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第五章 花と喋れぬ神 (5)

 午後の講義というのは、どれだけ勉学を好む学徒にとっても難儀するというものだ。それも、さして興味のない分野であるなら余計にだろう。その証に、ラーギニールはさっきから穏やかな寝息を立てていた。

(まあ、仕方ないわよね)

 王女が去った後、ラーギニールの笛の音はまだ続いていて、エプィヌが寝台に潜り込むまでずっと高く細く夜空を駆け巡っていたのだ。

(ラーギニールさまは、二人のことを目撃したのかしら)

 義賊を名乗るのだから、まさかそんなへまはしないだろうが、あの王女ならわざとおかしなことをしでかさないとも限らない。

(でも、ラーギニールさまは何も言わない)

 エプィヌは(ペン)をぎゅっと持ち直した。

 他の学徒もまた、あくびを噛み殺したり手の甲をつねったりと、なんとか眠気に抵抗しようと試みているものだが、それに比べて、やはりラーギニールは、なんたる堂々っぷりだろうか。羨ましいようなそうではないような奇妙な心持ちで、エプィヌは少年の綺麗な横顔を盗み見ていた。

 学舎での肩身は格段に狭くなったと、朝礼から数時間(フラー)過ごしただけで分かる。貴族の子息らの口から、舞踏会の夜の話はどんどん広がって、好奇の目がどこへでもついて回るのだ。レィダヤは味方になってくれるだろうが、ダグザとディアンのいる研究室に顔を出すは億劫だと思ってしまう自分がいた。そんな立場はラーギニールとて同じはずなのに、彼は、どうして悠々としていられるのか不思議で仕方がなかった。

「それまで口承だった説話が文字に刻まれるようになったことで、人の思考や感性は時を超えることができるようになったのです。そして、歴史上の事実だけでなく、想像をそのまま手を動かすことで書き記す創作文学が誕生しました。なかでも、この『三人物語』は、王侯以外の人物を主人公とした最初の文学作品です。それも少女歌劇という、いわゆる世間の表舞台とは言い難い、娯楽の世界を主題としている。そのような特殊な作品が認められ、物語の枠組みが拡張された背景には……」

 スィアチ師の講義は、第一学年を対象とした概論であるからなのか、ロギ師のそれと比べ、遥かに穏やかな空気感の中で進行していった。淡々と教え込むというよりは、何か楽しい物語を子供に話して聞かせるような、そんな喋り方だ。

 エプィヌは文学を面白いと思う。自分の辿る道はたった一つだが、人がどう在るべきなのかというか、生き様のようなものは人の数だけある。そういった他者の思考や体験を感得しようというのだ。こんな面白いことはない。作者の生きた時代はどんなだったのか、その者は世界をどう捉えているのか。共感ばかりではないし、相容れない何かも含めて、考察することには意味がある。そして、その差異は、歴史家には埋められないものだ。ーーだから、今はありがたい。一時だけでもしがらみから解放される気分になれた。

 概論講義の講読資料は『三人物語』という古典だった。こんなものに意味があるのか? と、学舎までの道すがら散々気怠そうに言っていたラーギニールに対し、その時のエプィヌは、きちんと打ち返せるだけの答えを持ち合わせてはいなかった。

(……ラーギニールさまは、興味ないわよね。そういう人だもの)

 他者への興味に欠ける彼には、一番遠いところにある学問に違いない。

 エプィヌは鬱々とした気分で、手元の写本に目を落とした。

 岩峰の少女歌劇の目玉といえば、アークトゥルス(起源は不明だが、古語の天球の最高点(アーキヤナータ)に由来すると考えられている)と呼ばれる看板俳優の聖杯呷りだ。それは今でこそアークトゥルスの世代交代として行われる儀式的なものだが、大昔は本当に毒を呷り、アークトゥルスは命をもって一時代の幕を下ろしたという。初代アリアンロッドが絶対的な地位を築いた後、三人の乙女が次代を担った。『三人物語』は、そんな彼女らの列伝であり、『先立つ人』『待望の人』『託される人』と題された三部構成になっている。作者は、ローエン・ディティ・ラウル。ーー遊び好き女好きのうつけと呼ばれた文人で、長子に生まれながら当主の座を放棄したという。しかし、こうして古典史に名を残しているのだから、ただの文学かぶれでははなかったようだ。

(天才は血筋ね)

 ローエンが文学史に名を刻んだことで、あらゆる流れが変わった。貴族の子息の中で学者を目指す者が現れ、従って、その地位も向上していったのだ。

 ラーギニールはあれだけの天才だが、下に兄弟がないので、隠居の身になるまでは自由がない。“ぼくは学舎を出たら当主を継ぐ”という意思は、分かりきってはいたものの、いざ表明されると素直に驚かされた。その確固たる何かは、覚悟というよりも諦観なのかもしれないが、だからこそ、彼の言葉は一貫しているし状況に影響されない。ユディトが“信条”と呼び表したのは、こういうところなのだろう。

 ラーギニールの指摘は、自分自身で思うよりよほど深く、胸の底に沈んでいるのだった。とても深く、深く……。

 彼の言葉はどれももっともで、現状を過不足なく言い表していた。

 鼓動が耳の奥でざあざあと音を立て、教鞭を取るスィアチ師の声は、遠く靄がかかった彼方から聞こえてくるかのようだった。

「さて……舞台の中心に立つのはアリアンロッドだという強固な方程式を、どうしたら打ち壊すことができるのか。その熱狂的かつ妄信的な唯一絶対の風潮の中で、ローゼリアはアークトゥルスになりたいと人一番強く願い、臆せず希望を口に出していました。そして、まだまだ年少で、権力に縛られない心を持っていたユレイヤの中では、現状を打破するのはローゼリアだけだという思いが強くなっていったのです。二人の関係性が深まるにつれ、彼女らは孤立し、多くの敵を作りました。そのさなか、アリアンロッドが公演中に毒杯を呷り、全てが永遠となった。『三人物語』はこの歴史を塗り替えていく後の世代を描いたものですが、その全編を通じて登場する語り部がユレイヤです。彼女は“三人”に数えられることはありませんが、特別な存在であることは間違いありません。それでは、エプィヌ君」

 考えごとが過ぎたおかげで、エプィヌは名を呼ばれた瞬間、返事が喉につかえるほど驚いた。

「……はいっ」

 スィアチ師は、居住まいを正しながら問うた。足が悪いので、教卓の横に椅子を置いて座っているのだが、そうすると他の教師より視線が低い。指名した学徒となるべく目を合わせて話したいと思っているのだろう。

「主人公が不在というのはこの物語の特徴ですが、一方で、唯一、全編通じて登場するユレイヤを主人公と比定する説も根強いものです。あなたはどう考えますか?」

 エプィヌは立ち上がり、両手を揉み絞った。大勢の前で発言するのは、いつまで経っても苦手だった。他の学徒らは、急な指名を受けてたちまち目を覚まし、それから、自分が指名されなかったことへの安堵を露骨に滲ませた。なんだか裏切られたようで気分が悪いし、おまけに、入舎試験を担当したスィアチ師は、エプィヌの緊張しいをよく知っているのだ。それが余計に、絶望感を掻き立てた。

「ーーユレイヤは主人公ではないと思います。でも、あえて言うならば、彼女の背負う何かが、列伝を一本貫く主題なのだと、思います」

 噛まずに喋りたいが、早口になるせいで舌がもつれてしまう。そうすると、どんどん頬が紅潮して、髪の色と顔色が同じになってしまわないかと、くだらない雑念が脳裏に過った。

「続けて」

 学徒を励ますように、スィアチ師は言った。 

 出だしを失敗してしまったので、もう格好を付けようもない。そう思うと、少しは震えもましになるようだった。エプィヌは頷き、一つ息を吐いた。

「アリアンロッドの代わりとして認められる存在はおらず、その結果、批判に晒されたローゼリアは、身請けを選び早期に劇団を去りました。その背中を追い、夢を見ていたユレイヤは、ひたすら芸を磨き、舞台の質を上げることで後進を育てようとします。彼女は、自分に矛先が向かうことを巧みに避けて、長く舞台に立つことに固執しているように見えますが、それだけではないと思います。全てを背負うと決めた人なのではないでしょうか。彼女が背負う何か……変えられなかった運命のようなもの自体が主題だと考えます」

 歴史学が文学と違うのは、空想が許されないことだ。伝承に何か意味があると思っても、その裏付けが必要で、史料を丹念に読み解き考察した成果を一線とし、それ以上は脚を踏み込まないのが鉄則だ。

 そんな、歴史学では許されない、こういう考えばかりは、するする頭に浮かんでくるのだった。憶測ではないかと恐れる必要もなく自由に問答できるので、気持ちが楽だった。

(ーーそれに、わたしが古語や鍵文字を読めなければ……歴史学をやっていなければ、博士の弟子でなければ、何も迷わなかった)

「ふむ」

 スィアチ師は眉を持ち上げた。

「“背負う人”ということですか」

 その言葉に、エプィヌははっと息を呑んだ。

 本当は、自分は歴史学に向いた人間ではないという自信のなさは、ずっと胸の奥にある。この学問が本当に好きなのだろうか、博士の背中を追いかけたいだけなのではなかろうか。歴史を学ぶことや研究の手法を教わることは、血の繋がらない博士との、唯一の絆だったから……。そんな暇はないのに、寂しい考えに取り憑かれて、つい立ち止まってしまうのだ。王子に手を貸せと言われ、ラズワルドから青い瞳の王の話を聞いた夜から、ずっと、仕方のない思いがぐるぐると渦巻いていた。

(背負う人……か)

 エプィヌは唇を引き結んだ。

 自分に与えられたのはユレイヤの役回りにも思える。博士の死で途絶えようとしている歴史ノ賢人ウィステ・エクセリーヤの継承を、なんとか繋ぎ止めておくのが使命で、それならば、才がなくともやり遂げることができるかもしれない。

(殿下は、新しい賢人(エクセリーヤ)を作り、妹君に全てを授けようとしている……それが、たとえ建前だとしても)

 王権などいらないという無頓着さが彼らしい。だから信じてしまったと言えなくもない。しかし、そんなルチーフェロの胸中にもまた、諦観に似た気持ちがあるのだろうか。それを健気に思って協力するのも違う気がするが、利害の一致ということで良いのではなかろうかとも、突然に納得した。魔法が排除されぬ国にしてみせるというのが、彼の本当の心ではないとしても、自分自身が実現したいと思う、それだけが真実と結論付けるのも良いではないかと。

 学問の地平の拡大は、素晴らしいと同時に恐ろしいことでもある。天才は“天災”にもなり得ると語ったロギ師の言葉を借りるならば、博士やラーギニールのように、新しい何かを生み出す創造性を持った人物は、何かの一線に触れた瞬間、火犬(タゥ・ケラナ)に睨まれるのだろう。だとすれば、その網目をかいくぐるような真似は、凡庸な者にしかできないことなのかもしれない。博士の研究を日のもとに送り出すという自分の望みは、その先にしか叶わないのだから……。

『ぼくはさっさと終わらせてほしい。エプィヌさんは研究に全て懸ける人だ』

 ラーギニールの、そういう時ばかりは疑いを知らない、嘘のない眼差しは、あるいは残酷とも思った。

 ーー全てをかけるとは、どういうことなのか。博士の生涯は間違いなくそうだったと、エプィヌは信じて憚らないが、それを自分に置き換えた時、どうしても想像がつかないのだった。

(いや)

 エプィヌは心の中で首を振った。

(そんな難しいこと分からなくていい……そんなの、博士の真似をしたって全く同じになんてなれない。でも、わたしにだって、博士やラーギニールさまのためにという思いがあるじゃない)

 後は、肝心なのは、ラーギニールにどう告げるかだった。



「エプィヌさん、昼餉はどうするの」

 講義が終わると、ラーギニールは明らかにすっきりした顔付きで言い放った。

「よく寝たわね」

「午後は研究室でしょ?」

 こちらが嫌味たっぷりに見遣るのを、彼は全く取り合わずに続けた。まとめた荷を小脇に抱え、こちらを見下ろしながら、じれったそうに返答を待っている。お腹が空いたんだけど、という心の声が聞こえるようだ。

 エプィヌは(ペン)と墨壺を片しながら少し考え、小さく息を吐いてから立ち上がった。

「……ご一緒していいかしら、それから向こうへ行くわ」

「そう」

 少年は短く言うと、自分の方から尋ねたくせに、やれやれといった風に踵を返した。

 その背中を見て、エプィヌはつい唇を尖らせた。

(一人でいたいのなら、最初から声をかけなくても良いのに)

 エプィヌは奇妙な気分で、どんどん階段を降りて行くラーギニールの背中を見ていた。

 彼の言動に腹を立てる場面は頻繁にあるが、その苛立ちは、不思議と次の瞬間には立ち消えになってしまうのが常だった。

 自分がラウル家の養女として、また、数少ない女学徒として学舎で孤立しないよう、彼は彼なりの考えで動いてくれている。ーー普通なら優しく見えるはずなのに、まるで真逆に映ってしまうのはなぜなのだろうと、一瞬頭を(よぎ)るも、そんなことは考えるのも無駄で、彼はただ、感情よりも役割や責任を優先しているだけだと、すぐに思い出す。他人に深入りしない性格ながら、合理的に考えて最低限の気遣いを見せているのだ。しかし、無意識に、理にかなっているからやっているという、そんな単純な彼の行動原理に振り回されるのは大いに気に食わないところだと、再びもやもやが胸の内を占める。

(だからって、あまりにも素っ気ないのよ)

 少年の後に続きながら、エプィヌはもう一度罵った。

 スィアチは、杖で身体を支えながら、一人また一人と講堂を後にする学徒を見送っている。二人は肩を並べて礼をし、無言のまま歩を進めた。

(ラーギニールさまに、どう言おう、何から伝えよう)

 もうこれを考えるのは何度目か分からなかったが、結論は出そうにない。それどころか、深みにはまればはまるほど、決めたことに対して踏み止まろうとする弱さに気付いてしまう。

「待って、やっぱり……」

 エプィヌは講堂を一歩出たところで、急いで少年を呼び止めた。

「わたし、スィアチ師に聞きたいことが、あるかもしれない……」

 繰り返し考えていたあれこれが喉の奥で絡まり、結果として出て来たのは、全く違う言葉だった。

 振り返ったラーギニールは、眉根を寄せてこちらを見た。

「“かもしれない”ってどういうこと?」

「わたしは、思い立った時に、最速最短で決めないと動けないの。それが今だと思ったから……」

 エプィヌは彼を追い越して教壇に向かった。これ以上追及されても、本音と建前の境界線上にある今の気持ちを説明することなど不可能だ。

「スィアチ師」

 逃げ道を作ってしまったと悔やみつつ、エプィヌは呼びかけた。

「やあ、エプィヌ君、何か忘れ物ですか?」

 老いた文学教師は眼鏡の奥の目を細めて笑った。

「今日は急に当てて驚いたろうね。だが、良い問答ができたと思っているよ」

「はい……ありがとうございます」

 いざとなると、これから尋ねようとしていることが、一切逃げ道にはなっていないことにエプィヌは気が付いた。結果として、ラーギニールに打ち明けるべきものを増やしてしまうだけなのだと。

 計算が狂うのも、全ては余計なことを考えさせるこの少年のせいで、それを思うにつけ、やはり腹立たしかった。

「さて、ラーギニール君も、二人揃って、わたしに何かご用意かな?」

 スィアチは、学徒が質問に来たのがよっぽど嬉しいのか、やや早口になって言う。エプィヌははっとすると、申し訳ない思いになって肩をすくめた。

「……あの、今日の講義の内容とはかけ離れているのですが、お聞きしてもよろしいでしょうか?」

「はい、なんなりと聞いてください」

 あてが外れて残念がるかと思いきや、文学教師は、より興味をそそられたようだ。目をますます細くして、にっこりと口角を上げる。そんな顔をしていると、ローブを着ているのも相まって、丘の人(ベルグフォルク)の伝承に登場する“火犬(タゥ・ケラナ)の毛皮を被ったいたずらなキツネ”を思わせるが、いたって穏やかな口調は変わらない。

 エプィヌはやや声を低めた。

「スィアチ師は“喋れぬ神”という伝承を聞いたことはありますか?」

 ふむ、と唸った文学教師は、顎に手を当てた。

「“喋れぬ神”ですか……。同義かは分かりませんが、丘の人(ベルグフォルク)の語り部から“言葉を捨てた神”という興味深い話を聞いたので関連資料がないかと、ペリドット君から尋ねられたことがありますよ」

 思わず息を呑み、エプィヌは袖の中で小さく拳を握った。

 いつの間にか学徒は全員退出しており、講義室にも正午の鐘の音が鳴り響いた。

「わたしも、まさに同じことを尋ねようとしていたんです」

 我ながら、少しばかり声が上擦っているのが分かる。探求しているものの点と点が繋がりそうな時に、逸る気持ちを抑えろと言う方が難しい。

 しかし、スィアチは徐々に口角を下げていった。エプィヌの興奮を見透かしているのだろう。どこか憐れがるようにこちらを見つめている。

 声が辺りに反響するのを躊躇っているのか、なかなか次の言葉が出ない。しかし彼は、ラーギニールの方をちらと確認し、少年が事情をすっかり承知しているのを把握した。

「……どうでしょう。わたしの研究室で昼餉にするのは」

 ほとんど独り言のようにそう言うと、スィアチは杖で床を鳴らしながら身体の向きを変えた。



 エプィヌがスィアチの研究室を訪れるのは編入試験以来だった。ラーギニールにいたっては、第一学年の学徒には各研究室を見て回る機会が与えられているというのに、最初から建築学一本に絞っている彼が他所を覗きに行くとも思えないので、初めてに違いなかろう。

 部屋は相変わらずロギ師のそれとは大違いに整然としている。

 板間は助教師や門下の学徒が油を注したのか、以前にも増して磨き上げられており、その上をスィアチが歩くのを眺めるのは少しひやひやした。しかし、手を貸すのも馴れ馴れしいような気がして、エプィヌは萎縮したまま突っ立っていた。

 その時だった。

「スィアチ師、お帰りですか」

 衝立の向こうから顔を出した青年は、師が伴って来た二人の学徒を見とめて少し驚いた顔をした。

「ああ、エーフロシュネ君」

 青年の助けをごく自然に借りながら、スィアチは杖を置き、添毛織の座布団に腰を据える。

 エーフロシュネはちらっとこちらを見た。

 背筋を汗がつうと流れる。エプィヌは気まずさを飲み下して目礼をしたが、ラーギニールはさっきから首を傾げた形で止まっていた。その姿は滑稽で、人の顔や名を覚えるのに興味がない彼が、それでも、記憶に引っかかる何かを思い出そうとしているのが明らかだった。青い瞳の者など珍しいだろうに、思い出すまでもないだろうに……というのは、通常の人間の感覚で、建築以外のことにはとんと疎い彼のような天才にとっては、特別な労力が必要なのかもしれない。

 何かを深く思案している少年は、目の前の青年が、毎朝の朝礼で顔を見ている監督生であることすら気が付いていない可能性があった。

 そのぼんやりした視線に対し、エーフロシュネは気さくに微笑んで見せた。

「今日は、この二人と、少し語らいたいことがあってですね」

 スィアチは顔を上げ、監督生に告げた。

 エーフロシュネは師の言葉にすんなり頷くと、試験の日と同じように茶を淹れてくれた。やはり今日も金柑(オーラム)の茶で、その芳香を嗅ぐと、ざわざわした胸の内が少しだけ落ち着く気がした。

「では、わたしはこれから昼餉を買いに出ますが、お三方の食事も、何か調達して来ましょうか?」

 どこまでも気の利く青年だと思ったが、それはもう習慣になっているのか、その申し出に、スィアチは遠慮することなく微笑んだ。

「ありがとう、頼みます」

「君たち、苦手なものは何かある?」

 エーフロシュネに問われ、エプィヌとラーギニールは顔を見合わせた。

「ーー特に、ないです」

 少し掠れた声と微妙な反応の悪さのおかげで、ラーギニールがこの監督生を目の前にして、ついに何かを思い出したのだと、手に取るように分かった。

 ラズワルドに似ている。彼の話に少しだけ出てきた「兄」とは、この青年のことだ。

 退出するエーフロシュネの背中を見送りつつ、エプィヌはやはり、と確信した。その後ろ姿、陽光と月光の違いはあれど、明るみの中で滝のように流れ落ちる真っ直ぐな濡羽色は、他にはない。

「さあ、遠慮せずに上がりなさい」

 二人に来客用の座布団を勧めつつ、スィアチは何から話そうかと独りごちた。

「では、“言葉を捨てた神”の資料について、ですが……」

「はい」

 エプィヌは胸がどきどきするのを抑えつつ、師を見つめた。

「わたしはそのようなものは初耳でしたから、当然、ペリドット君に与えられるような資料はありませんでした」

 露骨に気落ちを見せたくはなかったが、どうにもそれは無理だった。しかし、ラーギニールの方は、焦らした割にそれはないよなぁという無遠慮な顔をしたので、それよりはましと言える。

 そんな二人を見て、スィアチは申し訳なさそうに首を振った。

「しかし、わたしはペリドット君の、その研究を支援しましたから、彼がたしかに何かを遺していることだけは知っています」

「では……」

 エプィヌは身を乗り出した。

「それは、どんな資料なのでしょう? 題名は、内容は……」

 思わず矢継ぎ早に質問するのを、スィアチは困り顔で制した。

「それが、問題なのです。お話ししなければならないのは、そのことなのですよ」

(問題……)

 呟いたつもりが、息は声にならなかった。

 そんなエプィヌに、師は、講義で問答をするような態勢に入った。

「当時、わたしは新人教師でした。そもそも、彼はロギ師を頼ることができたにも関わらず、なぜわたしなどに頼るのかと思いましたが……どうしてか分かりますか?」

 膝頭を握る手に、あまりに力が入っているのか、スィアチの身体は小刻みに震えている。

(どうして……?)

「ーー博士の手法では歴史学の範疇を超える場合がありますし、伝承を調べるなら文学も覗くのが当然かと。それに、そのやり方をロギ師は……」

 エプィヌは問われるままに考えたが、結論を言い出す前に、スィアチは言葉を継いだ。

「うむ。おそらくペリドット君はね、分かっていたのですよ。それは、ロギ師が一番嫌う“型破り”なのだと。その点、わたしはかなり自由な方ですから」

(自由……)

 その一見明るい意味に捉えられる単語とは裏腹に、師の表情が、何かものすごい痛みを堪えるように歪んで行くのが恐ろしく、エプィヌは急に不安になった。

 スィアチは、それでも穏やかな声色を保っている。

「ペリドット君は頭が良く意思が強いゆえに、言い方を変えると、まあ頑固者でね」

 老師は一段と声を低める。

「実は、彼はロギ師に反発しているようなところも、正直なところ、あったのですよ」

 エプィヌは頷くしかなかった。博士が誰かと交流する姿を知らないが、彼が他者におもねる姿など想像できない。

「たしかに、そうですよね……」

 一旦口を開けば、今度は、すらすらと言葉が出てきた。

「ロギ師は間違いなくこの国の歴史学の最高峰ですが、文献調査への敬虔な姿勢は、野外調査にも手を広げる博士とあまりに異なり過ぎるのです。ロギ師はそれを危険だと見做しています。わたしには、博士に伝えられたことに気付き、大切にしまっておきなさいと」

 博士の、穴熊のように丸まった背中が思い浮かんだ。

「ーーロギ師は、わたしを縛ることになると分かりつつも、博士とは違う選択をして欲しいと、そう導いているとしか思えないのです。だから、博士にも、きっと同じように接しただろうと。そうであるならば、博士はやはり、理解者としてロギ師ではなくスィアチ師を頼ったはずです」

 老師の瞳が揺れ、たじろいだのが分かった。エプィヌはそれを見逃さなかった。

「そして……ロギ師のもとにわたしを送り込むよう、ユディト女史と殿下は、最初から目論んでいたのではないでしょうか。それから、ここに出入りしているエーフロシュネさんも、そのことを把握しているのです。殿下が、そう指示したからです」

 ユディトの名を出したがゆえ、ラーギニールの方を振り返る勇気はなく、エプィヌはあくまで、スィアチを見据えていた。

 いくら凄んだところで、生きた年月の差が余裕の差になっているのだろう。師はエーフロシュネの名を聞いても取り立てて反応することなく、エプィヌの言うことを妄想だと決めつけることもなかった。そのかわり、不確定要素を一つ一つ検証するような目付きになった。      

「あなたはペリドット君の研究に辿り着き、自らを取り巻く状況にも気が付いた。そして、それを全て、ラーギニール君に共有すべきだと判断しているのですね?」

 己の調子を崩さず状況を整理しようとするのが、いかにも学者らしい。

「もしも推測の通り、ユディト君や殿下が、あなたのためにロギ師のもとへと誘導したというのなら、そのことを知りながら道を外れる行為は、ラウル家にとってどう映るか分かっていますね?」

 エプィヌは一瞬押し黙り、ためらいながら傍らに目を向けた。大窓からちょうど白い光が差しており、ラーギニールの瞳は、いつもより明るく、青みが飛んで灰褐色に近く見える。深刻とは程遠い表情で、少年はそこにいた。彼にとっては、母親の血統問題以上に衝撃的な話はないし、エーフロシュネとラズワルドが兄弟であるという気付きの方が頭の中を占めているのかもしれない。

 無言のうちにそれを悟って、エプィヌは心を決めた。

「……はい」

『ーーおれは、王とユディトは、あんたの存在に関して何らかの盟約を結んでるんじゃないかと踏んでいる』

 ルチーフェロの声が耳元に蘇った。そればかりか、息遣いや汗ばんだ肌の熱ささえも……。

(これは、都合の良い解釈かもしれない。でも、わたしが、殿下の言葉から、状況から、見出した結論だわ)

 あの王女が何と言おうと、ルチーフェロが、あらゆる手管によって、どこかに導こうと試みているのは確かだと思う。誰もが本心を隠し、匂わせ、探り合う中で、あれだけはっきりと言葉にしたのだから。

(それが罠だとは思わない。殿下とわたしの繋がりはただ恋と呼べるものではなかったけれど、でも、人の感情は、時に何かを大きく超えるものだと思うから……愚かかもしれないけれど)

 エプィヌは、深く息を吸い、声を押し出した。

「しかし殿下は、わたしがそうすることを望んで、認めています。おそらくは、規範を学ぶ姿勢を周囲に示し敵を作らないこと、わたしの身を保護してくださることが目的なのだろうと。ーーわたしはそれに気付かぬふりをしたまま、わたしの志のために研究をします。あくまで、女史は、わたしやラーギニールさまに真意を伝えるつもりはない。でも、ラーギニールさまはそれを知っておくべきです」

 あれほど全てを知りたがっていたくせに、その時が予想外に訪れたからか、少年はなんだか置いてきぼりを食らったような、それでいて何か釈然としない内心を露骨に出した表情になった。

 彼は、最初の夜から、ずっと王子との関係を知っているし、舞踏会の日には、周囲の目を顧みず、家の威信をかけて駆けずり回っていた。ーー王子と深い仲になり過ぎることに懸念を抱いているのは明らかで、それは、当主となるべき御曹司の勘、見解なのだろうか。

 ラーギニールが研究者としての信頼をなぜか寄せてくれていることは、才のないエプィヌにとって重圧とも言える。けれど、味方でいてくれるその存在を失うのは絶対的に回避すべきで、真実をつまびらかにしながらも、彼に隣にいてもらうにはどうすればよいか、それは難問だった。

 どこまでいっても、結局はルチーフェロへの期待を捨てきれないだろう。それに、もし返答を与えられたとして、言葉で何を言われても、信じきれるものではないのかもしれない。

 そんなエプィヌの揺らぎを、スィアチもまた分かっているようだった。

「それほどまでに、あなたは、自由な学問を求めますか?」

 分厚い眼鏡の奥では、こちらの定まらぬ思いの中から、どうにか真意を見抜こうとしているかのように、その目が細められた。

 エプィヌが口を開きかけた時、師は片手を掲げてそれを遮った。彼らしからぬ行動に驚いたが、その手は次に、己の膝をさすった。

「ーー先程言った“問題”に直結するものですが、これは、その罰を受けたからなのですよ」

 エプィヌはどう返して良いのか分からず、何が正しい反応なのか戸惑った。

「ペリドット君のような者の才を活かしたい、それを遂行することがいかに難しいか。親友や教え子は……」

 言葉を途切らせると、彼は溜息を吐いた。

「わたしが三十そこらで文学師になれたのは高家出身で、大学官長アルテス・ディアとも馴染みだったからに他なりません。親友はわたしよりも遥かに才がありましたが、先に助教師に選ばれたのは……」

 それはどんなにか辛かろう。エプィヌは自らの境遇に置き換えてそう考え、少し俯いた。

 師は痛みに耐えるように続けた。

「ーーそれが運命の分かれ道だったと思います。研究室に残り続けた彼は、学徒の“自主研究会”に旺盛に協力していました。わたし自身も、ペリドット君らのそういった活動を支援していましたが、彼の傾倒はその比ではなかった。そうして、悲劇が起きたのです。とある学徒が卒舎後に発刊した書籍が検閲にかかり、共同研究者として名を連ねていた者は皆捕えられました。研究者は己の研究に誇りを持っています。思想を改めろと言われても拒否するのです。そうすると……極刑も免れません」

(魔導書(フィザード)の著者の末路……)

 ラズワルドの語っていた発禁処分のことを思い出したエプィヌは、震えを堪えようとひたすら拳を握り締めていた。時代を考えると、これはラズワルドの師にあたる先代王宮司書(ドムン・ティディーヤ)による判決だろう。

「一斉摘発の後、学内から密告者もあったおかげで、その研究には関わっていなかったペリドット君ももちろん、優秀がゆえに怪しまれて出頭を命じられました。その時のロギ師の怒りようといったら……。よりによって我が研究室から禁忌を犯す者など出るはずがないと」

 ロギ師は全くそのような経緯を語らなかったが、博士のやり方に強硬なまでに否定的な理由が分かって、エプィヌはむしろ、その点においてすっきりした気分だった。

 どれだけ、博士の才を守るために心を砕いてきたのだろう。あの寡黙な老師、学問に対して誰よりも謙虚で畏怖の念を抱く彼ならば、博士の手法の有効性を認めつつも、危うさに目をつぶることなどしなかったはずだ。きちんと指摘し、教え導こうと努力しただろう。ーーエプィヌに説いたように。

(そのお気持ちさえ、殿下にとっては利用するべきもので)

 ロギ師が、単純に騙されているだけとは思わない。本当は、全て分かっているのではないだろうか。何よりも生きて研究を続けることに重点を置くからこそ、博士に厳しく接したし、救いの手を差し伸べることもなかった。才を守ってやりたいというのも学者としての驕りだとさえ考えていそうだと思った。

 対してスィアチ師は、高家出身というある種の特権のおかげか、親友への対抗心からか、博士に手を差し伸べた。

 エプィヌには分かる気がした。何よりも欲しいと願う圧倒的な才能の前で、しかも、命をかけるほどの熱情を見せられて……自分でも同じことをしてしまうかもしれないと。その尊い研究のどこか末端にでも関わることができれば、それを完遂する者を、一番近くで見ていることができれば、羨望の中で苦しみながらも、自分も何かを成し遂げたような気分になれるのではないかと、きっと期待してしまうだろう。

 スィアチは依然、膝を摩り続けている。

「ペリドット君が禁忌から手を引くことを王に誓わせるため、最も親しくしていたわたしは、人質に取られたいうわけです。ペリドット君の尋問には、直接、王宮司書(ドムン・ティディーヤ)があたったと聞きました。一巻の終わりだ、これでペリドット君もわたしも、この世に別れを告げるのかと思いましたが、ペリドット君はなぜか、あっさりと解放されたのです。だから、わたしは悟りました」

 エプィヌは目を見開いた。

「知って……いたのですね」

 彼は静かに微笑んだ。

「ペリドット君は王宮書庫ドムン・パディリィフィに通う権利を持っていましたから、王宮司書(ドムン・ティディーヤ)はおそらく、ペリドット君の正体を何かのきっかけで知ったのでしょう。そう考えるしか、なかったのですよ」

 正しい発想だ。ラズワルドの師は、確かに、博士が賢人(エクセリーヤ)であることを察していた。

(でも……)

 本当に、先の王宮司書(ドムン・ティディーヤ)は、博士が賢人(エクセリーヤ)の一人だからという理由で目をつぶったのだろうか。博士が救われたからこそ今の自分があるのだし、エプィヌにはそれを恨むべくもない。それでも、正義感だけで物を言うのならば、博士が許されたのなら、罰せられた者は、皆等しく救われるべきだったと思った。

(ラズワルドだったら、どうするのかしら)

 ふと考えたが、答えはもう出ている。不可侵を誓った彼ならば、師と同じ選択をするだろう。エプィヌを罰することはないのだ。人としての善悪や正誤に関わらず、それが知の番人というもので、自らの手で、この国から賢人(エクセリーヤ)を失わせるわけにはいかないと、そう言うだろう。

「ーー博士は、それで、どうしたのですか?」

 ローブの袖の中で重ねた両手を握り締めながら、エプィヌは息を詰めた。

 なんとなく、答えは分かっていた。王族さえ手にかける可能性のある火犬(タゥ・ケラナ)なら、いくら賢人(エクセリーヤ)とはいえ、博士を簡単に見逃すはずもなかった。

「この件をきっかけに、ペリドット君はすっかり当該の研究を捨てました」

 あり得ない、と否定する気持ちと、それが博士らしいと安堵する気持ちが交錯した。研究に全てを懸けるとは、己の信念を曲げずに死を受け入れることだけではないはずで、博士なら、賢人(エクセリーヤ)ゆえに、生き延びる方を選ぶと思えるからだ。ーーそれでも、あっさりと研究を放棄した博士の行動は信じがたい。

 たしかに、エプィヌの知る博士のその後の人生において、彼が火犬(タゥ・ケラナ)の影を恐れているような様子は全く見受けられなかった。

(先の王宮司書(ドムン・ティディーヤ)が、博士を監査対象とはしなかった、そう火犬(タゥ・ケラナ)に命じることは、あるいは可能かもしれない。だとしたら……)

 エプィヌは、博士の研究を知りたがったラズワルドのことを思った。

(その不正を見抜いていて、そう言ったの?)

 彼にとって博士の研究が持つ意味には、純粋な知的好奇心の他に何かあるだろうとは分かっていた。けれど、こうなれば最悪の展開だ。

(だからこそ、わたしは博士の研究を再度問わねばならない)

 なんとしても、たとえ現物がなくとも、ここで博士の遺したものをスィアチ師から引き出す必要がある。

(そもそも、“喋れぬ神”を最初に口にしたのはラズワルドだったわ)

 風炉の熾火がはぜて、小さな火の粉を上げた。エーフロシュネが戻るまで、あと、どれくらい時はあるだろうか。

 黙りこくったままのエプィヌに、スィアチはさらに告げた。

「ロギ師に資料を託して、燃やしてくれとはっきり言ったのを見ました。ロギ師は……安心していましたよ」

「でも、さっきは博士が何かを遺して……」

(まさか)

 しかし、閃いたのも束の間、スィアチはエプィヌには何も喋らせなかった。

「この話を聞いたあなたになら、自身の無謀さがよく分かっていますよね?」

「ーーはい」

 エプィヌは震えつつ言った。恐れもあるが、今度は、それよりは後ろ向きでなく、切実な気持ちだった。

「わたしは、自分のためというよりは……世に出なかった博士の成果を広く知らしめ、わたしが天才だと思う人……ラーギニールさまのような人が、その才に制限を受けずに学問をできるよう、鎖を払いたいと願うと思います」

「それを、その研究一つで叶えられると、そう考えているのですか?」

「研究だけではありません」

 エプィヌは顔を上げ、エーフロシュネが戻って来るかもしれないという懸念などすっかり排除すると、はっきり声に出した。

「殿下はわたしが歴史ノ賢人ウィステ・エクセリーヤを継ぐ者であることを利用して、叛乱によって途絶えた十三人の賢人(エクセリーヤ)の再編成をお考えです。それはすなわち革命……わたしにとっては、博士の研究に迫り、正史を追うための戦いになるでしょう」

「なるほどね」

 ラーギニールは遅いんだよとでも言うように、にやりとこちらを見遣った。

「殿下の目論見が成功しようと失敗しようと、表向き対立をやっているぼくになら、どちらにも道がある」

 彼の恐ろしいところは、既にこちらの決心を見通していて、冷静に状況を俯瞰していたことだ。今日の天気は晴れだね、と言うくらいの感覚で、重大なことを軽々と口にしてしまう。

「ーーエプィヌ君、そのようなことを、なぜわたしの耳に入れたのですか」

 さすがに慄いたのか、スィアチ師は後退ろうとでもするように均衡を崩し、仰け反って手を突いた。

 かつて博士に手を貸して拷問にかけられたこの師が、これ以上王国の暗部に囚われるのは酷だ。けれど、エプィヌにも退っ引きならない事情がある。

「一つは、スィアチ師がこれからその渦に巻き込まれる可能性があると考えたから、そしてもう一つは、それ以前に、師はこの件をご存知かもしれないと考えたからです」

 スィアチは眉を顰め、何を言っているのだと目で問うた。

「……申し上げますと、親しくしておられるとある学徒が、その革命に加担しているからです」

「……エーフロシュネ君か」

 整わぬ息の中、スィアチは力無く呟く。震える手で顔を覆った老人は、急に老け込んだように、一回りも二回りも小さく見えた。

 それから、誰もが緊張感の中で次の言葉を考えていたが、口を開く前に、叩き鐘が戸を打つ音が響いた。ーー間が良過ぎるとも言えた。しかし、彼が話を立ち聞きしていたとしても、そう疑われるのを承知していたとしても、エプィヌにはもう、何も不思議ではなかった。

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