その9
鮎川儷に貢物を届ける依頼が増え続けたことに味を占め、更なる欲が出てきた。
より効率の良い金儲けはないものかと悩んだ結果、会えるアイドル鮎川儷の握手会を開くようになり三日が経過する。
学園の人間が使用申請をしていない空き教室をリサーチしておき、勝手に会場として利用させてもらった。本日は高等部の西地区にあるメディアホールだ。
廊下には噂を聞きつけた女子生徒たちが長蛇の列を作っている。ほとんどが高等部の女子生徒だが、若きは中学生から生徒の保護者と思しき風貌をしたご婦人まで。SNSで開催が漏れたのか、当学園とは無関係の人間が混じっている可能性も高かった。そして不思議なことに八割のファンがミニスカとニーソを組み合わせた服装をしている。もちろんドレスコードを指定した覚えはない。もしかすると鮎川儷の趣味かもしれない。
ホール出入口の扉前に机を設置して、代金と引き換えにランダム封入した鮎川儷ブロマイド二枚と握手券を手渡し、一定の間隔をあけて一人ずつ入室を促してゆく。
鮎川儷とファンが一対一で対峙するシステムだが、何を話し何を提供するかは本人に任せてある。持ち時間は一分。鮎川儷が計測し、一分でアラームが鳴る仕組みだ。中で何が起きても責任は取らない。密室で何が起きているか理闘は把握していない。見ない聞かない口外しない。
そう。何が起きても誰も見ていない。
「ありがとうございまーす。本日もまことにありがとうございまーす」
初日は菓子の空き箱に参加費を収めたが、想定より多くの参加費が集まったため、翌日からは持ち運び可能な小型金庫に取り換えた。
壁の向こうから電子音が聞こえると握手を終えたファンが戻ってくる。跳ねるような軽い足取り、瞳孔が開き、頬を上気させ、絶叫をこらえる仕草をする女子ばかりだった。
一分は短い。ファンが鮎川儷に贈り物を手渡し、幾つか言葉を交す。たった一分だとそれくらいしかできまい。
順番を待つ列の後方で騒ぎが起きた。ファン同士が揉めているようだった。全身黒服のミニスカニーソと白服とミニスカニーソが口論しているらしい。
理闘がやれやれと首を竦める。
昨日は、せっかく友人同士で参加したのに、鮎川儷のサービス度に差があったからか仲間割れしたケースがあった。何やら、鮎川儷に言ってほしい台詞を用意していたようだ。
一人は少女漫画で使われる、日常ではありえない口説き文句。
一人は赤ちゃん言葉を鮎川儷に言わせたという。
どちらにせよ本人が望んで吐いた言葉ではない。金の対価として言わされただけだ。
はなから鮎川儷の意思を無視しておきながら、羞恥プレイはありえないだの、ありきたりで古臭い台詞だの、くだらない議題だった。発情した雌猫がシャーシャーと威嚇しているように見えた。
怒鳴りながら睨み合う二人を強引に引きはがす。
「はいはい、落ち着いてくださいね。何かありましたか」
「聞いてください、この変態がですね!」
黒服がきっと眦をあげて涙目で理闘に訴える。
「どっちが変態なんだか。どんなに言われても誘い受は譲らない!」
「だからそれも悪くないって言ってるじゃん。ふとした時に豹変して、エス攻めになるのも重要ギャップだよねって思ってるだけ。私が思ってるだけだし。別に強制してないし!」
「エス要素いらないんだってば。話が崩れるからあ」
「だったら女体化させるし」
「そうきたか! 孕む展開なら断じて断る!」
またしても雌猫の喧嘩みたいにシャーシャーと牽制し合っている。
女は二人いれば会話が止まらず、三人集まれば揉めだす、などと言われているが、異性が絡んだ場合は二人でも簡単に内輪揉めを始める。
理闘は握手会を機にはじめてBLと呼ばれる物語ジャンルがあることを知った。
よくわからないが、それら個人の趣味嗜好なので拒絶することはできないし、ともかく、参加費を払い、なおかつ商品を傷つけなければ彼女たちの思惑にこだわらないと決めている。
興奮した馬をあやすようにどうどうと手を団扇にして仰いでいると、その後ろに並んだ女子が顔を隠すように帽子を深くかぶり直した。
なぜか、ほぼ全員がミニスカニーソという恰好で統一しているので――シャツとロングスカートに帽子――という平凡なスタイルが目立つ。列を間違ったのではないか。
「握手会に参加の方ですか?」
理闘が声をかけると露骨に顔をそらす。返事もない。つばの長いキャスケットにすっぽり顔が収まっているので表情も読めない。
「本日は列に並ぶ前にチケットを購入していただく形になっております。特典としてブロマイドが……」
説明を始めた時、メディアホールの室内からガシャン! と硝子が割れる音が届いた。
「――くっ」
破壊音という危険信号を感知した刹那、理闘は金庫を脇に抱えながら入口まで戻り、さっと身を屈めて扉に背を預けた。扉に耳をあてて中の様子を窺う。床に散らばった硝子を踏む音と複数の気配を確認すると、中で甲高い女の悲鳴が響いた。
それを合図に、理闘は廊下に並ぶ女子生徒たちを手で制してから「イベントは一時中断するので、安全に素早くここから避難するように」と勧告を出す。ざわめきで聞き取れない者が多いのか、危険を認識できないのか、互いに顔を見合わせて困惑している。
「何が起きてるかわからない! 早く逃げなさい!」
最前列にいた女子を肩を手で押しながら喝破すると、事態を飲み込めないまま廊下を駆けていき、他のファンたちもそれに続いた。避難誘導できないのは心残りだが、今は室内の状況が気になる。理闘は右足を軸にして斜め後ろ向きに素早く回転しながら、縦に振り上げた左の踵で扉を蹴破った!
メディアホールは高低差の少ない擂鉢状で作られ、長机と椅子が固定で設置されている。鮎川儷は教壇近くの簡易椅子にちょこんと座っていた。その脇で長髪ツインテールのミニスカニーソの女子が壊れた機械のように絶叫している。彼女を連れ去るつもりなのか、二人の男がツインテールの腕を掴んでいた。目的は鮎川儷ではなく、あの女子生徒かもしれない。
理闘から向かって左にはめられた窓が破壊されている。あそこが侵入経路か。理闘は机に飛び乗ると三段跳びで階下まで突き抜けた。
犯人はふたり。
どちらも長身の筋骨隆々、そして短髪で、光る素材のTシャツが身体にぴったり張り付いている。ひとりは額に瘤のような凹凸があり、ひとりは髭が濃いのか口元に青味がうっすらと広がっている。ふたりの腕には見覚えのある赤い腕章が括られていた。
「またあいつら」
理闘は右手の金庫を遠心力で振り上げながらデコに飛び掛かった。金庫を打ち下ろす寸前、血管の浮いた硬い腕の筋肉で理闘の手首が阻まれる。力で押し負けてしまった。腕が痺れるほど骨が振動したが絶対に金庫は手放さなかった。
「彼女から離れなさい!」
「おチビちゃんに用はねーんだよ。小学生は帰ってクソして寝ろ」
「ち、チビぃ?」
いつまで経っても同級生の平均身長を超えられない劣等感をよくも一点突破で抉ってくれたものだ。その恥辱にぶるぶると震える。デコを睨みつけると同時に金庫をぽーんと天井まで緩く放り投げた。デコの視線がそれに釣られた瞬間、体操の床競技のように片手側転しながらアクロバティックな蹴りを鼻先に叩きこむ。踵に鼻の軟骨の感触を確かめたあと、落ちてきた金庫をキャッチする。
理闘は不敵に笑った。
「鼻血が出てるわよ。やーね思春期って。ティッシュあげましょうか?」
振り回した金庫を首根に打ち付けると、デコが悲鳴をあげてがくりと膝を折る。その肩口を靴裏で押すと容易く昏倒した。デコに捕らえられていた女子生徒は鮎川儷の背後できゃあきゃあと悲鳴をあげている。
「いやんいやん。怖いわー! どうしよう! 怖いわー怖いわー」
怯えるどころか、姿勢正しく着席したまま動かない鮎川儷の身体をべたべたと触りながらキャッキャとはしゃいでいた。女は強い……。
「畜生!」
青髭がボウガンを仕込んだ左腕を伸ばし、右手で弓をひく。照準は鮎川儷もしくはツインテールの女子生徒。距離は三メートル以上あった。飛び込んでも間に合わない!
鉄でも木でもない特殊なセロファンで作られた透明な矢が、空気抵抗でしなりながら視界を横切ってゆく。刺さると覚悟した直後、鮎川儷の胸元で矢が弾かれてぽとりと落ちた。鮎川儷は何故か胸部まで映る大きな鏡を盾にして攻撃を防いだ。
鏡で顔面を防御しながら理闘の背後まで移動してきたので必然的に彼の背中に張り付くツインテールもついてきた。敵との数は一対三なのに実質一対一の図式になっている。矢が放たれる瞬間に理闘が屈んで避けると、背後のふたりもそれに合わせた。一度も合同訓練したことがないのに呼吸が揃っていることに脅威を覚えた。隙をついて理闘は鮎川儷の鏡を取り上げる。
「握手会よ? なんでこんなもん持ってきてんのよ!」
「戴きました」
「なんで鏡が!」
おかしなアイドルには奇天烈なファンがつくということか。割れ鍋に綴じ蓋とは言い得て妙だ。
理闘の右手に金庫、左手は鏡で塞がっている。金庫を投げつける作戦は当然却下。なら鏡を投げつけるか。いや効果は薄い。鏡を足元で割って砕けた破片で攻撃すべきか。しかし鮎川儷もツインテールも素人なので、破片を避けきれず怪我する危険性が高い。鏡を盾にして相手との距離を詰めるのはどうか? ダメだ。足先を狙われたら矢が届いてしまう。良策を模索していると後ろから小さな物体が敵に投げつけられた。薄い固形物がひゅんひゅんと回転しながら敵の左目にぶつかり、相手がやや怯んだ。今だ!
体勢を床ぎりぎりまで低くした理闘がスライディングで敵の足元に滑り込み、その足元に足首を絡ませて捻りながら転倒させた。よし、と畳みかける寸前、敵はまたしても左腕のボウガンで鮎川儷を狙った。しまった!
鮎川儷は新たな鏡で攻撃を防いだ。今度は長方形の折り畳み式の鏡だった。
「また鏡? 何なのよ!」
理闘が怒鳴ったと同時に、敵の侵入経路である窓が次々と割れてゆく。強大な爆撃による衝撃波によるものか、複数による規則的な銃撃で割れたような間隔だった。
「くっ」
空気中に舞う細かな破片から目を庇おうと金庫を持つ腕でガードする。半ば閉じた目に飛び込んできたのは侵入してきた三十人ほどの男たちで、すべて赤い腕章をつけている。こんなに援軍を用意しているなんて――相手は本気だ。
狙っているのは鮎川儷か。ツインテールか。それとも両方か。連れ去りたいのか矢で攻撃したいのか目的も判然としない。敵が十人ならともかく、理闘がひとりで対応するには人数が多すぎるし、こちらには役に立たない邪魔な付録が二つもくっついている。自分一人なら退路を作って逃げきれる。一人なら。
理闘は肩で溜息をつきながら鏡と金庫を持ったまま降参を示すように両手をあげた。
窓の外には人気歌手が全国コンサートで楽器や演出物を搬送するような大型トラックが乗りつけてある。腕章の男たちが手際よく梯子をかけ、その脇に、火災の際に使用する脱出避難用のビニルシューターが設置し、両腕を背で拘束した鮎川儷をドンと突き飛ばす。あーれーと場違いな声が避難滑り台に吸い込まれていった。
「待ってレイ!」
ツインテールが走り出して自発的に鮎川儷を追った。恋は人を盲目にし、怖いもの知らずで無謀な行動をとる。理性が必要だ。冷静になれ。少しでも情報を引き出して相手の意図を掴むべきだ。それから反撃の戦略を整えてゆこう。
理闘は腕を組んでふんと鼻を鳴らした。
「あんたたち、どういうつもり? これって犯罪よ?」
「知った口を聞くな。お前が法の何を知っている」
「暴力で人を従わせて人を拉致するなんて犯罪でしょ!」
「暴力ねえ……」
意識混濁のまま仲間に背負われているデコをちらりと一瞥し、男は笑った。あれも暴力だが正当防衛だから悪くないと、理闘は心の中で言い訳した。
「私たちをどこに連れてゆくつもり?」
「私たち? はっ、お前に用はない」
「は」
「チビガキに用はないと言っている。さっさと帰れ」
「はああああああああああああああ?」
理闘は腹の底から湧き上がる怒りを口腔内で噛み殺した。待て。冷静になれ。こちらが挑発されてどうする。熱くなっては判断を見誤るだけだ。
理闘は無理やり作り笑いを浮かべた。
「どんな崇高な目的で拉致するっていうの? あの男は私の金づる……いや依頼人だから勝手に連れて行かれちゃ困るのよね。教えてくれない? 教えてくれたら交換条件を呑むわ。お金以外なら」
「答える義理はねーな」
「身体でもいいのよ?」
「ガキがいっちょ前に」
「しょうがないわね。悔しいけど涙をのんで二千円あげるわ」
「いらん」
「二千円よ? いらないの!」
男は趣味の悪いゼブラ柄の財布から千円札を数枚取り出して、理闘の顔に叩きつけた。
「やるからとっとと視界から消えろ」
「……ふーん」
理闘は紙幣を上下の歯で回収し、素早く金庫に収納した。その金庫を男の顎めがけて勢いよく振りぬく! 骨のぶつかる重い音と共に男が後ろに跳ねあがり、ずしゃりと人形のように潰れた。男の左腕に仕込まれたボウガンをぐりぐりと踏みつける。
「消えてやるわよ!」
縦にばらけて連なる腕章軍団の隙間を縫うように走り抜け、進路を阻む者を時に押しやり、割れた窓から垂らされる避難シューターに滑り込もうとした。だがすでに回収作業の途中だった。窓には砕けきれなかった硝子が鋭利にそびえている。あそこは足場にできない。最前列の男の背中を蹴り上げて、跳躍しながら身を縮めて割れた窓を通過する。避難シューターが元気のない鯉のぼりみたいに垂れさがっていた。
空中に身を投げ出したまま、咄嗟に地上のトラックとの距離を目測する。
メディアホールは四階。トラックの荷台天井が地上二階の高さだとしても――ぎりぎり負傷は免れないだろう。
その時、地上から突風が舞い上がり避難シューターがふわりと押し上げられた! 理闘はそれにしがみつき、腕を焼くような摩擦熱に耐えながらしゅるしゅると落下した。意地でも金庫は手放さなかった。運よくトラック荷台の上に着地できた。ちょうど車が発進するタイミングだった。メディアホールに残った腕章の男たちが喚き散らしながら、こちらに物を投げたり、携帯電話で連絡をとったりしている。
車が発進する。理闘は舌を出したり両手をばたばたさせる鳥の動きで相手を虚仮にしながら西地区の教習棟が遠ざかってゆくのを見届けた。
学園の敷地を抜けて二キロほど直進すると、ようやく赤信号で停車したので、急いで地上に降りる。コンサート用トラックのバンは大きな荷物を手早く運べるようサイドが開くウイング式だが、このトラックは後方の一面だけが開く作りで、幸いなことに外側から解錠できた。
荷重に軋む扉を開けた瞬間、むっとした熱と獣じみた臭気が流れ出てくる。理闘は金庫を持つ手の甲で口を押さえながら叫んだ。
「鮎川儷! どこ!」
ぐったりした鮎川儷がツインテールに支えられながら入口付近で丸まっている。まずは意識を失っている鮎川儷を左肩に背負い、ゆっくりと路上に下ろす。
「あなたも早く降りなさい。とにかく逃げるわよ!」
「でもでも他のみんなは」
ツインテールがトラックの内部に首を向け、忙しなく交互に首を揺らす。
「みんな?」
目を細めて闇に焦点を合わせた理闘は、トラックの荷台の奥に押し込まれた複数の人間の影を捉えた。十人はくだらないだろう。二十人? いやもっと? いつかの報道で見た、外国から運ばれた違法難民が漁船に押し込まれている衝撃映像と重なる。人間のシルエットがわかるのに誰とも目が合わない。意識を失っているように脱力したまま、折りたたまれている。この衰弱は――まさか。
「うっ」
悪夢のような臭気が押し寄せて理闘は顔を背けた。
エンジン音と共に車が発進する直前、力任せにツインテールを引きずり下ろす。開いたままの最後部の扉をガタガタ鳴らしたままバンが去って行く。他に自力で脱出できた者はいなかった。
後ろ扉を開けて退路は作った。あとは運転手に気づかれる前に「みんな」が逃げ出してくれることを祈るしか出来なかった。