまみれたピンク色の柔らかそうな物体も見え隠れする。
舌まで使っていたとは……。
思わず目が釘づけになってしまう。
なんとも……いやらしい。
動画に映っている片方は自分自身だというのに、他人事のような感想が浮かんできた。
「これはいったい……。紅有さん、どうしてこんな……」
「女の子同士っていうのも、いいもんだねぇ~。はぁ、はぁ……」
「息を荒げるな、バカ眠人!」
さっきは延髄チョップだったからと、今度は反対に、のど仏チョップをお見舞いしてみた。
「ぐはっ! ごほっ、ごほっ! そ……それはダメだよぉ~! げほっ!」
のどを押さえて苦しがり、涙目を通り越して大泣き状態の眠人に、さすがのオレも素直に頭を下げた。
それにしても――。
本当にあれは、なんだったんだ……?
もしかして、紅有さんには、そっちの趣味があるのか……?
疑問符をいくつも飛ばすも、当然ながら回答を得ることはできず。
黙って帰路に就く以外、オレには成すすべがなかった。