第42話 北の龍脈、そして氷壁の試練
精霊族との魂の契約から数日後。エリアドールの民たちの傷が癒え、森に活気が戻ったのを見届けてから、俺たちは旅立ちの準備を整えていた。
長老ファエナラは、別れの品として、一つの小さな種子を俺に手渡してくれた。
「それは、神木『ハートウッド』の分かち身。生命力の源です。人間たちに汚染された土地を通る時、きっと、あなたの助けとなるでしょう」
そして、彼女は最後に、忠告をくれた。
「竜人族は、世界の理の『監視者』。彼らは、世界の均衡を乱す者を、決して通しません。あなたという『イレギュラー』が、彼らの目にどう映るか……。スタン、どうか、あなた自身の真実だけを、彼らに示しなさい」
俺たちは、エリアドールの全ての民に見送られ、彼らの聖域を後にした。
目指すは、北。大陸の背骨とも呼ばれる、極寒の連峰。
旅は、これまで以上に過酷だった。温かく、生命力に満ちた古代樹の森は、次第に葉を落とし、やがて、荒涼としたタイガの森へと姿を変える。そして、それも数日後には、ただ、どこまでも白く、凍てついた大地が広がる、ツンドラ地帯へと変貌した。
「さ、寒いですわ……!」
パティが、白い息を吐きながら、体に巻いた厚い毛皮のコートをかき合わせた。
吹き付ける風は、もはやただの風ではない。肌を切り裂く、氷の刃だ。
「殿、ご無理なさらず。我らが熱となりましょう」
イフリートは、自らの体から常に熱気を放ち、パーティー全員を寒さから守っていた。彼がいなければ、俺以外の仲間は、とっくに凍え死んでいただろう。逆にディーネは、水と氷を操る彼女にとって、この環境は故郷に帰ってきたかのように快適そうだった。
そんな極寒の旅路を、何週間も続けたある日。
俺たちの目の前に、ついに、それは姿を現した。
地平線の彼方から、天を突くようにそびえ立つ、巨大な、巨大すぎる氷の壁。
それは、自然が生み出した氷河などではない。どこまでも垂直に切り立ち、その表面は鏡のように滑らかで、内部からは淡い青色の光が放たれている。世界の果てを思わせる、絶対的な拒絶の意思を具現化したかのような、魔法の障壁。
「……あれが、竜人族の住まう『天衝山脈』の入り口……『龍の吐息の氷壁』……」
パティが、書物で得た知識を、畏怖の滲む声で呟いた。
氷壁には、唯一、巨大な門が設えられていたが、それは固く閉ざされている。そして、その門の前、氷で作られた玉座に、一人の男が、静かに座していた。
全身を、白銀の鱗が覆い、背中には、たたまれた巨大な翼。その顔は、人間と竜が、完璧なバランスで融合したかのような、荘厳な顔立ちをしていた。何百年、あるいは何千年も、そこで座り続けているかのような、絶対的な静寂。彼こそが、この門の番人なのだろう。
俺たちは、意を決して、その門番の前へと進み出た。
パティが、大使として、凍える唇で、丁寧に口上を述べようとする。
だが、その門番は、ピクリとも動かなかった。
「……駄目か」
イフリートが、試しに、その氷の門に向かって、強力な炎の魔法を放つ。だが、灼熱の炎は、門に触れる寸前で、まるで幻であったかのように、虚しく掻き消えた。ゴームの渾身の一撃も、その門に、かすり傷一つ付けることすらできない。
その時だった。
氷の玉座に座していた門番の、その閉ざされていた瞼が、ゆっくりと、開かれた。
現れたのは、古代の氷河そのもののような、深い、深い、蒼色の瞳だった。
その声は、氷が軋む音のように、低く、そして重かった。
「この壁は、『均衡』の証。世界の理を乱す者は、通るべからず」
その瞳が、俺たちを順番に見ていく。そして、俺の姿を捉えた瞬間、その瞳が、わずかに細められた。
「……貴様、異物よ。その存在そのものが、理の歪み。この先へ進む資格は、ない」
それは、問いかけではなかった。ただ、事実を告げるだけの、絶対的な宣告だった。
彼は、俺の意思や目的を問うのではない。俺が「イレギュラー」である、ただその一点において、俺を「世界の歪み」と断じ、拒絶しているのだ。
パティや眷属たちが、色めき立つ。だが、俺は、それを手で制した。
そして、一歩前に出ると、その古の竜人に、問いかけた。
「あんたたちの言う『均衡』とは、なんだ?」
俺の声は、極寒の空気の中で、不思議なほど、はっきりと響いた。
「人間が、他の全ての種族を虐げ、奴隷とし、世界が『灰色の病』に蝕まれて、ゆっくりと死んでいく。それが、あんたたちが、命を懸けて守るべき『均衡』なのか?」
俺の問いに、竜人は、初めて、その表情をわずかに動かした。
「……理屈は、力無き者の戯言よ。世界の理に問いかけたければ、まず、その資格を、己が身で示せ」
竜人が、ゆっくりと、その右手を上げた。
呼応するように、彼が守る巨大な氷壁全体が、凄まじい光を放ち始めた。
「試練だ」
ゴオオオオオオオオオッ!!
次の瞬間、氷壁から、全てを凍てつかせる、絶対零度の吹雪が、奔流となって俺たちに襲い掛かった。それは、ただの氷や風ではない。竜の魔力が込められた、魂そのものを凍結させる、本物の『龍の吐息』。
「この龍の息吹の吹雪を越え、我が前までたどり着けたのなら、話を聞いてやろう。だが、できなければ、お前たちはその歪んだ魂ごと、ここで永遠の氷像となるがよい」
それは、力も、知恵も、交渉も通用しない、ただひたすらに、耐え抜くことだけが求められる、あまりにも原始的で、あまりにも過酷な、試練の始まりだった。
俺は、仲間たちを背後に庇い、たった一人、真正面から、世界の理そのものが放つ、絶対的な奔流を受け止めた。




