(一)最後に見ていたもの
◆ 最後に見ていたもの
最後に見ていたのは、在庫差異の表だった。
山科理人は、出張先のビジネスホテルでノートPCの画面を見下ろしていた。
山科理人、三十二歳。
肩書きは、データサイエンティスト兼プロジェクトマネージャ。
大手製造業のDX推進部門に所属し、需要予測、在庫管理、生産計画、物流改善といった、華やかさより泥臭さの多い仕事をしている。
背は平均より少し高い。
体格は細身で、鍛えているというより、出張先の工場を歩き回ってどうにか保っている程度だった。
短く整えた黒髪には、少し癖がある。
眼鏡の奥の目つきは悪くない。
ただ、資料の矛盾や会議室の沈黙を拾う癖のせいで、考え込むと少し険しく見えることがあった。
若手と呼ばれるには、少し現場の泥を見すぎていた。
管理職と呼ばれるには、まだ諦めが足りない。
そんな年齢だった。
画面には、倉庫別の在庫差異、欠品回数、緊急輸送の発生件数、作業者別の入力遅延、棚卸し時の補正値が並んでいる。
数字は整っている。
少なくとも、見た目は整っている。
理人は表の右端に作った列を見た。
異常値。再確認。現場聞き取り必要。処罰対象外。
最後の列だけ、まだほとんど空欄だった。
「数字は合ってる」
理人は、小さくつぶやいた。
「でも、これをそのまま出したら、また現場が殴られる」
画面の隅に、メール通知が出ていた。
本部の担当部長からだった。
> 明日の報告では、在庫削減施策の効果と、現場入力精度の改善余地を中心に整理してください。
> 欠品・緊急輸送については、一時的な移行影響として扱えるか確認したいです。
> 経営会議では、まず全体方針の妥当性を説明する必要があります。
不正ではない。
少なくとも、文面だけを見ればそうだった。
在庫削減施策の効果はある。
現場入力精度に改善余地があるのも事実だ。
欠品や緊急輸送が、移行期の一時的な揺れである可能性も、完全には否定できない。
だが、そういう正しい言葉を並べると、現場の痛みだけが欄外に落ちる。
理人はメールを閉じた。
「誰かが嘘をついてる、って話じゃないんだよな」
画面には、綺麗に整ったグラフが並んでいた。
在庫金額は下がった。回転率は改善した。倉庫滞留日数も短くなった。
その横で、欠品対応の回数が増えている。緊急輸送費が増えている。棚卸し補正が増えている。
そして、現場からの自由記述欄だけが、月を追うごとに短くなっていた。
最初の月には、まだ文章があった。
> 特定部品の入荷が午後便に偏り、午前作業に待ちが出ています。
> 緊急対応が続いているため、通常入力が翌日回しになっています。
次の月には、少し短くなった。
> 午前作業に一部待ちあり。
> 入力遅れあり。
さらに次の月。
> 確認済み。
その次。
> 問題なし。
理人は、その四文字をしばらく見ていた。
問題がなくなったのではない。
問題を書かなくなっただけだ。
「正しいKPIが、正しい顔をして人を殴る」
誰に聞かせるでもなく、理人は言った。
昼間、地方工場の現場リーダーが、会議室の片付けが終わった後で理人を呼び止めた。
「山科さん」
その声は小さかった。
会議中には、一度も出なかった声だった。
「数字は、たぶん合っています。現場の入力も、前よりはちゃんとやっています」
「はい」
「でも、このやり方だと、人がもちません」
理人は、すぐには答えられなかった。
現場リーダーは続けた。
「遅れを遅れって書くと、なぜ遅れたって聞かれます。欠品を書けば、なぜ予測できなかったって聞かれます。作業が間に合わないって書けば、なぜ改善できないって聞かれます」
責めている声ではなかった。
ただ、疲れていた。
「だから、みんな短く書くようになりました。問題なし、とか、確認済み、とか」
理人は、その顔を覚えていた。
問題を見つけた人間が、問題を起こした人間にされる前の顔だった。
理人は資料の最後に、一行だけ追記した。
> 記録した者を罰しない運用が必要。
カーソルが、その一文の末尾で点滅する。
「これを言える空気にするところからだな」
保存。同期完了。
画面右下の時刻は、深夜を少し回っていた。
理人は椅子の背にもたれた。
肩が重い。
目の奥が熱い。
眠い、と思った。
いや、違う。
眠いというより、身体の奥で何かが一段抜けたような感覚だった。
「……あ、これは」
手を伸ばそうとした。
スマホは机の上にある。
ベッドはすぐ横だ。
フロントに電話をすればいい。
そう思った。
指先は、机の上を少し滑っただけだった。
「ダメなやつだ……」
恐怖は、遅れてきた。
理人は何かを言おうとした。
誰に向けてなのか、自分でも分からなかった。
画面には、最後に保存した一文だけが残っている。
記録した者を罰しない運用が必要。
そこで、視界が暗くなった。
※第1話「ステータス画面は表示されない」は全三回です。
続きます。
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