第ニ話
兄の所属する芸能プロダクション“ポラリスプロ”の事務所は、私の住んでいるマンションの最寄り駅から地下鉄で3駅のところにある。車だったら渋滞に巻き込まれなければ20分程だ。
芸能事務所としては比較的大手に属すると思う。所属芸能人も多く、研究生制度もあって、小・中学生のうちからダンスやヴォーカル、演技レッスンなどをして、何度となく行われる事務所内のオーディションと幹部の判断でデビューできるかどうか決まる。
兄も司さんも、この研究生から這い上がり、デビューした。兄だけではない、この事務所からデビューする人は皆、同じ試練を通過してゆく。
デビューしてしばらくすると、事務所の方針によっては、事務所に顔を出さなくなる芸能人もいるらしいけれど、ポラリスは、月に何度か打ち合わせで、所属芸能人も業界関係者もよく事務所に来る。
大方兄も、今日は事務所での打ち合わせで、書類を忘れたんだろう。
さらに今日は学校が休みなので、研究生のレッスンもあるはずだ。事務所内は結構な人数になっている・・・筈だ。
「差し入れでも買ってくか・・・」
食べ物だと、好き嫌いがあるし、ダイエット中の人には悪いので、コンビニに寄って、研究生用の飲み物と、兄やスタッフ用のコーヒーを大量に買って行った。
事務所ビルの前に行き、顔見知りの守衛さんに挨拶すると、守衛さんも"久しぶりだねぇ"と挨拶を返してくれた。ここには、子供の頃から出入りする機会が多かったので、顔パス状態だ。
そのままビルに入り、受付に顔を出すと、これまた顔見知りの事務員さんがいた。
「こんにちはー」
「あら、花奏さん!」
「兄の忘れ物、届けに来たんですけど・・・兄、いますか?」
「いますよ! 隼人さんからの伝言です。
研究生のレッスン室にいるそうです」
研究生のレッスンを見ているらしい。
「判りました、ありがとうございます」
受付の人がそう言って通してくれた。ここの事務員さんや従業員さんは、そのほとんどが顔見知りだ。
初めてここに足を踏み入れたのは10歳位の時で、母と一緒に、当時研究生だった兄のレッスンを見学するためだ。
それ以来、母と一緒に見学に来たり、時には私一人で見に来たりと、何度も訪れていた。大学時代は、4年間、この事務所でバイトしていた。事務からコンサートスタッフ、夏休みになるとタレントの付き人的なことまでやらされて、大学並に忙しく、疲れたけれど、大学のほかの友達よりも一足早く社会経験が出来たような気がする。社会や業界の常識やマナーも、ここで実践的に鍛えられた気がする。あのまま、高校教師ではなく一般企業に就職していたら、あの経験は、今の職種以上に役に立っていただろう。
兄とよく似た顔立ちの私を、社長が直々にスカウトしてくれたこともあった。当時も今も、芸能界は今一つ興味がなかったし芸能人になるつもりも全くなかったので、即決で断ったけれど。
ビル内の、研究生のレッスン室は二階にある。大きな会議室とフィットネスジムを足して2で割ったような雰囲気の場所だ。廊下からはガラス越しに中の様子が見ることが出来て、ちょうど今は休憩中なのか、みんなリラックスした雰囲気で談笑していた。
そっと、ドアを開けると、みんなの目が一斉に私の方を向いた。トータル30人位だろうか? その大半は中高校生だ。その視線が一瞬私に釘づけになって、一瞬その視線が怖かった。
でもそれはほんの一瞬だけで、次の瞬間、好意的な声に包まれた。
「花奏さん!」
「こんにちは!」
「姉御!お久しぶりです!」
10人ほどが、駆け寄るように私の周りに集まってきた。みんな、私がこの事務所にいた頃に研究生となり、レッスンを重ねている子達だ。
「ひさしぶりー、元気そうだね!」
みんなの顔を一人一人、見ながらそう言った。最後に会ったのはいつごろだろう? コートやマフラーを着ていた頃だっただろうか? 何か月かのうちに、みんな随分背も伸びたし、体つきもがっしりしてきている。
中高校生の男の子・・・伸び盛りな年頃だ。子供から大人な顔つきに変わる時期・・・ちょっと会わないだけでも、別人のように見違える。
「姉御こそ!
随分久しぶりじゃないですか!
たまには顔、出してくださいよ!」
“姉御”。
私のことをそう呼んでいる子は、集まってきた子の中で一番背が高いけれど、顔立ちは幼さと独特な可愛らしさがまだ残る、童顔な男の子だった。
今の研究生の中でもリーダー格の男の子だ。増沢俊という、今年18になる高校三年生だ。私がこの事務所でバイトしていた頃に研究生になった子で、とても私に懐き、慕ってくれた。入所したのは13歳の時で、今よりずっと子供っぽかったし、女のコみたいな子だったけど、今は、あの頃と比べて随分男っぽく、逞しくなった。あと数年もしたら、きっとものすごいかっこ良くなるだろう。
「ごめんね、今、本職忙しくって!」
こんなに慕ってくれているのに、ちょくちょく顔を出せない事を申し訳なく思いながらも、増沢君に、さっきコンビニで買ってきた飲み物の入ったビニール袋を渡した。
「差し入れ、みんなで飲んでね」
「ありがとうございます!」
増沢君は嬉しそうに笑ってそう言ってくれた、周囲の研究生たちも、口ぐちに私にお礼を言うと、増沢君が配る飲み物を嬉しそうに物色し始めた。
「さすが、花奏さん!いつも気が利きますよね! ありがとうございます!」
「喉乾いてたんだー!」
「あ、これ、春限定のやつですよ!美味いって噂のやつ!」
研究生たちが各々物色して散った後、増沢君だけが私の隣に残り、ペットボトルのお茶に口をつけ始めた。
「姉御、ありがとうございます…いつも俺たちのこと、覚えてて気ぃ使ってくれて、嬉しいです」
「どういたしまして。増沢君こそ・・・たまに来るだけなのに、こんな風に慕ってくれてて、嬉しいよ」
「なに言ってるんですか! ここに入った頃、いつも面倒みてくれたの、姉御なんですよ! 忘れるわけないじゃないですか!」
彼は心外、といった風にそう言った。
入ったばかりの研究生は、レッスン室に入っても、他の研究生の独特な空気やレッスン内容についていけなくて、せっかく入所出来たのにすぐにやめてしまう子も多かった。
増沢君もそうだった。増沢君だけじゃない、入所したばかりの研究生は大概萎縮してしまう。
バイト時代は、そんな研究生がレッスン室やメンバーに馴染めるようにフォローもしていた。そのせいか、その時期に入所した研究生には、妙に懐かれた。
その増沢君も、入所して5年になる。
「そういえば、前にお兄ちゃんに聞いたんだけど、もうすぐデビューだって?」
増沢君と、あと何人かでのダンスヴォーカルユニットが今年中にデビューする・・・という話を、以前兄から聞いていた。まだ正式発表前なので、知っている人は少ない筈だ。その話をふると、増沢君は嬉しそうな笑顔で私を見た。
その笑顔は、私の知ってる、彼と同年代の男の子よりも、ずっと可愛らしい。
デビュー前の研究生にもかかわらず、この子の笑顔のファンは多い。並の女の子よりよっぽど可愛く見える。
・・・こういう言い方をすると、増沢君が女性っぽい感じだけれど、実際は、その可愛い笑顔と、並の男子に負けない高いポテンシャルの両方を持ち合わせている珍しい子だ。この笑顔の裏で、ダンスも歌唱力も演技力も、人一倍努力して、磨きをかけている。今の研究生で、一番の実力者たる所以だ。
「はい!
本当は正式に決まってから、一番に姉御に報告したかったんですけどね」
「ごめんね、情報早いんだ。うちの兄は。
じゃ、これからは忙しくなるね・・・
こんな風にゆっくり会う事なんか出来ないね」
デビューするとなれば、これから今以上に忙しくなるだろう。研究生の時は、学校が休みの土日や放課後にレッスンが多かったけれども、デビューするとなればそうはいかない。学校と仕事の両立や、様々なメディアで顔を覚えてもらったりする活動も多くなる。こんなのんびりしている暇などなくなるだろう。
「頑張って! 応援してるから!」
そう言うと、彼は大きく頷いた。
「はい!」
満面の笑みを湛えて、そう言った。
よかったね、本当にそう思った。