第59話 告解
レナート・ヴァイスがギルドへ戻ったと知らされたのは、昼をかなり過ぎてからだった。
案内されたのは二階の小さな資料室だった。厚い鎧戸を半分だけ開いた窓から斜めに光が差し込み、長机の上には今朝の合同聞き取りをまとめた紙束と、王墓から送られてきたらしい黒碑の写し、それ以前の信託に関する記録まで広げられている。中央に置かれた新しい写しには、以前までなかった第四文が加わっていた。
幸せを選んだ者に、帰る場所はない。
白髪の研究官は何かを書き込んでいたが、エルディアスが入るとすぐにペンを置いた。指先は以前と変わらず黒いインクで汚れており、椅子の脇には紙を詰め込んだ使い古しの革鞄が置かれている。
「ちょうど、こちらからもお話を伺いたいと思っていました」
「なら手間が省けたな」
「今朝の聞き取りには目を通しています。村へ入るまでの経緯や、そこで皆さんに与えられた役目、境界から出られなくなった後の調査を初めから話し直していただく必要はありません」
レナートは合同聞き取りの束を脇へ寄せ、黒碑の写しを手元へ引いた。
「今回、私が最も知りたいのは、この二度目の信託です。第一層に続いて再び信託が下り、宣言された内容が黒碑へ第四文として追加された。ただ、今朝の報告だけでは、その前後で第二層に何が起きていたのかが分かりません」
「ああ」
「ニルス殿とクラリス殿が行方不明になり、その捜索中にあなたへ信託が下った。翌朝、村の入口を確認すると境界を越えられるようになっていたものの、いつ解除されたのかは分からない。皆さんが共有している事実としては、そこまでです」
レナートの視線が一つ上の文へ移った。
三王、勝者の歴史のみが続く。
「第三文についても、今朝まではほとんど意味が分からないままでした。村には三柱を祀る像があり、数が三で一致する。関連を疑う材料にはなりますが、この文そのものが第二層について書かれたものだと判断できるだけの情報はなかった」
「そうだな」
「それでも、皆さんは戻ってきた。そして二度目の信託が発生し、黒碑には第四文まで増えた。今朝の報告だけでは見えていないことがあると考えています」
そこでレナートはエルディアスを見る。
「違いますか?」
「違わない」
エルディアスは向かいの椅子へ腰を下ろした。
「今朝の報告には、話してないことがある」
「意図的に?」
「ああ。嘘を混ぜたつもりはない。ラウルたちが知ってる範囲に合わせた」
「リュシア殿も?」
「先に話を合わせた」
レナートはそれを聞いても表情を変えなかった。
「ラウルたち三人が知らないことがある。リュシアだけが知ってることもある。その先は、俺しか知らない」
「分かりました」
レナートはすぐにはペンを取らず、机上の紙を一度整えた。
「まず聞かせてください。攻略上残すべき情報と、広く共有する必要のない情報は分けて扱います。記録そのものに残したくない部分があれば、その前に言っていただければ筆を止めます」
「それでいい」
「では、お願いします」
エルディアスは、合同聞き取りから抜いたものを順に話した。
あの村では一つの日々が続いていたのではなく、赤、青、黄、それぞれに自分自身の前日を持つ三つの歴史が入れ替わっていたこと。同じ色へ戻れば、そこにいる者たちの記憶も、その色で起きた物の変化も前回から続いていたこと。別の色で起きたことは、その色にいる者には存在しない。そして、その三つが切り替わるたびにすべてを覚えていたのは、自分だけだった。
どの日に誰へ何を尋ねたかまで繰り返す必要はなかった。何度か同じ色へ戻り、そこで前回からの続きがあることを確かめた。その一方で、リュシアたちの記憶は自分のものと食い違っていた。それだけ説明すれば十分だった。
途中で、レナートのペンが止まった。
「三つの歴史が、実際に存在したのですね」
「ああ」
レナートの視線が黒碑へ落ちる。
「それなら、この『歴史』は比喩ではなかったと考えてよさそうです」
三王、勝者の歴史のみが続く。
「ここまで一致すれば、第三文が第二層について書かれたものと見ていいだろ」
「私もそう考えます。ただ、この時点では『三王』が具体的に何を指すのか、『勝者』がどう決まるのかまでは分からなかった」
「そこは俺も、そのときは分からなかった」
「今は違う?」
「ああ。後で分かった」
レナートは頷き、今度は今朝の記録へ視線を移した。
「これで、あなたの役目にも意味が出てきますね」
「観測者か」
「ええ。役目そのものは最初から全員が知っていた。ただ、何を観測するのかは誰にも分からなかった。三つの歴史すべてを連続して認識できたのがあなただけなら、名称との対応はかなり強い」
「俺もそう考えた。ただ、観測者だから見えたのか、見える奴だったから観測者にされたのかは分からん」
「そこは分けましょう。確認できているのは、三つを連続して認識したのがあなただけだったことです」
レナートはそれだけを書き加え、それ以上は掘らなかった。
エルディアスは続けた。
青ではラウルが三神像の近くで死んだ。次の赤と黄では同じ男が何事もなかったように生きており、現在ここへ戻ってきた赤のラウルは、自分が別の歴史で死んだことを今も知らない。
「それが、像へ触れないよう皆へ伝えた理由ですか」
「理由の一つだ。青のラウルは像に剣を向けたらしい。何が殺したのかまでは、その時は分からなかったがな」
「現在のラウル殿へ、その死亡を知らせるつもりは?」
「ない」
「私も必要だとは思いません。三神像に危険があったという情報と、別の歴史で本人が死亡したという事実は分けて扱えます」
その先に青で何が起きたのかも話した。
青には、自らを使徒と名乗る者がいた。その女は「青を守る」ことが自分の役目だと明言し、観測者であるエルディアスを狙った。戦闘の末に使徒を倒すと、道の長さも家々の位置も定まらなくなり、それまで見えていた青の村そのものが形を失うように崩れていった。
「『使徒』は、相手自身が使った名称なのですね」
「ああ。俺たちが勝手に付けた名前じゃない」
「青を守る、とも?」
「言った」
レナートはそこだけを正確に書き留めた。
ただし、青の使徒が倒れた時点では、エルディアスも何が起きたのかを断定していなかった。使徒自身は「青は終わる」「ここから先はもうない」と告げたが、それだけで信じる気はなかった。
その後に黄へ移り、さらに赤へ進んだ。本来ならその次には青が来るはずだったが、現れたのは黄だった。
「青だけが来なかった」
「そうだ。そこで、順番を飛ばされたんじゃなく、もう続いてないんじゃないかと考えた」
「使徒の言葉、死亡直後の崩壊、次の周期で青だけが現れなかった。その三つが揃った」
「ああ。一度だけなら決めなかった」
「そして黄でも、同じことが起きた」
「そういうことだ」
黄にも使徒がいた。最初の戦闘は鐘によって途中で切れ、赤を挟んで再び黄へ戻ると、戦闘は中断したところからそのまま続いていた。その使徒も最終的には倒れ、黄は青と同じように形を失い、その後は二度と現れなかった。
そこまで聞いたところで、レナートはしばらく何も書かなかった。
「これで、第三文の後半はかなり明確になります」
三王、勝者の歴史のみが続く。
「使徒を失った青と黄は続かず、最後に残った赤だけがその先へ進んだ。少なくとも『勝者の歴史のみが続く』という部分は、実際に起きた現象とほぼそのまま対応している」
「俺も黄が消えたところで、そう考えた」
「ただ、何をもって勝者と呼んでいるのか、使徒の死が歴史を失わせる唯一の条件なのかまでは断定できません」
「そこは今でも分からん」
「十分です。少なくとも、第三文が第二層について書かれたものだと考える根拠は揃いました」
意味の分からない刻銘だったものが、レナートの紙の上で少しずつ現象へ置き換わっていく。
エルディアスは続いて、最後に残った赤にも使徒がいたことを話した。
「誰です?」
「村長だ」
レナートの顔に初めて明確な変化が出た。
「今朝の報告では、行方不明になった二名を皆さんと一緒に探していた人物ですね」
「同じ奴だ」
「それで、ニルス殿とクラリス殿は?」
「村長が殺した」
ペンが止まる。
エルディアスは、村長本人から聞いたことを必要な範囲で説明した。北側で二人に正体を疑われ、使徒の姿を現して戦ったこと。二人ともそこで死に、血や矢、治療道具は残ったものの、遺体は残らなかったこと。
「その証言を聞いたのは?」
「俺とリュシアだけだ」
「現在のラウル殿たちは知らない」
「ああ。今も二人は行方不明のままだ」
「村長本人から、もう一度証言を取ることは?」
「無理だ」
エルディアスはその後に起きたことを話した。
村長は、青も黄もなくなった以上、赤を奪う相手もいないと言った。そして、自分の役目もこれで終わるのだろうと口にした直後、顔に重なっていた赤い輪郭が離れて消えた。
その直前に、使徒としての村長が残した言葉がある。
「勝者の歴史のみ続く」
レナートが黒碑へ目を向けた。
「刻まれた文そのものではない」
「ああ。『三王、』も『が』もなかった」
「それでも、第三文との関係を示す証言としては重要ですね」
「そうだろうな」
「その後、村長は?」
「使徒だったことを覚えてなかった。ニルスとクラリスを殺したことも、赤を守ってたこともだ。ただ、二人がいなくなった後に俺たちと一緒に探したことは覚えてた」
「使徒だった間だけ、人格が別人になっていたようには見えなかった?」
「見えなかった。二人を殺したのも、昨夜本気で二人を探してたのも、同じ村長だ。本人の中じゃ矛盾してなかったらしい」
レナートは少し考えてから書き始めた。
「なら、人格が入れ替わったと決めるのは早いですね。使徒という役割に必要な知識や行動が、同じ人物へ重なっていた可能性がある。そして役割が消えた後、それに属する記憶も失われたように見えた」
「俺が見た限りじゃな」
「その表現で残します。これは今後、同じような役割を与えられた人物が現れた場合にも関わります」
「ニルスとクラリスのことまで広める必要はないぞ」
「そこは分けます。攻略構造と、個人の死亡に関する証言を同じ扱いにする必要はありません。少なくとも、私からラウル殿たちへ伝えることはしません」
「頼む」
「それから?」
「その後に、信託が来た」
レナートの注意がすぐに戻った。
「村長から使徒としての役割が消えた後ですね」
「ああ。ただし、すぐじゃない。村長の家を出て、リュシアと話して、ラウルたちと合流してからだ」
「その間に戦闘や三神像への接触は?」
「ない」
「入口も確認していない」
「通れるって分かったのは次の朝だ」
レナートは時系列だけを書き留めた。
「では、確認できる順序としては、青と黄が続かなくなり、赤だけが残った。赤の使徒としての役割も消えた。その後、少し間を置いて信託が発生した。境界がいつ解除されたのかも、何が直接の引き金になったのかも分からない」
「ああ」
「それで十分です。分からない部分を、前後関係だけで埋めるべきではありません」
レナートは黒碑の第三文と第四文を順に見た。第一層の時にはほとんど意味を読み取れなかった第三文が、今は実際に起きた現象と繋がっている。その事実だけでも、彼にとっては相当大きいらしい。
「非常に興味深いですね」
「嬉しそうだな」
「嬉しいとは言っていません」
「似たようなもんだろ」
「全く違います。第一層の時点では、第三文について仮説を立てる材料すらほとんどなかった。それが第二層を経たことで、実際の構造と対応した。研究対象として大きく進んだと言っているだけです」
「そういうことにしとく」
「そういうことです」
レナートが再びペンを取ったところで、エルディアスは口を開いた。
「まだある」
ペン先が止まる。
「黄の使徒を倒した時の話は、今かなり抜いた」
レナートは一度だけ、それまでの記録へ目を落とした。
「そうですね。青については使徒を倒すまでの経緯を伺いましたが、黄については戦闘が再開し、使徒が死亡した後に歴史が続かなくなったという結果しか聞いていません」
エルディアスは机の上の紙を見る。
「ここからは書くな」
レナートは問い返さなかった。
ペンを置き、それまで書いていた紙を裏返す。インク壺からも少し離し、両手を机の上へ置いた。
「リュシア殿も知らない内容ですか?」
「知らない」
「分かりました。ここから先は記録しません」
それだけ言って待った。
黄へ戻った時の光景は、思い出そうとしなくても残っている。
「黄では、ニルスとクラリスが生きてた」
レナートは何も挟まなかった。
「ラウルもガルムもセルマもいた。赤みたいに誰かがいなくなってたわけじゃない」
「リュシア殿は?」
「死にかけてた」
レナートの目が僅かに動いた。
「黄の使徒との最初の戦闘で鐘楼へ叩きつけられた。黄へ戻った時も意識はなくて、クラリスが治癒を続けてた。助かるかどうかは分からなかった」
「そして、その時にはすでに、使徒を倒した歴史が続かなくなる可能性をかなり強く疑っていた」
「ああ。青が来なかった後だったからな」
エルディアスはそこで一度言葉を切った。
「だから、使徒を殺さずに済ませることも考えた。拘束したまま戦いを止めて、クラリスに治療を続けさせる。次の鐘まで待って赤へ戻ってから、赤の使徒を探す方法もあったかもしれない」
「成功する保証は?」
「ない。拘束を続けられる保証も、次の鐘までリュシアが保つ保証もなかった。でも、その場で使徒を殺すしかない状況でもなかった」
「少なくとも、今すぐ決めずに済む可能性はあった」
「ああ」
黒い糸のことは話さない。
倒れたリュシアから流れ込んできた死への恐怖も、それが思考を何度も押し流し、何を考えていても最後には赤で無傷のリュシアへ意識が戻ってしまったことも、レナートには言わない。
それでも、自分が何を選んだのかは話せる。
「赤では、その時点でニルスとクラリスがいなくなってた。血と矢と治療道具は見つかってたが、死体はなかった」
「まだ村長の告白を聞く前ですね」
「ああ」
「だから、赤でも生きている可能性は残っていた」
「そう考えた。閉じ込められてるかもしれない。使徒が生かしたままどこかへ連れていったのかもしれない。まだ探してない場所にいるかもしれないってな」
「黄の二人は?」
「目の前にいた」
「生きていることを確認できていた」
「ああ」
レナートは少しだけ間を置いた。
「同じ条件ではありませんね」
「分かってた」
答えはすぐに出た。
「黄には確実に生きてる二人がいた。赤は、死んだと決まってないってだけだ。それでも俺は、その二つを同じにしようとした」
「なぜ?」
エルディアスは黙った。
使徒を逃がす危険があった。拘束が破られる可能性も、ほかの誰かがさらに傷つく可能性もあった。赤のニルスとクラリスが生きている可能性だって、その時点では消えていない。
どれも嘘ではない。
だから、それだけを並べれば簡単だった。
「リュシアが死ぬのが怖かった」
レナートは何も返さなかった。
「あのまま動かないあいつを見ながら、助かるかどうかも分からず待つのが嫌だった。赤へ戻れば、傷一つないリュシアがいることも知ってた」
「黄のリュシア殿が助かる可能性を待つより、赤へ戻りたかった」
「ああ」
エルディアスは机の木目へ視線を落とした。
「赤の二人も生きてるかもしれない。なら黄が消えても、赤に二人がいれば同じだって考えた。……いや、そう考えようとした」
「赤を残したい理由が、先にあった?」
「あったんだろうな」
「リュシア殿が無傷でいる赤を」
「ああ」
レナートは、それ以上感情へ名前を付けなかった。
「その後、何が?」
「使徒が逃げようとした」
ラウルたちは戦闘を続けていた。黄にいる彼らは、青の使徒と戦ったことまでは知っていたが、その後に青そのものが失われたことを知らない。目の前にいるのはリュシアを殺しかけ、自分たちを襲っている敵でしかなかった。
「ラウルが俺に、足を止めろって言った」
「通常の戦闘なら、何度も行ってきた援護ですね」
「ああ」
「何もしないことはできた?」
「できた」
「ラウル殿へ待てと伝えることも?」
「ああ」
「使徒を倒せば黄が失われる可能性があると説明することも?」
「できた」
エルディアスは顔を上げた。
「でも、何も言わなかった。土で使徒の足を止めた」
「完全に拘束した?」
「いや。一瞬だけだ。走る足を崩して、ラウルが追いつく時間を作った」
「そして?」
「ラウルが斬った」
部屋の外から、階下の声が微かに聞こえてくる。誰かが扉を開けたらしく一瞬だけざわめきが大きくなり、すぐに遠ざかった。
「最後に剣を入れたのはラウルだ。でも、あいつは何も知らなかった。ガルムもセルマもニルスも、黄がなくなるなんて知らない」
「知っていたのは、あなただけ」
「使徒を倒せばそうなる可能性が高いと分かってたのはな」
「だから、ラウル殿が最後に斬ったことを責任の所在とは考えていない」
「当たり前だろ。あいつはいつも通り戦ってただけだ。選べたのは俺だ」
レナートは頷いた。
「使徒が死んだ後、黄は?」
「青と同じように崩れた」
「その時、ニルス殿とクラリス殿は?」
「生きてた。クラリスは最後までリュシアを治療してた。ニルスもいた。ラウルもガルムもセルマもいる」
エルディアスはそこで一度、言葉を切った。
「全員、生きてた」
黄が失われていく中で、クラリスはリュシアへ呼びかけ続けていた。ニルスもその傍にいた。ラウルも、ガルムも、セルマも生きていた。
その全員が遠ざかった。
「次に赤へ戻った」
「現在へ続いている赤ですね」
「ああ」
「リュシア殿は?」
「無傷だった」
間を置かず答えた。
「それを見て安心した」
黄のリュシアが助かったわけではない。黄という歴史そのものが失われ、そこにいた彼女も、ニルスもクラリスも、ほかの三人も続かなくなっただけだった。
それでも、赤で自分の足で立っているリュシアを見た時に安堵した。
「その後、赤の村長から聞いた。ニルスとクラリスは、俺が黄を終わらせる前から赤じゃもう死んでた」
レナートは黙ったまま聞いている。
「黄には生きてる二人がいた。俺はそれを知ってた。赤の二人は生きてるかもしれないと思おうとした。でも実際には、もう死んでた」
「その事実を知ったのは、黄を失った後」
「ああ」
「戻す方法は?」
「ない」
短い返事だった。
しばらく沈黙が続いた。
「現在のリュシア殿は、このことをどこまで?」
「知らない。黄で自分が死にかけてたことも、黄のニルスとクラリスが生きてたことも、俺が何を考えて使徒の足を止めたかも」
「ラウル殿も、自分が黄の使徒へ最後の一撃を入れたことを知らない」
「ああ」
「今後、話すつもりは?」
「ない」
「リュシア殿にも?」
「ああ」
「理由を聞いても?」
エルディアスは少し考えた。
「リュシアが選んだわけじゃないからだ」
レナートは続きを待つ。
「あいつは黄で死にかけてただけだ。黄を捨てろとも、赤を残せとも言ってない。それなのに、黄ではニルスとクラリスが生きていて、自分が死にかけてたから俺が赤を残したなんて知ったら、あいつまで二人のことを背負う」
「ラウル殿も同じですか」
「もっと話す意味がない。あいつは使徒と戦って、俺に援護を頼んだ。それだけだ。黄が消える可能性を分かってたのは俺だ」
レナートは賛成も反対もしなかった。
「では、なぜ私には?」
エルディアスは伏せられた紙を見た。
「誰にも知られないままにするのも、違うと思った」
「何が?」
「黄はもうない」
言葉にすると、それだけのことだった。
「そこでニルスとクラリスが生きてたことも、黄のリュシアが死にかけてたことも、最後に俺が何をしたかも、今までは俺しか覚えてなかった。俺が黙ったまま死ねば、それで全部なくなる」
黄を失う直前、一瞬だけ考えたことも思い出す。
赤へ戻れば、誰も知らない。
誰にも責められない。
そのことに安堵しかけた。
「それは嫌だった」
レナートは黙って聞いている。
「リュシアたちへ話す気はない。でも、俺一人しか知らないままにしておくのも嫌だった。あんたなら、ダンジョンの仕組みとして残すものと、俺が何をしたかを分けられると思った」
「それで、私を選んだ」
「ああ」
「随分と信用されていますね」
「前に話した時、必要のないことまで聞かなかったからな」
「研究に必要がなかっただけです」
「それで十分だ」
レナートは少しだけ考え、伏せた紙を机の端へ寄せた。
「黄の最後については書きません」
「いいのか?」
「第二層の攻略構造として必要なのは、黄にも使徒が存在し、その使徒が死亡した後に黄の歴史が続かなくなったというところまでです。黄で誰が生きていたか、誰が負傷していたか、あなたが何を理由に援護を行い、最後に誰が斬ったかまで記録する必要はありません」
「閲覧を限った記録でも?」
「記録は残した時点で、いずれ誰かに読まれる可能性が生まれます。今は閲覧者を限定できても、その先まで保証はできません」
レナートの答えに迷いはなかった。
「今後、同じ仕組みに遭遇した者の生死に関わると判断した場合は、個人を特定しない形で必要な情報だけ使います。それ以上は出しません」
「ああ。それでいい」
そこで終わるかと思ったが、レナートはまだ紙を表へ戻さなかった。
視線だけを黒碑の第四文へ向ける。
「一つ、記録せずに聞いても?」
「何だ」
「信託を受けた時、黄のことを考えましたか?」
「ああ」
「この選択と結びつけた?」
「最初からな。だから『幸せ』って言葉だけは使いたくなかった」
レナートが視線を戻した。
「言い換えようとしたのですか」
「望むものとか、大切なものとか考えた。でも、どれも違った。あの意味をそのまま言葉にしようとすると、結局『幸せ』しか残らなかった」
幸せを選んだ者に、帰る場所はない。
黄で自分が何をしたのかを思い出せば、あまりにも出来すぎた言葉だった。
「黄で、幸せを選んでるつもりなんてなかった」
「何を選んだつもりだったのです?」
「リュシアを死なせたくなかった。赤へ戻れば、無傷のあいつがいる。それを残したかった」
レナートはしばらく第四文を見た。
「信託が、それを『幸せ』と表した可能性はありますね」
「俺もそう思ってる」
「あなた自身がその言葉で考えていなかったことは、反証にはなりません。受け取った意味を言葉へ変える際にも、その語だけは別のものへ置き換えられなかったのでしょう」
「ああ」
エルディアスは第四文から目を逸らした。
「幸せになろうなんて考えてない。あいつが死ぬのが嫌だっただけだ。それでも、あれを幸せを選んだって言うなら……そういうことなのかもしれん」
「かなりよく重なっています」
レナートはそこまでは認めたが、すぐに続けた。
「ただ、記録上は分けます」
「またか」
「ええ。この文が黄でのあなたの選択に当てはまることと、その選択について信託が下ったことは同じではありません」
「他に何がある」
「今は分かりません」
即答だった。
「それでも?」
「第三文を考えてください」
レナートは一つ上の文を指した。
三王、勝者の歴史のみが続く。
「これは第二層へ入る前から刻まれていました。意味が分かったのは、第二層で実際に三つの歴史を経験した後です」
エルディアスは黙った。
「黒碑の文が、必ず直前に起きたことだけを説明しているとは限りません。第四文も、今回の出来事を示しているのか、今後何か別の状況で意味を持つのか、それとも複数の意味が重なっているのか、現時点では判断できない」
「……俺には、黄の話にしか見えん」
「現時点では、私にもまずそう見えます」
レナートはあっさり認めた。
「これほど重なっている以上、黄との関連を疑う方が自然です。ただ、それを唯一の意味として確定させる材料はまだない。それだけです」
「研究官ってのは面倒だな」
「第三文も、分からない時点で決めつけていたら外していたでしょう」
「三神と三王を結びつけるくらいはできた」
「数が同じ、というだけで?」
「……面倒だな」
「先ほども聞きました」
レナートはようやく紙を表へ戻し、新しい一枚を取り出した。
そこからは、記録へ残せる情報だけを短く整理した。すでに聞いた出来事を最初から言い直させることはせず、三つの歴史が存在したこと、観測者であるエルディアスだけがそれらを連続して認識したこと、各歴史に使徒が存在したこと、青と黄は使徒を失った後に続かなくなったこと、最後に残った赤からは使徒としての役割そのものが消えたことを、実際に観測したものと、そこから導いた推測へ分けていく。
青の使徒が自ら使徒と名乗り、「青を守る」と話したこと。赤の使徒が役割を失う直前に「勝者の歴史のみ続く」と告げたこと。それらは第三文との対応を考える上で重要な証言として残された。
一方で、青で死んだラウルのことを本人へ伝える必要はないとされた。赤の村長がニルスとクラリスを殺したという証言についても、攻略上必要な使徒の性質とは切り分け、扱いを制限する。
黄の最後については、一文字も増えなかった。
話を終える頃には、窓から差していた光もかなり傾いていた。
レナートは書き終えた紙を揃え、最初に伏せた一枚には最後まで何も書き加えなかった。
「正式な記録はこちらで整理します。王都や神殿から追加の聞き取りが入った場合も、まずこの記録を参照するようにしておきます。同じことを何度も話す必要はないでしょう」
「助かる」
「第三文については解析をやり直します。第四文については、黄での選択との関連を有力な解釈の一つとして扱いますが、それだけに固定はしません」
「好きにしてくれ」
「そのために話していただいたのでしょう」
「黄の話以外はな」
「分かっています」
レナートは紙を革鞄へ収め始めた。
エルディアスも椅子から立ち上がり、扉へ向かう。
手を掛ける前に、一度だけ振り返った。
「黄の最後は」
「話しません」
返事はすぐだった。
「リュシアにも、ラウルにも?」
「誰にもです。攻略情報として必要な部分とは、すでに切り分けました」
「ああ」
それ以上確認する必要はなかった。
許してほしくて来たわけではない。黄を終わらせた判断が正しかったと言ってほしかったわけでもない。
レナートも、正しいとも間違っているとも言わなかった。
何が起きたのかを聞き、必要なところだけを確かめ、記録へ残すものと残さないものを分けただけだった。
黄の歴史は、もうどこにもない。そこでニルスとクラリスが生きていたことも、リュシアが死にかけていたことも、その状況で自分が何を選んだのかも、これまではエルディアス一人の中にしか残っていなかった。
扉を開ける。
今は、もう一人いる。




