第123話 脅威
部隊は浮足立っている。特にこれといった不祥事はなかったが、隊員の足並みが乱れつつあるのを感じた。特定の個人が原因なら注意しやすい。周りの目から見ても明らかであることが多く、一人を晒し上げることになるが、全員の気が引き締まる。それが仮にミハイル軍曹であっても同じだ。常識の範囲内でのボディタッチが許されたからといって、あからさまな『セクハラ』をしてくれば、指揮官という立場を利用して晒し上げてやるつもりだった。
しかし……。
「いいトレーニング日和だ。こんな日はフリースタンディング・ハンドスタンド・プッシュアップに限るな! そう思わんか? ニキータ伍長」
当の本人は逆立ちした状態で腕立て伏せを行い、筋トレに夢中だった。ボディタッチをしてくる素振りは一切なく、部隊式決闘の以前と以後で態度が全く変わらなかった。何か裏があるようにしか思えないが、表立って何かされたわけでもないし、注意のしようがない。
「ええ。かもしれませんね」
適当に相槌を打ち、視線を右隣に向ける。そこには、松葉杖をつきながら歩行するエリックス曹長がおり、顔色は険しい。前回の敗北を引きずっており、あれから一言も発していなかった。折れた右足に関しては応急処置を受けており、添え木に見立てた結界で固定し、見た目だけなら正常そのもの。グニャリと曲がっていたようには見えず、意思能力者なら自己治癒力の強化で治りそうに思えるが、彼は『芸術系』だ。再生能力は『肉体系』の分野に該当し、どちらかと言えば苦手な系統に位置している。
恐らく、あのまま放置して治ることはない。
できる限り早く外科医に診せ、適切な処置を受けさせるべきだ。部隊にも衛生兵は存在するが、応急処置と救護活動が主な仕事。仮に手術が可能だったとしても、幽遊原野のど真ん中で行わせるわけにはいかない。予測不能の『重力反転』が起こる可能性が常に付き纏い、最悪の場合、部隊は全滅する。
いずれにしても、煉獄界から人間界に帰還することが急務であり、『煉獄の門』を探すことが最優先事項となる。なんの手掛かりもなければ、辺りをあてもなく彷徨うことになるが、一応の目星はついている。
『セルゲイ大尉を二名目撃した?』
複数人の隊員から確認された怪奇現象。その情報をもとに、部隊を進行させている。確たる証拠はないわけだが、まるっきりの出鱈目とも思えない。部隊全員が『未知の悪意』を観測しており、セルゲイ大尉が目撃された位置とも一致している。『煉獄の門』を見つけることが最優先事項であることに変わりはないが、目撃地点に向かうように指示した。あてもなく彷徨うにせよ、大尉の影を追うにせよ、『煉獄の門』を探すのは同じであり、それならば何かしらの成果を得られそうな場所に赴くべきだと判断した。それに、大尉が本物なら部隊の士気は向上する。気が抜けつつある部隊を一喝し、生存確率はグッと増す。一石二鳥どころか一石四鳥ぐらいの恩恵をもたらし、『煉獄の門』が見つけられるかどうかは些末な問題になる。
色々と問題を抱えているのは確かだが、目撃地点までもうすぐだ。偽物や幻影の可能性を考慮しつつも、期待せずにはいられない。
「ニキータ伍長、これを……!!」
前線にいる男性隊員が声を上げ、何かを目撃する。声音だけでは判別がつかず、隊に停止を命じて、声を発した男性隊員のもとへと赴いた。前線付近にいる隊員たちの隙間を通り抜け、ニキータは呼ばれた意味を理解する。
それは、一見するとダマスカス鋼に似ていた。色は黒だが、波状の文様が特徴的で、文様部分は鉄を熱したような橙色の輝きを放っている。サイズも小ぶりで、注視しなければ、その辺の石ころと見分けがつかない。ただ、周囲は不自然なほど窪んでおり、見るからに異様な力が働いているのが分かる。これでも何度か煉獄界を遠征しており、目撃したことはないものの、存在自体は聞き及んだことがある。回収できなかった理由は不明だが、名称と効果だけは知っている。
「荷重石……っ」
その時、重力が反転した。
◇◇◇
原生蝕林には雨が降った。文字にしてみれば、なんの変哲もない出来事のように思えるが、煉獄界の環境を踏まえると一大事だ。
「「…………」」
当然、手は打った。結界を再展開し、雨にかからないように遮蔽物を作った。ただ、よく考えてもみて欲しい。雨が降ってきたな、と感じた時、身体には何が起きているだろうか。雨が降る気配を未然に察知することは難しく、煉獄界の気象予報士でもないのなら、大抵は雨が降った後に対応することになる。
ようするに……。
「お互い、雨にかかってしまったようだね」
衣服が肌にピッタリと張り付くほどの水量を浴びることはなかったものの、肌に軽く触れてしまったのは間違いない。見た目から雨に『かかった』『かからない』を判別することは不可能だが、ライサの表情からして結果は明らかだろう。
「…………」
彼女は何も語らない。すでに雨の作用を受けてしまったのか、これから訪れる展開に恐怖しているのかは読み取ることができない。どちらにしても、気落ちしている。人の性根を腐らせる雨を浴びて、萎えてしまっている。
なんて声をかけるべきか。
『浄化飴』さえ見つければ元に戻る。と言うのは簡単だ。希望を人参のようにぶら下げ、馬車馬のように働かせることも『マーリン』なら可能だろう。その手の人心掌握術は頭に叩き込まれている。意思能力を抜きにして、口先だけで人を動かすことに長けている彼にとって、目の前の小娘をやる気にさせるのは容易い。
ただそれは、マステルの人物像とは程遠い。一応、曲がりなりにも家庭を持っているし、真っ当な職業に就いていた。善人だと言い張るつもりはないが、世間一般が抱くであろう普遍的な倫理観は持ち合わせているつもりだ。その感覚が言っている。ここで安易に希望を持たせるのは違うと。気休めの言葉を並べたところで問題が解決するわけでもなく、状況が好転するわけでもない。
だからこそ、次の一言が重要だ。過度な期待を持たせることなく、人心を掌握するような口先ばかりの言葉に頼ることもなく、彼女のやる気を引き出す必要がある。確認すべきことも山ほどあるが、やるべきことは決まっていた。
「ひとまず雨が止むまで休もうか。後のことはその時に考えればいい」
ライサは軽く目を見開き、驚いたような表情を浮かべている。しばらく沈黙の間が続いていたが、こくりと頷いて提案を受け入れてくれたのが分かる。
雨音が響く。パチパチと音を立て、結界に弾かれ、表面を滴り落ちていく。この先どうなるかなんて分からない。未来への展望は出鼻で挫かれ、それどころではない状況になったのかもしれない。とはいえ、不思議と心は落ち着いている。本来、脅威であるはずの雨音が安らぎを与えてくれる。
一つ思うことがあるとすれば、この不確かな関係が壊れてしまわないことを今は願うばかりだった。




