能因法師を真似るか
人形のごとき美しき女の童、引いては成長して後の美貌をも見込まれて、世の覇王白河に溺愛されながら育った璋子は、いわば悲しみを知らない「幸福の王子」のようであり、のみならず、その‘養父’白河によって性愛をも全き自然のうちに摺り込まれた身であれば、その妖艶のほどは、男たちにとって抜き差しならぬものとなっていたのである。それほどの彼女ではあっても年令ゆえの翳りはやはり否めず、鳥羽上皇に接近を図る藤原北家の家成が送った若き得子に、今は完全に院の寵愛を奪われていた。自信強ければ失意もまた半端ならずであり、我血肉となっていた院始め男たちからの愛を失することは、文字通り自らの命を否定されるに等しかった。単に寵愛争いに敗れたというだけでは済まない、さぞやの無念がそこにはあったのである。
「ほほほ、知りませぬ。さだめし義清殿の感性強きがゆえでございましょう」阿漕の浦など知らぬ、誰ぞ手引きしたると言いた気な、後の西行法師に伍する、和歌の名手たる待賢門院堀河の返事であった。まして義清に開陳など出来ようはずもない、ただうつむくばかりである。「賢き者かな。いま宮中の女房たちの間ではやっている、歌を詠むために恋をするという、それに似たそなたの出家ではないのか?出家とは名ばかりで、実体は憂き世を逃れて、歌詠みと遊行三昧に明け暮れたという、あの能因法師を真似るだけではないのか。和歌の名人たるそなたならば、考えつきそうなことよのう」と察しのいい、おのが鋭いところを見せては義清を驚かす璋子。まるで母の前で嘘がばれたような面持ちの義清は一言もない。その様子を見取りながら璋子は「数寄者(すきもの:和歌を詠んで遊び暮らす風流な人間)め」と、こんどからかうようだった声音を一変させてさらにひとことを付け足した。言葉ばかりは揶揄いのままだが、そこにははしなくも息子に去られる母親のごとき、あるいは夫に裏の衣を見せられた(=出家を宣せられた)妻のごとき、万端やるかたない、実に悲しげで、寂しげな想いが溢れていた。