第9話 冒険の始まりは喧騒の街で
ダンジョンに挑むには、準備が必要だ。翌日、俺は父さんと母さんと共に、魔族領で最も大きい城下町へとやってきていた。
初めて訪れる街は、活気に満ち溢れていた。石畳の道を行き交う、様々な姿の魔族たち。屈強な戦士、ローブを纏った魔術師、威勢のいい商人。建物の様式も、どこか禍々しくも美しい、独特のデザインだ。全ての光景が、五歳の俺の目には新鮮に映った。
「まずは、冒険者ギルドで登録を済ませるぞ」
父さんに連れられて入ったギルドは、蒸留酒と汗の匂いが混じり合った、むっとするような熱気に満ちていた。使い込まれて傷だらけになった木のテーブルでは、いかつい顔つきの冒険者たちが大声で酒を酌み交わしていたが、俺たち、特に父と母の姿を認めると、その喧騒がわずかに潮が引くように静まった。壁の依頼書を眺めていた者たちも、値踏みするような視線をこちらへ向ける。中でも、母さんの美貌には、誰もが息を呑んでいるようだった。
「この子を冒険者として登録したい」
受付の女性は、俺の姿を見て明らかに訝しげな顔をしたが、父さんが兵士の身分証を見せると、態度を改めた。
「登録には、レベル10以上であることが必要ですが……」
「問題ない」
俺が横に置かれた簡易測定器に手を触れると、水晶は一瞬だけ眩い光を放ち、「ERROR」という表示を出して沈黙した。
「……こ、これは……? と、とにかく、レベル10以上であることは、確認できました。登録を完了します」
受付嬢は青い顔で、震える手で俺のギルドカードを発行した。
ギルドを出て、隣の食堂で昼食をとっていると、案の定、酔った冒険者たちが母さんに絡んできた。
「よう、そこの姐さん、綺麗じゃねえか。俺たちと一杯どうだい?」
父さんが立ち上がりかけたが、俺はそれを手で制した。
「父さん、ここは俺に任せて」
俺は席を立つと、男たちの前に立った。
「その人に、何か用?」
「ああん?なんだこのクソガキは。大人の話に首突っ込んじゃ……」
男が言い終わる前に、俺は彼の足元に向かって、指を軽く弾いた。ただそれだけ。
次の瞬間、男は「ぐわっ!」という奇妙な悲鳴を上げ、まるで透明な巨人に蹴り上げられたかのように宙を舞い、食堂の壁に叩きつけられた。
何が起きたか理解できず、呆然とする仲間たち。俺は、にっこりと笑いかけた。
「俺の母さんに、何か用かな?」
男たちは、化け物を見るような目で俺を見ると、壁にめり込んでいる仲間を放置して、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
「スタン、あなた……」
母さんが、驚きと、そして少し誇らしげな顔で俺を見ていた。
食堂の店主が、大皿料理を手に「坊主、お見事!今日の飯代はサービスだ!」と豪快に笑った。
その後、俺たちは武具屋と道具屋を巡った。
俺の攻撃スキルは素手限定なので武器は不要だったが、体のサイズに合わせて自動で伸縮する、特殊な糸で編まれたという高価な冒険服を買い与えられた。
そして、大量のポーションを買い込んだ時、問題が発生した。五歳の子供には、到底持ち運べない量だ。
「どうしようか……」
父さんが困っていると、俺はふと、ある考えを思いついた。
(もし、俺の魔力で、空間そのものに干渉できたら……?)
俺は目の前の薬の箱に意識を集中させ、頭の中に「何でも入る箱」をイメージした。そして、その箱に向かって、手を伸ばす。
すると、俺の手が、まるで水面に沈むように、すっと空間の中に消えていった。
「なっ!スタン、お前の手が!」
父さんと母さんが悲鳴を上げる。
俺は慌てて手を戻し、そして再び空間に手を入れると、今しがた消えたはずの薬の箱を取り出して見せた。
『スキル:アイテムボックスを習得しました』
「……どうやら、できたみたい」
俺の言葉に、父さんも母さんも、道具屋の老婆も、ただ開いた口が塞がらないといった様子だった。
こうして、ダンジョンへの準備は万全に整った。明日から始まる、生まれて初めての本当の冒険。俺の心は、かつてないほど高揚していた。