第8章:混沌の同居人と、日高牧場の夜明け(第一部・完)
1. 成田の融合と、ハイブリッドの正体
沙織と亡霊の曾祖父・作造曹長は、ただただ口をあんぐりと開けたまま、目の前の牧草の山から這い出てきた『妙な物体』を唖然として見つめることしかできなかった。
そこにいたのは、日本の伝統的な怪談に登場するような、おどろおどろしい人間の姿をした幽霊ではなかった。
下半身は完全に欠落しており、胴体から剥き出しになったその肌は、まるで両生類か湿地帯の生物を連想させる、ヌレヌレとした緑色の亀のような皮膚に覆われている。しかし、その首の上に載っているのは、不気味なほどサルを思わせる、歪な獣の顔だった。そしてその右手には、月光をギラリと反射する、禍々しい鉄の鎌がしっかりと握られている。
あまりにもおぞましい異形の存在を前にして、沙織は丸椅子から一歩後退りしながら、声を荒らげた。
「あんた誰よーーーっ⁉️」
すると、そのサルのような顔の怪物は、右手の鎌を器用に回しながら、これまた流暢でどこか軽い、人間の男の日本語で喋り出した。
「あ、俺テケテケって言うんだ。成田(税関)でアボリジニの奴とばったりあってよ。あのぬいぐるみに宿ってたアボリジニの精霊の奴、なかなか石頭で頑固な奴だったんだけどよ、成田のロビーで揉み合ってるうちに、俺と融合しちまったんだ。――あ、そうそう、お嬢さんの後ろにいる作造曹長の亡霊を、ニューギニアの記憶と一緒にあのぬいぐるみからこの現世へ呼び戻すの、俺も裏で少し手助けしてやったんだぜ? お嬢さんがさっきあの獣の頭蓋骨を叩き割ってくれたおかげで、俺はあの窮屈なカンガルーの身体からようやく外へ出られたよ。ありがとうな」
テケテケは下半身のない身体を両腕で支えながら、フリフリと腰を振るような仕草をして見せた。
「ただよぉ、あのオオカンガルーは、俺が抜けたから今はただの『モノホン(本物)』のケダモノだぜ? 大丈夫か? まあ、乳牛たちと共生くらいはできるだろうけどな。わはは!」
沙織は、嫌悪感と恐怖で顔を引きつらせながら、恐る恐るその自称・都市伝説の怪物を凝視した。
「あの……テケテケ? 日本の妖怪……だよね? ……っていうか、キモい。マジで無理なんだけど」
沙織の口から、本音の罵倒が漏れる。
怪談に出てくる怪物のごとく、その皮膚はナメクジのようにドロドロと濡れ光っており、牛舎の匂いとは明らかに違う、古い沼の底のような生臭い悪臭がツンと鼻を突く。口元は完全に野生のサルのそれで、鋭い牙が見え隠れしている。どう好意的に見ても、女子大生の部屋に置いていいビジュアルではなかった。
沙織はこれ以上のトラブルを避けるため、鉄の仮面のようなビジネススマイルを浮かべ、事務的なトーンで一礼した。
「……事情は分かりました。ご協力ありがとうございました。カンガルーはうちの牧場で責任を持って面倒を見るので大丈夫です。それでは、さようなら」
曾祖父さんの亡霊も、沙織に合わせてペコリと真面目に略帽の頭を下げた。
だが、テケテケは満足そうにニヤリとサルの口元を歪めると、鎌を突き出してこう言い放った。
「おいおい、お嬢さん、大事なことを忘れちゃいねーか? ――おっぱいは?」
沙織は完全に引いていた。顔から完全に血の気が引き、ドン引きの眼差しを怪物に向ける。
(ありえない。ありえないでしょう、何言ってんのこの緑のナメクジサルの妖怪……!?)
2. カオスの渦、ぐるぐると
テケテケは沙織の拒絶を気にする風でもなく、床を鎌でトントンと叩きながら、信じられない提案を被せてきた。
「これから俺と一緒に、この牧場で暮らそうぜ。英霊と、妖怪と、現役女子大生と、野生のカンガルー……めちゃくちゃナウい組み合わせじゃねーか! SNSでバズるぜ?」
「無理です。100%不可能です」
沙織が即座に一刀両断した、その時だった。横にいた曾祖父・作造曹長が、困ったように顎をさすりながら、信じられない言葉を口にした。
「沙織……。まあ、待ちなさい。私たちはこうして時を超えて巡り会えたのは、確かにこのテケテケ殿のお陰も、少しはあるんじゃないか? ジョンとの約束を果たす手助けをしてくれたわけだし……もう少し、この方をここに置くことを考えてみてもいいとは思うけどな」
「曾祖父さん、人が良過ぎるでしょーーーっ⁉️」
沙織の絶叫が、早朝の古い牛舎の中に木霊した。
目の前にいるのは下半身がなくて鎌を持った、ヌレヌレのキモい妖怪なのだ。それを「少しは恩があるから」という理由だけで酪農家に居候させようとする曾祖父さんの、戦時中から変わらないであろう底なしのお人好しっぷりに、沙織は頭を抱えるしかなかった。
放牧地の方からは、頭蓋骨にヒビを入れられた本物のカンガルーが、ホルスタインたちの間で戸惑いながらピョンピョンと跳ね回る影が見える。
札幌での就活に悩んでいたはずの女子大生・日高沙織の日常は、お盆の標茶町に届いた一つの段ボール箱をきっかけに、完全に崩壊した。
北海道、標茶町。日高牧場。
ここは今、時空や国境、そして生者と死者、ケダモノと妖怪の境界線を完全に超越した、前代未聞の「カオスの渦」がぐるぐると始まったばかりだった――。
(第1章・完 ―― 第2章(次章)に続く)




