第六章 死に臨む蟷螂 (3)
重く軋む扉を開けると、埃の匂いと、燭台に点るほのかな灯の匂いが鼻を掠めた。薄暗く静かな空間には、本を繰る微かな音が響いている。ラズワルドはいつも通り、王宮書庫の番兵らしく扉の傍の受付台に座し、新たな書籍に目を通していた。
彼が顔を上げると、燭の灯が、瑠璃色の瞳を淡く揺らした。
「──来たんですね」
そう口走り、何かを言いかけたものの、なぜか、少年は、続きを飲み込んだ。気まずそうに肩をすくめ、本の表紙を閉じる。
「ええ、来たわ」
エプィヌも、普段通りとはいかなかった。
二人の間に流れているのは、不信から生じる沈黙だった。──ラズワルドは、すでに、エーフロシュネが何をエプィヌに持ちかけたのかを知っているのだろう。そのおかげで、少女は自分を信じられなくなったはずだと察していて、これから告げられることに対して、何らかの覚悟を決めているように見えた。
エプィヌは扉を背にして立ち、ラズワルドに正面から向き合おうと、強く念じながら顔を上げた。
「わたしがここへ来た理由は、あなたには分かっていると思う」
言いながら、なんだか鼻の奥がつんとして、エプィヌは焦った。──最初から、互いに利のあるように手を組んだ仲だったというのに。知識という、目に見えないもの……未知で、尊くて、でも、書き換えの効いてしまうもの……そんな、人の手に余る強力な存在を前にして。
泣くなんて、覚悟が甘い。辛いことなど、何もないはずだ。ラズワルドがこちらに向ける瞳は、いつも底が見えなくて、遥か遠いところを映していて、自分の姿など、そこには浮かんでいないというのに。
(──だから、同じものを見たいと)
エプィヌは、切なさの理由に、唐突に気が付いた。ラズワルドは博士に似ているからだ。
エプィヌは、深く息を吸った。
「わたしは、わたしが歴史ノ賢人として、自分がやるべきことを見定めたの」
「──兄の企てを、受けるんですね」
無感情のようでいて、どこか相手を憐れむ風もある、そんな曖昧な声色だ。
「そうよ」
言葉を切り、エプィヌは一歩、彼の方へ踏み出した。
「博士の研究の所有権はわたしに、それが条件よ。エーフロシュネさんの言うことを全部飲んだわけじゃないし、流されたわけでもない。殿下のことと同じに、どうするのが研究のため、学問のために一番かを、総合的に判断しただけ」
「そう、ですか……」
ラズワルドは視線を外し、机の上に置かれた書物の背表紙に触れる。
しばらくの沈黙が、闇の色を濃くする。燭台の灯が揺れ、紙と埃の匂いが、思い出したかのように、また鼻を掠めた。
ラズワルドはようやく口を開いた。
「──君は、本当に、稀有なほど真っ直ぐな人ですね。ぼくは、一族のしがらみから抜け出せなくて、父や兄の傀儡としてしか生きられない」
その声は、恐ろしく淡々としている。──少なくとも、今のエプィヌにはそう聞こえた。
“傀儡”という言葉は、想像以上に深く、胸を突き刺していた。ラズワルドに意思がないはずはない。やっていることの意味を分からないわけはない。それは、操られているのとは違うはずで、でも、従うより他に、生き方を知らないということだ。
(それは、辛いんじゃないかしら)
その思いが通じたわけではないだろうが、ラズワルドは、ほんの少し頬を緩めると、呟くように呼びかけた。
「エプィヌ」
教師が学徒に問答を仕掛ける時のように、卓の上で指を組み、ゆっくりと続ける。
「君は、自由に生きるって、どういうことだと思いますか?」
急に、何を言うのだろう。そう思ったが、目を瞬かせる前に、ほとんど即答した。
「──信じる未来のために、今を選ぶこと」
「君らしい答えですね」
ラズワルドはふっと眉を下げ、短く笑った。
「でも、ぼくには、分からないのです。どうしても」
彼はゆっくりと立ち上がり、燭の灯りのもとに歩み出た。黒髪が揺れ、光が、その瞳に深い瑠璃の色を宿す。
「ぼくはそういう概念を知らずに生きてきたし、王宮司書という務めも、人智の自由を制限するもので……しかし、ぼく自身が楔になるのなら、他の誰も知らないことを、この手で解放できる。その匙加減は自由だと言える」
「だったら、つまり……」
はっと顔を上げたエプィヌは、両手で胸を押さえた。
「あなたが王宮司書として、わたしに手を貸すのは、自分の知識欲とか……存在証明とか、そういうものに抗えないからよね? 過去の誰よりも、深く、深く……知の海を潜りたいからだって、わたし、そう信じていたわ」
言葉が切れると、ラズワルドが頷くのを待った。しかし、少年は寂しそうに微笑むだけだった。
「そんなに、崇高なものではありませんよ」
皮肉のような口振りだ。彼の眼差しは、書庫の奥へと続く、闇のような通路に吸い込まれていった。
「これは、ただの、傀儡なりの叛逆です。支配することでしか、自由というものは得られないからです」
まるで誰かに許しを乞うような、それでいて、自分自身に言い聞かせるような、そんな声色だった。
「だから、王宮司書に、なったっていうの?」
問いかけに応じて、ラズワルドはゆっくりと頷いた。
「ターリア王国の至宝──権力の源を掌握する、管理する、という役目を、父と兄から期待されたのは確かです。選抜に合格した十の歳まで、ぼくは、学ぶことに何の疑問も抵抗もなかった。──それが当然だったからです」
彼の指先が卓の縁をなぞる。自分の過去に関わることを語るときの彼は、いつもそんな風だった。別の何かに触れていようとするのは、手持ち無沙汰だからではない。きっと、感情を切り離すためだ。
その姿を、エプィヌは黙って見つめた。彼の語る“当然”という言葉に、自分とはまるで異なる重さがあることを知っている。しかし、理解し切れるものではなかった。なぜ、足枷を外そうともがかないのか……それは、幸福な疑問なのだろう。彼の世界では、父や兄という絶対の存在が、命を脅かすものなのかもしれない。博士という温かな手に拾い上げられ、育てられた自分には、ラズワルドの身の上を勝手に憐れむことすら憚られる。
(それでも……)
エプィヌは、胸の内の言葉にできない思いが、なんとか彼に伝わることを願った。
燭の灯が、二人の間に横たわる闇の余白に、微かに揺れている。まるで呼吸のようなその明滅に、ラズワルドの瞳の色が、かすかに変わった気がした。
──その一瞬、彼の中で何かが揺れた。
そして、彼はぽつりと続きを口にした。
「師が息を引き取る時……打ち明けました。人生でたった一度、王国の知の番人として、秩序を乱す種を隠したと……君の博士を見逃した、王宮司書として、あってはならない罪を犯したと」
エプィヌは息を詰まらせたが、彼は、何かを振り払うかのように暗い天井を見上げ、どこか愉快げに続けた。
「それを聞いて、思い付いたんです。そういう方法でなら、自由を得られるのかもしれない」
彼の横顔に浮かぶ笑みは、感情というより、記憶の中の何かに応じた反射のようだった。
まるで、師の言葉を再生することで、自分の運命の鍵を見つけた瞬間を反芻しているような──過去を告白しているというより、むしろ、未来を選んだ日のことを語っているように、エプィヌには見えた。
静寂が、いっそう濃くなる。紙と蝋の匂い、乾いた革の香り、石壁にこもる温い空気……あらゆるものが、言葉を飲み込んだまま、耳を澄ましていた。
ラズワルドの告白に、彼自身の揺らぎがほとんど感じられなかったことが、かえって胸に迫る。彼が、自分という存在を手放したまま、王宮司書としての役目だけを生きてきた、その事実を、憐れんだりはしたくなかった。彼にとっての自由とは、人を縛るものを打ち破ることではなく、それごと抱えてなお選び取ること──そんなふうに信じていた自分とは、まるで逆のやり方で、でも、どちらが正しいとか悲しいとか、そんなことを考えるべきではない。彼のやり方は、確かにここに在って、彼が導いた道を、エプィヌもまた、もう、共に歩き始めているのだから……。
(だとすれば、わたしにできるのは)
彼のその選択を受け止めた上で、未来を示すこと──募った不信を拭うことはできなくても、互いの志の在処を、再びはっきりさせることだけだ。
しばらくの後、エプィヌは、そっと息を吸い込んだ。
「これから博士の研究を手にすることができたら…その時は、あなたの故郷のことも、書いてあるのではないかしらと思うの」
エプィヌは確信を持って言った。ラズワルドは……そして、エーフロシュネは、闇に葬られた博士の研究の重大性を、すでに知っているに違いないのだ。
ラズワルドの瑠璃色の瞳に浮かぶ、割り切ったような、遠い諦念──一貫して、自分の意志ではなく、役目を通して物事を動かす者。だからこそ、彼が話す故郷の記憶に、個人的な意味合いはない。いつだって、何かの兆しが込められているに違いないのだ。
エプィヌは、懐から巻物を取り出した。
「『司書賢人録』の中に、こんな一節があったの」
羊皮紙を慎重に広げながら息を整え、それから、一文字一文字をゆっくり辿っていく。
「──恩赦の制がありしも、王、これを不要と断じて師の教えに背き、即位の後、その是非を改めんと欲す。これに対し、賢人及び監政官、強く諌め申す。曰く、『王が法たるは理に背く』と。王はついにこれを受け入れ、矛を納む。然れど、王、ただ黙して引き下がり給うにはあらず。ここに一人、若き水産農学ノ賢人の名あり。その才まことに新しく、常に知を渇望してやまず、彼は王に進言せり。『東の地に鉱脈あり。地下に眠る竜の涎の性質を明らかにし、国の資と成し得るか試みん』と。王はこれを良しとし、仰せらる、『試みは危うしといえども、知にて測り、理にて断ずべし』。かくして、竜の涎の鉱脈へ人を遣わす。これは単なる労役に非ず、学と技とを以て、国の将来を測るための試みなり」
蝋燭の灯が揺れ、羊皮紙の表面に残る筆跡が鈍く光る。ラズワルドは、読み上げられた一節に、即座に反応を返すことはしなかったが、その沈黙こそが、何より雄弁だった。
彼の瞳は、どこか遠く、記憶の奥底に沈んだものを辿っているように見える。まるでその文言を、すでに何度も胸の内で反芻してきたかのように。
──やはり、知っている。そう思ったとき、胸の奥が、微かに熱を帯びた。怒りとも焦燥ともつかない、あらゆる感情が押し寄せる。だが、それでも、エプィヌは声を整えて続けた。
「“金”とは、はっきり言及されていない。けれど、あなたが聞いたと言っていた伝承を想起させるわ。──黒い尾を引いた翼竜が山を越えてやって来る。その鱗と血を火にくべてかき混ぜると金になり、喋れぬ神がお生まれになるって。『血』と『涎』に表記の揺れがあるけれど……発音が似通っているから、同じものを指すと考えて良いと思うの」
言いながらも、エプィヌの中では、思考の波が、絶えず渦巻いていた。推論はすでに確信に近づきつつある。それでも、あくまで理として伝えなければならない──そう自分に言い聞かせながら、彼女は一度、巻物から視線を外し、ラズワルドの顔を見上げた。
彼は何も言わず、ただ微かに眉を動かしただけだったが、その沈黙は、否定ではないと分かった。
エプィヌは、再び目を戻し、落ち着いた声で続けた。
「“喋れぬ神”とか、分からない言葉は色々ある。その中で、尻尾を掴める確率が高いのは、竜の涎、あるいは竜の血の鉱脈──これが何を指すのか、まずは知りたい」
これは真理に至るための推測ではなく、信念に裏打ちされた問いかけだ。エプィヌは迷いなく言った。
「書架に、案内して」
しかし、少年は動かなかった。
「──残念ながら、どの資料を探しても、そんな鉱物は、ありませんよ」
それが、あまりに自然な物言いだったので、エプィヌは思わず気色ばんだ。
「隠さないで。わたしが何を知りたいのか、分かっているのでしょう?」
「もちろん、分かっています。けれど、この世には存在しても、この王国には、そんな鉱物はないということです」
答えは丁寧に整えられていたが、ほとんど何も言っていないに等しかった。真実を語るようでいて、肝心な部分をすり抜ける。ラズワルドはいつだってそうだった。確かに何かを知っている──けれど、その知を明け渡す時、彼は必ず、言葉の影に身を隠すのだ。
「どうしてそう言い切れるの?」
つい、噛み付くように言った後で、エプィヌは身を引くと、微かに喉を鳴らした。
「──あなたは、知っているのね」
胸の内に、確信と痛みが同居していた。もう、問いかけの形を借りる必要もない。ラズワルドの肩のわずかな揺れ、視線の僅かな揺らぎが、全てを肯定していたからだ。
少年は、淡々と語った。
「シグマリヨンの向こう──サウランディールでは、伝わっている鉱物だからです。ゆえに父は……伝承を聞いた時から、それが何を意味するかを悟っていました」
(やっぱり……)
エプィヌは、ローブの袖の中で拳を握った。
「ならば、もう答えは出ているってことよね。真実を教えて」
しかし、ラズワルドは首を振る。
「──それは、君の博士の研究に、きっと記されている」
「あなたって」
エプィヌは、胸の奥に渦巻く思いをかき集めながら、なおも彼を見つめた。
「あなたは、わたしに信じてもらいたいとは思わないの? まるで、自分から信用を捨てたがっているみたいなことばかり言って……」
息が続かず、語尾が闇に消えていった。その行間に、ラズワルドは、静かに言葉を浮かべた。
「君に協力することは、個人的な願望を叶えるためでもあるけれど、一族の悲願を果たすためには、歴史ノ賢人になるべき君に、正統な方法で真実を暴いてもらうしかないからです」
誰かに刷り込まれた論理を反復するかのような語り口だった。感情の起伏を慎重に排した、傷つかないための選択……そんな彼の姿に、なぜこんなにも苛立ってしまうのか、エプィヌ自身にも分からなかった。
「そのために……ぼくには、これ以上、差し出せるものもないし、それすら、本当は、君にとって信頼に値するものじゃなかった。──どうしようもないでしょう、君に信じてもらえるような、そんな条件は提示できないんだ」
ラズワルドは、まるで、予め答えの決まった取引の失敗を語るように、淡々と語っていた。けれどそれは、差し出すべき真実を彼自身が選べないことの言い訳でしかないと、エプィヌには思えた。
彼を責めるのは違う。そうは分かっていても、この不本意を黙っているだけの我慢強さも、
エプィヌにはなかった。
「ラズワルド……」
名を呼んだが、一体何を伝えたいのか、考えていなかった。しかし、胸の奥の方から突き上げた、激情に似た塊が、制御のしようもなく、喉元まで駆け出してきた。
「ねぇ、信じてって、そう言って」
彼は瞬きをした。ほんの一拍の沈黙のあと、エプィヌは言葉を重ねた。
「わたしには、それだけ必要なの。取り引きで成り立つ信用じゃなくて、わたしの心が信じたがっているの──ラズワルドを信じたいのよ、底なしに、信じたいのよ!」
語尾が消えると、背後には、沈黙が深く流れていた。
エプィヌは、視線を宙に泳がせたまま、ふいに言った。
「──理屈を探そうとしたけど、分からなかった。あなたを好きということ以外、他に説明なんてできない」
ラズワルドの瞳が、静かに揺れた。言葉を発したわけではない。けれど、何かが、確かに胸の奥に響いたようだった。
「──好きよ」
それしか、言いようがなかった。
王子に抱いた気持ちとは、決定的に違う。けれど、それが何なのか、うまく説明できる言葉は見つからない。ただ、心の奥が、この人を失いたくないと叫んでいた。
(もしも……博士が生きていて、隣にいてくれたら)
きっと、そんな、夢の結晶みたいなものを映しているのが彼なのだろう。そして、その願いは、純粋すぎるほどに知性と共鳴していて……だから手放したくないのだ。
ラズワルドは、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「……ありがとう。エプィヌ、君が言ってくれたことは、ぼくの人生で、最も──嬉しいことだよ」
少年の声は微かに震えていた。
けれど、すぐに、その揺らぎは、ひどく冷静な静けさへと沈んでいった。
「でもね……君には、その言葉をかけるべき人が、他にいると思う」
エプィヌは、一瞬言葉を失った。
「殿下のこと?」
尋ねかけた声は、掠れていた。
それが違うと知りながら、答えを外そうとする自分がいて、酷く狡いと思った。
ラズワルドは、緩く首を振った。
「──君は、もう、ずっと分かっているはずだよ」
ラズワルドの声は、穏やかでありながら、核心を突くような痛みを含んでいて、まるで、自分の中にある、認めたくない思いの正体を、最初から見抜いていたと告げているようだった。
少女の表情が凍るのを見ながら、彼は静かに、けれど確かに続けた。
「ぼくは宦官だよ、エプィヌ」
──静寂が落ちた。
それは告白ではなかった。ただ、事実として差し出された境界線のようだった。
「知を護る番兵としての役目と引き換えに、ぼくの人生は、誰のものにもならないように、予め決められている」
エプィヌは、言葉を返せなかった。──何も言えなかった。ただ、胸の奥が小さく軋んだ。
ラズワルドは、表情を崩さないまま、そっと笑った。
「でも──君がいてくれたことが、ぼくの生を肯定してくれた。ぼくも君が好きだ。それだけで、充分なんです」
悲しみともつかぬ虚ろな思いが、苦々しく広がった。それでもエプィヌは、深く息を吸い、目を逸らさずに言った。
「知恵の血脈は、誰が何を成し遂げるという結果が全てではない──あなたが言った言葉よ。わたしは、曇っていた視界が晴れたみたいで、その通りだと思った。同時に、一人ではできっこないとも。だから、あなたに……」
一瞬、喉の奥に言葉が詰まる。熱いものが込み上げて、たまらなく胸が苦しかった。しかし、エプィヌは、決意と共にそれを振り払うと、言い切った。
「……あなたを、命をそっくり預けるくらいに信じて、お願いがあるの」
ラズワルドが、驚いたように顔を上げた。
エプィヌは、その視線を受け止めたまま、真っ直ぐに続けた。
「──薬医術ノ賢人を継ぐ者を見つけたわ。その子、ルオネルと……ラーギニールさまを引き合わせてほしい」
灯の揺らめきに包まれながら、エプィヌの声は、静かに沈んでいった。
「わたしは、エーフロシュネさんの計画に手を染めるからには、この先どうなるか分からない。殿下の力があったって、裁きから護られる保証もない。ここにはいられなくなるかもしれない。でも……種を残しておきたいのよ。それを、ラーギニールさまとあなたに託したい」
その願いがどれほど危うく、また、重たいものであるかを、エプィヌ自身、分かっていた。
「君が、最後に、信じてくれるなら……」
ラズワルドの瞳が揺らいで見えて、エプィヌは動揺した。
「──ぼくは、あの方を、捻くれているとは思いません。それと同時に、エプィヌ……君だって、ぼくにとって清らかな存在です。前にも言いましたよね? 本当の意味で、未来を背負うことのできる人というのは、彼のような人だって。ぼくとは違って、自由を知っている人で、それは、この世の真理です。だから、絶対に信じてほしい」
無機質な鏡がふいに割れて、その奥に隠された本当の姿を覗いてしまったような衝撃があった。その記憶は深く焼き付いて、一瞬の間にも、何度も反芻された。──そして、それに気付いてしまったエプィヌは、もう逃げられず、彼の揺らぎを見てしまった自分もまた、刹那、その人に縛られてしまったことを思い知った。
「わたしに、あなたを信じろって……そんなの、何の条件もいらないわ。だって……あなたを好きだって言ったでしょう?」
言い聞かせるように言葉にしたことで初めて、エプィヌは、自分でも驚くほど自然に、ずっと分かっていたのだと気づいた。なぜ、認めることができないのか、それは、今だに不明確でも、ずっと知っていたのだ……自分の心が、本当はどこを向いているのか。
すでに夕暮れは終わりかけていた。空にはまだ、ほのかに残照が漂っていたが、濃紺の夜が辺りを包みつつあり、夏の匂いを含んだ生ぬるい風が、地面から立ち上るように肌を撫でていた。
扉が閉まる鈍い音の直後、石畳を踏む音が一つ、待ち伏せていた影を際立たせる。
「ご苦労だったね、愛しい人」
振り返るまでもなく、声の主は分かっていた。
「──殿下」
夜風を纏って立つ青年は、普段と変わらず、優美で余裕があった。しかし、甘やかな声には、確かに熱がこもっている。今にも、手を伸ばしてこようとする鋭い眼差し……エプィヌは、それが自分に向けられることを、本能的に悦び、その傍で空々しく思った。
「さあ、あんたを送っていこう」
庭園の奥、ほの暗い茂みの中に、一角獣が繋がれている。低い木々の間に白く浮かび上がるその毛並みは、まるで月光のようだった。
彼は少しの躊躇いもなく腰を引き寄せ、そちらに少女を導こうとする。恋人の所作なのか、支配者のそれか──夜風の中、胸の奥が妙に痛んだ。
「ラギには、先に帰るよう言ってある。ユディトも気を利かせて、部屋まで食事を運んでくれるさ」
「殿下……」
エプィヌは呼び続けたが、王子は明らかに、無反応を貫いていた。
「──殿下!」
風が木の葉を揺らし、ざわりと頭上を撫でていく。夏の夜の、乾いた土と草の匂いが鼻をかすめた。
歩みを止めると、さすがに無視できないと思ったのか、彼は眉を下げてこちらを見下ろした。
「どうした? 愛しい人」
これまで、そんな呼び方はしなかった。それは、昨夜、これからは彼の行く道を共に選ぶと宣言したゆえなのかもしれないが、どうにも腑に落ちなかった。──今朝から、ラーギニールの様子もどこかおかしい。そこにはルチーフェロが関わっているはずで、何か重大なことを隠されているような気がしてならない。
「──ここまで迎えにいらっしゃるなど、最初のあの夜以来……なかったことです」
「いけなかったか?」
ルチーフェロは、少女の姫百合色の髪に触れていた指を、ゆっくりほどく。声には、ほんの少し拗ねた響きが宿っていた。
エプィヌが否定するより早く、彼は畳み掛けた。
「理由を言っても構わないが、あんたが、おれの……」
しかし、何を思ったか、言葉は打ち切られた。
──名を呼べと命じるつもりだったのだと分かった。だからこそ、それが取り下げられたことに安堵もしたし、彼がなぜそうしたのかと考えることが恐ろしかった。
ルチーフェロは、エプィヌの耳元に唇を寄せた。
「あんたが来ることを知っていたからさ。というより、来させたのだから当然だろう?」
エプィヌは、背筋を強張らせた。
「──あれは、あなたさまの指示だったのですね」
「あんたを守るよ、だから従ってくれるんだろう?」
彼の声には、咎めるでも、恥ずかしげもなく守ると言ったことに対する照れるでもない、乾いた愉悦が、ほのかに滲んでいた。
「試されたと思ったか?」
頬に触れられ、思わず目を伏せそうになったが、エプィヌは、強い意志でとどまった。
「いいえ……」
ローブの胸元を引き寄せる右手が震える。
「これからわたしが言うことは不敬です」
「あんたの言うことを、おれが咎めるわけなんてないだろう?」
ルチーフェロはこともなげにそう言い、少女を腕の長さだけ離して、ローブの陰になった顔を見つめた。
エプィヌは、それには答えず、強張る唇を必死に動かした。
これから言うことは──彼が聞きたがっている言葉ではない。それが分かるから、恐ろしかった。
「──王と、十数人の賢人だけで、この世の理を抑え込むことができる時代は、とっくに終わっています。変化し続ける学問を、良い方向に導けるようなやり方を模索したい。わたしは、そう考えるから、殿下について行くことに決めたのです」
「愛ゆえじゃないと、あえてそう言いたいのか?」
空に、冷たい雲がかかり、月明かりが翳る。
王子の表情は相変わらず優しく、声も柔らかかった。寂しさの欠片も感じさせない問いかけだ。しかし──目の奥は笑っていなかった。
「そういうものは……言葉にしてしまうと消えてなくなるのが怖いのです。わたしが、殿下を受け入れ、求める、その行動を信じていただきたい、そう思います」
何を言っても通用しない。彼の名を、何度も抱かれておきながら、睦言の中でさえ……舞踏会の夜に懇願されてさえ、今まで呼んだことがない。そのことには、絶対に言い訳が立たない。
彼との間に目に見えぬ火花が散っていてもおかしくないくらい、ぴりりとした空気だった。一歩退こうにも、腰に触れられた手は思ったより力強く、少しでも力を込めようものなら、今にも抱きすくめられそうだった。
ルチーフェロは、しばらく黙したまま少女を見下ろしていたが、ふっと頬を緩めた。
「信じよう。それ以外にあると思ったか?」
それは、エプィヌにとって、最も恐怖すべき言葉だったし、笑顔ほど嘘に塗れた仮面はないと思った。ラズワルドには、あれほど信じたいと願ったのに、今は、そう言わないでくれと耳を塞ぎたくなるほどに。しかし、王子はがそうと言えばそうなのだ。有無を言わさないだけの権力があって、受け入れざるを得なかった。
「では……殿下は、エーフロシュネさんのことを、信じておられますか?」
エプィヌは、胸の奥を凍らせながら問いかけた。愚問だと思いながらも、あえて聞かずにはいられなかった。
「もちろん」
彼の答えはあまりにも即答で、言葉の重みすら感じさせなかった。
「──彼らの正体を、狙いを、知っておいでで?」
か細い問いは、自分でも聞こえるかどうか分からないほどだった。
そんな少女に対し、ルチーフェロはなおも優しく、きっぱりと頷いた。
「知っている。その上で、妹とのことも、色んな行動も許している」
「どうして……」
「だから、前にも言ったろ?」
まるで、聞き分けのない恋人をあやすような口調だ。
「おれは、王にはならない。あんたを心置きなく、そばに置けるって」
愛というものは鎖に等しい。やはり、彼にとって自分は、王となる道を捨てる代償に据えた、所有物でしかないのではないか──そんな猜疑が、エプィヌの胸の奥で燻った。同時に、彼がエーフロシュネに騙されている方が、よっぽど悩まずにおれたのに、と思う。
(こんなのじゃ……)
革命が成ってもしくじっても、王子は王女を生かすために全て捧げるはずで、どの未来においても、彼の居場所などどこにもない。──たった一人の少女に、これほど執着を見せるのは、おそらく、彼のたった一つの我儘だからだ。
(──それでも、愛を返すことはできない)
返してはいけないのだ。相手を利用すると決めた者の、せめてもの誠実だと、エプィヌは思った。自分自身もまた、青い瞳の一族と同じに、彼に寄生する針金虫のようなものだ。
(──宿主の視界に水を映しながら、自らもまた、その水底に溺れるように……)
しかし、ルチーフェロは、曇っていくエプィヌの表情すら愛おしいというように、目を細める。そして、他人に憐れがる余地を与えないほど、軽やかに続けた。
「妹は昔から王になりたがってたし、そんなあいつを支えられるのは、エーフみたいなやつだって思うし、他国の王族の血が混じるなんて、広い世界に目を向けりゃ、よくある話だろう? おれだって、他所の国のお姫さまをあてがわれそうになったことあるし」
その調子があまりにも無頓着で、少女の危惧や恐れに対して、まるで無関心であるかのようだった。
──彼は、自分自身にも無頓着だ。張り付かせた微笑みの奥には、少女への疑いだってあるだろうに、それをぶつけて来ようとはしない。誰にも拒まれず、何でも手に入れてきた一種の王子らしい驕りと、破滅を受け入れた者の、最後の気晴らし……愛を語る声が甘やかであるほどに、そこに込められた真意は遠く、冷たかった。──彼は、もう、どうでもいいのだろう。自分が王になることも、民にどう記憶されるかも。ただ、今だけは、自分を求めてくれる存在があればいい。そういう投げやりな孤独が、この人を支えているのだ。
エプィヌには、それが分かってしまった。分かってしまったからこそ、彼を変えることも、救うことも、何一つできはしないと、どこかで悟っていた。
エプィヌは、償いのつもりで、黙って王子の手を取った。
「わたしなんかよりも、蝶よ花よと育てられた姫君たちは美しいでしょうに……」
従うふりをして、ただ目を伏せる。全てを差し出したように見せて、ただ一つ、決して触れさせないものだけを守りながら──名は、呼ばない。それは、彼を遠ざけるための盾であり、たった一人の面影を、自分の中で手放さないための砦だった。それが誰なのか、まだ言葉にはできなかったけれど、誠実であるためのよすがだと思った。
ラズワルドに見透かされてしまったがゆえに、エプィヌは、自分でもそれに気づいてしまった。この心はもう、どこにも差し出せないのだ。
ルチーフェロは、エプィヌの手をそっと裏返し、唇を落とした。
それは、過剰な情熱も欲望も伴わない仕草だったが、それだけに、余計な言葉を拒絶するような、強い所有の意思が滲んでいるようだった。
「……さあ、夜風が強くなる前に」
一角獣が静かに鼻を鳴らす。ルチーフェロが手綱に触れると、まるで主の心を読み取るかのように、それはゆっくりと首を垂れた。
乗り慣れた動作で王子が先に跨がり、エプィヌの方を振り返る。
「まだ、怖いか?」
今度は、瞳には試すような光があった。
エプィヌは、黙って首を横に振った。そして、無言でその背に手を伸ばす。
抱き上げられた瞬間、一瞬だけ、心がざらつくような感じ走ったが、それは表に出さなかった。感情はすべて、夜の闇の中に沈めてしまう。──これが、最適なのだ。
悦びのふりをすることは、いくらでもできる。自分の中にある冷たく乾いた場所さえ押し殺せば、それは、痛みでも快楽でもなく、ただの交渉材料になる。
「よし……振り落とされるなよ」
一角獣は僅かに身体を揺すり、四肢に力を込めた。蹄音が地を叩くと、鋭利な、深く土を削る感覚が伝わった。
足元が浮き上がり、風が肌を切り始めた。滑るように宙を駆け、尖塔をかすめるようにして夜空へと昇っていく。
王城が遠ざかり、一つ、また一つと、地面の光が遠くなっていった。まるで、今この瞬間に、何かが終わっていくようだった。
やがて、一角獣の蹄が雲を裂き、空の彼方へと滑り込んでいく。肩越しの夜風が、何度も、決意をなぶるように吹き付けた。
──星々の深い呼吸が、二人の影を飲み込んでいった。




