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ゆったりとした時間の中で、ふたりの吐息の音だけが交錯する。
いや、実際には家の前をたびたび通過する車の音や時計の秒針の音なども響いている。
だが、ついつい気になってしまうのは、すぐそばにいる眠人の吐息。
その顔はまたしても、オレのすぐ目の前――目と鼻の先に存在していた。
先ほどと違うのは、眠人が目をつぶっていること、そしてオレのほうが目を開けていることだ。
「……どうしてこいつのほうが、ベッドに頭を乗せて眠っているんだか……」
呆れ果て、ため息が自然とこぼれてしまうのも、当然の結果だろう。
眠人が寝息を立てるそのたびに、オレの頬を微かな風が薙ぐ。
恥ずかしさはあるが、反対側を向くこともできない。なぜならば、眠人が片腕を伸ばし、オレの頭を抱え込むように押さえつけているからだ。
眠ったフリをしてわざとやっているのかと思えば、そうでもないようで。
しかし腕を振り解こうとしても、やけに力強く絡みついてきていて、どうしても外すことはかなわない。
早々に諦めたオレは、ぼんやりと眠人の寝顔を超至近距離から眺めていたわけだが。
なんというか、肌、綺麗だな……。
ほくろのひとつくらい、あってもよさそうなものだが、全然見当たらない。
朱に染まった日差しを反射して輝く頬はとても瑞々しく、指でつついてみたらきっとプニプニとほどよい弾力を感じることができるだろう。
唇もとてもつやつやで、わずかに見え隠れする白い歯も綺麗にきらめいている。
微かに動くたびに、バサリと音が聞こえてきそうなほどの長いまつげも、実に愛らしい。当然ながら、つけまつ毛などではなく、完全なる地毛だ。
髪の毛もサラサラで、思わず手を伸ばして感触を確かめたくなる。一本一本はすごく繊細なのに、全体的な分量はオレの数倍にも上りそうだ。
ぱっと見で男だと判断できる要素が、これっぽっちも存在しないように思える。
どうしてここまで綺麗な顔でいられるのだろう。男のくせに。
毎日せっせと肌のケアをしている、という性格でもないはずだから、きっとこれは天然ものだ。
……羨ましすぎる。
さすがにここまで至近距離にいると、思考がすべて眠人に関することだけに染められてしまう。
とはいえ、べつに不快な気分ではない。
幼馴染みで一番近しい存在――。
眠人の可愛らしい寝顔を、オレは和やかな気持ちで観察し続けていた。
温かな、夕刻のひととき。
そんな時間は、一瞬にして崩れ去る。
☆☆☆☆☆
ばさっ!
布団と弾き飛ばし、オレは素早く立ち上がる。
「ふにゃっ?」
寝ぼけまなこで周囲をきょろきょろ見渡す眠人は、やはり完全に眠りこけていたらしく、口からはたっぷりとよだれも垂れていた。
……こいつ、人の布団によだれなんぞ垂らしおって!
などという文句を言っているような余裕はない。
アストラルシャドー。
奴らが現れたのだ!
床に敷き詰められた絨毯から、ぬっと伸びてくる影。
伸びきった瞬間に、わずかばかり上部が膨らみ、反対に下部は細く尖っていき、全体がオレンジ色に変わっていく。
窓から差し込む夕日の色ではない。もともとオレンジ色の物体へと変化したのだ。
それは、ニンジン――オレの嫌いなニンジンだった。
くそっ! 今日のお弁当に入っていて、しっかりと残したのを察知しやがったか!
「……そんなんだから、空腹で余計に疲れが助長されちゃったんじゃないのぉ~?」
まだ寝ぼけ気味ながらも、的確な指摘をぶつけてくる眠人。
そんな声にだって、もちろん構ってはいられない。
オレは奴らを床下へと押し返すため、構えを取る。
六畳の広さでしかないオレの部屋。
構えを取った途端に、肘が壁にぶつかってしまった。
アストラルシャドーは視界に入る床や地面からしか出現しない。
どうしてなのか、その理由は知らないが、今までの経験上、どうやらそういうものらしい。
もしかしたら見えないところで現れて、知らないうちに増殖している、なんてこともあるのかもしれないが……。
おっと、思考が逸れた。
そのあいだにも、奴らは次々にニンジンの形状へとその身を変えていた。
数は、五……いや、六か。
大きさは通常どおりと言うべきか、人間サイズ。
オレと眠人も含めれば、八人の人間がこの部屋に押し込まれているのと同じ状態だと言える。
ベッドまで置いてある六畳の部屋に入るには、いささか窮屈だ。いや、窮屈すぎるくらいか。
そんな中で、オレは戦わなくてはならない。
眠人の存在が、非常に邪魔になりそうだが。
そうも言っていられない。
オレは手近にたたずんでいた一本のニンジンへと襲いかかる。
相手を投げ飛ばすスペースもない。
ここはそのまま、床へと引きずり落とす作戦に出るしかない!
ニンジンに正面から飛びつき、腕だけではなく足も絡みつけるという、あまり上品とは言えない格好になりながら、全体重をニンジンにかける。
「セントバーナードォォォ!」
ずぶずぶと床下へと潜って消えていくニンジン。
まず一本!
すぐさま隣のニンジンへと視線を移す。
奴は先端の尖った部分をオレのほうへと向け、突撃してくる構え。
オレはマトリックスの要領で上体を反らし、両腕でガッチリと抱え込む。
その勢いに任せてバックドロップをかませられれば一番よかったのだが、あいにく背後は壁。
ならばと、腕から抜け出ようとするニンジンを無理矢理押さえつけ、床に引きずり倒す。
すでに一本退治している分で、若干のスペースが得られたからこそ可能になった攻撃だ。
そして上に乗っかり、気合いの声を放ちながら何度も飛び跳ねる!
「食らえっ、レオンベルガァァァー!」
二本目も床下へと消えた!
次っ!
若干怯んでいる様子のあるニンジンへ、一気に間を詰める。
すかさず足払い。
ニンジンに足などないが、尖っている部分で立っている状態だった奴は、その場で見事に転げる。
一旦乗っかってジャンプする手間すら省くため、足払いした勢いを利用して、体ごと倒れ込みエルボーを放つ。
「アラスカンマラミュートォォォ!」
気合いとともに、三本目も撃破!
口の中には、ニンジンの味が広がっている。
不味いが……ピーマンほどじゃない!
朝の戦いで嫌いな野菜の不味さに耐性がついていたのも、オレにとって優位に働いたと言えるだろうか。
四本目と五本目は珍しいことに、二本が協力する形で同時に飛びかかってきた。
二対一。不利ではある。
それでも、こちらには眠人もいる。そう考えれば二対二。五分五分の戦いだ。
いや……五分なんてことはない。
圧倒的にオレのほうが強い。
眠人のためにと思って、幼い頃から体を鍛えていたのが、これもまた功を奏したと言えるだろう。
四本目、五本目もそれぞれ片腕で抱え込み、床に投げつけ、それぞれ片方の足で床の下へとぐりぐりと押し返す。
「ビションフリーゼェェェ!」
ふっ、楽勝だ!
「飛鳥ちゃ~ん、後ろ後ろ~!」
油断大敵。
眠人の声が聞こえたときには、すでに遅かった。
「うっ!」
背後から飛びかかってきたニンジンによって、オレの体はいとも簡単に吹き飛ばされ、絨毯の上に転がる。
なお、それで下着が見えたりなどはしない。
体調を崩して寝ている状態だったオレは、帰ってきてベッドに入った時点でパジャマに着替えていたのだ。
当然着替える際には、眠人には廊下に出ていてもらったのだが。
そこまで考えて、狭くて動きにくい状態だったら、眠人には廊下に退避してもらえばよかったと、今さらながらに思い至る。
と、余計なことを考えている場合じゃない!
床に転がされたオレに、ニンジンが迫りくる。
ニンジンに足などないと言ったが、どうやら顔らしきものはあるようだ。ニヤリといやらしい笑みをこぼす。
「もったいねぇ~、とかってセリフが聞こえてきそうだねぇ~」
見えていないはずなのに、わけのわからない感想を述べる眠人。
「もったいないお化けじゃない! そんなのを知ってるなんて、眠人お前、いったい何歳だ!? だいたいあれは、顔があるだけじゃなくて、手足も胴体もあった気がするぞ?」
「……飛鳥ちゃんだって知ってるんじゃん~」
危機的状況に陥りながらも、眠人とのくだらない会話の相手はしてしまっていた。習慣とは恐ろしい。
ともあれ、それで気分が落ち着いたのもまた事実。
冷静に相手を睨みつけ、好機を待つ。
「もったいねぇ~! 食らうがいい~!」
そんな声を放ちながら、いや、眠人が声色を変えながら言っただけかもしれないが、ともかくそんな声が聞こえる中、ニンジンがオレの口へと目がけて飛びかかってくる。
自然と口が大きく開く。これもアストラルシャドーの力なのだろうか。
オレの口の中いっぱいに、嫌いなニンジンが詰め込まれる……といった結果には、当然ながらならなかった。
素早く横に転がり、奴の攻撃を回避!
両腕を伸ばして反動で飛び上がる!
その身の半分くらいまで、自ら勝手に床へと埋まってしまっていたニンジンの頭頂部目がけ、オレは回転を加えると、鋭いかかと落としの一撃をヒットさせた!
「ブービエ・デ・フランダァァァァァァース!」
「うぐあぁ~、食べ物を粗末にするなぁ~!」
断末魔のセリフを残し、ニンジンはすべて消え去った。
オレの部屋には、住人であるオレと、声色を変えてなにやら言葉を発している眠人だけが残った。
「だが、我らは必ず戻ってくるぞよぉ~! 覚えておけよぉ~!」
「もう消えてるっての!」
ゴガッ!
最後の一体、眠人という名の敵も脳天チョップで退治し、オレは再び布団に潜り直した。
「ぴぎぃ~、ボクは味方なのにぃ~……」
「ふんっ、どうだか!」
不機嫌さを装った反応を返しはしたが、眠人のおかげで助かった部分があったのは確かだ。
……ありがとな、眠人。
オレは心の中だけでお礼を述べた。
☆☆☆☆☆
しばらくして、眠人が帰るというので、オレは見送りに出た。
べつに見送る必要なんてないよ~という眠人の言葉を遮って、一緒に階段を下りる。
すでに体調もほとんどいつもどおりに回復していたからだ。
ふとリビングからお母さんが顔をのぞかせる。
心配してくれていたのだろう。……と思ったのだが。
「なんだか、ドタバタと騒々しかったわね~」
なるほど。うるさくしていたことに文句を言いたかったのか。
といったその考えも、やはり間違っていて……。
「お母さん、性的嗜好にまでは口出ししたくないけど、もうちょっと静かなプレイを心がけてね?」
…………。
「な……なにを言ってるんだ! プレイってなんだよ!?」
困惑するオレをよそに眠人は、
「にゃふっ、そうですね~、これからは気をつけまぁ~す!」
などと笑顔で応対していた。
「こら待て、眠人~!」
オレから鋭いパンチがプレゼントされたのは言うまでもない。




