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綺麗な花になって咲くこともあるだろう

 俺は小さな窓から外を見ていた。

 八角形の金属枠の中に二〇センチくらいのまん丸なガラスがはめ込まれていて、そこから夜の町並みが見えているのだが俺の記憶にない建物ばかりだった。

 家の造りが質素で街灯の代わりにかがり火がたかれている。どこなのだろうと思って呆けていると俺をのぞき込む一人の男性が現れた。

 白い顔、青い瞳、それに金髪ということは外国の風景だろうか? それを肯定するように男性は俺を見ながらなにやら呟いたのだが日本語でなかったために何を言っているのかさっぱり判らない。

 英語なら何となく判るのだがそれではない。韓国語でも中国語でもなく西洋の言葉だと思うのだがフランス語ともドイツ語とも違う。

 少ししてどうやらロシアの言葉ではないだろうかと思った。

 親父の書斎にはあちこちに調査をおこなったときのレポートがあるのだが、収集した資料と共に現地の言葉が書かれている。

 つい最近……と言っても去年の年末だが、それまでロシアのどことかの調査に出向いていたときのレポートがそんな言葉で書かれていた。ついでに国際電話をしている姿を見て何となく覚えていたのだ。

 かと言って意味は判らない。ぼんやりとそれを聞いていると別の人物が窓の中に目を向けた。

 そうこうしていると数人が入れ替わり俺に何かを言う。しかしどの人物も俺を見ていながら視線が合っていない。このガラスはマジックミラーのような構造になっているのかなとか思った。

 つまりあっちから見ると鏡で、こっちから見るとガラスなのだろう。

 ようやく目の前に誰も居なくなったかと思うと、何か別の声が俺の頭の中に響いてきた。

 

“我は誇り高き戦士を正しく褒め称える者也”

 

 何だ? 女性の声でしかも今度は俺にも判る……かもしれない日本語だぞ。それにどこかで聞いたことがあるような声だ。

 どこで聞いたかを思い出そうと考えていると俺の目の前が真っ白になった。

 声も上げられず目を閉じる。まぶたの向こうが落ち着いたと思いゆっくり目を開くと……そこは俺の部屋の天井だった。

 身体もすっぽりと布団に収まっている。上半身を起こして目覚まし時計を見ると午前四字二〇分となっていた。

 あれは夢だったのか? ずいぶんとリアルな夢だったと思いながら再度寝ようと頭を枕に打ち付けた。

 そのとき何か金属が後頭部に当たる感触があった。

 なんだろうと手を這わせてみるとそれはレイたちを召喚するペンダントだった。ベットの横に壁がありそこにズボンをつっていたのでこぼれ落ちたのかもしれない。

 俺はそれをズボンのポケットに収めもう一回枕に頭を押し当てた。

 今度は柔らかく俺を受け止めてくれる。そのまま眠りについたが夢を見ることは無かった。


  §


 月曜日、学校に向かうお見送りが一人増えた。

 アイも学校に連れていけないからレイと一緒にお留守番してもらうしかない。

 アイだけに任せると少し不安だがそこはレイが何とかしてくれるだろう。ただこの二人、どことなく溝のようなものを感じるのは元々敵同士の持ち物だからなのだろうか。

 俺と美雪が居ない間にもめ事にならなければ良いが、妹はきっぱりと答えた。

「あの二人ならケンカなんてしないよ」

「そうかな」

「うん、レイちゃんは家事の手伝いを率先してくれるし、アイちゃんはテレビとかマンガとかシロと遊んで静かにしているから」

 アイにマンガとかテレビを進めたのは俺だ。シロと遊んでいるアイを見ているうちにその姿が幼い頃の美雪にだぶったのだ。そこでこれもおもしろいぞといろいろ進めてみたら特に拒まず読んだり見たりしている。

 仲良くしなくてもケンカにもならないということだろうか。とりあえず二人を信じて俺たちは学校に向かった。

 土日を挟んだおかげか教室の中は以前と同じように感じる。元々俺を被害者として扱うより犯人を撃退した男とか見ている節もあったのでそれが無くなってやれやれだ。

 それに第八の犯行もありまだ安心できないと思っているのだろう。

 教室に入ったとき美代子が今日も窓の外を見ながらぼんやりしていた。昨日の大介のことを聞こうかと思ったがいくら学校公認の仲と言えここで質問できない。肩に流れる三つ編みお下げを見ながら俺は自分の席についた。

 午前中の授業は滞りなく終わり――途中、原告の時間に級友の朗読を子守歌にすっかり寝ていたのだが、昼休みになって空腹を満たすための手段をあれこれ考えていると、

「ヒデくん、ちょっといいかな」

 美代子があまりさえない表情で俺の前に立っていた。

「どうした?」

「ちょっとね、聞きたいことがあって」

 こんなか細い声で切り出すときは悩みが深刻である証拠だ。俺はうなずいて美代子を牽引するようにずんずん進み、行き着いた先は屋上だった。

 示現高校の校舎には屋上があるものの普段はそこに出ることを禁じられている。フェンスが鳥かごのように覆っているのでよじ登っても落ちないのだが防犯上の理由からだ。

 そこに出るための鉄製の扉は施錠されているが三桁のダイヤル式ロックだ。ちょっと時間をかけるとすぐに開く。

 俺は前もって番号を知っているから六・三・四と合わせて冬空の下に出た。

 本日は晴天也、風弱し。長時間の滞在に向かないが内緒話にはちょうど良いだろう。

 俺がフェンスに身体を預けると美代子は何の前振りもなく話を始めた。

「大ちゃん、どこか変じゃなかった?」

「大介か……昨日商店街で買い物していたら本屋の前でぼんやりしているのは見たけど、ミヨちゃんが心配するほどおかしくなかったと思う」

「そうかな、今日は逢った?」

「いや、クラスが違うし大介は俺より早く学校にいくだろ。登校時間に逢うことはほとんどないよ」

「そう」

「ミヨちゃんは大介のどこが気になるんだ?」

「うまく言えないんだけど、変に思い詰めたりいつも以上にはしゃいでいるように見えるの」

 大介がはしゃぐか。思い詰めるあいつも見慣れないがはしゃぐというのは珍しい。大介は真面目な剣道青少年だが俺につきあってふざけることもあるし、それで美代子にも怒られたことがあるが、彼女を不安にさせるような男ではない。

 だとすると大介がいつもと異なるように見える原因を作っているのは……

「ところでミヨちゃん、ここのところ教室でぼんやりしているけど何かあったの?」

 俺の問い返しに美代子の小さな身体が大きく震えていた。こういう素直なところは幼なじみの大介そっくりだ。

「別に、マンガのアイディアがうまくまとまらないだけよ」

「そうかな。そういうときのミヨちゃんは、頭の中で思い浮かべているストーリーに表情はくるくる変わって見ているとおもしろいんだぜ」

「や、やだ、そんなところ見ないでよ」

「でも、最近のミヨちゃんは表情が外に出てない。何か別の悩みでもあるんじゃないのか? それが大介にも通じているんじゃないのか?」

 美代子はお下げに触れてじっと考えている。唇は何か言おうとしているのだがそれが声に至っていないようだ。

「ミヨちゃん」

「成績がね、少し落ちているの。それで両親から中間試験が終わるまでマンガを描くのを辞めなさいって言われてちょっと」

「そっか、確かにそれはミヨちゃんには酷だね」

「うん……ごめんね心配駆けて」

「成績持ち直して早くマンガが描けるようになるといいな」

「うん……ヒデくん、今日はどうもありがとう。あとであたしからも大ちゃんに聞いてみる」

 美代子はほほえむと俺にぺこりと頭を下げそのまま昇降口に進んで屋上から出ていった。

 誰も居なくなってから俺はふうとため息をついた。美代子は嘘をついている。彼女が大介より嘘をごまかすのが上手な方だが俺だってつきあいはそれなりに長い。

 美代子が髪に触れながら口ごもるのは嘘を考えているときのクセなのだ。どうやら大介の異変も美代子の悩みも双方に関係あるようだ。とすれば俺があいつに直接聞いてみるかだ。

 うまい具合に午後は大介のクラスと合同体育だしそのときにでも問いただしてみよう。

 体育の前には食事だ。あまりのんびりしていると時間が無くなる。俺がフェンスに預けていた身体を払い戻したとき、青空の下にチリンと鈴の音が聞こえてきた。

 昇降口に立って俺を見ているのは塚原だった。

「金曜日、どうして放課後に東等に来なかった?」

 俺は他に誰も居ないと思ってやや大きめの声を塚原に投げた。怒っていない。おかげで沙織さんと買い物だけのデートができたのだからお礼を言いたいくらいだ。

 塚原は俺のそんな気持ちをくみ取っているのか声に臆することなく足音を立てずに近寄ってくる。それにしても歩いているときに一切鳴らない鈴ってどういう構造をしているのだろう? 俺が彼女の腰に着いている小さなそれを見ていると、

「ご指定の場所にはいきました。どうやら行き違いになったようですね」

 塚原は二人の手が届く距離で止まると腕組みから右手で頬を触れながら答えた。メガネが無ければ俳優としてテレビのドラマに出ていても違和感を覚えない立ち振る舞いがどこか気に障る。

「それで、塚原が話したいのはどんなことなんだ?」

「名前で呼んで頂いて構いませんよ」

「良くも知らないのに名前では呼べない」

「そうでしょうか? この世で八人しか居ない仲間なのですし面識は無いもののつながりは深いと思うのですけど……さらに今ではそれも三名に減りましたが」

 風向きが変わった。塚原の薄い花の香りが俺に届いた。

「塚原もHIMOTEなのか?」

「ですからわたしのことは鳴美と呼んでください」

「では、鳴美がHIMOTEだという証拠はあるのか?」

 すると鳴美はセーラー服のリボンを少しゆるめて首にかかっていたネックレスをそっと引き上げた。スリムな胸元から現れたのは小さな剣のペンダント、しかもその形は……

「そう、英雄くんの持っているものと同型です。しかもその役割も同じ」

 当然とばかりに俺を名前で呼んだ彼女は、剣のアクセサリをリボンの上にのせ静かにほほえんでいる。

「俺にそれを明かして何の相談だ?」

「いずれ剣を交えることになるあなたにご相談を……わたしに勝たせていただけませんか?」

 鳴美のメガネ越しの目が細くなり黒目が冬の日を反射して鮮やかに輝いた。

「わたしにはどうしても叶えたい望みがあります。でも他の人を傷つけたくない」

「ずいぶんと虫のいい話だな。何もせずにいいところを取っていくっていうのか?」

「別に無償とは言っていません。二人の望みが同じであれば良いのですがまずそれは無いでしょう。ですからあなたの望みがわたしに叶えられるのならそれにお答えするというのはどうでしょう?」

「鳴美の望みは何なんだ?」

「残念ですが、それはお答えできません」

「なら俺もその提案に応えられない」

「するとわたしたちは闘わなければいけないということですね」

「そうなるな」

 交渉は決裂した。俺はそれなりに渋い表情を作ったが鳴美はほほえんだままだった。

「もう一人のHIMOTEと交渉したらどうだ?」

「もちろんそれも考えています。ですが英雄くんであればわたしの提案を了承していただけると思うのです」

「その根拠は?」

「あなたには強い望みが見受けられない。それよりもこれ以上犠牲者を出したくないと思っている」

 確かにそうだ。まるで俺の心まで見通すような瞳の輝きが怪しくなったように思える。

「ここでお時間を取ってしまっては英雄くんが昼食を取れなくなりますね。今日はこれで」

 鳴美はペンダントをしまうときびすを帰して昇降口に向かった。

 その途中、屋上の真ん中で足を止めちらりとフェンス越しの町並みを見ていた。

「英雄くんはここから夜景を見たことがありますか?」

「いや、それは無い」

「ここからだと山岡町が一望できそうです。今度わたしと見てみませんか?」

 遠目に薄く笑ったのが見えた。俺は否定を込めて首を振った。

「遠慮する。あまり楽しくなさそうだ」

 鳴美はうなずきもせず脚を進める。

「おまえはリア充を襲ったことがあるのか?」

 ドアノブに手をかけた鳴美は動きを止めて考えるふりを見せたあとチリンと鈴を鳴らした。

「ご想像にお任せします」

 その言葉が消えないうちに彼女の姿は屋上から消えていた。


  §


 時間はぎりぎりだったが昼食を食べて俺は午後からの体育に望んだ。

 この学校の体育は男女別に二クラス合同でおこなわれる。俺たちC組の場合はD組と一緒だ。

 本日は屋外でサッカーに興じることになった。

 着替えが出遅れたこともあり授業開始時に大介と話すことができなかった。さらにクラス対抗戦なので試合途中に話しかけることもできず、俺はチャンスを探してフィールドを駆け巡っていた。

 ちなみに俺も大介もフォワードという試合中に一番走り回らなければならず、なおかつ点が取れないときに真っ先に原因にされる損なポジションだ。

 冬なので汗まみれにならないが昼食後なのであまり機敏に動けない俺に対して、大介はさすがスポーツ青少年、息を切らさずグラウンドを走り回っていた。

 その姿と顔を見ていると確かに美代子の言うとおりいつもより気分が高揚しているように見える。自分から積極的にボールを取りにいっているし声も出ている。元気なんだから何よりと思えばいいのだろうが美代子から話を聞いていた俺は少し不安に思えた。

 結局、大介のハットトリックもあり一対四でD組の勝利となる。俺たちは疲れた身体を引きずって男子更衣室に向かった。

「よう大介。今日は大活躍だったな」

 それほど狭くない更衣室だが男ばっかり三〇名近く居るからむさ苦しく感じる。そこをかき分けあいつの側に近づくとD組の賞賛を浴びつつジャージから制服に着替えている最中だった。

「ヒデちゃん、お疲れ様!」

 俺が近づいてくることを察したあいつは振り向きざま明るい笑顔を向けてくれた。昨日、本屋の前で見かけた人物と同じと思えない。

「ずいぶんとうれしそうだな。何かいいことがあったのか?」

「久しぶりに点を入れられたからかな」

 俺を正面から見ると素早くジャージの上着を脱いで下着に手をかけた。こうやって上半身だけ見てもしっかりとした筋肉がついている。ボディービルダーのように見た目が派手なものでも無いがとても機能的にそれでいてムダの無い身体は感心物だ。

 胸とか胴は防具があり目立つ傷も無いが腕には青あざもできている。普段の練習がいかに激しいかよく判る。

「ハットトリックでそこまでうれしいのか? ひょっとしてアルバイトでも見つかったのか?」

「うん、条件のいいのが見つかったんだ。これで安心だよ」

 下着を身につけワイシャツに手をかけた大介は大きくうなずいた。なるほどそういうことなのかと思いつつ、

「なんかミヨちゃんが心配していたぞ」

「そうなんだ……それも大丈夫だよ」

「教室に帰ったら早速ミヨちゃんに大介の大活躍を伝えないとな」

「そういう恥ずかしいのはやだな」

 思ったほど深刻な悩みとかでは無いのだろうか、俺は大介の側を離れ自分あてのロッカーの前でジャージを脱いでいた。

 どことなく視線を感じたので大介を見るとあいつはすでに着替えを終えていたが、目と目が合ってしまったのでお互いどこかぎこちなくほほえんだ。その後あいつは俺に手を振ってそのまま更衣室から出ていった。


  §


 体育も終わり教室に戻ると女子のバスケットはまだ終わっていなかったのか誰も居ない。

 ホームルームと女子のご帰還がほぼ同時だったので美代子に話しかけることができなかった。

 生徒会はどうするかと思ったが丸目の顔を見て気疲れするより、心休まるウサギたちの様子を見ていこうと俺は東棟の飼育小屋に足を向けた。

 天気が良くても寒冷地帯な校舎裏を抜けると冬の日を浴びてどこか暖かさを感じる飼育小屋に着く。そこには先客が居て先週の金曜日のようにしゃがみ込んだ沙織さんが長い髪を背中に流しウサギたちの世話をしているように見えた。

 今日は声をかけてもびっくりしないだろうと思ったが、小さな背中の微妙な動きに俺は上げ駆けた右手をそのままにそっと彼女に近づく。足下ではシロが沙織さんにすり寄っているが、クロは小屋の隅でうずくまっていた。

 シロは沙織さんの手に握られた野菜袋を見上げているが、クロは微動だにしていない。真っ黒な身体の中に輝くルビーレッドの目はまぶたが半分落ちていて眠っているようだった。

 俺はクロの様子を見て何が起きたかすぐに理解できた。右手をゆっくりとおろすと俺もその場にしゃがみ込む。シロはエサをくれない沙織さんから抗議するように生き生きとした赤い目を俺に向けたが、クロは静かにたたずんでいるだけだった。

 俺は目の前のシロを越えてクロの背中に手を延ばし触れた。そこに命ある者の暖かさは無かった。

 野菜袋が沙織さんの足下に落ちる。彼女は両手で顔を隠すとそこから漏れた嗚咽が耳に飛び込んできた。

「昨日は……元気だったのに、気がつかなかった」

 鳴き声の合間に北風に吸い取られてしまいそうなか細い言葉が伝わる。おそらく土曜日も日曜日もここに訪れていたのだろう。

 シロは落ちた野菜袋から人参を食べようとしているがビニールが邪魔のようだ。

 沙織さんはついに耐えきれなくなったのか、腰を上げてそこから立ち去ろうとする。

「沙織さん」

 俺はその背中にやや強い口調で投げかける。彼女は背を向けたまま足を止めた。

「シロがご飯を待っている」

 俺の言葉に振り向いた沙織さんは頬を涙に濡らしながらどこか怒ったような表情を向けたがこちらもひるまない。

「自分で世話をすると決めたのだろう、シロはご飯を欲しがっている」

 涙に揺らめく黒曜石の瞳をにらみつけながら呟くと、彼女は前・下と瞳を動かしてゆっくり瞬きした。

 そのまま腰を落としエサ袋の中から人参を取りだしてシロに差し出した。

 俺は冷たくなったクロの身体を抱き上げた。なぜかとても重く感じる。暖かさは体重を軽く思わせるのかもしれない。

 二羽分用意してあったのだろう、袋の中を半分ほど平らげたシロは興味を俺の手の中のクロに向けていた。沙織さんは先週と同じように残りをエサ皿に収め、ボトルの水を交換すると俺に小さくうなずいた。

「じゃ、いこうか」

 沙織さんは大きく目を見開いて驚いている。俺はクロを抱きかかえたまま腰を上げた。

 彼女は頬の涙をぬぐうと小屋に鍵をかけ俺を見たので飼育小屋を後にした。

 俺が行き着いたのは敷地の北東端にある大きなモミの木だった。

 高さは一〇メートル近くある。樹齢は俺の数倍あるだろう。幹も太く枝振りが良い。遠目にきちんとクリスマスツリーの形状をしているので毎年年末には電飾に彩られている。

 今は寒空の中、学校全体を見渡すように静かに木の葉を揺らしていた。

 断っておくと生徒の中では「大きなモミの木」と呼ばれているだけだ。ここで告白し合った恋人同士が永遠に幸せになれるとか言う伝説は無い。

 根の周りを煉瓦で囲まれご丁寧に「中に入らないでください」と風紀委員の看板が立っている。俺は沙織さんを目の前にして堂々とそこに足を踏み入れた。

 彼女はどうするかと思ったが一瞬躊躇は見せたがこくんと喉を鳴らすと目を閉じて俺に従う。その姿が可愛くてついほほえんだあと、しゃがみ込んで今まで抱いていたクロの身体をそっと土の上に横たえた。

沙織さんは立ったまま俺を見下ろしている。

 俺はここに来る途中、園芸部の連中に借りた小さなスコップの先を土に当てて掘り返した。根はしっかりと張られているがここに踏み込む不届き者は少ないこともあってそこまで堅くない。

 ざくざくと掘り進めていくと沙織さんがその場から立ち去る足音が聞こえてきた。

 ここまで校則違反をおこなえば彼女でも我慢できないのだろうか。仕方ないかと俺は穴掘りに集中する。

 ややあって、こちらに近づく足音が聞こえたあとすぐ側に腰を落とした沙織さんの手には園芸用の小さなスコップが握られていた。

 俺たちはうなずくと穴掘りを続ける。沙織さんも一生懸命スコップを動かしているがほとんど俺が掘り起こしていた。まあ、そんなのはどうでもいい。

 それなりの深さの縦穴と掘り返された土が山盛りになっている。俺はクロの身体を持ち上げ穴の奥にそっと寝かせた。

 こんなことをするのは何回目だろうか。穴の中をじっとのぞき込む沙織さんを見ているうちに俺はふと頭に浮かんだことを口にしていた。

「どんな願いでも一つ叶うとして、クロを生き返らせたいと思うかな」

 沙織さんにとっては唐突な質問だったのだろう。彼女は眉を顰めまぶたを半分閉じてそのまま口も瞳も黙ってしまった。答えを深く考えているように見える。

「俺は、望まない」

 掘り起こした土を少し右手に取るとそっとクロの身体にかけた。沙織さんは小首を傾げて俺をじっと見ていた。その理由を問われているとすぐに判った。

「クロはこの身体での役目を終えたんだ。だから静かに寝かせてあげよう」

「わたしの世話が至らなくて病気で苦しんだとしても?」

「沙織さんが拾わなければもっと苦しんで死んでいったかもしれない。それにどんな悲惨な結末でもどんなに短い命でも死んだときにその身体は立派に役目を終えたんだ」

 俺がもう一握すると沙織さんも同じように小さな手で土をすくい、二人でそっとクロの身体に降り注いだ。

「魂とか生まれ変わりとか信じないけどクロの中にあった命は新しい身体で生活を始めていると思う。だからこの身体はここに眠らせてあげたい」

「クロちゃんはどんな生きものに命を引き継いだのでしょう」

 俺は土を握る手をゆるめ彼女の顔を見た。

「きっと可愛い女の子になっていると思う」

「そうですね」

 これ以上沙織さんの手を汚す必要はない。お別れだクロ。俺は掘り起こした土を一気に縦穴に戻した。

 クロの身体の分やや盛り上がっているがそれを両手で地ならしする。

「墓標が欲しいですね」

 そう寂しそうに告げる沙織さんに俺は首を左右に振って、目の前のモミの木に手を触れた。

「こいつが墓標になる。そしてクロの身体もこいつの一部になる」

 二人でしゃがんだまま青空に広がる枝を見上げた。

 俺たちのおこないなど我関せずとばかりにこの木はどんと腰を据えている。きっとクロ以外にもこいつはいくつもの亡骸を身体に取り込んでいるのだ。そして誇らしげに大きくそびえるのだ。

 俺は指先を上着にこすりつけるとズボンの後ろポケットに入っているハンカチを引っ張り出し沙織さんに渡した。彼女は首を左右に振ったが、

「大丈夫、いつも妹に持たされているだけで俺は使っていないから」

 すると受け取った沙織さんは細い指先をそれで拭くと、スカートのポケットに入っていた純白のハンカチを俺に差し出した。

 そんな恐れ多いものは使用できません、声以外の全身でそれを言ったつもりが彼女も俺が受け取るまで諦めないようだ。

「平気です、これはわたしが普段使用していない方ですから」

 それはそれで残念なのだが――仕方ない、これ以上御手を煩わせるわけにもいかず高級と思われるそれを受け取って手を拭いた。そして二人で顔を見合わせて笑った。

「柴田くん、ありがとうございます」

 彼女は肩口から黒髪を流し頭を下げた。

「別に沙織さんにお礼を言われることでは無いよ。俺が勝手にやっていることさ。今日だって飼い主の沙織さんに何の同意も取ってない」

「わたしはただ混乱していましたから。あそこで声をかけてくれなかったらクロちゃんを放置するところでした。でもどうしてここに埋葬しようと思ったのですか?」

 沙織さんはモミの木を見る。俺もそれにならった。

「動物だってくたばったら土に帰りたいと思うんじゃないかな。例えばアスファルトの上で死んだら道路のシミになるだけさ。なら拾い上げてせめて土にうめてあげれば綺麗な花になって咲くこともあるだろう」

 沙織さんは顔をふせてうなずいた。

「そうですね」

 俺はうなだれる沙織さんの姿を見た。

「これはわたしが園芸部に返しておきます」

 二つのスコップを手にした沙織さんに俺は頭をかきながら呟く。

「風紀委員長の目の前で校則違反するのは緊張する」

 すると彼女はふるふると首を振る。

「規則は必ずしも罪人を作り出すだけのものではありません。わたしも参加できてよかった」

 彼女はそう言って下・前と瞳を動かしてからほほえむ。俺に会釈すると背を向けた。どこかで聞いたような言葉だが深く考えることなく視線をモミの木に戻して足下の小さな盛り上がりを見下ろした。

 背後で土を噛む足音が聞こえたが無視していると、

「すまない」

 意外な声にゆっくりと身体を向ける。そこには丸目が無表情に俺を見ていた。

「いいさ、おまえにお礼を言われることでもない」

「そうでもないのだ、沙織の場合は」

 珍しく言葉が短くなおかつトーンが低かった。他に伝えたいことがあるのだろうか、俺は首を傾げると、

「ここでは何だ、生徒会室にいこう」

 丸目は俺の同意も取らずに歩き出した。今度は俺が無言で奴の背中を追っていた。


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