第5話
蹄の音と鈴の音が交互に響いている。
突き上げる振動に合わせて景色が後ろに流れていく。たなびく雲はオレンジ色に染まり、今日一日の終わりを告げていた。遠くの山々が影に呑みこまれて、地面との境界をなくしていく。葉擦れの音が響くたびに、世界が寝静まっていくように思えた。
「結局フェリシダに行くんですかぁ、しかも高いお金払って、馬車まで手配して」
隣席のディアは呆れ顔だった。荷物を抱えこんで足をぶらぶらさせている。飲みかけのシドラを置いて行かせられたのが不満なのだろう、唇を尖らせていた。
「街道沿いに歩いて宿を探すでもよかったじゃないですか」
「伝説の〈勇者〉の生まれ変わりなんて言われたら、ゆっくりしているわけにもいかないだろう」
資料をめくりながらミゲルは答える。
〈勇者〉の等級には三種から一種以外にもう一つ、特別なカテゴリーが存在する。
特種認定〈勇者〉。
かつての伝説の〈勇者〉と同じ力を持ち、単身で〈魔王〉を屠りえる者。
王国が血眼になって探し求めるその〈勇者〉は、だがこの百年、一人たりとも見つかっていない。つまり再び〈魔王〉が現れた時に抗しえる戦力を、正確な意味で王国はまだ持っていないのだ。確かに、一種、二種、三種の〈勇者〉が総出でかかれば彼の者を打倒できるかもしれない。ただ確実に勝てるとも言い切れない。だから特種の〈勇者〉は、全てに優先して探す必要がある――
ミゲルはランタンの光量を上げた。
「馬車なら仮眠も取れるし明朝には現地に着ける。道中の宿泊費が節約できるだろう」
「お風呂がないです」
「途中の休憩で水浴びの時間くらい取ってもらうよ。川沿いも通るだろうし」
「温泉は?」
「仕事がすんだあとにね」
「ぶぅう」
むくれ顔の前に砂糖菓子を差し出す。一瞬で機嫌を直す彼女に「で?」と訊ねた。
「そっちは何か新しい話は聞けたのかい」
「ああ、はい、えーっとですね」
出発前、馬車の待合で手分けして情報を集めていたのだ。ディアは荷物からメモを取り出してページをめくった。
「〈聖勇者〉の名前はアリアドナさんっていうそうです。一月半前、フェリシダ近くの森で大怪我をして倒れているところを見つかって、意識を取り戻したあとに『神の声が聞こえる』と言い出したんだとか。もちろん最初はみんな疑っていましたけど、実際に病気を治したり、他の人に神の声を聞かせたりして、これは本物だって騒ぎになって。で、その声が言ったらしいんです。『彼の者はかつて〈魔王〉を滅ぼせし者なり』って」
「それで伝説の〈勇者〉の生まれ変わりだって?」
「まぁ本人もそれっぽいことを言っていたみたいです。神様から聞いたって触れこみで、伝説の〈勇者〉がどういう人物だったとか、どうやって世界を救っただとか」
「そのくらい物の本にいくらでも書いてありそうだけどな。歴史書とか研究書の類いとか」
「はぁ。でもアリアドナさんは文字が読めないらしいんです」
「ん?」
ディアはミゲルに合わせて首を傾げてきた。
「聖典の言葉とか巡礼の人の名前とか、そういうのも読めないみたいで、祭祀の時はお付きの人が代わりに読んであげているんだとか」
「ふぅん」
視線を宙にさまよわせる。
「農村の出身か何かなのかな」
「そのあたりがよく分からないんですよねー。怪我する前のことはあまり覚えてないみたいで」
「記憶喪失?」
「はい、思い出せるのは名前と、あとフェリシダ周辺の地名くらいって話で」
「ふぅむ」
いずれにせよ学のある人間が〈勇者〉を騙っているわけではないということか。大怪我の話といい、詐欺にしてはやり方が迂遠すぎる。何より彼女は〈勇者〉の申請をしていない。特種〈勇者〉という莫大な金を生む肩書きを欲していない。
(本物)
一瞬よぎった単語に唇を歪める。よそう、監査に予断は禁物だ。
「でも彼女が本当に〈勇者〉だったら問題だな。今までの調査の仕方を改めないといけなくなる」
「? なんでですか」
「今の学説だとね、〈勇者〉は生まれながらにして〈勇者〉、ただの人間はどれだけ鍛錬しようとただの人間ってことになっているからさ。だから一度チェックすればその人間がどちらかははっきりする。でも一般人が何かのきっかけで〈勇者〉に変わるとしたら? 極端な話、王国中の人間を毎年チェックしないといけなくなるだろう」
「手間が増えるわけですか」
「それだけじゃない。突然〈勇者〉になりえるってことは、突然『ただの人間』にも戻りえるってことだ。登録済みの〈勇者〉をもっと頻繁に調査しないといけなくなる。大騒ぎだよ。認定制度自体、一から作り直しになるかも」
「ほへえ」
予想外の話になったからか、ぽかんと口を開けられる。
ミゲルは口角をもたげると揶揄気味な表情になった。
「面倒になってきたかい? このまま僕と仕事をしていると、何倍もの面倒を背負いこむかもしれないよ」
「いえ?」
ディアはにっこりと笑った。
「ディアはミゲル様と一緒にいられるなら、なんでもいいですから」
「……」
嘆息して正面に向き直る。読みかけの資料を膝から取り上げた。
「寝れるうちに寝ておきなよ。現地に着いたら忙しくなる」
「はーい」
背もたれに寄りかかると、すぐに寝息を立て始める。あどけない横顔だ。頬を緩めて安心しきった様子になっている。
気づけば見つめてしまっていた。揺れるランタンの灯が睫毛に煌めく。ふっとなんとも言えない思いが湧き上がってきた。
(一緒にいられるなら、か)
どのみち離れることなどできないくせに。
シェードを調整してディアに光が当たらないようにする。山の稜線から西日が消えて、世界は闇に包まれた。