第二章 王からくだされるもの (3)
王立学舎は、階段状に広がった巨大な王城庭園の最下層をまるまる占める、エンドラッドとは、また別の都市のようにも思える不思議な場所だった。美しい彫像のような聖騎士らが白銀の鎧を煌めかせ、南西の城門を厳かに守護している。その跳ね橋を渡った先の城壁内は、古の遺跡を思わせる大理石の街並みで埋め尽くされており、時の狭間に迷い込んだかのような、奇妙な胸騒ぎと不安感が過った。
それでも、何層にも高く高く積まれた空中庭園を、上へと順々に目で追って行くと、不意に、ここが王国の美しいものを全て詰め込んだ宝石箱なのだと感じられた。目の覚めるような鮮やかな青色の花で覆い尽くされた、遥か高みの階層は、王城の背後に煌めく大海を。白く美しい岩の切先は、急峻な雲の峰を想起させる。しかしそこへは、最下層からは到達できないよう、たった一筋の階段に、高い門が立ちはだかっている。
(永久に閉じられたターリアの瞳……)
朝日を浴びた王都の姿を初めて目にした瞬間、ラウル家の庭で、ルチーフェロと話している時。つくづく、折に触れて思い出される言葉だった。こんなにも輝かしい場所が、閉じられている、とは一体どういうことなのか。エプィヌは、王城の真の姿を前にして、ふと考えた。
馬車の窓から見た王城は、彩に溢れる街をよそに、白く美しく、静寂そのものだった。こんなに鮮やかなものが目一杯込められているなど、微塵も想像しなかったほどに。ここは、外界から隔てられ、閉じられた庭なのだ。城壁内に入るまでは分からなかったが、今いる庭園の最下層から頂を見上げると、空がほとんど見えず、内側に向かって収束するようにそそり立つ、高い城壁で覆い尽くされていることに気付く。全ての中心点には、王族の暮らす巨大な半球形の建物があり、その立派な円蓋を取り囲んで、さらに塔がそびえ立っていた。その数は十三基だったが、一箇所、不自然に間隔の広く空いた所がある。その空白がどうしても目に付いて、エプィヌは心の中で首を傾げた。
(取り壊してしまったのかしら。あと一基あれば、綺麗な円を描くことができるのに)
塔の残骸と思しき苔むした白い石積を、エプィヌのいる場所からでも、見て取ることができる。それだけが、まるで透明な水晶の中に走る亀裂のようだった。
「エプィヌ」
名を呼ばれて初めて、エプィヌは、考え事をしているうちに、ユディトからずいぶん遅れてしまったことに気が付いた。
「すみません」
「そんなに急がなくても良いのよ」
小走りに間隔を詰めたエプィヌが、石畳の僅かなとっかかりに躓いたのを見て、ユディトは柔らかい声で言った。
まだ朝だというのに、高い城壁が立ち塞がっているおかげで、淡い陽光が真上から差している。白いベールに身を包んだ彼女は、ちょうどその明るみに佇んでおり、まるで、創世神話の女神のドゥリンが、目の前に現れたかのようだった。
「驚いたでしょう」
ぼんやりしたままのエプィヌに、ユディトは穏やかに語りかけた。
「誰もがそう、皆驚くの。広くて、見たことのないものに溢れていて」
「はい」
感情の起伏が少ない博士も、少年の頃、初めてここへ足を踏み入れた時には、そうだったのだろうか……。ユディトが歩くのとは反対の左の傍らに、見慣れたローブの黒い袖がひらめいているような、不思議な感覚があった。緊張と驚異と、それから、時の流れをどこかに置いて来たような街並みが、エプィヌにそのような幻想を見せているのかもしれなかった。
「わたくしがここへ初めて来たのはね……」
僅かに言葉を途切らせ、懐かしそうに目を細めたユディトは、袖で口元を押さえると、少女のように肩をすくめて笑った。
「砂糖菓子の売り子としてだったのよ」
「ーー売り子、ですか?」
エプィヌは、意外さのあまり目を丸くした。ラウル家の女主人ともあろう人物が、小籠を抱え、街角に立って菓子売りをしているところなど、一体誰が思い浮かべられよう。それが、たとえ二十年以上昔の話であったとしても。
「そうよ。ノルドを頼って王都に来て、生活は苦しくて。住んでいた近所の菓子職人に雇ってもらって、なんとか生きていたのよ」
(王都の娘らにとっては、憧れの物語だろうな……)
貧しい出自の菓子売りの娘が、高貴の家の子息に見初められ、王子の乳母にまで上り詰める。そんな話は、百年に一度あるかないかの奇跡のように思われた。
ユディトは、非常に誇り高い女性で、ラウル家をよく守っているが、私欲のようなものを一切感じさせない。とはいえ、エプィヌは彼女に知り合って間もないため、実際のところを知る由もないわけだが、バラクなどに比べて、あまりに自由であっけらかんとしているところが、少し引っかかるような気もする。それが、氏のない出自の、気負いのなさというものなのだろうか。
「今は静かだけれど、昼を過ぎると門が開放されて、学徒の昼餉や夕餉の時刻には賑やかになるの」
彼女の口調には、抑えきれない高揚が見え隠れしていた。商人が屋台を連ねる様子を、道端を指し示しながら説明すると、今度は、城壁に向かってなだらかに上って行く家屋の群を見やる。
「国中から学徒が集まるから、一通り住むに困らないものはここにあるわ。貴族の子息は自邸から通うけれど、中流くらいの職能階層の子らは皆、敷地内の寮に住んでいる。順毎一度の休暇になると、皆決まって、門外に遊びに行くのよ」
そしてユディトは、小さな空を見上げながらぽつりと付け加えた。
「ペリドットも、ここで暮らしていた」
エプィヌは、思わずはっと目を見開いた。博士の存在の痕跡など、残っていようはずがない。しかし、ユディトのその一言は、胸にくすぶる寂しさの残火に、ふっと吐息を吹きかけたようだった。
大通りは荷馬車の轍ですらないに等しく、隅々まで手入れが行き届いた水路には、落ち葉一つとして落ちていない。それが庭師の施す丁寧な仕事の故なのかは分からないが、人が住む気配をまるっきりかき消しているのには違いなかった。だから余計に、エプィヌの胸の奥の風穴を、細く鋭く、妙に冷え冷えとした感情が通り抜けて行くのだ。目の前から居なくなった者が、この異空間の街の中になら、紛れていてもおかしくないような気がして仕方がなかった。
「エプィヌ」
急に背後から名を呼ばれた驚きのあまり、反射的に振り返った割には、その声の主が他でもないルチーフェロであることに気付くのに、しばし時がかかった。
「あなたも、こんなところに来ることがあるのね」
ユディトも呆れ半分、驚き半分といった表情で、深緑のチュニックを風に揺らしている王子を見やった。
「失礼だな、ここは一応、王族の庭でもあるんだぜ」
彼は乾いた笑いを漏らし、それから、エプィヌの方に眼差しを移した。
「なんだ、そんな化け物にでも出会したような顔をして」
「いえ、そんな化け物だなんて……ただ、驚いただけです。ここまで、誰にも会わなかったものですから」
慌てて否定すると、灰色の瞳に、ふと面白がるような色が浮かんだ。
「そうだな、今は一限の講義中だろう。それはそうと、試験の準備はどうだ?」
なるべく触れられたくない話題だが、仕方がない。エプィヌは、ぎこちなく頷いて見せた。
「ーーきっと、おそらくは」
「なんだ、それは」
ルチーフェロは、やや呆気に取られたように言う。みるみる自信が小さくなって行くような気がして、エプィヌは、そんな彼の顔をまともに見ることができなかった。
「通常の基準よりも厳しく評価されると聞き及びました。なので、不安が拭えないのです」
言い訳がましいと思いながらも、無言の時間を作りたくない気持ちが先行していた。たしかに、それも不安要素の一つではあるが、本当は、もっと漠然とした怖さがあって、言葉に昇華させることができなかった。
(女史の前で、こんな弱音は吐きたくなかった……)
自分に期待がかけられているのかどうか、その点はやはり分からない。しかし、見えないからこそ、ついつい必要以上に穿って考えてしまうこともある。鬱々とした思いに辺りが閉ざされかけた、その時だった。
不意に影が落ちて、エプィヌははっと顔を上げた。ルチーフェロの巻毛が揺れ、額に当たるほどに近く、彼の陶器人形のような顔があった。膝をかがめ、幼子にそうするように、こちらを覗き込んで言う。
「心配するだけ損だぜ。それに、あんたは、天才だという博士の秘蔵っ子だろう?」
どこかで太く大きな鐘の音が激しく鳴り響いた。エプィヌは、心ノ臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われ、反射的に身をすくませた。ルチーフェロの声は、低く柔らかだったが、全てを覆い尽くす夜の手に目隠しをされるような不穏さもあり、身を委ね切ることはできなかった。
(ーーこの人の目こそ、閉じられた瞳だと思うのは、どうしてだろう)
「ルチーフェロ、あまりこの子を怖がらせないでね」
二人を引き離すように、ユディトはそっとエプィヌの肩に手を置いた。
「ほら、講義が終わった合図だわ」
触れられた場所から徐々に、様々な感覚が戻って来た。
鐘の音がする方をようやく振り仰ぐと、緩やかに丘を巻いて坂を登った先に、荘厳な佇まいの鐘楼が見える。すぐ近くに何棟かの大きな建物が肩を並べており、エプィヌは、そこが目指す場所なのだろうと推測した。
「試験は午後か」
「はい」
ユディトに嗜められたルチーフェロは、ややつまらなさそうな表情をしている。顔を離し、いつもの目線からこちらを見遣る彼は、少しばかり冷徹にも感じられた。
「そうか」
聞いておきながら、さっさと歩き始めたルチーフェロの背に、ユディトは思い出したように問いかけた。
「あなたはどこへ?」
「仕事だよ、仕事」
彼は手をひらひらさせてながらそう言った。
その背中を見送りながら、エプィヌは、ラーギニールの水風琴の研究について、ルチーフェロが厳しく目を光らせているような印象を受けたことを思い出した。学舎まで足を運ぶとは、治安維持を司る立場として看過できない相当な何かが、そこにはあるのだろうか。
「あ、そうそう」
ルチーフェロは、ひらりと肩布を翻して振り返った。
「父君が、そろそろ夏に向けて庭の世話を頼みたいそうだ」
エプィヌははっとして、傍のユディトを見つめた。この奇跡のような庭園を手掛けているのは、他でもない彼女なのだ。
「分かったわ」
ユディトは簡潔に答えると、こちらを見遣り、先を促した。
「ーーユディトさま、王宮庭園のお世話係をされているのですね」
ためらいながらも、エプィヌは好奇心に負けて口を開いた。
「そう、あくまでも草木や花々の手入れだけなのだけれどね」
ユディトは、ずれかけたベールを、艶やかな髪に掛け直しながら答えた。
ーー水や空気を、人の手を介さず自在に操るには、まず、この庭にもっと高低差が必要なんだ……。
「上層から流れる水が、植物たちを綺麗に保っているのだとお見受けしますが、そのような整備は、また別の方が司っておられるのでしょうか」
理想は全てを循環させることだと語ったラーギニールの横顔を、目の前の女人に重ね合わせながら、エプィヌは手探りをするように、なおも問うた。
「いいえ」
ユディトの青い瞳が、真っ直ぐにエプィヌに向けられた。
「城内の水道は完全なる永久機関。ターリア王国以前から故障など一度もなかったし、これから先にも起こらない。それに、この特殊な構造をはっきりと知る者はないのよ」
彼女は、優しい調子を保ちながらも、有無を言わさない芯の強さを隠さなかった。
(そうか……)
エプィヌは、不意に悟った。
(殿下はわざと、ユディトさまに庭園のお話をしたのだ)
学門は全て、国王から許されて分け与えられるもの。その謎に包まれた真意を、ルチーフェロは、エプィヌ自らに見出させようと導いているようにも思える。
(博士が望んでいたことは……女史が示してくれる道と同じ?)
目の前にちらつく疑問の尾っぽを追うべきなのか、どのように捕まえるべきか、エプィヌにはまだ、脇目も振らずに駆け出すだけの確証がなかった。考えれば考えるほど、そのものの中心点からどんどん逸れていくような気がしてならない。
「ーーこの世にある以上、永遠などというものがあり得るのでしょうか。今まで起こらなかったことだって、今日、明日起こるかもしれない。その時は、どうなるのでしょう?」
このようなことを尋ねて何になろう。口をついて出て来るのは、解決の糸口になど、掠りもしないような戯言ばかりだった。それでもエプィヌは、自らの中に生じつつある何かを確信に変えようと試み続けた。
「本当に、誰もそのことに疑問を持たないのでしょうか。もし、この空中庭園もまた、雲の峰の向こうからやって来た、王女と十四人の魔法使いの知恵によって造られたものだとしたら……」
「十四人の?」
呟きを漏らしたユディトだったが、間髪を入れずに言葉を継いだ。
「ーーそう、ペリドットは十四と言っていたわね」
エプィヌは、魔法使いの名を王都で語るのは良くないとルチーフェロに指摘されたことを思い出し、唇を引き結んだ。
しかし、今はそんなことは問題ではないのだと、彼女は首を振った。
「永遠とは、そのように維持され、将来に渡って護られるべきもの。王政の根幹とも言える概念よ、これは」
その瞬間、額の辺りがひやりとして、鼓動が早鐘のように打った。ーー王政の根幹という言葉は、あまりにも重い。これ以上は禁足地なのだ。故に、不信感が募る。
(誰もが、何かを見ないふり、考えないふりをして回っていくものって……それが数百年続くことって……)
本当に有り得るのだろうか。エプィヌには、にわかに信じ難かった。ユディトですら、何かを自覚していながら、盲目であろうとしている。博士はどうだっただろう。
(ラーギニールさまは?)
水風琴の研究を通じて生み出されるものが、何かに抵触することを知りつつ、それでも純粋に夢を見ているだけと言えるのだろうか。そう考えると、ルチーフェロがしつこく目を光らせている意味が分かる。
ーーその人は本当に、あんたを歴史学者にしたかったのかな。
ーー少なくとも、今のあんたは自由だよ。周りに流されてないで、好きなことをすればいいし、あんたが育て親と同じ道を歩むなら、それも自由だ。
肯定しているのか否定しているのか分からないルチーフェロの言が、頭の中で繰り返し反響する。
(博士は……)
エプィヌは、ぎゅっと目をつぶった。
(多くを語らない人だった。あまりにも、語らない人だった。教えてくれたことはほんの一部で、わたしは、生みの親を知らぬ雛鳥よりももっと物を知らない)
顔を伏せたエプィヌを見て、ユディトは、ささやくように言った。
「これは、とても難しいことだと思うわ。ただ、あなたにならきっと、その意味が分かる日が来るでしょう。わたくしが、ここであなたに学んでほしいことは、そういうことでもあるのよ。分かるわね」
雲が動いて日が陰り、鐘の音もすでに遠くなった。ルチーフェロはいつの間にか、その背が小さく見えるほど先へと至っており、ここには、ただ二人が向かい合って立っているばかりだった。
「今言ったことは、これで最後。胸に秘めておきなさい。わたくしの預かり知らぬことです。ーーこの国の王子が、わたくしの口に言わせたことです」