エマさんには全部見えている ――壁を見ているのではございません、坊ちゃまの恋の糸を眺めております
私は、壁を見ているのではございません。
誤解のないよう、最初に申し上げておきます。ヴェルツ家にお仕えして二十年になりますメイドのエマと申しますが、私が日がな一日ニコニコと壁のあたりを眺めておりますのは、壁に用があるからではないのでございます。
糸を、見ております。
人と人との間には、糸が渡っております。血のつながりは銀色。慕わしさは金色。ご縁の濃いお家に長くお仕えしておりますと、だんだんと目が慣れてまいりまして、いつからか、はっきり見えるようになりました。ヴェルツ家は、それはもう糸の濃いお家でございます。先代の旦那様と奥様の間の金色などは、廊下の端から端まで、綱引きでもできそうなほど太うございました。
糸は、在るものを映すだけでございます。無いものを作りはいたしません。ですから糸を見るというのは、その方の胸の内の、いちばん正直なところを見るということでございます。
たとえば村のパン屋のご夫婦は、店先で年中言い合いをしておいでですが、お二人の金色は今日も太くて丈夫でございます。糸は、口喧嘩くらいでは細りません。細るのは、言葉が無くなった時でございます。二十年も見ておりますと、そういうことが、だんだんわかってまいります。
行儀のよい趣味でないことは、承知しております。
それでも見てしまうのは――うちの坊ちゃまの糸が、長いこと、一本きりだったからでございます。
銀色が、一本。遠くにお住まいのリリア様との、血のつながりの糸だけ。
金色は、ございません。細いのも、ほつれかけたのも、一本も。
坊ちゃまは、この辺境の別邸にいらしてからというもの、人と関わることを、それはもう見事にお避けになります。村の寄り合いは丁重にお断りし、行商人とは必要なことだけを話し、あとは畑でございます。大根でございます。坊ちゃまの育てる大根は年々見事になりますが、大根と人との間に糸は渡りません。私、確認いたしました。渡りませんでした。
わけあってのことなのだろうと、お察しはしております。坊ちゃまがときおり、誰もいない畑で「関わらない」「静かに暮らす」と決意を固めるお顔をなさっているのを、私は存じております。何と関わらないのかは存じませんが、あれは、何かから逃げていらっしゃる方のお顔でございます。
奥様の口癖を、思い出します。
「あの子の糸が増える日が来るといいけれど」
奥様は、坊ちゃまの糸を、いつも気にかけていらっしゃいました。先代の旦那様は私に糸のことをお教えくださった方ですが、こう言いつけてもおられました。
「あれには黙っておくように。時が来れば、あの子は自分で知る」
でございますから、私は申し上げません。申し上げられません。
私にできますのは、ニコニコと、お茶と、すこし多めの夕食だけでございます。
二十年、それだけをしてまいりました。
*
その朝、畑の縁に、見知らぬお嬢さんが立っておいででした。
ショートヘアの、飾り気のない旅装のお嬢さん。物怖じというものを、生まれた時にどこかへ置いてきたような、まっすぐな目。坊ちゃまが警戒なさっているのが、台所の窓からでもわかりました。坊ちゃまの警戒は、背中が大根のようにまっすぐになるので、わかりやすいのでございます。
フィオナ様と名乗られたそのお嬢さんは、村に一泊のはずが二泊になり、気づけば離れにお住まいになっておりました。修行だそうでございます。魔力の鍛錬とやらで、丘で光を出しては、今日も安定しなかったと言って戻っていらっしゃいます。
そして数日後の、夕餉のことでございます。
私は配膳をしておりました。坊ちゃまの汁椀を置き、フィオナ様の匙を直し、顔を上げた、その時。
見えたのでございます。
坊ちゃまの胸元から、細い、細い、蜘蛛の糸ほどの――金色。
それは食卓を渡って、向かいで根菜を頬張るフィオナ様の胸元へと、頼りなく、けれど確かに、つながっておりました。
申し遅れましたが、メイドというものは、どのような時でも配膳の手を止めてはならないのでございます。私は完璧に汁椀を置き、完璧に一礼し、完璧に壁際へ下がりました。お顔はもちろん、ニコニコでございます。
内心は、大騒ぎでございました。
(金色。金色でございます。奥様、金色でございます。二十年。二十年でございますよ。ようやく。ああ、いけない、お盆を持つ手に力が。いけません。ニコニコ。ニコニコでございます)
「エマさん、どうかしたか」
「いいえ、坊ちゃま。壁を見ておりました」
「そうか」
そうか、ではございません。あなた様の胸元に、いま国宝が生えております。
*
その日から、私の日課に、観測が加わりました。
本日の糸、二ミリ増でございます。
糸に定規は当てられませんので、あくまでメイドの目分量でございますが、二十年も糸を見ておりますと、目分量にも年季が入ります。私は毎晩、寝る前に帳面へつけております。誰にも見せられない帳面でございます。表紙には「掃除記録」と書いてございます。
つけてみてわかったことがございます。糸が太る日には、法則がございました。
太るのは、なにか大きな出来事のあった日ではないのでございます。
フィオナ様が料理を習った日。五ミリ。坊ちゃまは「火が強い」「切り方が雑だ」と口やかましく、フィオナ様は「うるさいですね」と口を尖らせ、それでいてお二人とも、台所を出ようとなさいません。私は廊下で聞いております。壁のそばで。ニコニコと。
大根をお二人で抜いた日。八ミリ。「この大根は、二人で抜きましょう」と言い出されたのはフィオナ様で、一本の大根に二人がかりなど、農作業としては非効率の極みでございますが、糸というものは、効率の悪いところでよく育つのでございます。
雨で丘に行けなかった日。三ミリ。何もない日にも太るのだと知りまして、私は帳面に「糸は全天候」と書きました。我ながら良い句だと思っております。
観測には、警備の任務も含まれます。
ある日、王都のほうから、身なりのよい若様が馬車でお見えになりました。クロード様とおっしゃる、穏やかな笑みの、いかにも如才ないお方でございます。交易路のお調べだそうで、坊ちゃまと居間で長々とお話しになりました。
私はお茶をお出ししながら、確認すべきことを確認いたしました。
(外来の若様と、フィオナ様の間――糸、なし。よろしゅうございます)
(外来の若様と、坊ちゃまの間――糸、なし。当然でございます)
(坊ちゃまとフィオナ様の間――本日も、異常なし。むしろ良好)
帳面には「本日、外来の糸、ゼロ」と記しました。メイドの仕事は、家を整えることでございます。家の内訳には、糸も含まれると、私は解釈しております。
なお、その若様がお帰りになる際、坊ちゃまのよそゆきの笑顔が普段の三割増しで疲れておいででしたので、夕食は普段の三割増しにいたしました。換算式は経験則でございます。
――さて。ここで白状しなければならないことがございます。
糸は、在るものを映すだけ。作ることは、誰にもできません。
ですが、在るものが育ちやすいように土を耕すことは――メイドにも、できるのでございます。
フィオナ様がお泊まりになった最初の晩、客間の布団が「どういうわけか」もう一組干してあったのは、私でございます。
お二人の話が弾んでいる時、私は決してお茶を運びません。話が途切れ、気まずい沈黙が三つ数えられた頃に、湯気の立つお茶と、切った果実をお運びします。話題というものは、湯気の向こうで生き返るものでございます。
夕食は、いつもすこし多めに作ります。多めに作りますと、坊ちゃまは残すことがおできになりません。「もったいないから食べていけ」と、フィオナ様をお引き止めになります。もったいない、は、坊ちゃまがご自分にお許しになっている、数少ない優しさの言い訳でございます。私はその言い訳を、毎夕、鍋一杯ぶん、ご用意しております。
卑怯だとおっしゃいますか。
メイドは、家を整えるのが仕事でございます。私はただ、すこし広い意味で、家を整えておるだけでございます。
*
一度だけ、フィオナ様のほうから、廊下で呼び止められたことがございます。
「エマさん。ちょっと聞いていいですか」
「何なりと」
「ランベルトさんって……昔から、ああなんですか」
ああ、というのがどの部分を指すのか、伺いませんでした。伺わずとも、フィオナ様の目が、台所のほうを向いておりましたので。
「昔のことは、多くは存じません」と私は申し上げました。「ただ、こちらにいらしてからの坊ちゃまなら、存じております。人を避けて、畑ばかり向いて、それでいて――人の飯の心配だけは、おやめにならない方でございます」
「……それ、わかります」フィオナ様は、少し笑われました。「私、最初の日にいきなり昼ごはん出されましたもん。他人の畑に勝手に入った、知らない女に」
「もったいないから、とおっしゃったのでは」
「言ってました。もったいないからって」
「あの方の『もったいない』は、翻訳の必要な言葉でございます」
「翻訳すると?」
私はニコニコいたしました。ニコニコは、こういう時のためにございます。
「さあ。壁に聞いてくださいまし」
フィオナ様は「エマさんって時々変ですよね」とおっしゃって、離れへ戻って行かれました。その背中の胸元から伸びる金色が、廊下の角を曲がっても、ずっと、台所のほうへ渡っておりました。
本日、二ミリ増。片側からだけではなく、両側から太る糸は、良い糸でございます。
*
糸が、私のこれまで見た中でいちばん太くなった夜のことを、お話しいたします。
特別な日ではございませんでした。夕餉が済み、フィオナ様が離れへ戻られ、坊ちゃまが書斎に入られた、ただの夜でございます。ただ、廊下ですれ違った坊ちゃまの胸元の金色が、綱と呼びたいほどの太さで、暗い廊下にほんのり灯りのように見えて――私は、しばらく動けませんでした。
先代の旦那様と奥様の、あの廊下の綱引きの糸と、同じ太さでございました。
私はその晩、居間の肖像画の前に、お茶をひとつお供えいたしました。誰にも見つからない時間にそういうことをするのは、二十年来の習いでございます。
「旦那様。奥様」
肖像の中のお二人は、いつもどおり、すこし澄ましたお顔でございます。
「ご報告がございます。……増えましてございます」
声が、思ったより震えました。メイドたるもの、声を震わせてはならないのですが、幸い、勤務時間外でございました。
「金色でございます。それはもう、見事な金色で。旦那様と奥様のものと、同じ太さで。……お相手は、畑にまっすぐ入ってくるような、物怖じしないお嬢さんで、坊ちゃまの小言をちっとも怖がらない、よく食べる、良い方でございます」
奥様。あの子の糸が増える日が、来ましてございます。
私はニコニコいたしました。勤務時間外のニコニコは、少々、水気が多くなります。壁のせいでございます。その夜の壁は、すこし、にじんで見えました。
*
翌朝、坊ちゃまに呼ばれました。
居間のテーブルに、古い本が置いてございました。書斎の奥にしまわれていた、『縁の魔法の書』。先代の旦那様の字で書き継がれた、あの本でございます。
ああ、と思いました。
時が、来たのでございます。
「エマ。……糸のことが、書いてある」
「はい」
「お前には、見えているのか」
「はい。私には、糸が見えます」
坊ちゃまは、それはもうたくさんのことをお尋ねになりました。いつからか。俺の糸も見えていたのか。なぜ教えなかったのか。私はひとつずつ、二十年ぶんの正直で、お答えいたしました。銀色が一本きりだったこと。フィオナ様がいらしてから、金色が生まれたこと。それが日ごとに、太くなっていったこと。
最後に坊ちゃまは、すこし疲れたお顔で、お尋ねになりました。
「お前は、それを毎日、俺の横で見ていたのか。何も言わずに」
「はい。ニコニコしながら」
「……壁を見ているのかと思っていた」
「壁も時々見ております。壁も悪くございませんので」
「壁を褒めるな」
失礼いたしました、と頭を下げました。下げながら、思っておりました。
坊ちゃま。壁のそばは、この家でいちばん、あなた様の糸がよく見える場所なのでございます。二十年、そこが私の持ち場でございました。奥様から引き継いだ、誰に言いつけられたのでもない、私だけの持ち場でございました。
とは、申し上げません。
メイドの忠義は、口に出すと湿っぽくなっていけません。壁のせいにしておくのが、ちょうどよいのでございます。
*
午後、フィオナ様が修行からお戻りになりました。
「ただいまです」
「おかえり」
お二人は台所に立たれます。火加減で揉め、塩加減で揉め、出汁は宗教かどうかで揉め、それでいて、どちらも台所を出ようとなさいません。糸は、湯気の中で、また少し太ります。
明日は、お二人で丘へ行かれるそうでございます。フィオナ様が「確かめたいことがある」のだとか。何をお確かめになるのかは存じませんが、丘は見晴らしがよく、風が通り、糸のよく育つ場所でございます。メイドの経験則でございます。
お弁当を、すこし多めに、ご用意しておきましょう。
私は今日も、壁を見ておりません。
世界でいちばん見応えのあるものを、見ております。
おしまい、でございます。
お読みくださり、ありがとうございました。メイドのエマの、二十年の定点観測でございました。
この糸の「表側」――何かから逃げているらしい坊ちゃまの側の物語は、連載中の『俺、当て馬なんで逃げます。――なんでついてくるんですか、ヒロインさん』にてどうぞ。畑と大根と、口の悪いお嬢さんの、すれ違いラブコメでございます。エマは本編でも、今日も壁のそばにおります。




