プロローグ
「空は腐ってるんだ」宗教書みたいな分厚い本に目を落としながら深見が言った。ぼそぼそともがくような声だった。話しかけた女の子は気味の悪いものを見た時の目付きになって、曖昧に頷いて離れていく。「英語の宿題見せて」と俺は頼んだ。「……」深見は変な顔をして黙っている。目と目が合う。なんとなく顔を見回す。長い髪。整った顔立ち(広末涼子似)。黙ってたら美人なのになぁと勿体なく思う。「英語の宿題見せて」聞こえなかったみたいなので俺はもう一度言った。深見は黙ってノートを差し出してきた。俺は代わりに数学のノートを差し出した。役割分担だ。深見は数学のテストの点数が一桁台。去年は留年しかけた。俺は英語のテストの点数が一桁台。去年は留年しかけた。
「毎度思うけどさ」宗教書(仮)に目を落としながら言う。「なんで君は私に構うんだい。電波女だよ私は。某ライトノベルなんて目じゃないくらいに痛々しい感じの。取り返しがつかない系の」「幼馴染みだからじゃね。宿題サンキュ」「こちらこそ」俺は席にもどって英語の宿題を自分のノートに書き写す。深見も自分のノートに数学の宿題を書き写している。適当に手を動かしながら俺は深見が譫言のように繰り返す言葉を考える。
どうやら空は腐ってるらしい。
オゾン層とやらに穴が開いて、それはもう取り返しのつかないところまで進行していた。だから北緯34度、東経135度のこの街ですら、ときどき空に光帯が見えるようになった。紫外線のきつい日は学校が休みになって、近年その頻度は増加の一途を辿っている(うれしい)。皮膚癌の発生率は10年前の27倍になり、みんなのカバンの中身を開ければ日焼け止めが入っているようになった。男同士で「やべ、今日日焼け止め忘れちまった。貸してくれね?」とか言ってるのが日常になったわけだけど、正直ギャグだと思う。ギャグだったらよかった。深見は親に変な宗教団体のところに連れていかれて、笑顔を見せなくなり「空は腐ってる」と繰り返すようになった。クラスメイトみんなから煙たがられるようになった。空は腐ってる。宿題を写し終えた俺は濃い青の空を見上げた。雲一つない。消毒薬をぶちまけて雑菌を全部殺したような空だった。
「……」
適当に授業を受ける。半分くらい聞き流しながら。この世界は俺が高校を出て、もしかしたら大学に通って、就職して結婚して、おっさんになって死ぬまで、ちゃんと残っているんだろうか。もし残っていないなら勉強する意味ってあるんだろうか。
「……」
ガタン。と、誰かが突然席を立つ。半分寝てた俺は驚いて瞼を開ける。深見が教室を飛び出した。先生が引き留めるのも聞かずに。「深見?」なんとなく俺は深見を追いかけた。先生が引き留めるのも聞かずに。深見は走っていく。ものすごい勢いで階段を駆け上がって、屋上の扉を開けた。鍵はかかってないのかとか思ったが、「あははははっ」深見の笑い声でそういう思考が全部消えた。
「見なよ、シンジ!」
深見はまるで大事な人を紹介するみたいに軽く手を添えて、空を指した。
「空は腐ってるんだ」
深見の言う通りだった。
空は本当に腐っていた。
どろりと濁った緑色の空が、粘性の液体を垂らしたみたいに町に降ってきた。




