第六章 死に臨む蟷螂 (4)
少女が立つ鏡台の前には、金糸で刺繍を施された履物が並び、背後の窓から差し込む陽光が、金箔の縁取りを淡く照らしていた。
「レィダヤさまって、とっても硬派で良い方だわ」
リィリィアーナは、壁一面に並ぶ衣桁から取った桃色のブリオーに袖を通し、くるりと回りながら言う。今夜の大切な用事に着て行くための衣装選びに、エプィヌもまた、駆り出されているのだ。といっても、リィリィアーナが、どう? と聞いてくるのに、感想を述べるだけの係だ。
ここは、まるで衣装部屋そのものだった。──というより、おそらく、本来はその用途だった一室を、この少女のために改装したのだろう。普通なら居住空間にはない位置に柱が立ち並んでおり、その間ごとに竿のようなものが渡されている。そこには、色とりどりの布地や宝飾が無数に飾られており、部屋の反対側の様子が隠れて見えないくらいだった。さらに、床には厚い絨毯が敷かれ、薔薇と百合の香りを染み込ませた香油がほのかに漂っている。そのおかげで、立派な特注の部屋のように仕上がっていた。
リィリィアーナが衣装を選んでいる間、エポナは、それに合う耳飾りやら宝石の類を見繕って、鏡台の上にせっせと並べている。──ちなみに、彼女が、こちらにちらちらと送ってくる視線には、なぜここにあなたがいるの? という邪魔者への抗議が含まれているのを、エプィヌは痛いほど察していた。
そんな無言の攻防などいざ知らず、リィリィアーナは、相変わらず華やいだ声で言った。
「今日は新月でしょ、こういう日を選ぶのは“月を愛でることができないので、あなたを遅くまで引き留めたりしませんよ”っていう誠実の証なのよ」
同意を求められ、エプィヌは曖昧に微笑んだ。
「貴族の風習は奥が深いです」
──けれど、と思う。
(……逆に言えば、“月の代わりにあなたを朝まで愛でる”とも取れないかしら)
瞬間、頬の奥が熱を帯び、レィダヤに限ってそんなはずはないと、慌てて心中でかき消した。どこかの誰かの影響で、自分がかなり不純になってしまったような気がする。
鏡の前で髪を梳きはじめたリィリィアーナは、そんなエプィヌを振り返り、不思議そうに目を瞬かせた。だが、すぐに悪戯っ子のような笑みを浮かべ、あなたもそのうち覚えるわよ、と片目を瞑ってみせる。
レィダヤはエプィヌの助言通り、例の舟遊びにはリィリィアーナ一人だけを誘った。
(それも、新月の日を選んで……)
胸がとくんと音を立てる。
この逢瀬が終われば、正式にソベク家からラウル家に婚姻の申し入れがあるに違いない。
喜びの最高潮を迎えようとする彼女は、以前に増してみずみずしい輝きに満ちて見える。しかし──その笑顔が涙に濡れるだろうことを、エプィヌは知っていた。彼女は怒り、そして、自分を生涯許さないだろうとも。
博士の研究を最優先に動く決断は、必ずしも、ユディトの厚意を踏みにじるだけの仕打ちだとは思わない。学者とはそういうものだとすら、場合によっては言うだろう。しかし、ラウル家の当主名代としての彼女の目には、どう映るのか……。
(ここに戻れないことは承知の上でしょ?)
エプィヌは、ローブの胸元をぎゅっと握った。
自分のこの選択が、何を招くのかは、想像が及ばずとても恐ろしいのだ。──ロヴァル王自身、子らに裁かれることを願っている以上、ユディトやラーギニールに危険は生じまい。それでも、他の貴族がラウル家を革命派と見做すのは問題だった。
「ねぇ……エプィヌ」
考え込んでいたエプィヌは、リィリィアーナに呼びかけられ、はっと顔を上げた。
「もう、何回も呼んだんだからね?」
「すみません……色々と考えてしまって」
エプィヌは肩をすくめた。
「リィリィアーナさまがお嫁に行くとなれば、エポナは、さぞや大騒ぎするだろうなぁとか……」
鏡台の傍で、名を出された少女は、ぴくりと肩を上げた。
「いやあね」
その様子を目にした彼女は、愉快そうに笑いながら椅子に腰掛けると、思い出したかのように言った。
「──そうそう、エポナ。あたくし、エプィヌと大切な話があるの」
エプィヌが驚いた横で、針子の少女は、残念そうに息を吐く。
「かしこまりました……お嬢さま。それでは、退出いたします」
「そんなに気を落とさないでちょうだいよ」
しかし、主人の慰めは、エポナにはちっとも響かないようだった。
部屋を辞す少女を見送ったリィリィアーナは、それから、軽やかな布が幾重にも層になった薄桃の裾の中にすっぽり包まれながら、なぜか拗ねたように頬杖を突いた。
エプィヌは、その含みのある視線を、ややたじろぎながらも受け止めていたが、ついに誤魔化しそうになった時、リィリィアーナは、ふと真面目な顔になった。
「──ねえ、ラギをどう思ってる?」
あまりに唐突に話題が変わったので、エプィヌは言葉を失ったまま、しばらく、自分の呼吸音ばかりを聞いていた。
(リィリィアーナさまは、なぜ、そんなことを聞くの?)
王子との仲だって、常々、見て見ぬふりをしているだけで知っているだろうに。
この、恋や愛というものを信じている天真爛漫な少女が、自分をどう見ているのか、エプィヌは、ふいに彼女の評価を恐れた。
「……養女の身のわたしがこんなことを言うのは失礼ですが、弟がいたらこんな感じかと」
かなり言葉を選んだつもりだ。それを聞いたリィリィアーナは、残念がるように首を振った。
「分かるわよ、ラギはあたくしたちよりも三つも歳下だし、子供っぽいなぁって思うことも多いし」
それから、視線を巡らせて、薄布の帷が降りた窓の方を眺める。
「でも、天下のラウル家の跡取りで、贔屓目だけど顔だって綺麗だし、頭も良いし……何より、あなたを誰より大切にするわ」
「──リィリィアーナさま?」
突然、おかしな風の吹き回しになってしまったようで、エプィヌは、わけも分からずに焦った。
相手の動揺を察してか、少女の目には、やや反省の色が浮かんだ。
「──まあ、文句のつけどころなら、色々思いつくかもしれないけれど」
肩をすくめてから、リィリィアーナは続ける。
「あの子は今まで、誰にも興味を持たなかったわ。でも、エプィヌにはそうじゃないの。見てて分かるのよ、生まれた時からずっと知ってる、可愛い従兄弟なんだもの」
(どうして……)
エプィヌは頭を抱えたいのをなんとか耐え、僅かに俯いた。
(ラズワルドも、リィリィアーナさまも……どうして、今の今になって、そういうことを言うの)
二人の言うことに、思い当たる節が全くないわけではなかった。あの少年の言動のどこかに、いつだって、何かしら特別なものを向けられる感覚があったことを、エプィヌは、敢えて見ないようにしてきたのだ。
(──それは、わたしは、建前上は殿下のものだし、それに……)
それに、なんだというのだろう。困ったことに、他の理由は、全く思い浮かばなかった。
(あの人は、そうするのが正解だと思うから、手を差し伸べてくるだけ。心でどう思っているかなんて、関係ない……己の心すら、分かっていない)
しかし、そんなことを、リィリィアーナに言うわけにはいかなかった。
相手が黙ったままでいるのを、彼女は、何かを案ずるような表情で見遣った。
「あの子から離れようなんて思わないで。ラギは、伯父さまや伯母さまの才を受け継いで、政の感覚には優れているけれど、きっと、あなた一人のために、極端な舵を切ることができてしまうの。それが欠点なの」
エプィヌははっと顔を上げ、それから、喉の奥につっかえた言葉を絞り出した。
「──リィリィアーナさま、見てきたかのようなことを」
「見てきたわ」
間髪を容れず、彼女は言い切った。
「だって、あの子があたくしに言ったのよ。──エプィヌがこれからどんな道に踏み出すか、ラウル家が何に巻き込まれるか、その時、ラギはどうするつもりか。あの子は、レィダヤさまと幸せになりたいっていうあたくしの思いを汲んで、その上で、エプィヌがすることを恨むなと言ったの」
「そんな……」
あの夜だ。王子が逢いに来た夜、ラーギニールは、彼に何かを告げられたと言っていた。
(ラーギニールさまは、殿下の言葉を受けて、次期当主として、ラウル家の方向性を決めたんだわ……ユディトさまに相談もなく、決定として、リィリィアーナさまに話した)
エプィヌは両手を揉み絞り、足元から這い上ってくる震えを、なんとか抑えようと試みた。
「──では、わたしが今夜、何をするかもご存知で?」
「ええ」
エプィヌは、リィリィアーナがユディトの姪であることを思い知る機会が来るなどと、今までちらとも思っていなかった。──この調子だと、彼女は将来、ソベク家の魔女になるかもしれない。愛くるしい笑顔で人を惹きつけ、それでいて冷静で、現実を刃のように突き付けてくる……。
リィリィアーナは、ゆっくりと瞬きをした。
「あたくしの結婚に、全くに不利益が生じないということはあり得ない。けれど、ラウル家が中立であることで、得難い立場に収まることもできる。ラギは、そのぎりぎりを綱渡りするつもりだわ」
(そうか──)
王子はきっと、ラーギニールに、中立であれと命じたのだ。
(これから起きることに、ラーギニールさまは手を出してはならない。それは、たぶん……)
エプィヌはぎゅっと目を閉じた。瞼も裏が燃えそうなほど熱く、鼻の奥から、何か大きな波のような衝動が押し寄せてくる。
(殿下は、いずれ、わたしを手放すつもりなんだわ……)
ふいに、衣擦れの音とともに、柔らかな腕がエプィヌを抱き締めた。絹の袖口が頬に触れ、温かさが伝わる。
リィリィアーナは、エプィヌの肩に顎を載せながら、そっと背中を撫でた。その手の優しい感覚は、鳩尾の深いところに押し込めていた衝動を、意に反して目覚めさせるようだった。
気付けば、視界が滲んでいた。
鏡台に掛けられた桃色の衣装の金糸が、涙に溶けて霞む。光を反射してきらきらと揺れるそれは、まるで水面に投げ込まれた星のようで、余計に胸を締めつけた。
香油の香りが、今は、強過ぎるほどに鼻を刺し、どうしようもなく苦しかった。
足元の絨毯の、編み込まれた葡萄の蔓がゆらりと波打って見え、世界そのものが形を保てず崩れていく。
嗚咽を堪えるたび、喉が焼ける。心の奥から、どうして、という言葉が零れ落ちそうになり、エプィヌは唇を噛んだ。
──けれど、次の瞬間、頬を伝う熱い滴が、もう止めようもなく溢れ出していた。
「……エプィヌは、殿下を好きだったのね。それから、ラギのことも、ずっと分かってたんだわ、きっと」
彼女のくぐもった声が、耳元で震える。衣装の甘い香りが鼻をかすめ、抱きしめる腕の力が一層強くなった。
「だから、あたくし、諦めないんだからね。それで、あたくしは、レィダヤさまと結婚する。それから、あなたにも、この家にいてもらう。ずっとね……!」
「しかし、それは……」
エプィヌが反論しようとするのを、彼女は強く首を振って制した。その瞳は涙に濡れてなお、驚くほどまっすぐで、揺るぎなかった。
「それでもよ、エプィヌ。あたくしもラギも、あなたを失わないわ。……何があっても」
はっと目を開けた時、涙はすでに乾いていた。替えの衣や資料を包んだだけの小さな荷を枕にして、突っ伏しているうちに、いつしか眠っていたのだろう。頬の辺りにちくりと痛みを覚えて手をやると、ローブの皺がくっきりと跡を残していた。
世界がひどく静まり返っているように思え、エプィヌは身じろぎをせずにいたが、やがて、椅子を押して立ち上がった。寝起きの伸びもしないまま、ゆっくりと部屋の隅々に目を走らせる。
(何のことはないわ……)
いつもと変わらない、ただの穏やかな景色だ。
息を吐くと、大波のように押し寄せていた様々の感情が、きちんと収まるべきところに収まったのだと分かった。
(──大丈夫)
エプィヌは、暖炉の上のラウル家の家紋に目を据え、拳を握った。
(わたしは、やれるわ)
何事もないようにリィリィアーナを見送れるし、夕餉の席でも、普段通りにふるまえるだろう。誰にも怪しまれることなく、夜を迎えるのだ。
その時、ためらうように扉を叩く音がした。
「はい」
返した声は、思いのほか落ち着いていた。そのことに胸を撫で下ろしながら、エプィヌは取手に手をかけた。
しかし、扉を開いた先には、相手の姿が見えない。それだけで、誰が尋ねてきたのかを悟るのに十分だった。
「──ラーギニールさま」
部屋から出ないまま声をかける。扉の影から、黒い巻毛がちらちらと覗いていた。
「──そろそろ、リィリィアが行くけど」
エプィヌは指先で頬を軽く持ち上げてから、ゆっくり部屋を出た。
「ええ、お見送りをしないといけませんね」
ラーギニールはこちらを見ると、ほんの少し目を丸くした。
嘘をつけない人だなと思う。彼は、昼餉に顔を出さなかったことを気にかけて来てくれたに違いないのに、その相手が思いがけず笑っていたので、何と言葉をかければ良いのか分からずにいるのだ。全く気が利く人ではない。その当然のことが、今のエプィヌには、とても重要なことだった。
二人は言葉少なに歩き出した。庭には薔薇と百合、薄紫の小花が咲き満ち、ほの甘い芳香を漂わせている。盛夏の湿りを帯びた大気はその香を包み、欄干を柔らかに撫でていた。
ラーギニールの足取りはゆったりとして、あえて、こちらが追いつくのを待っているかのようだった。エプィヌは、胸のざわめきを押さえながら、歩幅をゆるやかに合わせた。
回廊を抜け、花壇を過ぎてポーチに出ると、淡い色に染まり始めた空を背に、馬車が一台、すでに待っていた。
ユディトとノルド、それから父母が見守る中、リィリィアーナは、薄桃の裾をそっと揺らしながらその前に立っている。
仕上げとばかりに、エポナが、彼女の豊かな髪に、小さな白百合をそっと挿すのが見えた。
「ありがとう、エポナ」
微笑みを浮かべて振り返ったリィリィアーナは、ちょうどこちらに気付いたらしい。
「あら、ラギにエプィヌ、見送りに来てくれたのね」
少女は朗らかに微笑むと、ゆっくりと駆け寄り、嬉しそうに両手を広げた。
「ねえ、行ってらっしゃいって言って抱きしめてちょうだい」
そんなことを言っていると、すっかり、祝福を受ける花嫁のように見える。
エプィヌは、喉の奥に、つい熱いものがこみ上げるのを必死で堪えた。平静を保たなければならない。これが、彼女の優しさ──今夜、自分が旅立つことを責めずに見送る誓いなのだと分かっているからだ。けれど、彼女の願ってくれるその道が、自分には許されないことも、同じく理解していた。
風に乗って漂う白百合の清らかな香りが、そっと鼻をくすぐる。
「……行ってらっしゃいませ、リィリィアーナさま」
声には僅かに震えが混じったが、丁寧に、そして、笑みを添えて告げることができた。リィリィアーナは軽く頷き、柔らかく体を引いた。
「ラギ」
それから彼女は、従兄弟の方へ眼差しを向けた。
「……うん」
二人の間に、言葉は一切交わされなかったが、互いに、何らかの確信を得たようだった。
満足そうに微笑む少女を前に、乳母のレイロはそっと目を潤ませ、エポナはこらえきれずに肩を震わせた。
「いやだわ、わたくしまで、なぜか……」
スィエネが目元を拭うと、リィリィアーナは弱ったように眉を下げた。
「お母さま、あたくし、ものの数時間で帰ってくるわよ」
その様子を、ユディトは、傍らで静かに見守っていたが、おもむろに口を開いた。
「あなたの行く道に、幸せが実ることを願っているわ」
リィリィアーナはその言葉を受け、ふわりと花がほころぶように笑った。
扉が開き、彼女はためらいなく馬車に乗り込む。それから、座を整えると、窓から身をのり出し、こちらに片目を瞑って見せた。
エプィヌは腕を下ろしたまま、ただ立ち尽くすしかできなかった。手を振る幸せな少女の、小さな仕草一つ一つが、胸の奥を鈍く軋ませるのだ。
車輪が石畳をかすかに鳴らし、馬車はゆるやかに進んでいく。その後ろ姿が見えなくなるまで、エプィヌは一歩も動けなかった。
「さてさて……」
女主人の歌うような掠れ声が、エプィヌを現実に引き戻した。
低い梁を潜るように首をすくめてベールを肩に落とすと、ユディトは、風の匂いを嗅ぐようにしてから、ふっと微笑みを漏らす。
「リィリィアもお茶をしに行ったことだし、わたくしたちも、どう?」
あまりに突然の提案だった。それを、彼女は、少女のような無邪気ささえ湛えて言うのだ。
視界の端に黒い巻毛がちらと動くのが映り、反射的にラーギニールと顔を見合わせる。しかし、その刹那、間の悪いことに、エプィヌは、先ほどまでの絶妙な気まずさを思い出してしまった。
「──珍しいですね」
しばらく黙した後、少年は無感情に感想を口にした。母の意図をどう汲むか、迷っているようにも見える。二人で打ち合わせる前に、エプィヌが視線を外したものだから、色々と宙ぶらりんのまま、とりあえず静寂を払ったという感じだった。
「あら、そう?」
ユディトは、訝しむ息子のことなど、全く意に介さない。それどころか、呼吸に少し鼻歌を混ぜながら、花壇の白百合に手を伸ばした。細い指先がその花弁を少し撫で、瑠璃色の瞳は、何か思案するように、ゆっくりと瞬きを繰り返す。
(──リィリィアーナさまのことでお喜びなのかしら)
エプィヌは一瞬そう考えたが、すぐに打ち消した。
地の底から滲むような迫力を醸す時もあれば、今のように、小鳥がさえずるくらいの軽やかさで物事を運ぶこともある。──ユディトの多様な表情は、いつだって何らかの真意を取り繕っているようであり、しかし、そう深い意味などないかもしれないと思い直させるような、不思議な具合で展開されるからだ。結局は、穿って考えるのも、その言葉から、言外の意図を推し量ろうとするのも、努力するだけ無駄なのだ。彼女を上回る想定など、誰にもできやしない。それは、ラーギニールにも、王子にも言えることで、改めて認識するまでもない、全ての前提だったはずだ。
それを思い出すと、ぴりりと肌が強張った。
ラーギニールが乗り気でないのを見て、ユディトは誘い方を変えることにしたようだった。
彼女朗らかに、エプィヌを手招きをした。
「ラギの気が進まなくても、良いわよね?」
そうまでされては、ついていくより他に選択肢がない。
「ラーギニールさま……」
エプィヌは小声で少年に訴えかけた。
「うん」
何に対する返事なのかは分からないが、ラーギニールはごく短く頷くと、顎の辺りを触りながら呟いた。
「そりゃあ、魔窟に一人で招かれるなんて、誰だって腰が引けるだろうからね」
「あら、この子は、失礼なことを言うじゃないの」
笑えない冗談の応酬に、もはや肩をすくめてるしかない。ユディトに促されるまま後に続き、エプィヌは、二人に気取られぬように、こっそりと身振るいをした。
書斎の扉をくぐった瞬間、きっちりと仕切られた静けさが、肌に密着するようにまとわりついた。淡い光と花の香が満ちているのに、どこか、空気の流れまで計算されているような息苦しさがある。卓上には、切り花を乾かして作られた小瓶がいくつも置かれ、少しの乱れもなく等間隔に並んでいた。その一角だけが、陽だまりのように見えた。
ユディトは二人に椅子を勧めると、その中の一つから慎重に花弁を摘み取り、茶器へと落とした。
湯が注がれると、淡い金の色が広がり、花弁が静かに浮かび上がる。
「庭で咲いたものよ。香りが少し強いけれど、疲れにはよく効くの」
彼女は三つの茶杯を並べ、まずエプィヌへ、次にラーギニールへと手ずから差し出した。
受け取った茶は、ほのかに甘く、舌に触れた瞬間に、かすかな苦みを残した。
(これ……)
「──珠芙蓉ですか?」
「ええ、なかなか良いでしょう?」
エプィヌは頷くふりをして、茶杯の中に視線を落とした。
(やっぱり……)
否、考え過ぎかとも思う。しかし、一度もたげた疑念は、全く晴れてはくれなかった。陽だまりのように見えていた小瓶の列が、今は、標本を並べた棚のように見える。
珠芙蓉はの香りは、それだけでは強く残らない。竜ノ光彩という小さな赤い果実と一緒に煮立てることで、より芳醇で独特な香りを放つようになる。譲り受けた部屋の書架には、ユディトが使用していた植物の書籍がたくさんあって、その中に、薬や茶の効能に詳しいものも紛れていたのだ。
(──子ができないように)
水差しの匂いの正体は、おそらく竜ノ光彩だろうとは思っていた。ユディトがそうさせているのだとも。
(そのおかげで、気付かれずにすんだ……)
ルチーフェロの面差しが、薄い金色の底にふっと浮かんで見えた。彼はユディトを警戒していたけれど、本当に疑うべき人間が誰なのか、その勘定に、エプィヌを入れなかった。
茶杯を持つ手が、ごく僅かに揺れた。熱い香りが鼻をくすぐり、胸の奥で呼吸がひどく浅くなる。
「──わたし、この香り、好きです」
「そう、良かったわ」
ユディトは満足げに微笑むと、口元に掲げていた茶杯を、すっと膝の上に下げた。
「それでね」
声色は穏やかなままだ。しかし、天地がぐらっと逆転して、昼夜が一気に巡り、辺りの気温が下がったような気がした。
「……リィリィアのことよ、あなたたちに、きちんと方針を伝えておきたいと思っていたの」
「何?」
ラーギニールは頬を膨らませ、湯気を吹き散らしながら問う。エプィヌが緊張している横で、今行われている会話は、全くもって重要ではないと、なぜか、そう決めてかかっているように見えた。
そんな息子には構うことなく、ユディトは続けた。
「ソベク家とは正式に話を進めます。オドラムは日和見──風読みの上手い男。その息なら、上手くこれからの時代を渡っていくでしょう。それに、長いものに上手く巻かれる術は、ラウル家にはないものだわ。目立たないことを、わたしはむしろ評価しているの。監政官として、決して強欲にならず、粛々と血を繋いでいくやり方を」
レィダヤの父は、ロヴァルを王に戴く決断を誰もが尻込みした時、監政官が永遠に寄生虫でいる決断をした。そのことを教えてくれたのは、ラーギニールだった。冷めた目をして、そういうやり方を好まないと滲ませながら。
(女史は、ラーギニールさまに釘を刺している)
エプィヌは、目の端に少年の横顔を捉えた。相変わらず、熱い茶を冷まそうと息を吹きかけている。湯気の向こうにちらと覗く目は、あの時のように呆れた眼差しではなかった。
(ラーギニールさま、もしかして、楽しんでる……)
彼の黒々とした瞳は、何かに刺激されて爛々として見える時、虹彩の奥の方の瑠璃色が、思わずはっと息を呑むほど浮かんでくる。
「長いものに巻かれる……そんな気配があるというの?」
足を組みながら、ラーギニールは母を見据えた。しかし、ユディトはあえてそうするかのように茶をすすり、それから、顔を上げた。
「いいわね、ナタンの手腕に期待しましょう。愛娘を悪いようにはしない男よ」
エプィヌは、茶杯を持つ指先に、僅かに力を込めた。胸の奥で、何かがざらりと音を立てた。けれど、それは罪悪感なのか、ユディトの決定に泥を塗ることへの恐怖なのか、見分けが付かない。
「ラーギニール、エプィヌ」
名を呼ばれ、エプィヌは震えつつ姿勢を正した。
「学徒の間は、勉学に専念することよ。こういう政には、後々、嫌ほど関わるんだから」
「分かってるよ」
ね、とラーギニールに同意を求められ、返事をしようとしたものの、喉が詰まり、エプィヌは言葉を失ったようになってしまった。小さく頷いただけだったが、それで十分だったのだろう。ユディトは、柔らかな微笑を浮かべて窓の方を見た。
「ありがとう──この花は、もう摘み時を過ぎるところだったの」
彼女の指先が、静かに茶杯の縁をなぞり、茶杯に浮かぶ花弁をそっと沈める。それはまるで、何かを封じ込める仕草のように見えた。




