七瀬詩仁 7
これでとりあえず完結です。最後は七瀬詩仁の視点から。
十二月に入った。十月半ばから寒すぎて、秋などという季節はまるごとなかったような気がするけど、本格的に冬になった。例の事件で崩壊した校舎は修理されることもなく取り壊されることもなく、ほぼ手つかずの状態で放置されている。工事が始まるのは年が明けてからだそうだ。中等部の校舎も高等部の校舎も半壊して危険なので、今現在、授業は別の大型施設を借りて展開されている。これはこれで趣があって、正直、悪くなかった。休み時間のクラスメートの盛り上がり方も、いつもの教室とは少し違うような気がする。
頬杖をついて、今の教室をぐるりと見渡した。長机にパイプ椅子、横並びの座席は前の教室と変わっていない。誰が誰とどんな話題でお喋りしているのかも、なんとなく想像がつく。事件が起こる前となにも変わっていない、とはさすがに言わないが、その差は世間が騒ぎたてるほど大きくはない。
マスコミはテンション高く例の事件を報じているが、目線の先は首謀した不登校の生徒よりも、その生徒に脅されたと言い張るもうひとりの生徒のほうに集中している傾向にある。もちろん名前は伏せられているが、藤のことだ。爆弾を作ったのはこっちの生徒ということは既に世間中に割れているし、それならばと、藤の異常な頭の良さが頭の悪いワイドショーの美味い話種になっている。それほどに聡明な少年が、同い年の子どもの脅しに乗るかどうか、というのが論点だ。藤が中学校の全国模試で絶えずトップクラスの成績を収めていたことも流出している。いくら名前を隠していても、全国模試でランクを限定すれば、学校によっては生徒でもある程度の目星はつけられる。脅されたと言い張る少年を藤と断定する人間は、少なからずいると思われる。
藤の席はただの空白だけど、夏也の席には白い花が飾られていた。夏也が自殺したことは、さすがに学校のみんなが知っている。夏也の自殺の瞬間を見ていた三橋が様子を教えてくれたが、聞くだけで嘔吐しそうな凄惨な内容だった。不登校だった夏也は、教室にいないことは当たり前だった。長机にぽつんと置かれた花瓶と花が、当たり前だと思う俺の意思を掻き消した。夏也は死んだ。お葬式にもお通夜にも行ったのに、突然思い知らされたような感覚になってくる。
お葬式の日、俺は三橋を追いかけて外へ出た。いつもの河原に三橋はいて、一緒に座っているうちに佐伯先生も来た。佐伯先生は、夏也の姉は死なないと言った。夏也が姉に対してなにを視たのかもわかった、と言っていた。佐伯先生の話を聞いている間、ずっと不機嫌そうな顔をしていた三橋が俯いた。唇を噛んで、拳を強く握り締めていた。三橋の激しい感情を、俺は初めて目の当たりにした。
『壱井君のお姉さんね、お腹に赤ちゃんがいるんだって』
佐伯先生は、いつもと変わらない温和な口調で最低な結末を宣言した。バカな俺にもすぐに理解できた、本当に最低な劇終だった。「こんな世界は許せない」。呪詛のように繰り返した藤の一言が、耳の奥で蘇る。そうだ、こんな世界は許せない。藤くらいの頭脳があれば、俺だってきっと同じことをした。藤はどんな気持ちになるだろう。想像するだけで怖かった。
『壱井君が視たのはきっとそれなんだわ。誰かが死ぬビジョンじゃなかった』
『最悪』
『壱井君のお姉さんとその彼氏さん、入籍するつもりだったんだって。お姉さんのほうは今更家族には会いに行けないって愚図ってたんだけど、彼氏さんのほうは違ってたみたい。お姉さんが強引に家を出て行っちゃったのも、彼氏さんを振り払って強行突破したんだとか』
『それでも最悪だよ』
言葉を挟んでいたのは三橋だった。最悪。三橋は更に「最悪」と繰り返した。
『こんなに酷いことってないよ。僕はこんな結末がわかってたんじゃない。壱井が視たのは死神じゃなくて、新しい命の光だった。それを勘違いして事件を起こしてそれから死んだ。とんだ大バカじゃないか。忠勝君がどんな気持ちになるか』
『三橋君』
『壱井はいつも命の終わり際ばかりを視てた。それがこんなに酷い、神サマの気まぐれで壱井は死んじゃったんだよ』
『そうだね』
『友達じゃない僕でもこんなに辛いのに、忠勝君が平気なわけない。壱井は死んだんだ。こんな世界を許せって言うほうがどうかしてる』
いつになく饒舌な三橋が言っていたことは、すべて正しい主張だった。夏也はいなくなった。ひたすらその事実が君臨する。夏也の姉のお腹に赤ちゃんがいたとして、それが夏也の救いになるとは思えなかった。確かに姉が死ぬよりいいに決まっているし、むしろ新しい命が誕生するのだから祝福すべきことなのに、気分は重たくなるばかりだった。夏也は死ななくてよかったという結論ばかりが、今更浮かび上がってくる。夏也が視たと錯覚した通りに姉に死んでくれとは言わないが、三橋が言う通り、こんな結末はあまりに酷い。夏也の姉が妊娠していることは当然藤の耳にも入るだろうし、そうなったら予想するはずだ。藤は正気を保っていられるのか。気がふれたところで、警察に拘束されている藤にはなにもできないと思うけど。
『ちょっとうまくいってなかったけど、壱井君はお姉さんにちゃんと愛されてたのよ』
『お葬式に来てたから? 家族だもん、さすがにお葬式には来るよ』
言ったのは俺だった。三橋は俯いたまま顔を上げなかった。
佐伯先生は首を左右に振り、言葉をじっくりと噛み砕くようにして言った。
『赤ちゃんの名前、もう決めてるんだって。夏也君の名前の音をもらって、奈津。男の子か女の子は、まだわからないみたいだけど』
この世界は、一体なんなのだろう。
記憶の渦から解放されて、誰にでもなく俺は無意識に問いかける。夏也にとって、この世界は一体なんだったのか。藤が言うように、許しがたく受け入れがたく、この手で消し去ってしまいたい世界ではなかったのか。本心から望んで弟と決裂した姉が、自分の子どもに弟の名前をとった命名をするとは逆立ちしても考えられない。夏也の姉は、夏也のことを愛していた。愛していたから、夏也から逃げ出した。子どもに弟に似た名前をつけることで、弟のもとへ戻ってきた。夏也にとっての義兄と甥か姪を引き連れて、再び家族として結びつきに。
――こんな悲惨な物語があってたまるか。
歯軋りしたい衝動を抑えきれず、机に置いた左手を強く握り締めた。爪が食い込む。これくらいの痛みはなんてこともない。俺が感じる痛みなんて、俺自身が上手く消化できないだけでいつだって些細だ。
真後ろの席で、三橋は当たり前のようにDSを弄っていた。事実、こいつが休み時間、ときに授業中でさえもこそこそゲームをしているのは当たり前だった。片耳にイヤホンを装着し、黙々と指を動かしている。夏也の姉の真相を知った日はあれほどよく動く口だったのに、今ではとことん静かになった。いつものクールな三橋だ。もうすぐ休み時間は終わるけど、奴にDSをやめる気配は一向にない。
次の授業は佐伯先生の国語だ。佐伯先生に特に変わった様子はなく、いつもと同じ調子で授業を進めている。授業以外の話題でも生徒とコミュニケーションを取っているし、笑顔だって見える。事件があって佐伯先生もいろいろなことを考えただろうし、その結論として退職するなどと言い出したら寂しいところだったのでそれはよかったけど、佐伯先生だって相当辛い立ち位置を強いられているはずだ。夏也は佐伯先生のことが好きだったらしい。佐伯先生はそれを知っていて、遠まわしに振った。そんな話は全然知らなかったけど、夏也が佐伯先生のことを好きになるのは、なんとなく納得できた。普通に学校で会うだけでも親しみやすいと感じたのだから、不登校の自分のことを気にかけてくれる年上の女性に対して、好意を抱くなというほうが酷だ。恋愛感情に結びつくことはなくても、それなりの信頼くらいは誰だって寄せる。だからこそと言うべきか、佐伯先生も相当の罪の意識に苛まれているようだった。夏也の父親は壊れた学校の弁償代をすべて負担しなければならなくなったが、佐伯先生もそれを共にしようと申し出たらしい。ところが、夏也の父親自身に拒まれた。『これは息子の業です、息子がいなくなった今、息子の業は親の私が謹んで贖罪します』と。ただ悲しそうにしているだけなら食い下がれたけど、どことなく澄み渡った雰囲気を纏っていたから強く主張できなかった、ということだ。息子を失ったにも関わらず、夏也の父親はどうして凛としているのか。俺にはまったくわからない、ということも実はない。上手く表現できないけれど、不思議な感覚だった。
ぴっちりと閉められていた入り口が、突如として音をたてた。勢いは凄まじく、佐伯先生の開け方ではなかった。扉が半分ほど横に滑ったところで、なにに引っかかっているのか、がたがたと揺れるばかりでそれ以上開かない。なんだか見覚えのある光景だった。扉の淵にかかった指が、鬱陶しそうに位置をずらす。というか、そこに引っかかりそうなものは別にないし、みんな今まで普通に開けてきたけど。俺も。休み時間の終わりの間際、クラスはしんと静まり返る。誰かがゲーム機を操作しているような音だけが聞こえてきた。考えるまでもなく三橋なので、いちいち振り向いて確認したりはしない。
ようやく扉が開ききると、藤がそこに立っていた。真っ黒な髪に知的そうな眼鏡の、見慣れた藤だ。ただひとつ違うのは、ブレザーの上に茶色のコートを羽織っていることだった。シンプルなデザインだけど、藤はもっとシックな色合いのものを好みそうなところだが。いや、そんなことはどうでもよかった。寒い時期には制服の上に防寒具を着て登校していいというルールがあり、つまり不思議なことはないわけだが、藤が着込んで学校に来たのは初めてだ。むしろ、藤、学校に来れるのか。藤は事件の犯人だとクラスのみんなが知っている。脅されて仕方なく手を染めたという情報しか伝えられていないが、藤がそんな柄ではないことも、教室の誰もが知っている。
「邪魔してきた奴が二,三匹いたから潰してやった。いつも俺がやってたことだろ、お前ら面白がって見てただろうが」
それは確かにそうだ。辻ノ瀬名物、藤の霊感ショー。久々の開演だった。
藤は周囲を見渡し、指を振って座席自体は以前と変わっていないことを確認している。加害者の立場として事件に関わっていたとは思えない、実に涼しい表情だ。完全にいつもの藤だった。
俺と藤の目が合った。あ、と思ったが、逸らすのもおかしいので見据え続けた。藤は少し口元を緩めて歩み寄ってきた。藤が自分の席に着くためには、俺の横を抜ける必要があった。
「珍しいな、コート」
「俺には似合わないか」
無難な話題で話しかけてみると、藤はひねた返答をよこしてくる。そんなことないと否定してみせると、藤は満足そうに笑った。藤はコートを椅子にかけ、鞄とは別に持っていた小さな紙袋の中身を取り出す。小皿に乗った緑色の苔に覆われた球体だった。コケダマだ。もともとは藤が佐伯先生に製作を教わりに行ったものだが、俺が調子に乗ってたくさん作った。それを藤にもひとつお裾分けした。同じものを俺も三橋も持っている。三橋に目をやると、DSを操作する手を止めて、藤のコケダマを見つめているところだった。
藤のコケダマは、伸びた茎のてっぺんにひとつだけ小さな白い花をつけている。なんの植物を植え込んだのか、確か佐伯先生は雑草の一種と言っていたような気がするけど、名前はなんだったっけ。ともあれ、頭はいいくせに、植物の世話だけは相当苦手な藤がここまで枯れさせずに成長させたというわけだ。感嘆たるものがあり、俺は拍手したい気持ちになった。
コケダマの乗った小皿を片手に、藤は静かな空間を歩く。壱井の席の前で足が止まった。花瓶に生けられた白い花に、そっと手を触れた。コケダマを花瓶の横に置いて、藤は再び大きな白の花びらに指を載せた。優しく労わるように輪郭をなぞり、藤は浅く溜めた息を吐き出す。同い年とは思えないほどに淫靡だった。思わず俺は生唾を飲み込む。
「大層なもんだわ。夏也にこんなの似合わないだろ。あいつ、十五歳にもなって身長百五十四センチしかないんだぞ」
「自殺したクラスメートの席に、そんな小さい雑草だけってのも酷いと思うけど」
空気を読まない台詞を気だるげに飛ばしたのは三橋だった。場の空気が凍りついている。今ここで、藤の前で「自殺したクラスメート」とはっきり言い切るとは。夏也が自殺したことはみんな知っている。でも、誰も話題にしようとはしなかった。意識して避けているのだとも思うし、だからこそこの空間が日常の姿を保っているのだとも思う。みんなが普通なのは、夏也の死に関心がないからではない。クラスメートがひとりこの世からいなくなったことを理解しているから、普段通りに過ごせている。夏也は確かに不登校だったけど、単に学校に来ないのと死んでいるのとでは全然話が違う。
藤は一瞬だけ横目で三橋を見た。睨みつけたというふうではなかった。三橋はDSを閉じ、なに食わぬ顔で藤を見つめていた。
藤が口元を綻ばせると、辺りの緊張感はピークを迎えた。張り詰めた空気の結び目が解け、そこかしこで小さく息を吐く気配がする。三橋は相変わらず興味なさげな目をしていた。
「それもそうだわ。こんな不恰好なコケダマひとつで手向けとあっちゃ、笑えるもんも笑えないな。雑草じゃなくてアイビーだけど」
不恰好なコケダマって、それ作ったの俺だけど。遠回しに文句を言われているようで、俺は少しむっとした。
花びらに触れた手を、藤は眼前に持ち上げた。ゆっくりと指を折り曲げ、精神世界に浸るように目を閉じる。長い睫毛を押し上げて、藤は僅かに目蓋を開いた。常軌を逸した藤の美麗な横顔は、何度見ても変わらず人間離れしている。
「夏也の生きた痛みなら、これくらいはないとな。でも、ひとつだけ咲き誇ってるんじゃ寂しい」
「だから持ってきた? 忠勝君、変なとこで優しいんだね」
「バカか。こいつはこっちの白い綺麗なお花のお友達。持ってきたとかものみたいに言うな」
「ヤンデレの次は電波キャラなんて、ケーサツで相当辛いことがあったんだろうね。僕は心の底から同情してるよ、忠勝君」
「俺だってお前に心の底から同情してるわ。俺がどういう立ち位置かわかってるくせに、よくそんなことずけずけと言えるもんだな。あと、忠勝君って呼ぶな」
ふたりのやり取りがいくらか続いた後、佐伯先生が教科書を持って室内に現われた。佐伯先生は目を大きく開き、一瞬だけ硬直した。教卓代わりの高さのある机にノートと教科書を広げ、すぐに授業の準備を始める。いつもと変わらない光景だった。夏也の席に置く花を選んだのは、実は佐伯先生だった。
チャイムが鳴り響き、藤は自分の席に戻った。もちろんコケダマは花瓶の横に置いたままだ。改めてみると、確かに不恰好な仕上がりだった。でも、藤は、なんだかんだでちゃんと俺のコケダマの面倒を見てくれていたわけだ。ちょっとだけ胸がほっこりした。俺が夏也を傷つけて、結局最後まで仲直りできなかったけど、俺もあそこにコケダマを置いていいだろうか。俺だってちゃんと規定通りに水をやっているし、実は控えめな花だってつけている。小さいけど立派な花だ。雑草だって、こうして育ててみれば愛着が湧く。
始業の合図で、みんなが立ち上がった。佐伯先生と向かい合う形で礼をして、席に着く。夏也が望んでいた日常の姿だ。夏也はどうあっても藤に日常を過ごして欲しかった。藤はそれを叶えようと、学校に戻ってきた。夏也は今どう思っているのだろう。藤なら夏也の声を聴けるだろうか。夏也の声を聴けたからこそ、罪悪感に耐え抜いて日常に帰還したのだろうか。気にはなるけど、そこは好奇心だけで触れてはいけない領域だと思う。
「藤と壱井は親友だった」
後ろから小さな声が聞こえてくる。こっそり振り返ると、三橋は珍しく前を向いて黒板代わりのホワイトボードを眺めていた。
「これからもきっとそうだね。僕には信じられないけど。親友に全部を擦り付けてのうのうと生きてこうなんて」
「本人たちが納得してるんだからいいだろ。藤だって相当辛かったはずだ」
「七瀬はさ、例えば僕と共犯でなにか酷い事件を起こしたとして、僕が死んじゃったとして、それで全部脅されてやったって言い続けられる?」
ちなみにこの教室、座席そのものは変わりないが広さは以前の二周り増しくらいある。せっかく広いのだから有意義に使おうという学校の方針で、席によっては長机を独占できる強運な生徒もいた。俺と三橋は、たまたまそのポジションだった。小声で話していたところで、隣の席に会話が漏れることはない。
「言い続けるに決まってるだろ。俺は可哀想な被害者面させてもらう。お前なんかに関わったばかりに起こした事件で、俺の人生台無しにしたくないからな」
少し考えて、というのは嘘だ。即答してやった。すると三橋は予想通りとばかりに口の端を吊り上げ、小悪魔っぽく低めた声で言った。どうでもいいけど、こいつの顔の端麗さも異常の域だ。
「そう言うと思ってたよ。僕だって同じ立場だったら全部キミのせいにするね。キミなんかのために僕の人生滅茶苦茶にするなんて、そんなバカなことってないよ。家族だって知ったことじゃない」
「言うな、お前。俺は家族まで引き合いに出してない」
「出してないだけでそういう意味でしょ」
「俺たちも親友かもな」
「そうかもね」
「こら、そこ。なんで今振り返る必要があるの」
やんわりとした注意の声が背中を撫でた。やばい、ばれた。三橋はさも一方的に会話を強いられたとアピールするかの如く教科書を持ち、忌々しそうな視線を送ってくる。喋りかけてきたのはお前のくせして、忌々しいのはこっちだ。今すぐにこいつの長い睫毛をぶち千切ってやりたい。
「じゃあ七瀬君、今さっき読んでたところをもう一回読んでくれる? 確認のために」
「最初に話しかけてきたの三橋だよ。三橋に読ませてよ」
「じゃあ三橋君、読んでみて」
納得いかないし腹立たしいので口ごたえしてみると、佐伯先生はすんなりと三橋にターゲットを摩り替えた。ざまあみろ、三橋。どうせお前だって全然先生の話聞いてなかっただろ。読めるはずがない。勝ち誇った気持ちで三橋を見ると、三橋は俺に目もくれずに立ち上がった。三橋は淡々と古文を読み上げる。それが何ページのものなのかすら俺にはわからないが、どうやらそこはまさに佐伯先生の指定した箇所らしい。はいよろしい、と佐伯先生が頷くと、三橋は静かに席に着いた。なんだこいつ。俺と話をしながら、佐伯先生の声にも集中していたというのか。聖徳太子か。現状は、誰が見ても俺が三橋の迷惑を顧みずに勝手に喋りかけた構図だ。事態を打開せねばと知恵を捻るが、この場にいる全員が俺に意識を向けているプレッシャーの中、いい案が浮かぶはずもない。たとえプレッシャーがなくても、おつむのよろしくない俺に施行できる策なんてなかった。そういえば、三橋は地味に成績よかったっけ。普段は気にならないことなのに、今ばかりはその事実がやたら腹立たしかった。
「七瀬君の不真面目ってことで間違いないね」
佐伯先生が言うと、三橋は僅かに俺を見やった。いや、見下した。勝ち誇った目だ。こいつ、早速俺に罪を擦りつけやがった。
「食われたな、七瀬。三橋の勝ちだ」
藤が喋ると、場の空気が張り詰めた。どうして一気に酸素が薄れてしまうような感覚に陥ってしまうのか、わからないほどに俺もバカではない。藤の立ち位置なら俺もわかっているし、みんなも気付いている。最悪だと罵る奴だっている。犯罪者はふたりいて、片方は死んで、生きている片方が死んだ片方にすべてを押し付けて、その片方だけが普通の生活に戻ったのだ。自嘲っぽい微笑を、藤は微かに口元に刻んだ。あれだけのことをしたのだから、やっぱり俺は日常には戻れない。諦めがちに揺れる藤の瞳は、そんなふうに言っている。
「別にそんな奴食わないね、頭とげとげしてるし歯茎に刺さる」
三橋の一言で、張った空気がさらにぴんと引き伸ばされた。なに言ってるんだ、こいつ。歯茎に刺さる頭で悪かったな。しんとした空間に息が詰まりそうになった頃、突如誰かが「それもそうだな」と呟いた。変に納得した口調だった。誰だ、納得してる奴は。表に出ろ。
くすっ、と誰かが小さく笑った。別の誰かが「しかも七瀬って痩せてて固くて不味そうだよな」と言った。それはどうも悪うござんした。腹の底で毒づいたつもりが、声に出ていたらしかった。そこら中で笑いの渦が巻き起こり、緊張していた空気が綻んだ。なんだこれ。場が和んだのはいいけど、どうして俺が笑われているような構想になっているのだろう。俺はちっとも笑えない。
藤はらしくもなく、辺りをきょろきょろと見回していた。自分もこの和やかなムードに馴染んでいいものかどうか、判断し兼ねているようだ。謙虚な奴。お前も笑っていいんだぞ、と声をかけてやろうと思ったら、既に近くの席のクラスメートが藤の肩を叩いていた。お前も笑え、と。爆発し続ける学校から避難するとき、進んで佐伯先生に協力していた奴だ。なんていい奴なのかと、俺がそいつの肩を叩いてやりたくなった。藤は呆けていたが、やがて少しだけ笑った。
三橋は場に飽きたようにDSを開いているところだった。一瞬俺と目が合った。三橋は小さく親指を立てた。俺もサインを返したけど、三橋はもうDSの画面に夢中だった。
「静かに。そろそろ授業再開しましょ」
佐伯先生が手を叩くと、やや余韻を残して教室は静かになった。どさくさに紛れて移動していた奴も自分の席へと戻っていく。ちょっと歪だがこれが日常だ。今のイベントで、最低限、藤は学校という日常には帰ってきた。何故俺が生贄にされたのか、その必然性はちょっと解明できないが。
夏也の席に視線を移すと、風もないのに花瓶の花が揺れていた。呼応するように、藤のコケダマの花も小刻みに動いていた。もしかして、夏也がここに来ているのだろうか。確認しようと藤を見たけど、藤は前を向いて微かに笑っているだけだ。なにか決心したような、すごく前向きな微笑だった。さっきの自嘲とは全然違う。
そうか、いちいち見なくても藤にはわかる。俺が知るべきことでもない。思い直して、乗り出しかけた身を引っ込めた。教科書とノートを広げ、大人しく佐伯先生の授業に集中する。横目で夏也の席を見やると、もう花は揺れていなかった。
奈津君か奈津ちゃんか、無事に産まれてきてくれればいい。いや、無事に生まれてくる。最後に藤を守ったように、生まれてくるイトコも夏也が守るはずだ。夏也は家族のために、自分の命を売れるくらいなのだから。
「お前って最高だよ、夏也」
「お前だって最高だよ、詩仁。ありがとう」。俺が小さくぼやいた直後、そんな声が耳に届いた。気がしたのではなく、確かに聞こえた。驚いてまた振り返りそうになったところで自制した。振り返ってもどうせ見えない。三橋に声が聞こえたかと確認しようと閃いたけど、それはやめるべきだと思い直した。実際、今の声がほかの誰かに聞こえていたら、そいつがなにかしらリアクションするはずだ。つまり三橋にも聞こえていない。そう思うことにする。根拠のない直感だけど、コケダマと同じだ。俺がいちいち確認することではない。夏也もそれでいいと思っている。気がする。ここは敢えて顔を合わせないことを選択すべきだと思った。
なにが「ありがとう」だ、バカ。口の中で呟いた。もしかして、夏也は、最後の最後に俺を許しに来てくれたのだろうか。俺と夏也は、やっともとの友達に戻れたのだろうか。
俺を最高と言ってくれた夏也、そんなお前のほうがもっと最高だ。心の中で、夏也にそう語りかけた。なんの返事もなかった。聞こえていないのか。それでも俺は、すぐ隣で夏也の意識を感じられたことで満足できた。
また来世で友達になろう。ついでにそう持ちかけた。そのときはまたよろしく、と小さく返答された気がした。
生と死と友達といろんな概念、自分の興味のある分野を詰め込んで、こんなお話に仕上がりました。
ここまで読んでくださった方に、心から感謝いたします。
ありがとうございました。
では、また近いうちに。
…誤字脱字ほかおかしいところ、なにかあれば、もしよろしければ教えてね。




