わたしはあなたのおかあさんで良かった
「もう七年になるのか……」
ようやく夕食にありつけたあと、俺は庭に出て以前レイが躓いた石を見ていた。
あのときはすぐにかたづけると言ったがその石はまだそこにある。実は動かすことも取り去ることもできない。
「そこに何かあるのですね?」
いつの間に俺の背後に近づいていたレイがとても小さな声で呟いた。俺は振り返らず彼女に答える。
「ここには先代のシロが眠っている」
「どこかに逃げたとおうかがいしましたが」
「美雪にはそう嘘をついていた。当時はどこか他人行儀でね」
「どういうことです?」
「俺と美雪は本当の兄妹ではないんだ」
振り返って苦笑いを浮かべるとレイは赤い瞳で俺をじっと見ていた。
ただ丸目と沙織さんのように全く血がつながっていないわけではない。正確にはいとこ同士という関係なのだ。
俺の産みの親であるお袋・本間恵子は今の親父、柴田平太郎の妹にあたる。俺の本当の父親・本間啓介は俺が物心もつかないうちに病気で亡くなったそうだ。お袋は父さんの写真を大事に取っていて家族三人の記念写真は何かにつけて俺に見せてくれた。
確かに俺の顔立ちは若い頃の父さんに良く似ている。
父さんは山岡商店街で洋食店を開いていた。とても味が良く善人を絵に描いたような人物だったこともあり近隣でも評判の店だった。
洋食と言ってもおしゃれな店でなくハンバーグやらスパゲッティやらオムライスやら、庶民的なメニューを取りそろえ値段も手頃だったらしい。近所にあった示現高校や示現大学の生徒には利益を度外視してサービスしており金のない学生連中には「親父さん」扱いされていたという。
自らも親に反対され勘当同然で家を追い出されてから苦労して店を持つまでに至ったらしく、腹を空かせた学生を見過ごすことができなかったそうだ。食べたい物を腹一杯食えないのは一番辛い。勉強だけで頭をいっぱいにしても人は生きていけないが口癖だったようだ。
たまに金が無くて無銭飲食する学生が居ても警察に突き出すことも無く、自らの店で働かせ食費以上に稼いだ分はきちんとその学生にも渡していたらしい。
その前任ぶりを心配した近所の方々がさりげなく注意すると、
「法律ってのは悪党を量産するためにあるものでは無いんだ。本当は何をするべきかきちんと教えてやらないといけないのが俺達の役目だよ」
そう言っていたらしい。
だが周りの人が心配した通り、その善人ぶりがあだとなって親しかった友人にだまされる形で借金を抱えた。
台所事情は悪いのにそれを誰にも告げなかった。店に来る学生に責任は無いと言って営業もそのまま続けた。
結局借金と心労で倒れ病気になりあっさりと亡くなってしまった。
そのためにその後の経営もうまくいかず、お袋は残った借金を清算するために店を手放した。
それから俺を育てるのとまだ少し残っていた借金を返すために必死に働き、その無理がたたってお袋まで病の床に伏したのは俺が七才の春の頃だった。
今にして考えればなぜ破産して借金を消さなかったのか不思議だが、お袋はことあるごとに俺にこう言っていた。
一、人に迷惑をかけてはいけません。
二、困っている人を見捨ててはいけません。
三、女の子に優しくしないといけません。
この三箇条について破るとめちゃくちゃ怒られた。それこそ俺が泣いても許してくれなかった。それ以外のときはとても優しいお袋だったのだ。
しかし寝たきりに近くなったお袋は時々目を覚まして俺の顔を見てほほえむだけだった。
俺は見よう見まねで家事をおこなった。お袋におかゆを造り身体も拭いて掃除もした。普段こんなに大変なことをしているのかと思った。
それでもお袋は俺を褒めてくれる、自分が家事をできなくてごめんねと謝る。
ある日、家の電話が鳴った。ぼろぼろだった俺はそれに出てこう叫んでいた。
「母ちゃんを助けてくれ!」
電話はすぐに切れた。それから大男がやってきて、入院の手配をし、俺を一時的に保護した。
電話をかけてきたのは俺の叔父さんに当たる今の親父だったのだ。
当時、柴田家は隣町に借家暮らしをしていたが、そこで初めて美雪と美雪の母親・柴田美春に出逢ったのだ。
俺七才、美雪は三才だ。歩いたり片言でしゃべったりできても俺にとっては大きな赤ん坊程度の印象だった。
お袋はかなり良い病院に入院したがすでに衰弱が激しく、ベットの上でもほとんど意識が無かった。それでも俺は学校が終わると毎日見舞いにいった。小学校で友だちになった大介や美代子も一緒にお見舞いに来てくれた。
入院して一年が過ぎたある夏の日。俺が見舞いにいくとお袋は珍しく起きていた。俺を見て、少し部屋が暑いから窓を開けて欲しいと言われ、病室の窓を開いた。
するとどこか蒸し暑い風がカーテンを揺らしている。
「英雄」
お袋の声に振り返ると俺を手招きしている。急いで近づくとすっかりと細くなった手を俺の頭の上に乗せゆっくり頭をなでてくれた。
「ありがとう……風がとても気持ちいいわ」
「うん、母ちゃん」
「英雄……よく聞いてね」
お袋はとても優しい目で俺を見てくれる。
「あなたの名前は英雄と書いて『ひでお』と読むの。でもね、わたしはいつでもヒーローでいてほしいわ」
「ヒーロー?」
お袋はゆっくりとうなずいた。
「いつでも誰かのために何かをしてあげなさい、あなたの父さんのように」
「うん、判った」
「英雄……お父さんとわたしが決めた名前……わたしはあなたのおかあさんで良かった」
俺にそう告げたあとお袋はゆっくりとまぶたを閉じて頭をなでてくれた手がすっと落ちた。
何かあったらこのスイッチを押してね、看護士に言われたとおり俺はナースコールを押した。何回も押した、看護士がやってきてお袋の様子を見て急いで医者を呼んでいる間にも押し続けた。病室の中が大騒ぎになってもナースコールを握り続けていた。
親父も美雪の母親もやってきた、俺を力強く抱いてくれた、何かを話し続けてくれた。その間もナースコールのボタンを押していた、医者と看護士と計測機器といろいろな雑音が響く部屋の中で俺の手の中にある小さなボタンだけがお袋との最期のつながりだった。
それから……一時間も過ぎてからだろうか。俺の手の中は空っぽになった。
やっと静かになったとき――ベットの上のお袋は病気で倒れたときの苦しそうな表情が嘘のような静かな死に顔をしていた。
それから数日はあまり覚えていない。白黒の縦縞の幕が部屋に張り巡らされ白い裁断の上に大きな木の箱があった。そこにお袋は笑顔のままで眠っている。黒いリボンがたすきがけにされた写真の中のお袋と同じように。
やがて一抱えほどの小さな壷に押し込まれたお袋は、四九日を過ぎて墓の下に収まった。
その帰り道、親父は俺にこう言った。
「今日から英雄はわしの子供となった」
俺はどこかこの男が苦手だった。身体が大きくて強面で声もでかくてともかく恐ろしい。普通の人間で無いと思っていた。その印象はほとんど合っているのだが子供心に怒らせない方がよいと思って口答えしなかった。
「おじさんの子供?」
「もうわしはおまえの叔父さんではない、今日から父さん、もしくは親父と呼べ」
一方的な宣言のあと、俺は古くて大きな家に招かれた。元々学生用の下宿だったという六LDKの二階建て一軒家だ。そこの表札には「柴田」と書かれていて名前の所に「平太郎・美春・英雄・美雪」とヘタっぴだが力強い毛筆が踊っていた。
俺の名字は「本間」から「柴田」に変わっていた。しばらくは慣れなかったが名字などどうでもよかったのかもしれない。
新しい親父はあれだったが新しい母さんはお袋のように厳しく、そして優しかった。だからすぐになじめた。母さんも親父と同様にすぐに俺の母さんになってくれたし俺が甥っ子であるなど意識もしていない様子だった。
苦手なのは美雪だった。
今の家に引っ越したとき美雪は四才だ。そろそろ幼稚園という年頃なのだが引っ込み思案で泣き虫で、いつも猫のシロと遊んでいる。六才になるまで美雪の友だちはシロだけだった。
幼稚園に通っても男の子にいじめられて泣きながら帰ってくる。するとますます引っ込み思案になる、そんな悪循環を見ながら俺は何もできないことをいらだっていた。何しろ美雪は俺も避けていたのだから。
そんな日々が二年ほど過ぎた。
俺が一〇才、美雪が六才になったある冬の日。夜トイレに起きて廊下を歩いているとシロがうずくまっているのを見つけた。かなりの年寄りの猫だったのでここでは風邪をひくと思い、俺はシロを抱き上げようとしたのだがすでにその身体は冷たくなっていた。
とっさに俺は美雪に見つからないように縁側から庭に出てずっとシロの身体を温め続けた。そうしていればいつものように鳴いてくれると思ったからだ。
だが一向にシロの体温は上がらない。それどころか冬の夜だ、俺の体温が奪われて寒さに全身が震えだした。
「そこで何をしているの?」
声をかけてくれたのは母さんだった。縁側の戸が開いているのを不審に思ったのだろう。
母さんは俺と俺が抱いているシロを見てちっとも暖かくならない猫の背に手を伸ばすと、
「シロはもう目覚めないわ」
「知っている」
「諦めましょう」
「でも美雪には見せられない。あいつにはシロしか友だちがいない。だから俺がシロの目を覚ますんだ」
すると母さんはほほえんでうなずいてくれた。
「大丈夫。英雄は美雪のお兄ちゃんだから。シロはそれが判っているから安心して寝ているわ。だからもうその身体は休ませてあげましょう」
その言葉の意味は判らなかったと思う。だが俺はどうしてもシロの亡骸を美雪に見せられないと思った。すると母さんは園芸用の小さなスコップを二つ持ってきて、一つを俺に差し出した。
何をするのだろうと思ったが母さんは庭の隅っこに穴を掘り始めた。俺もシロの身体を土の上にそっと置いて母さんの穴掘りを手伝った。
それなりに深く老猫の身体が収まりそうな穴が掘れると母さんはシロを抱き上げてそっと寝かせる。そして俺に合図をするとその上に土をかぶせていた。
「こうすればシロも落ち着いて寝られるわね」
このときから動物の死骸を埋める習慣が根付いたのかもしれない。
俺はこの場所を忘れないように石を深く突き刺した。墓石のつもりだったのかもしれない。
翌日、思った通り消えたシロを探して美雪は家中探し回った。シロの名前を呼び続け最後は鳴きながら廊下にたたずんでいる。やがて母さんにシロはどこかにいってしまったと聞かされても納得している様子は無かった。
すでに小学校に通っていたがそこでもからかわれいじめられていた。美雪本人はそんなことをつげもしないが俺だって同じ学校に通っている。その上シロを失ってもはや美雪は壊れる寸前だったように見えた。
あの日も泣きながら学校から帰ってきた。朝、学校に出かけたときは綺麗だった服も不自然に汚れている。
俺はたまらずべそをかいて廊下を歩く美雪の前に飛び出ていた。
「誰にやられた」
「何でもない」
「何でもないわけ無い、俺は美雪の兄ちゃんだ!」
いつもなら通り過ぎてしまう美雪を通せんぼして大きな声で叫んだ。
「妹がいじめられて兄ちゃんが黙っていられるか! 誰にやられた、教えないとデコピン一〇〇発するぞ!」
何かどこか間違っていると思うのだが美雪はデコピン一〇〇発に妙な迫力を感じたのか、クラスの男子の名前をぼそぼそと告げた。
「よし! ついてこい美雪!」
「どこにいくの?」
「もちろん、決闘だ!」
俺はハチマキをして、子供用バットを持つと嫌がる美雪を引きずりながらいじめた子供の家に怒鳴り込んでいた。そのときの口上はこうだ。
「俺が美雪の兄ちゃんだ、美雪をいじめたやつ出てこい、俺が成敗してやる!」
するといじめた本人は出てこなかったが、その兄にあたる中学一年生の男が現れた。身長も体格も俺より一回り大きい。奴は俺の姿をみてほくそ笑んでいた。
「おもしろい、弟に変わって俺がおまえと闘ってやる。文句無いな!」
「ない!」
それからどうなったかと言うと俺の大勝利だ。こちらもそれなりのケガを負ったがそれでも相手をタコ殴りにしてからぼこぼこに蹴りまくった。
ごめんなさいと言わせ、もう二度としませんと弟に約束させますと土下座させた。相手が泣いても許さなかった、怯える美雪を前に呼び出した弟と二人土間に額をこすりつけさせてようやくうなずいた。
そして高らかに勝利宣言したあとに、
「今度美雪をいじめたらこれで済むと思うなよ、二発殴ったら一〇倍返しで二〇〇発殴ってやる!」
俺は結局使わなかった子供用バットを美雪に持たせて家に凱旋した。
「どうだ美雪、今度から誰かに何かされたら兄ちゃんに言うんだぞ!」
「うん、でもお兄ちゃん」
このとき、初めて美雪は俺を「お兄ちゃん」と呼んでくれたのだが、
「二の一〇倍は二〇だと思うよ」
その当時から算数に弱いところを露呈してしまったが美雪はにっこりとほほえんでいた。
「そこは気にするな」
「うん、お兄ちゃんはあたしのヒーローなんだから気にしないよ」
言い方が気になるが妹の言葉に俺はお袋の声を思い出して少し赤くなっていた。
家に着いたとき、美雪はいつもシロがうづくまっていたところで足をとめた。そしてどこかうつむいている。きっとあの猫を思い出しているのだろう、そこであまりに悲しそうな顔を見せたあいつの頭をぐりぐりと俺はなでた。
お袋が俺にそうしてくれたように。
美雪は目を見開いて俺を見ている。
「いつかシロは帰ってくるさ」
「うん」
それから俺は美雪が泣きそうになるとあいつの頭をなでていたのだ。
数日して俺が殴り込んだ家の親が当然とばかりに俺の家に苦情を言いに来た。とても運が悪いことにその日は親父が対応に出ると、
「子供通しのことに親が出てどうなる、わしの子供は年上相手にステゴロで勝ったと聞いている。さすが我が息子と今、褒め称えていたところであったわ!」
そう叫んで馬鹿笑いした。
唖然とする相手のご家族一同だが、そのスジの人でも避けて通る体格と強面に、ヘタを打って最悪の状態になることを避けおずおずと帰ってくださった。
それから二度と美雪に手を出さなくなったのは言うまでも無い。
親父の行動は基本的に褒められたもので無いがこれだけは今でも自慢できる。
その日から俺は美雪を鍛えた。俺や親父だけに頼るのでなく美雪本人を強くするために。
そのうちトラ縞の猫が家にふらりと居着いたときも、その名前をかたくなに「シロ」と名付けたがすでに依存することは無かった。
俺が中学でシバヅケになるころには今の美雪は完成していたのかもしれない。だから美雪の本当の母さんが亡くなってもあいつは気丈に振る舞えたのだろう。




