(一)南棚と北棚
◆ (一)軽い桶
翌朝、山科理人が水桶を運ぼうとした時だった。
倉庫の入口近くにいた片足を少しかばう男が、黙って桶を一つ指した。
理人は一瞬、意味が分からなかった。
男は、もう一度、別の桶を指す。
そちらの方が軽い。
理人は、軽い方の桶を持った。
男は何も言わない。
礼を言うべきか迷ったが、理人の現地語ではまだ足りなかった。
だから、軽く頭を下げる。
男は短く鼻を鳴らしただけだった。
それでも、昨日までなら、桶の場所を教えられることすらなかった。
理人は、そう理解した。
入口の方では、リナがその様子を見ていた。
少しだけ、ほっとした顔をしている。
理人はその意味を知らない。
その男が、リナの父だということも。
ただ、昨日の出来事が完全に無駄ではなかったことだけは分かった。
理人は桶を運びながら、倉庫の中を見た。
空気はまだ固い。
倉庫番は理人を見ると、眉間にしわを寄せる。
荷運びの男たちも、全員が好意的になったわけではない。
昨日、理人はリナを守った。
だが、それで倉庫の問題が消えたわけではない。
飼料袋の数は合わない。
薬草包みも足りない。
湿った袋が混ざっている。
荷役獣は一部の袋を嫌がる。
犬は薬草箱の前で吠えた。
記録には、点の印と、横線の印と、丸で囲んだ小さな印が残っている。
たぶん。不明。後で確認。
理人は、水桶を置いた。
信用は、少し増えたのかもしれない。
だが、問題はまだそこにあった。
◆ (二)責めるためではなく
リナは、木片に触るのを少しためらった。
昨日、それは彼女を責める道具になりかけた。
朝の印。夕の印。袋の数。点の印。横線の印。丸で囲んだ小さな印。リナの耳の印。
どれも、リナが真面目に書いたものだ。
それなのに、昨日はそのすべてが疑いの材料になった。
理人は木片を床に置いた。
リナの方へ押しつけない。
まず、自分の印を指す。
次に、リナの印を指す。
それから、首を横に振る。
責めない。
そう伝えたかった。
リナは、理人を見た。
理人は袋の絵を指す。
次に、薬草箱の絵を指す。
そして、場所を示す印を指した。
「誰。まだ」
片言だった。
リナは首を傾げる。
理人は首を横に振る。
「誰、先。違う」
誰が悪いかを先に決めるな。
理人は、場所の印を指した。
「どこ」
次に、朝と夕の印を指す。
「いつ」
それから、差分の印を指す。
「変わる」
リナは、じっと見ていた。
完全に分かったわけではない。
だが、昨日のように、記録が自分へ向けられているわけではないことは分かったらしい。
彼女は、ゆっくり木片を手に取った。
指先が少し震えている。
理人はそれを見たが、何も言わなかった。
怖いのは当然だ。
一度、責める道具になりかけたものを、もう一度持つ。
それだけで、十分に勇気がいる。
理人は、木片の端を軽く叩いた。
「見る」
リナが顔を上げる。
理人は繰り返した。
「怒る、先。違う。見る、先」
リナは少し考えた。
それから、小さくうなずいた。
◆ (三)南棚と北棚
理人は、南棚と北棚の印を並べた。
南棚。北棚。
その下に、朝の印と夕の印を置く。
リナは小石を数えた。
以前より少し速くなっている。
南棚、朝。九。北棚、朝。七。
昼、南棚から三つ移す。
理人は石を三つ動かす。
夕。南棚。五。北棚。九になるはず。
リナはそこで手を止めた。
木片の記録では、北棚の夕の数が八になっている日がある。
理人は、差分の石を一つ置いた。
一つ。
次に、北棚の古い袋に付けた湿りの印を指す。
リナがうなずく。
三番の荷役獣が嫌がった印。
リナがさらにうなずく。
数の差分。湿り。荷役獣の反応。
同じ棚に寄っている。
理人は、北棚の印を指した。
「ここ」
次に、夕の印を指した。
「この時」
リナは小さく息を呑んだ。
誰が悪いかではない。
まず、どこで変わるか。
理人が見ていたのは、それだった。
理人は、石をもう一度並べ直した。
朝。昼。夕。南棚。北棚。
袋が動く前。
袋が動いた後。
同じ袋の数でも、見る時点が違えば意味が変わる。
同じ一袋でも、大袋と小袋と使いかけでは意味が違う。
同じ北棚でも、新しい袋と古い袋では状態が違う。
理人は北棚の古い袋を見た。
湿っているように見える袋。匂いが違う袋。荷役獣が嫌がった袋。
そこに差分の石が集まっている。
犯人の名前は、まだ出ていない。
だが、見るべき場所は少し絞られてきた。
※第7話「差分は犯人を知っている」は全六回です。
続きます。
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