幕間 イチゴの記憶
「お話はお済みですか、殿下」
ノエムの部屋から出て、屋根に上ったところで声をかけられた。
この声は、ノエムの母、エマのものだ。
気配をたどれば、彼女はバルコニーから何気なく外を見ていた。いや、そのように装っていた。こちらに視線を向けず、ギフトで声だけ届けてきた。
夜更けにノエムの部屋を訪ねた帰りだが、この状況で剣を突き付けられていないということは、見逃すつもりがあるということだ。
キアノは一角獣を落ち着かせるために、手綱を握ると苦笑交じりに返事をした。
「バレていたか」
ふっと、静かな笑い声だけが聞こえてきた。
エマはこの国でも有数の手練れだ。ましてここは彼女の縄張り。そう驚くことでもなかった。
「用は済んだ。だが、止めないのか? トルシカ家はとエムとリャニスを添わせたいのではないのか」
「トルシカ家のためと言えば、そうです。ただ、わたくしとしては迷っております」
言葉通り彼女の声は常と違って覇気がない。
キアノはパチパチと目を瞬かせて、続く言葉を待った。
「殿下は、リャニスのことをどう思いますか?」
「それを私に聞くのか」
「ご不快でしたら、どうぞご放念ください」
「いや、構わない。聞きたいのは王家に連なるものとしてではなく、一人の男としての意見だな?」
「はい」
そのとき、ふっと幼いころの記憶が思い出された。
青い空のもと、ノエムとリャニスがその場でイチゴを取って食べさせ合っていた。
兄弟と言えども近すぎる距離に、あの時はただただ腹立たしいだけだった。
そして時間が経つとともに、あの時見た光景が棘のように刺さって抜けなくなった。
――ノエムがあれほど、私に心を開いてくれた瞬間があっただろうか。
彼の作る透明な壁を少しずつ剝いで、ようやく手の届くところまで来たと思ったら、するりと逃げられる。そしてまた壁を作られる。そんなことを、何度繰り返してきただろう。
そのくせ、弟だからとリャニスのことはあっさりと内側へ入れてしまう。
リャニスもリャニスだ。
そのまま『弟』でいるつもりなら、不愉快でもまだ許せた。だが、一人の男としてその場にとどまろうとするならば――。
「そこをどけ」
「――はい?」
「いや、すまない本音が出た。そうだな、リャニスは少し固いな。ノエムには窮屈だろう」
エマはしばしの沈黙の後、つぶやいた。
「リャニスはノエムを守ってくれるでしょう。けれど同時に、あの執着が危うく見えるのです」
「確かにリャニスは、ノエムを閉じ込めてしまいそうなところがある」
エマは再び黙り込む。返事がないのが返事といったところか。
独り占めしたいという気持ちは痛いほどよくわかる。
けれどその選択は、必ずやノエムの笑顔を陰らせる。
豪華絢爛な部屋も、美しい衣装や宝石も、彼はそれほど喜ばない。
日差しのもと、花や虫などの小さな生き物を愛でるほうが好きなのだ。
「ノエムからイチゴを受け取っておいて……」
「イチゴでございますか?」
「そうだ。まずはアレを分けてもらうことが目標だ」
ポメ化しているときのノエムは、取り繕うことを忘れた彼の素のようにも見える。
人の姿のときも、そんな素を見せてもらえたらと、キアノは願っている。
いつの日か、あのイチゴの群生地に誘ってもらえることを。
その時初めて、気持ちを受け入れてもらえる。そう思えてならなかった。
「応援しろとは言わない。私を認めろとも。決めるのはノエムだからな」
そこに迷いはない。「ただ――」とキアノは付け足した。
「今日のように逢瀬を見逃してもらえるなら助かるな」
軽口を叩くと、ふっと、かすかな笑い声が聞こえた。
そして、いつものエマらしい力強い返事が来た。
「承知いたしました」
キアノも口の端を少し上げ、一角獣を駆り空へ飛び立った。




