悪夢
正面はテニスコートが入りそうなくらい広い吹き抜けのリビング。お酒の缶や瓶がそこら中に散らばっている。
その向こうは草が伸び放題の広めの庭、そして新しいレンガで象られた花壇。花壇には花も野菜も植えられておらず、やはり雑草が伸び放題。
左手は洗い物が溢れかえったオープンキッチン。右手にはリビングの側面一杯を使って2階へと続くオープンステアー。
建物内部、目に映る全体的な色調は白、ゴミやヤニが何とかその白を駆逐しようと頑張っている。
そんな場所に御門は一人佇んでいた。正確にはもう一人、人であったものがオープンステアー上部からぶら下がっている。
ここは……。そうか、私の記憶の中……
そして、私の世界が終わった場所……。
御門が俯く。澱んだ目が一瞬寂しげに翳った。
と、予兆無く突然場面が切り替わる。
真っ暗な闇、羊水の中、規則正しく感じる鼓動、鼓動のたびに伝わる温もり。
ここは、私の世界が、始まった場所……
そう、私は……、本当は……っ!。
静流は目を背け、更に目を瞑った。
本当は知ってる。
私は、望まれて生まれてきた。
□□□□□□□
最初に知った感情は「愛情」だった。
愛情という概念を理解していたわけではない。
ただ、それがひどく温かく心地よいものだということは理解していた。
まだ外の世界に出る前、規則正しいリズムで、生きるための栄養と共にそれは送られてきた。鼓動を感じるたびにそれは私に降り注いだ。
元気に育ってね
早く大きくなって
早くあなたの顔が見たい
毎日、外からの想いも届けられた。
大きくなるんだぞ
早く君の顔が見たいよ
たまに私は、返事代わりに壁を蹴った。
それだけのことだ。
それだけのことで二人は大喜びしていた。
日々、その時、その瞬間、無限の愛情が私に注がれ、私はその全てを貪欲に蓄え続けた。
そして、私はついに明るい世界へ導かれる。
瞬間
今まで以上に温かく心地よい想いが、今まで以上にたくさんの想いが、私に向かって一気に押し寄せた。
私は、まだよく見えない目で二人を見ようとした。やはり二人の顔は見えなかった。
しかし私ははっきりと理解していた。
この人達が私のお父さんとお母さんだ。と
そして私ははっきりと理解していた。
私は望まれて生まれてきたのだ。と
私は、蓄えた想いの全てを解放した。
二歳の時、妹が生まれた。
お父さんもお母さんも、愛情を分けるのではなく、さらに大きな愛情で私達2人をつつんだ。私達はことごとく愛され続けた。
私はお返しができないもどかしさを感じていた。与えてもらった愛情に何とかお返しをしたいと考えるようになっていた。
そしてついにお返しが出来る機会が訪れる。
三歳の時、お父さんに近付いて来る男達がいた。男達はお父さんを騙そうとしていた。
私は必死に説明した。男達の考えていることを画用紙八枚に書きなぐり、足りない言葉で必死に訴えた。
結局男達は、私の訴えとは関係なく逮捕された。
「御門、あの人達が悪い人だってどうしてわかったんだい?」お父さんは言った。
「だってあの人達、悪いこと考えていたもの」私は言った。
お父さんとお母さんは驚いていた。
「じゃ、じゃあお父さんが今考えていることはわかるかい?」
「お母さん、さいきんふとったなあ」
お父さんはさらに驚いて言った。
「せ、正解だ!」
「なんですってぇ!?」
その日、お父さんとお母さんが少し喧嘩をした。
私は嬉しかった。私が視たことを口に出したら二人が喜んだからだ。
だから私は、お客さんが来るたびに、帰った後、その人が考えていたことを口にした。
お父さんもお母さんも、「御門は超能力者だ!」と言って喜んでいた。
私は有頂天だった。
天にも昇る気分だった。もっと喜んで欲しい。もっと褒めて欲しい。
私は調子に乗っていた。致命的な勘違いに気付かず、ただただ視えたことを話せば喜ばれると、そう思っていた。
だから四歳になったある日、私は自覚無いまま決定的な一言を口にする。
「お父さん、裸のおねえさんとだっこした!」
悪意は無かった。無邪気に褒められると思った。いつものように「御門はすごいな~!」と褒められる自分の姿を想像しての一言だった。
そんな安易な一言で、たったそれだけのことで
私の一家は崩壊した。
お父さんは出て行った。
お母さんは昼間からお酒を飲むようになり、家事もしなくなった。家は汚れ庭は荒れた。
私はお母さんを喜ばせようと、視えたことを一生懸命言い続けた。
最初はぎこちなく笑ってくれていた母も、私が口を開くたびに顔を引き攣らせるようになり、そしてとうとう私を無視するようになった。
その時の私は、気持ちの細かい移り変わりなど理解していなかった。お母さんが私に向けるのドロドロとした気持ちすら、違和感を感じつつも愛情だと解釈していた。いや、そう思いたかっただけなのかもしれない。
だから私は視えたことを言い続けた。
喜んで欲しかった。褒めて欲しかった。
だけど結局お母さんは一度も笑ってくれなかった。
五歳になった年のある日、幼稚園から帰ってくると、家がウソみたいに綺麗になっていた。
その日の夕方、お母さんが知らない男の人を連れてきた。
私は一目見てわかった。この人はお母さんを騙そうとしている。
許さない!
お母さんを騙すなんて絶対に許さない! 絶対にお母さんを助ける!
私は必死に説明した。画用紙一二枚に書きなぐって必死に訴えた。
あの人はお母さんをだまそうとしてるの。お父さんから貰ったお金をぬすもうとしてるんだよ。
お母さんは私にこう言った「黙りなさい」。私はお母さんの足に取り縋って訴えた。
三日くらいたったある日、懸命に訴える私に、お母さんは
「うるさい! もうしゃべるな!」と怒鳴りつけ、引っ叩いた。
私はトボトボと2階にあがり、一人泣いた。お父さんに買って貰ったぬいぐるみに鼻水を擦りつけて泣きじゃくった。妹が「ねーねどうしたの?」と私を慰めてくれた。
それでも私は言い続けた。男の悪意が膨らんでいくのがわかったからだ。
私は毎日言い続け、毎日引っ叩かれ、毎日泣いた。
そして六歳の誕生日の昼。
近くの公園から帰ってくると、また汚れ始めていた家の中が更にめちゃくちゃになっていた。
そしてお母さんがリビングのソファーの上で突っ伏して泣いていた。
「お母さんどうしたの?」私は言った。
「うるさい、しゃべるな!」お母さんは言った。
私は具体的に何があったのか理解できなかった。ただ、お母さんがあの人にいじめられたということだけはわかった。
だからいつものように、あの人はお母さんを騙そうとしていると言った。あの人と仲良くしないでと言った。
今ならわかる。私はその時、言ってはならない事を言ったのだ。
母は、見たこともない凄まじい形相で私を睨みつけ、怒鳴った。
「お前なんか生まなきゃ良かった! この化け物っ!」
化け、物……?
私は生まれて初めて向けられた高純度の憎悪に身を強張らせた。私のことを最初に愛してくれたお母さんは、私のことを最初に憎悪した。
私は家を飛び出した。泣き喚きながら走った。
信じられなかった。信じたくなかった。
だから間違いだと思った。お母さんはちょっと気分が良くなかっただけだと思った。私が悪い子だったから怒ったんだと思った。仲直りしてくれると思った。
私は決めた。
良い子になろう。お母さんの言い付けは全て守ろう。黙れと言ったら黙る。見るなと言われたら見ない。どこか行けと言われたらどこか行く。
言うことを聞こう。ごめんなさいしよう。許してもらおう。
夕方、私は家に向かって走った。
お母さんごめんね、私が悪かったよ。ちゃんと言うこと聞くから嫌わないで。何でもするから私のこと捨てないで。
家のドアを開けてリビングに掛け込んだ、そして私は精いっぱい大きな声で叫んだ。
「お母さん! ごめんなさい!」
返事は無かった。
お母さんはソファーにもいなかった。
「お母さん!?」
不安が爆発した。
生まれてから、いや、生まれる前から一度も途切れたことのないお母さんの思念が感じられなかったからだ。
出て行った……? 私が悪い子だから、私を捨てた……?
私なんか生まれてこなければよかったから……?
化け物、だから……?
「お母さん!」
私は再度叫んだ。その時
――ぴちゃっ
後ろから音がした。
私は振り返った。床に水たまりが出来ていた。
そして視界の隅に、なにやら何かが揺れているのが見えた。私は少し視線を上げた。
吹き抜けのリビング、二階へと続くオープンステアーの一番上の手すり、そこから……
――お母さんがぶら下がっていた。
なんで?
どうして?
お母さん、考えてることが視えないよ? どうしたの?
お母さん、なんでぶらぶらしてるの? なんで変な顔してるの?
お母さん、おしっこ漏れてるよ? おトイレいかなきゃダメだよ?
お母さん?
お母さん!
お母さん……
おかあ…………
「いやああああああああああああああああああ――――ッ!」
私は全てを解放した。
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二日後、私はお母さんの下で眠っているところを、妹と一緒に保護された。
そしてさらに1週間後、黒いスーツを着た男達が何人もやってきて私を連れて行った。
いくつかテストをさせられた後、全くの無表情、存在感の薄い影のような男が私に言った。
「私達の言うことを聞かないと妹が死ぬ。君が死んでも妹が死ぬ」
私は必死にその人達の言った通りに働いた。
私は罵られ続けた。蔑まれ続けた。
視認するだけで流れ込んでくる悪意が、私の心を削ぎ落としていった。
八歳の時、他人にはっきりと面と向かって化け物と言われた。
九歳の時に、お前は生まれてきたのが間違いだと言われた。
一〇歳の時に、なに人間のふりをしてるんだ? と思われた。
少しずつ、本当に少しずつ、
何を言われても、何を思われても、幾度潜っても、何も感じなくなっていった。
そしていつしか、私は《闇の姫》と呼ばれるようになった。