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以前、13・14として掲載していた物になります。
ご迷惑をおかけしますがよろしくお願いします。
「三番でお待ちのお客様、お待たせしました。」
ラッピングされた花束を見せ、注文どおりか確認し、受け渡す。
働き始めて三年と半年がたった。
店長が仕入れや配達へリーファやキノミ達を連れていっても一人で留守番もできるほど店のことが解ってきたが、クリスタルはそうもいかないようだ。
今日も店頭で水やりをしている際に話しかけてきた男性を店内へ入れて小一時間話しているとぞろぞろとお客さんが入ってきた。
リリアも本業が忙しくなってきたこともあり、店を開けがち、私がいれば裏も回るため店長たちも出払い、私とクリスタルだけ。
お客がいてもおしゃべりがやめられず、捕まえた男もそんなクリスタルの様子を見て帰っていてしまったのが数分前、注文が入り、店番なのだから仕事をするようにクリスタルに言い、奥で作業をしていても次は注文待ちの男性とおしゃべりを始めてしまった。
この三年間でお金の使い方になれてもいい物の、給料日前になると
「ごめんノノ! ちょっとだけ貸して」
そう言われ、仕方なく貸すが帰ってきたことはない。
給料日に生活費もろもろを折半したところで
あれが欲しい、
あそこへ行きたい、
何が食べたい、
誰と遊ぶ金が足りない
などぶつぶつ言うのがお決まりになっている。
「お待たせしました。」
最後の注文、クリスタルにつかまっていた男性客に花束を渡すとそそくさと店を出ていく。
そう、ここに来る男性客のほとんどが恋人に花を送るために来る。
多少、家族の誕生日や何かのお祝いだという人もいるが家族をないがしろにして、クリスタルとのおしゃべりを楽しむような人はそもそも花を買いに来ない。
「ここって出会いがないわ。」
二十一歳となったクリスタル。
世間ではまだまだ結婚には早い年だが、貴族としては遅い。
リーリア様とマント様は卒業後すぐに結婚、翌年には子供も生まれているし、昨年もう一人生まれたと手紙が来た。
卒業後もクリスタルと付き合いも持ちたかった令嬢たちは急に庶民の暮らしを始めたクリスタルの行動の意味が何かしら分かったのだろう。
その後の連絡はほぼない。
屋敷の方からも帰ってくるようになどの連絡は一切なく、ギーが時々早朝に顔を出し、手紙を置いて行くぐらいだ。
最近では忙しいのか顔は出さずドアポストに入っていることも多い。
「もう、みんな忙しくて出払っているんだから店番ぐらいしっかりやってよね。」
「だって、全然お客さん来ないんだもん。」
「さっき混んだわよね。」
いい年してしっかりしてほしい物だ。
裏に戻り、タンクの蛇口を開くと白っぽい液体が出てくる。
三年飲み続け、今のところ脱水で倒れたことはない。
近くの薬局の老夫婦がタンク一つ分に必要な塩や砂糖、レモンなどを事前に計って持ってきてくれるため私たちは水に混ぜて毎日飲んでいる。
この液体、補給水と勝手に呼ばせてもらっていたらいつの間にか浸透してしまい、商品名も補給水になってしまった。
最近ではレモンの他にライチなどの味が増えた。
「ただいま、クリスタルはもう上がっていいよ。」
「やった! お疲れ様です。」
リリアが王宮から帰宅した。
昼過ぎだが、クリスタルが仕事をしないのをわかっている面々は早々に帰らせることにしてしまった。
それでは給料泥棒だろうと、店長に聞くとやはり給料の九割がたは旦那様が出しているらしく、そのためか、仕事量は年々増えていく私は手当として給金が増えていくのを、旦那様は何を考えているのかと聞くとクリスタルがお金が無くなると私にせがんでくるという愚痴をここで言ってしまったのが旦那様の耳に入ったのと、店長からの心なしかのお小遣いといわれた。
表で売る物を作り、並べるとどんどん買われていく。
いいことなのだが仕事が永遠に終わらないとだんだんと疲れてきた。
「休憩しましょう。ノノが作ったケーキ地下で冷やしておいたんだ。」
リリアがそういってカルミナの土地では珍しい涼しい地下室で冷やされたチーズケーキを持って来た。
今更だが、リリアとリーファのさん付けは入って三か月ほどやめた。
急いでいるときに面倒だといわれた。
あと、この三年で二人も結婚した。
式などを挙げたわけではないが城に出入りする者は皆、国王陛下に結婚の挨拶をしに行くらしく、クリスタルのドレスとギーの出かけ着を借りた姿で言ってきたのだという。
忙しく、いつ行ったのかすら把握していないのは裏で作業する三人も同じで、昨日か一昨日の話かと思って聞いたらもう一週間も前だといわれ、あの時は貴族の屋敷のパーティーの盛花作りで忙しかったなと思い出す。
そんな忙しい日々を乗り越えた私の腕前はどこにでも出せるぐらいだと店長のお墨付きだが好きで花屋をやっているわけではないため転職先もクリスタルの実家でしかない。
あと半年、半年たてば私の収容期間が終わる。
自由の身、
という言い方には今までの私の生活からしたら語弊もあるが、旦那様やクリスタルに縛られる生活が終わる。
でも、それでいいのだろうか。
この生活しか知らない私はクリスタルからも、スペールディア家からも離れられるのだろうか。
そんな疑問が毎晩頭の中でぐるぐるとして、気が付くと遠くの景色に代わっていることも多い。
冷えたチーズケーキはおいしかった。
家では常温で置いてあるため半分溶けているかの触感だが、冷たい分、タルトの部分も触感があり、おいしかった。
地下室は花の保管のための場所なのだがしばしリリアがチョコレートなどの保管に使っている。
この国でチョコレートはすぐに溶けてしまうためだいたいが飲み物として売られているがナトラリベスやリポネームでは固形の状態で楽しむことができる。
最近店が忙しい。
クリスタルが暇だといったが注文は増えるし、来客数も増え、仕入れの量も増やしつつある。
理由は解っている。
リリアさんの評判がいいのだ。
看板娘としてもあるが植木職人として独り立ちできるほどの腕前になったと店長のお墨付きである彼女に独り立ちしないのか聞くと今後子供ができることも考え、おじである店長のいるこの店の方が都合がいいからやめる気はないという。
夕方、この二年ほど恒例となった残業をしてお店を出ると夕日はほぼ沈み、青白い空が紺色へと変わっていくところだった。
「お嬢さん、一人かい?」
背後からの声を無視して歩みを止めることなく進む。
「お嬢さん、お姉さんかな? ちょっと、ちょっと待って! 悪かったから止まれ。」
「ギーふざけてないで帰るなら行くわよ。そもそも何でここにいるのよ。」
いつもと服装の違うギー、確か今日は定期的に休みを取っているはずの日だ。
毎月同じ日に朝から夜まで出かけ、就寝前までに屋敷に顔を出し、翌日の予定を確認して帰っていく日。
何をしているのか知らないが子供のころからの習慣で誰も気に留めない。
「これ、届けに来たんだ。そんな顔するなよ。お嬢さんって呼んだのそんなに気に食わないか?」
「何これ?」
ギーの話なんて無視して渡された手紙をみる。
そこには奴隷を管理する部署の印が押されている。
「旦那様に聞いたら奴隷解放印を押しに来ることを忘れないでくださいっていう案内だとよ。旦那様にも奴隷をちゃんと介抱するようにってお達しが来てた。」
ふーん。と、いい、手紙を仕舞う。
そういえば昔母にもそんなものが来ていた気がする。
「それで、お嬢様は?」
「今頃家か、遊びに行っているわ。最近朝帰りも多くて困っているのよ。旦那様の耳には入れないでよ。」
「若いんだからいいんじゃねえの? 貴族のしがらみなく自由を謳歌してんだから、少しぐらい多めに見ろよ。」
「お金をつぎ込んでいるのが娼館演劇でも言えること?」
娼館演劇、娼婦や男娼がみだらな恰好で舞台に立ち、みだらな内容の演劇を行う娯楽。
娼婦目当てのおじさんだけだと思ったら、男娼目当ての年齢は幅の広い女性もこっそりと通うほど人気ではあるが人に言える趣味ではない。
さらに客同士でもその場で盛り上がり始めることがあるというクリスタルの話に私は毎度怪訝な顔をするが何度も誘われている。そんなもの見たくない。
「ああー…… 旦那様にも言えない趣味だな……」
「当り前よ。言わないでよ絶対に、私の首が飛んじゃうじゃない。」
「それはないと思うけど」
アパートまでの道を並んで歩きだす。
「解放印押されたらどうするんだ? 屋敷に戻るか? それとも外で働くか?」
「多分、屋敷に戻る。私が戻ればクリスタルも戻るって言うだろうから結局は今までと変わらないかな。」
「何かやりたいことないのかよ。」
やりたいこと、やりたいこと…… 特にない。
屋敷の仕事がいやだったら両親のいるナトラリベスへ行くのもありだろうか。
元奴隷の雇口は城で紹介してもらえたはずだ。
「いったんお屋敷戻って、旦那様と相談だな。」
「俺の質問無視ですか、お嬢さん?」
アパートへ入る私と違い、ギーは屋敷へ向かって歩き始める。
部屋の電気は点いておらず、今日もクリスタルは遊びへ行っているようだ。
翌朝、残業があるため私の出勤時間はクリスタルより遅い。
夕飯の残りをクリスタルの分としてテーブルに置いておいたが食べていない。
帰ってきた気配もない。
今日の彼女は休みだ。
休み前に羽目を外したのはいいが朝帰りもしないとはどういうことかと思うが、クリスタルの分として置いておいた食事を食べる。
出勤し、いつも通りに仕事をこなし、いつも通りに少し残ってお店を出ると店から見える一本隣の通りにクリスタルの姿があった。
楽しそうに男性と腕を組んで、庶民派のブランドのカバンは見たことがない。
きっとあの男が買ってくれたのだろう。
ゆっくりと歩き、もう閉店しているお店のショーウィンドーを覗きながら解放印を押されたら何か自分にご褒美でも買おうかな。
なんて考えながら家路につく。
アパートの前では丁度クリスタルと男が抱き合い、キスをして、別れるところだった。
そんな光景をだんだんと近づきながら見せられ、私は何て言って家に入ればいいのだろうか。
「あ、ノノ、お帰り!」
何て元気な声がするがその胸元が大きく開いた服はなんだ。
スカートの丈が短いのではないか。
そんなアクセサリー持っていた?
なんてまるで母親のようなことが口から出そうになって止まる。
今まで何度も
「ノノがばあやみたい。」
と、言うセリフを吐かれてきた。
ばあやさんも奥さまが亡くなられた後数年はクリスタルが心配でいてくれたが今は奥さまの実家で当主の子供たちの面倒を見ていると配達先なので店長が言っていた。
その配達先も最近増えた数件の一件だ。
「夕飯作るの面倒でしょ。下で食べていこう。」
「いいわよ。それより、少し香水きついわよ。」
あ、つい言ってしまうが、
「え? あたし今日は香水つけてないよ。家に忘れてきちゃったから」
つまり、この甘ったるい匂いはあの男から移り香か。
花屋にいると匂いに鈍感になりやすいとリリアも言っていたがこんなに濃い匂いが解らないなんて、考えたくない状況にどこで教育を間違えたか悩む。
部屋に戻り、順番にシャワーを浴びて、私が出たとき、クリスタルは手紙を読んでいた。
それは昨日、ギーが持って来た私宛の解放印を押しに来いという半年先の話である。
「ノノも、もうそんな年なんだね。」
「自分がおばさんになったかのように言うわね。」
「だってそうでしょ。ノノが二十歳だよ。全然考えてなかった……。解放印が押された後、どうするの?」
恐る恐る、クリスタルは聞いてきた。
「何かしたいことある? 付きたい仕事とか、やってみたいことで今まで我慢してきたことってたくさんあったでしょうから、あたしの子守りばっかりで趣味も何もできなかったでしょう。何か……」
早口で言われるが聞き取れたのは部分部分、ひとまず
「何も予定はないわ。一様、旦那様への報告とかで屋敷に明日行こうかと思っているけど、今後のことは屋敷に戻るがこのままの生活を続けるかは決めてないわ。」
「そっか、お父さん元気かな?」
この家で暮らし始め三年半、一度も屋敷へ戻っていないクリスタル。
まあ、戻る用事もないということだろう。
「明日何だったら一緒に行きましょう。私無しの生活ができるのかどおか、旦那様も気になってしまうだろうからあなたの口から伝えなさい。」
「ああ、そうね。でも、着ていく服あるかしら?」
そう言ってゆっくりとタンスを開け、クローゼットを開けていくがこの三年でだいぶ服の趣味も変わっているため奥の方からワンピースを引っ張り出していた。
服装は仕事に行くよりもしっかり目のワンピースは可愛らしい服を着なくなったリリアからのおさがりだ。
「お久しぶりでごさいます旦那様。いろいろとご助力いただきありがとうごさいます。」
クリスタルは隣で疑問符を浮かべているが旦那様はすぐにわかり、
「生活で困っていることはないかクリスタル。」
「ノノがいてくれますからもんだいありませんわ。」
旦那様は仕事の手を止めないがいつものことだ。
「ノクティスの解放印まで半年を切った。今後について何か考えていることはないか?」
「今のところはまだ何も決めていらず、旦那様がお許しくださるならば両親のようにこのままお屋敷勤めでも、クリスタルとの暮らしを続けてもいいと思っています。」
そういうと旦那様はペンを置いた。
「昔、灰魔術師になりたいと言っていたと聞いたが今は興味はないのか?」
そんな話しただろうか。
ああ、奥さまの薬の準備をしている時に口走ったかもしれない。
灰魔術師、確かに興味はある。
細かい作業は好きだし、何かと役に立つ仕事なのは解っている。
でも、この年から勉強してなれるモノだろうか。
「……興味はないわけではありません。ですが私の持ち得る教養や能力ではこの年から灰魔術師を目指すのは難しいのではないでしょうか?」
「一概にそうだとは言えない。二十歳を過ぎてから白魔術師になろうと勉強を始めた者もいるという。あれは幼いころからの経験でやっと見習いになり、長年かけて一人前となる仕事だ。灰魔術師も見習いからきちんと勉強に汗水流せば、いくらでもなれる仕事だ。否定ばかりではなく、可能性をもて」
旦那様はそういうがこの年で雇ってくれる薬屋もないだろう。
解放印を押した足で王宮で聞いてみようかな。
なんて考えていると
「あそこの薬屋さんは? いつも補給水おろしてくれるおじいちゃんのお店。夫婦二人だけだって前言っていたから若手が欲しいんじゃないかな。店長に明日聞いておくよ。」
なんてクリスタルが言い出す。
やけに積極的だが、仕事中にとやかく言われるのが嫌なのだろうか。
それは仕事をしないクリスタルが悪いんだぞって、何回もいったはずだが、
とはいえ、旦那様も屋敷には置きたくないようだし、ここは店長に頼ってみることにしよう。
「ああ、でも、ノノとの暮らしは楽しいから今まで通りあの家で一緒に暮らさない? 今まで以上に家事頑張るから!」
「クリスタル、何か家事やってる?」
「……食器洗いとか?」
「それは一人で食べた後の話じゃないの?」
「……もうちょっと頑張るから見捨てないで!」
すがるように抱き着いてくる。
一人暮らしが二人でも大変なのだ。
私一人ではただの寝に帰るだけになる。
それなら今まで通りでもいいかと思ってしまう。
「そういえば、父と母は元気ですか?」
「…ああ、さっきも手紙が来たよ。ナトラリベスの奴隷難が落ち着いたようだが、アナ女王は奴隷を買うことがやめられないようだ。困った人だな。」
「元気そうなら、何よりです。」
一切私には連絡をくれないが元気ならいいや。
仕事の連絡しかできないほど、忙しいのだろう。
市場で食材をまとめ買いし家に戻る。
「ノノの誕生日は盛大に祝わないと!」
「いいわよ別に、そんなことしなくって」
「じゃあ、とっておきのプレゼント用意するから待っててね。」
「じゃあ、期待しているわ。」
いつも通りの日常もあと半年を切っているのだと思うとなんだか寂しい。
クリスタルも学校を卒業するときに寂しいだなんだと言っていたがこんな気分だったのだろうか。
翌日、いつも通り朝食を作り、クリスタルと見送り、部屋の掃除をして、洗濯物をあらって、干して、天気がいいからシーツの洗ってしまおうと共同の洗濯場へ本日二回目。
そこにはギーがいた。
「あれ、今日休み?」
「そう。でも夜にはお呼び出しがあるから今のうちに洗って干して取り込んで……忘れそう。」
アパートの洗濯場は一度二階へ上がってから別の階段で下りないといけない。
干すスペースは各自の部屋か中庭、大物のシーツはよく中庭を使っているが馬丁のサリーにクリスタルの服を見られ、旦那様に報告が行かないように慎重に洗濯場から部屋に持ち帰る。
「ここに干しておいてくれれば取り込んで部屋の前に置いておくわよ。」
「まじで、助かるわ。明日着る物もあるから」
「何かお礼を用意しておいてね。」
と、言ってシーツを足で踏んで洗い出す。
昼過ぎには帰ってきたクリスタルは店長が薬屋の老夫婦に聞いてくれると言って早々に遊びへ行ってしまった。
さらに翌日、ゆっくりと出勤すると店長が表でたばこを吸っていた。
「おはようございます。クリスタル伝えで無理なお願いをしてしまってすみません。」
「おはよう。いや、無理でもないからいいって、ノノがここをやめちゃうことの方が痛いけどな。」
「すみません。」
「いいよ。大事な開放日だ。店のみんなでどっか食べに行くか?」
店に入りながらそんな話になるが
「いいですよ。お気遣いなく」
遠慮がちに言うと店長の顔は少し曇ったが見なかったことにする。
きっとキノミやムシコブは解放後の雇いで祝えなかったからと思っているのだろうと、この三年でだいぶ店長の思考も読めるようになった。
お店へやってきた老夫婦。
挨拶をして働き始める日を相談し、仕事内容の書かれたメモを渡される。
さらに数冊の本も渡され、予習しておくように言われた。
予習なんてクリスタルが家庭教師をつけていた時以来だ。
仕事の合間には読めないため家に帰り、寝る前や朝、少しずつ読んでいく。
あの補給水の中身にはちゃんと理由があり、汗はしょっぱく、水分と一緒に塩分も体外へ出ていくため補給しないといけなく、水分だけを取っては逆に脱水症状が悪化するらしい。
レモンや糖は疲れを取る効果の他にもいろいろと意味があるようだ。
脱水は汗の掻き過ぎ以外にも、下痢や嘔吐でも引き起こされるという。
そういえば脱水すると気持ち悪くなって頭も痛いし、お腹も緩くなるって昔屋敷の白魔術師が言っていた。
本を閉じて、出勤の準備をして家を出る。
クリスタルは熟睡中のため起こさないようにゆっくりとドアを閉めた。
「こんな朝からふらふらしないでください。視察ならそれなりの人数で、」
「いや、視察のつもりはなく、ただふらふらしていたらギーの家の前を通ったから」
「だからって窓に石ぶつけることないでしょ。割れたらどうするんですか?」
珍しい。
ギー部屋の前の玄関が半開きで玄関の中で二人が話をしているようだった。
今日は納品に行くと仕入れに行く暇がなくなり、店番がクリスタルのみになるからといつもよりだいぶ早い時間に家を出ている。
そんな時間からの来客とはいい迷惑だ。
気づかれないように通り過ぎようとすると目の前でドアが開き、眼鏡が顔に食い込んだ。
痛い。
鼻もぶつけたため廊下の柵に手を突く。
鼻血は出ていないようで良かった。
「すまない。大丈夫か?」
目深にかぶった帽子の間から見えるこげ茶色の髪、身長はギーよりも高そうだ。
身なりは庶民だが、物が良い。
貴族のお忍びだと、見た人にはわかる格好。
「なんだ。ノクティスか。お嬢様じゃなくてよかった。」
「そうね。あなたの首が飛んでいたところよ。急いでいるので失礼。」
そう言って顔を抑えながらアパートを出る。
「どうした? 赤くなってるぞ。」
ムシコブが眼鏡の鼻に乗せる金具部分を指さしながら言う。
「朝隣の人がいきなりドアを開けてぶつかったの。まだ赤い?」
鏡を覗くとはっきりと痕が付いていた。
朝から三手に別れて配達に出て、帰りの市場で仕入れを行う店長に付き添う。
仕入れ中の私は必要なくただのお荷物。荷物番で荷台の近くに立っているだけだ。
そこに朝いきなりドアを開けてきた貴族の坊ちゃんが歩いて行く。
もう坊ちゃんなんて呼ばれる年ではないだろう。
ギーと変わらないぐらいだと思う。
目が合い、手を軽く上げ、挨拶してくるが無視した。
今でも少し痛みが残っている。
そう思っていると
「跡が残ってしまったね。すまなかった。あんな朝早くから人が通るなんて思っていなかったんだ。」
「これからがあんなに勢いよくドアを開けないでくださいませ。お嬢様にぶつかったら責任を取ってもらわなくてはなりません。お嬢様もそんなこと望みはしないでしょうが家同士の問題になりかねます。」
なんせ旦那様はクリスタルに激アマなのだから顔に傷なんてつけてみろ、爵位が下ならつぶしにいくし、上なら責任取って嫁に取れといわれるぞ。と、いう意味で言うと
「そうだろうな。本当、君でよかったといい方だと悪いが、君ならいくらでも責任は取る。」
ただのナンパ野郎か。
クリスタルといい、こいつといい、
最近の貴族の家々はしつけが甘いのではないか?
リーリア様やマント様の家はそれはそれは厳しい家だぞ。
と、言いたい。
「名前を聞いても?」
「お嬢様はクリスタル・スペールディア。ギーの仕える屋敷の一人娘でございます。」
「…君の名前を聞いても?」
これは無視だ。
絶対に答えない。
「ノノ、帰るぞ。……ナンパか?」
「行きましょう。水揚げを急がないと」
荷台を引き、店長はまだ乗せていないと慌てて切り花を乗せていく。
「ノノ、また会おう。」
なんて聞こえるが無視だ。
ああいうのになぜ皆引っかかるのか、きっとクリスタルもこうやってナンバを受けて一時の浮かれで遊んでいるんだなと思うとああいう人種は死んでしまえと思う。
「死んでしまえ」
「そんなに嫌いなのかあいつ?」
つい、口から出てしまった言葉に店長が反応する。
「この一分ほどのことは忘れてください。」
「そんなに悪い奴じゃないんだけどな。」
どうやら店長は知り合いだったようだ。
「あの人はどこの家のお坊ちゃんですか?」
「おお、感が言いな。たしかに良い家の坊ちゃんだが、もうそんな年じゃないだろう。まあ、恋人も婚約者もいないが遊んでいるわけじゃなくて、市井の様子をああやってよく見に来るんだよ。仕事柄な。」
市井を見ているということは他国の特産品の移り変わりや鉱物資源、そのほか価格変動などを見ているのだろうか。
確かに勉強にはなるだろうが所詮頭の固い貴族だ。
私が奴隷だったと知ると、いや、知る前に忘れるだろう。
店へ戻り、店番のクリスタルは眠そうだった。
店長はまた配達へ、私は一人水揚げ作業を進める。




